曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2018年12月

やっと出雲の冬らしくなった。
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寒くならないなあと思っていたら、天予報通りいきなりぐんと寒くなった。朝、さあっとあられが降るとあっという間に真っ白になった。早速、ボロ軽の後ろにスコップと長靴を積む。1月2月の大雪でひどい目に遭った。二度とあんな目には遭いたくないので、今年はずっと積んで置く。今日はふったりやんだりで積もりもしなかったが、奥出雲の広島県との境の方は30㎝以上積もっているそうだ。
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12月の畑報告。
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12月11日               12月11日
左)11月16日に植えた「つるなしスナック」の芽が少し成長した。今はもう少し大きいが、今日の雪にも負けず、冬を越してもらう。
右)11月25日に植えた「つるなし赤花えんどう」の芽。遅い分小さい。
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12月11日               12月11日
左)カリフラワーを採る。少し小さいけれど美味かった。今は4つとも全部採って、2つ食ってしまった。
右)レタス完食。16個作って、6個親戚に上げたが、1月足らずでよくぞ10個も食ったものだと我ながら呆れている。来年からはもっと早く植え付けて、時間差をつけることをかんがえなければいけない。
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12月16日               12月25日
左)焼き芋をレンジで作る。右の緑色は小松菜のジュース。
さつま芋を処理しないといけないので、保存していたさつま芋を焼き芋にした。
半分に切ったのは「安納芋」。これは美味かった。「金時」と食べ比べたら、お話にならないくらい美味かった。「紅はるか」は「安納芋」と同じしっとり系なので、美味いはずなのだが、今年は出来が悪くて食べ比べをする芋がなかった。
小松菜は食べきれないのでリンゴやニンジンと一緒にジュースにした。青臭いけれど家で栄養だと思って飲む分には我慢できる。
右)わが家の畑。全景。こんなに作る予定ではなっかたのに。そこそこ食べることが出来ているから、頑張った甲斐はある。クリスマスの頃はまだこんなにのどかな光景だったのだが……。
この日は、夜、隣保の集金会があった。
儂と同じジャガイモ新農法をやっている人が「儂は地温を上げるためにもう黒マルチを張った」と、言うではないか。「ええ、もう張ったの」儂は教科書通りに2月に張るつもりだったから仰天する。農事はもう少しゆっくりしようと思っていたので焦らされる。
こうして今年もあっという間に後3日。明日、妻を迎えに行く。1月4日まで外泊。いつもと同じ手抜きの正月だけど、正月気分だけは味合わせてやりたい。娘夫婦は帰って来れるのだろうか。この寒波が心配だ。

本年も拙いブログにお付き合い頂きありがとうございました。
みなさま、よいお年を。

東映で仕事をしていた時の仲間たちが一斉に電子書籍で本を出した。
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その出版情報は以下の通りです。
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新波出版 新刊情報
Amazon Kindle 専用電子書籍出版社の新波出版では特撮ヒーロー作家3氏によるオリジナル書き下ろし小説を2018年12月23日24日25日と連続刊行&配信を開始いたします。
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鷺山京子 作 (12月25日配信)
「わが友フランツ」

19 世紀はじめ、帝都ウィーンで、少年ルディが出会ったのは、若き作曲家フランツと美貌の青年ディーターだった。新しい音楽や自由に生きる彼らに、ルディはたちまち魅了された。とりわけ颯爽と我が道を行くディーターは憧れの的だった。だがディーターには隠された一面があった。優美さと仄暗さが交わる近代欧州、その中で少年と青年が選んだ結末とは――
多彩な活躍を続ける脚本家、鷺山京子が放つ、不思議で可憐な青春小説の最高傑作。Amazon Kindle にて配信【500 円】(KindleUnlimited 会員なら無料読み
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扇澤延男 作 (12月23日配信)
「寄ってたかって」

読者は騙さない(多分)。騙されるのは犯人。劇団が副業で始めた探偵団が、芝
居でハメて事件を見事に解決する。そういうシリーズです(恐らく)。
特撮ヒーロー界、テレビドラマ界でカルトな人気を誇る鬼才脚本家が放つ奇妙奇天烈な痛快コメディミステリー連作。Amazon Kindle にて配信【500 円】(KindleUnlimited 会員なら無料読み放題です)Amazon サイト内検索「扇澤延男 寄ってたかって」
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   同じく、扇澤さんのQRコードです

またしても注意)「扇澤延男 寄ってたかって」で検索しても、該当なしにされてしまいました。「扇澤 寄ってたかって」。姓だけで入力したらOKでした。Amazonはどうなっているのか?それとも、儂   だけなのか。本一冊買うのに往生しました。老婆心ながらご報告しました。
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宮下隼一 作 (12月24日配信)
「餓える心臓の往くところ。」

最先端のエネルギー施設の事故によって世界が壊れてから、百数十年後。流れ者のおれと少年は、殺人を犯し、とある金属ボックスを強奪する。その中には移植手術用の心臓が入っていた。
「特捜最前線」「仮面ライダーBLACK」「名探偵コナン」など、数々のヒット作を世に送り続ける脚本家が放つデストピア・ノワールの傑作。Amazon Kindle にて配信【500 円】(KindleUnlimited 会員なら無料読み放題です)Amazon サイト内検索「宮下隼一 餓える心臓の往くところ。」
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  同じく、宮下さんのQRコードです




注意)「餓える…」を入力する時、うっかり「飢える…」になっていませんか?
   「飢える…」では該当なしになってしまいますから気を付けてください。
   儂は何度やっても買えず、今日、やっと原因がわかりました。^^)
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三人とも後輩の作家である。特撮ファンにはおなじみの顔だが、順に紹介する。
一番古い付き合いは鷺山さん。20代から東映TV部で仕事をされていたが、別な番組を担当されていたので名前と顔は知っていた。後にご一緒した。石森史郎という当時の松竹などで青春映画の脚本を書いていた人のお弟子さん。その頃の石森さんは人気があって、シナリオ作家協会のゼミでも生徒が殺到した。水戸一高出身の才媛、美人脚本家である。からっとした気持ちのいい女性である。後年、女性ライターが特撮番組のメインライターを務めるようになったが、その人たちは鷺山さんに感謝しないといけない。彼女が先鞭をつけ、道をつけてくれたのだ。
何かの戦隊シリーズの打ち上げで、先日亡くなった石橋雅史(悪役で出演したはず)と鷺山さんが二次会のスナックだったと思うが、ダンスをしていたのを昨日のように思い出す。石橋さんの方から美人脚本家の鷺山さんを誘ったのだ。絵になる光景だった。
【石橋雅史訃報の記事より】
12月19日死去。85歳。石橋さんは日大芸術学部演劇学科を卒業後、俳優の道に。空手家の顔も持ち、千葉真一(79)の主演映画「ボディーガード牙 必殺三角飛び」(1973年)「激突!殺人拳」(74年)などに出演し、アクションを披露した。
「大江戸捜査網」「大岡越前」「水戸黄門」などの時代劇のほか、「ジャッカー電撃隊」(77年)の鉄の爪(アイアンクロー)をはじめ、「バトルフィーバJ」(79年)「科学戦隊ダイナマン」(83年)「高速戦隊ターボレンジャー」(89年)「電影版 獣拳戦隊ゲキレンジャー」(2007年)と特撮「スーパー戦隊シリーズ」でも悪役を演じた。
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扇澤さんと知り合った時はもう特撮番組を余り書いていない時だったが、初めてこの人の本を読んだ時は仰天した。こんなケッタイな本を書く人がいたのだと。その頃は注文があれば書く程度だったが、この人の本を読んでからは妙に刺激されて、この人の亜流にならないように意識しながら、超える本を書こうとしたものだ。それが楽しかった。倉本聰の弟子だと知って、二度驚いた。
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宮下さんと知り合ったのは、扇澤さんより少し早かったと思う。すでに「西部警察」や「特捜最前線」で名をなした人だから、三顧の礼で迎えられたのだろうと思った。
その後、ひょんなことからゲームシナリオ制作にまで引きずり込んで迷惑をかけてしまったが、その分付き合いが深くなった。映画への愛情、映画を語る言葉の熱さに圧倒された。お師匠さんは永原秀一。若き日の加山雄三主演の東宝映画「狙撃」の脚本で衝撃を与えた脚本家だ。論客の宮下さんが、このお師匠さんと同席した時、いつもより控えめだったのがおかしかった。後で、「あの人の前では……」と、論客らしからぬ言い訳をしていた。
みな、師匠を持っていたのである。
そして、念願の脚本家になったのであるが、儂が思うにTVの脚本を書いている限り、本当に書きたいことを書いたことなどなかったのではなかろうか。あれもだめ、これもだめ、書いたところで相手にしてもらえないことは分かっている。それでも、みな、思っている事の十分の一でもと書く。ほとんどの人がそういう作家人生を歩んで来た。そうでなければ、小説を書こうなどと思うはずがない。
ここにある三作はそういう小説である。長い間、本当に書きたいと温めていた小説である。夢と志を持ち続けている素敵な仲間たちの小説を、この冬の休みにミカンを食べながら、あるいはコーヒーを飲みながら読んでください。

新波出版HP


守護所とは守護大名の領国統治の拠点、政庁である。出雲で言えば京極氏の出雲経営の本拠である。だが、室町時代の守護大名には在京義務があるので、京極氏が出雲に常駐することは出来ない。そこで守護代に出雲の統治を任せる。それが尼子氏である。教科書で学んだように、守護代が守護大名から実権を奪い、戦国大名となって行く。尼子氏もその代表的な例である。私はその政治状況の中で、京極氏の守護所がどこにあり、どこへ移って行ったかをずっと調べていたが、未だに守護所の場所は特定できていない。
ただ、この辺りにあったであろうと言う研究者たちの見解はほぼ一致している。
その場所は松江市の「平浜別宮(八幡宮)=現在の武内神社」あたりである。JR山陰線東松江駅の西側から南側にかけての一帯で、意宇川の河口で中海に面している。室町時代には八幡津(中海の港。美保関を通って日本海に出る)や八幡市場があり、政治経済の中心地だったのである。問題はそこから先である。応仁の乱を経て、(出雲でも東軍の京極氏は西軍の石見の山名氏や国人層と戦いを繰り広げていた。平浜別宮が西軍勢力に奪われることもあった)出雲も地殻変動を起こし始めた時、果たして守護所はいつまでも昔通りの同じ場所にあり続けたのであろうか。
政治や経済の中心は富田城(守護代尼子氏の拠点)のある富田(安来市広瀬町)に移って行く。応仁の乱の混乱時には、京極氏も富田城に籠って戦っている。
研究者の中には、守護所はどこか特定できない(守護所は軍事施設ではない)し、いつ移ったかもわからないが、富田城周辺に移ったのではないかと言う人もいる。
実は私もその考えに与していて、ひそかに目星をつけている場所がある。
かねてより、足を運んで、この目で確かめてみたいと思いながら、なかなかその機会がなかったが、12月16日の日曜日、「風土記講義」が終わった後、安来の富田城へ行くことにした。
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(左)安来市広瀬町に向かう山道    (右)正面が広瀬町富田城址
   松江側から手前安来に登る。      手前が富田川(飯梨川)
   右手が京羅木山             
この山道は432号線。松江の意宇平野側から、京羅木山の南側を越えて、安来市広瀬町に至る道である。戦国時代には富田城を攻める軍勢は富田川(現在の飯梨川)を挟んだこの京羅木山に陣を敷く。天文11年(1542)、大内・毛利の連合軍は出雲に攻め込み、京羅木山に一年間布陣するも退却した。永禄5年(1562)、毛利が出雲に攻め込んだ時もここに布陣し、永禄9年(1566)、富田城は落城する。
昔から富田と出雲松江方面を結ぶ道だったそうなので、この道も以前から一度通ってみたかったのである。
ナビなしのおんぼろ軽で、スマホも持ってないので、道路地図頼りに走るが、道を間違え、荒神谷博物館を11時半に出て、9号線からどうにか432号線に辿り着き、雨が降り出した中、1時に富田城に到着。
432号線は古代出雲の周辺部をぐるっと回る道であった。途中「意宇川」を越える。
橋のたもとに、上流熊野大社の案内あり。ここもいつか行ってみよう。
イメージ 3←新宮谷の南谷。
右手手前に富田城がある。
新宮谷は富田城の北側にある谷で、北谷と南谷の二つに分かれていて、奥の山から下って来て一つになる。
新宮党と呼ばれる尼子最強軍団の拠点で、往時には多くの寺や武家屋敷があったと言われている。尼子経久の次男尼子国久が率いていたが、天文23年(1554)、経久の跡を継いだ尼子晴久に討滅されてしまった。新宮党盟主尼子国久の居館はこの左側の谷、北谷にある。
なぜ、新宮谷へ来たかと言うと、これが今回の目的で、ここに京極氏の「守護所」があったのではないかと前々から思っていたからである。
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南谷に入り、富田城菅谷口の前を通り過ぎ、600mほど行くと右手、富田城から続く山の麓に「十二所神社」がある。尼子氏が勧請したと言われているが、確かなことは分からない。入り口の鳥居から200mほど行くと古錆びた神社がある。無人の小さな神社だが、鳥居の前は箒の目が残っている。
「守護所」と言う建物の性格上、神社や寺の近くにあるものなので、私はこの古い神社の近くにあったのではないかと思うに至ったのである。富田城とは近過ぎず、遠過ぎもしない。「十二所神社」の他にも、多くの寺や神社があったらしいことは地名から窺える。新宮党のど真ん中というのは気になる所だが、新宮党が強大になるのは後年のことである。
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建物はこの二つと倉庫のようなものが一つ。戦国時代まで遡れるものはなかったように思うが、詳しく調べたらあるのかもしれない。昔はもう少し広かったかもしれない。
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(左)神社を出た東側         (右)参道
神社の裏は山。裏山を越したところにあるのが月山で、富田城が築かれている。
参道の両側は屋敷跡と思われる石積みが幾つも連なっている。古くは武家屋敷があったと思われる。ぐるりと眺めて「守護所」を想像してみた。
イメージ 10帰り道、すぐ近くに「山中鹿之介」の屋敷跡がある。
7年前に来た時には、富田城に登り、新宮党跡と山中鹿之介の屋敷跡は見ているのだが、折角来たので、ついでに覗いてみる。
7年前に来た時は、荒れ放題で手すりもなかったが、きれいに手入れされていた。

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7年前は草ぼうぼうで足を踏み入れることも出来なかったが、荒れ果てていた方が兵どもが夢の跡でよかったような気がする。残念なのは今の若い人たちは山中鹿之介と言っても誰一人知らないことだろう。滅びた尼子家を再興するために孤軍奮闘した武将です。織田信長が毛利を攻めた時、御家再興を目指す鹿之介たちは毛利攻撃の先兵として利用される。その冷徹なやり口に対して、同じ毛利攻めの指揮をとっていた秀吉は同情的であったと言われている。本能寺の変が起きる4年前に毛利に殺される。もう少し頑張っていればと思われる。

帰りは、もう一度432号線を逆に走る。目的地はかつて守護所があったであろう「平浜別宮」である。富田からの道筋と距離を確かめるためである。富田からはだらだらの曲がりくねった山道であったが、「駒返し」という所にはトンネルがあったから、
昔はもっときつい山道だったであろう。下りは急で一気に降りると、最初の信号を右折して北上する。古代出雲の国衙跡はこの道の左手に広がる。すぐに9号線に出て松江方向へ走る。意宇川を越えれば「平浜別宮」。ぶんぶん飛ばしたから、富田を出て25分で到着する。うっかり距離を測り損ねたので正確には分からないが20㎞強ぐらいであろうか。
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創建は平安時代の終わり頃らしい。この地が京都の石清水八幡宮の社領だったので平浜別宮と呼ばれ、出雲国の八所八幡宮の総社となる。 境内社として、武内宿禰を祀った武内神社があり、今では「武内さん」と呼ばれて親しまれている。
案内図の右上が平浜八幡宮。中央の茶色部分が国衙跡だから、いかに古代出雲の中心部に近かったか分かる。水色の川は意宇川。
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とても大きな神社である。7年前にも来たが久しぶりにお参りする。やるき達磨があったので、やる気が出るように水をかける。
古い文書には、京極政経の子、材宗(きむね)の「御れう人」が八幡にいると記されているそうだ。材宗は北近江で同族の京極高清と戦って破れて死ぬ。北近江を失った政経は出雲に下向。その時、材宗未亡人も子の吉童子丸を伴って出雲に下向したと思われる。ここでいう「八幡」が漠然と八幡領を意味しているのか、平浜八幡の中に庵を作って住んだのかは分からない。
近くには「安国寺」があり、京極政経が葬られている。こういう事実を鑑みると、没落したとはいえ、京極氏の「守護所」は八幡領にあり続けたと言えなくもない。
いつの日か、古文書が発見されるか、守護所跡が発掘されることを待つしかないのか。

12月7日は特養のミニ・クリスマス会。
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イメージ 3妻が暮らすユニットとお隣のユニットの合同クリスマス会があった。1ユニットが10部屋。こちらのユニットにお隣さんがやって来て、参加できた入居者は10数人。
トナカイに扮して、お寿司、鶏の唐揚げ、焼肉などを並べてくれる。
妻は唐揚げ3個、寿司4個、ノンアルコールビールを少し飲み、締めにショートケーキをぺろりと平らげる。
食べ過ぎかなと思うが、今日は特別。
家族も召し上がれとすすめられるが、儂がぱくぱく食ったのでは誰のクリスマス会かわからなくなる。遠慮しながらも頂く。二人で缶ビール一本をあけることが出来ず。
一人で食べられる人は少ないから、職員さんはあっちを食べさせ、こっちを食べさせ、すると急に立ち上がる人がいて、慌てて駆け寄る。いつもながら大変だ。
12月9日は日曜日。
土日のどちらかは必ず特養に行くことにしているので、この日、特養へ顔を出す。
7日から急に寒くなり、8日はぐんと冷えて、白いものがちらり。9日も寒く、あられがぱらっと落ちる。
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散歩できないので施設内を車椅子散歩する。途中で休んで、麻痺している方の手をマッサージしてやっていたら、妻もお返しにマッサージしてくれる。
ここまではなかなかうるわしい光景なのであるが、急に妻曰く。
「島根と聞いたら、ド田舎と思う」
島根県人の皆さま、御免なさい。
そして、12月11日が大クリスマス会。
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全ユニット参加の特養全体のクリスマスである。ロビーでバイキング形式で行われる。もちろん握りずしもある。生野菜やスープなども。里芋を潰してあんかけにした団子がとても美味しかった。
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一度に全員を集める訳には行かないので、ユニットごとに時間差をつけて集まる。
そうしないと少ない人数で大勢の食事介助が出来ない。ユニットとホールを行ったり来たり大変だ。食べた後には服薬もある。儂は今日もおよばれしたが、儂が絶対に一番沢山食べている。気が引ける事この上なし。
行事はさらに続く。
12 月14日は忘年会。2時半から4時まで。これもホールで行われる。
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ユニットごとにテーブルに集まり、お菓子とジュース。妻は特別にノンアルコールビールを出してもらう。早速、カラオケ。トップバッターの入所男性は失語症で普段は言葉が出ないのだが、カラオケだけは歌えるのだそうだ。その歌が「北国の春」。二番に入っても一番を歌い続ける。ほろっとさせられるが、♪帰ろかな~と歌ったら、妻が「帰らなくていい」と合いの手を入れる。儂は思わず下を向く。
ビンゴは4つもリーチがかかったのに揃わず。車椅子で眠ったままの人もいたが、すこしでも楽しい雰囲気を味合わせてあげたい親心であろう。
2025年には団塊世代が75歳になり、今でも人手不足なのに、圧倒的に介護職が不足する。現場に通うことで、切実さが身に迫る。我々も自覚して年を取らないと。酒は飲まないけれど、甘いものは控えないと。

12年前の語録

「ご飯食べるの」
俺「食べたよ」
「またそんなこと言う。好きな事させてくれない」
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「〇〇兄ちゃん(従兄)、だぶだぶのおむつしてやる。漏れるようにしてやる。朝、起きたらびしょ濡れで、〇〇姉ちゃん(従姉)がお湯でふいてくれる」
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「お風呂に入るの。ゆっくりと一人で入るの。頭を洗うの」
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「私は最近ずっと本を読んでいたい。遅くまでずっと読んでいたい。お父さんが買って来たものなら何でもいい。ミステリーでもいい。でもね、時代劇なら一番いい。武家物」
2006.9.2
「今日はお父さん今年初めての優しくしてね」
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「あんた、楽観主義ね。あんた、長生きするね。頑張れと思ってるよ」
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「わたし歩いて行くから。後から車椅子持ってついてきて」
2006.9.3
トイレで便テキする
「難儀ね、こんなこと毎晩」「なれたよ」「なれたくない。こんなこと」
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オムツする時
「早く隠して。こんなとこ、〇〇姉ちゃん(従姉)に見られたら怒られるから」
2006.9.4
「今日から〇〇(娘)の授業始まったよ」
「毎日、〇〇ちゃんのこと言って、ばかみたい」
2006.9.6
親王誕生のニュースを見て
「夕食の時、継承の話をしようと思うんだ。〇〇(息子)が曽田家を継ぐんだと自覚するように」
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「パパちゃん、近頃現れないね」
「死んじゃったでしょう」
「熊本に戻っているのにあらわれない」
2006.9.20
「何してんの」
「俺のご飯をつくってるの」
「ごめんね、私がなにもしてやらんから。子供に食べさせたりしてやってたから」
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「お父さん、鼻高いね」
「ありがとう。お前だけだよ」
「低いと思ってたの」
「うん」
「ごほうびちょうだい」
2006.9.21
着替えさせていて
「痛いけど、お父さん、いい男だから許してあげる」
2006.9.22
「近頃、パパちゃん、こらさんね」
「子供の時、死んだんじゃないの」
「生き返ったの。どうしてそんな意地悪言うの」
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「寒いぞ」
「いいよ、いっしょに寝るから」
「いい考えだね」
「いっしょに寝るのは寒くないから」
2006.9.23
「私、学校の先生になるよ。欠員できたら。お父さんに相談して行くよ」
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「下の子の顔を見てないから忘れちゃった。お父さんに似てる?だったら安心した」
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TVを見て
「年取ったらあんなに汚くなるの」
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「あたしもああいう生活でいいよ。お父さん死んだら、おいしい野菜を作るよ」
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「モモ死んだら、毎日墓参りしてあげるから。モモ、早く死になさい」
「あんた、ヒロヒサ?……名前忘れてるなんてびっくり、やっぱりボケてる」
「お父さんが死んだら一週間ぐらい泣いている。そこに座って思い出して。台所で立って泣いて」
2006.9.30
「今度生まれる子が女の子だったら沙織にする。〇〇(息子)たちも字が判るから、何にする、何にすると騒ぐよ」
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「だんだんわかってきた。ここ住めばいいとこ」
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「納豆ちょうだい」
「買って来てない」
「私、昨日買って来たの。冷蔵庫に入っているから」

※近頃はこういう話はめっきりしなくなった。なぜだろうと考えて思うに、
TVを観なくなったことが大きいようだ。TVを観て、多少でも理解できれば話題になるのだが。他者や周囲への反応や興味が薄れているのかもしれない。
施設に入った影響も大きいかもしれない。だからこそ外泊が必要なのだと改めて思う。

第三章 戦国擾乱(5

 人は政元暗殺から始まった未曾有の擾乱(じょうらん)を『永正の錯乱』と言った。まさにその名の通り、世は錯乱状態にあった。そもそも政元暗殺自体が澄之派の錯乱から引き起こされたのだ。錯乱とはこれほど言い得て妙な言葉はなかった。
 炎天下、辰敬はこの都の錯乱の真っ只中を連日駆け回っていた。物見に駆り出されていたのだ。
 澄之の居所である遊初軒、武家御所、細川一門の屋敷、香西元長や薬師寺長忠の屋敷などを巡り、噂や情報を集めては、邸に戻って報告するのである。
 吉童子丸の御守りどころではなかった。
 辰敬は北は岩倉、南は伏見、西は香西元長の嵐山城、東は山科郷まで命じられるままに走り回った。
 この年頃はいくら無尽蔵の体力があるとは言え、連日は流石に辛かった。だがやめたいとは思わなかった。辰敬は記憶力が抜群で、報告もその年齢にしては簡潔で要を得ていたので、家中の辰敬を見る目も変わって来ていたのである。悪い気はしなかった。
 何よりも錯乱の渦中の真っ只中に飛び込んでいると言う高揚感が堪らなかった。
 明日に対する不安や怯えはあるのだが、右往左往する大人達を眺めるのは面白かった。日頃、威張りくさっている武士たちが血相を変えて生き残ろうとあがいている。少しでも利のある方を目の色を変えて求めている。実に浅ましい姿であった。
 その有様をまるで田楽や猿楽を楽しむように見ている自分の中に、残忍なものがあることに辰敬は気付いた。
辰敬は心の中で、(もう子供ではないぞ)と呟き、自分もこう言う世の中を生きて行かねばならないのだと大人びた覚悟をしたのであった。
だから、家中の大人達を見ていると、近頃は報告するのが馬鹿馬鹿しくなっていた。
 次々ともたらされる噂や情報に一喜一憂する家中の大人達は、棚からぼた餅のように、京極家に幸運が転がり込み、家運が復活する事を夢見ているだけなのである。
 辰敬が走り回ってはっきりした事は、今の京極家には何の力もなく、今起きている事も京極家とは全く無縁の世界の話であった。
 それなのに、何もせず、あわよくば政変のおこぼれに預かれるのではないかと期待する家中の大人達は阿呆に見えた。
 かくして、否応もなくすべての人々を呑み込んだ錯乱状態は、いよいよ風雲急を告げ、発狂寸前となった。
 澄元と三好之長が大軍を率いて上洛すると言う情報に、都の人々は震え上がった。
先の大乱が終わってから三十年経っていても、応仁の乱の記憶は決して消えることはなかった。
 
七月二十六日。突如、御所が開放された。
 洛中の騒擾を心配した後柏原帝が内裏に小屋を設け、市民を避難させたのである。
 戦になれば、いつも焼け出され、逃げ惑う庶民を救うための叡慮であった。
 その日、辰敬は細川高国や典厩家の細川政賢、淡路守護細川尚春らの屋敷を見て来るように命じられたが、屋敷を飛び出すと、足はまっしぐらに御所に向かった。
 朝廷の催し事に御所が開放され、庶民が見物に押し掛けることはあったが、こんな理由で開放されるのは前代未聞の出来事であった。
 辰敬は御所の内を見たことがなかったので、何をさておいても見物したかったのである。細川一門の屋敷なんぞは後回しにすればよい。
 走りながら、辰敬はふといちの一家も御所に逃げ込んでいるかもしれないと思った。そう思った途端、胸がざわめいた。
 辰敬は洛中を駆け回っていて、いちの家の近くを通る時もあったが、絶対に近寄らなかった。
 あの日、桜井多聞と言葉にして約束した訳ではないが、いちの家に近寄るだけでも多聞を裏切るような気がしていたのだ。
 だが、今日もし御所でいちに会ったとしても、それは偶然である。多聞を裏切った事にはなるまいと自分に言い訳していた。
 辰敬はいちは必ず来ていると信じた。公典がこの機会を逃すはずがない。下級公家の候人はこんな機会でもないと御所へ入ることなど出来ないのだから。
 もし誰かがこの時の走る辰敬の顔を見たら怪訝に思ったであろう。
 辰敬は笑っていた。自然に笑みが浮かんで来るのであった。御所へ向かって走る事が嬉しくてならなかった。勿論いちに会えるのが嬉しかったのだが、それだけではなかった。もっと晴れ晴れとして、とても爽やかな気分に満ち満ちていた。
 叡慮に感動したのだ。
 濁った大きな泥沼の中に、蓮の花が一輪、ぽんと音をたてて咲いたような気分だった。
 御所の周囲は着の身着のままの人々で埋め尽くされていた。
辰敬は入る事が出来なかったが、帝が保護を求める人々の多さに驚かれ、紫宸殿の前の広場も開放されたので、漸く御所の東、高倉小路に面した門から入る事が出来た。
御所の内には小屋が設けられ、粥が振舞われていた。痩せた子供達が一つの椀をすすり合い、年寄りは涙を流していた。
御所の広さはおよそ一町四方。広いように見えて、かつての平安京の大内裏の何十分の一に過ぎない。大内裏には内裏を中心に、大極殿や豊楽殿、左右の近衛府や太政官などの多くの殿舎があったが、今、内裏の周囲の多くは公家屋敷である。
武家の世となり、大内裏が焼けてから三百年の間、内裏は転々と移り、公家の屋敷が役所となっていたのである。
その東側の公家屋敷が並ぶすぐ裏手は、鴨川の堤まで一面の荒れ地と言う有様だった。
いま内裏にあるのは大雑把に言えば、南半分の紫宸殿の区画と、北半分の清涼殿の区画である。内裏の規模も平安の世とは比べるべくもない。
辰敬は御所の内をそのまま真っ直ぐに進むと、日華門を潜って紫宸殿の広場に入った。  
紫宸殿は見上げるように大きかった。
辰敬は背伸びすると、群衆の頭越しに、紫宸殿の前面の東側に左近の桜があり、西側に右近の橘があることを確認した。
もっと間近に見たくて、辰敬は人混みをかき分けて進み出た。
紫宸殿はくすんで見えた。群衆が巻き上げる埃を浴びているからではない。手入れが行き届いていないのは辰敬の目にも分かる。左近の桜も、右近の橘も萎れて枯れそうに見えた。
その右近の橘を横目に尚もかき分けて進むと、突然、紫宸殿の西側の柱廊から突き出された男がいた。加田公典だった。やはり来ていたのだ。公典がよろよろと倒れると、数人の下人達が現れて口々に罵った。
「恐れ多くも清涼殿へ忍び込もうとは呆れ果てた奴や……」
 紫宸殿の裏の築地のすぐ向こう側が清涼殿である。清涼殿は帝の居所であるから、ここまでは避難民を入れなかったのだが、どうやら公典は清涼殿にまでも潜り込もうとたらしい。
「ほんまなら首が飛んどるとこやで。今日のところは大御心に沿って見逃したるけど、二度とこないな真似をするんやないで」
 下人達は大勢の避難民を見回すと、
「この奥には賢くも有り難き主上がおわします。ここから奥へは近づいたらあかん。大御心に感謝し、静かにするのや」
 下人達が引き上げると、公典は起き上り、恨めしげに振り返った。
 誰も近寄る者はいなかった。
 辰敬は集まった群衆を見回したが、そこにもいちや千代の顔はなかった。
 御所に入りたい一心の公典は、家族など放り出して来たに違いない。
辰敬は落胆した。今更ながらその執念に呆れながら、のろのろと引き上げて来る公典を眺めていると、ふと公典が立ち止まった。
 公典も辰敬に気が付いたのだ。
 辰敬は軽く目礼したが、公典は険しい目を向け、無視したように歩き出した。
辰敬は当惑した。突き放したようなよそよそしい態度で、取り付く島もない。辰敬が頑張って貢物を届けていた頃に見せた愛想のよい表情は微塵もなかった。
 この所、すっかり貢物が滞っているから機嫌が悪いかのと思ったが、貢物が不足の時に見せた不満の表情とも違った。もっと厳しい突き刺すような目であった。
 はっと辰敬は思い当った。
 いちの事で怒っているのではないかと。
 石童丸たち河原者に襲われた日、いちは身体も小袖も泥まみれで帰って行った。
 あの日、いちが辰敬と一緒だった事は、公典も見抜いているはずだ。いちが何と弁解したか分からないが、公典はあの日、いちと辰敬の間に何かあったと誤解しているのではないかと思ったのである。
 辰敬は公典の後を追った。
 いちに不埒なことはしていないと弁解したかったのであるが、なかなか声を掛ける事が出来なかった。
 公典は人混みをかき分けるように進むと、右近の橘の傍らで立ち止まり、紫宸殿を見上げた。
 辰敬も立ち止まり、その後ろ姿を見詰めた。
 陽は中天に差しかかっていた。炎天下、土埃を被りながらも、公典は微動だにせず紫宸殿を見上げ続けていた。
 ふと辰敬はその痩せた肩が震えていることに気が付いた。泣いているのだろうか。
 辰敬はそっと背後に立った。
 悲痛な声が聞こえて来た。
「ああ、嘆かわしい……」
 やはり公典は泣いていた。周りに聞かせるかのように身をよじり、声を張り上げた。
「……即位の礼はここ紫宸殿で執り行われるのや。代々の帝は皆ここで即位なされたと言うのに、ただ御一人、後柏原帝のみは未だに即位なされておらぬ」
 公典は膝から崩れ落ちた。
「……帝は即位の費用を少しずつ蓄えておられたと聞いておる。せやけど、此度お救い小屋をお建てになった事で、爪に火を灯すように蓄えて来られたものを取り崩すこととなってしまった」
膝の上に熱い涙がぽたぽたと落ちている。 
「……また御即位が遠のくのも厭わず、哀れな民草をお救いなさろうとする、かくも優しき主上がかつておわしましたであろうか」
いつの間にか公典の周りにぐるりと人の輪が出来ていた。
「皇朝第一の帝や。ああ、それやのに……未だ御即位出来ぬとは何とおいたわしい事か。見よ、紫宸殿のこの荒れ果てた様を。心ある者、これを泣かずにはおれようか……」
 公典が地べたに突っ伏し、声を放って泣くと、周囲からもすすり泣きが湧き起こり、公典に倣って土下座する者もいた。
辰敬は引き返した。
 
 八月一日。
 細川高国が薬師寺長忠の邸宅を襲撃すると、細川政賢は香西元長と戦い、細川尚春は澄之のいる遊初軒に攻め寄せた。
 薬師寺長忠と香西元長は討死にし、澄之は実父九条政基に遺書を認めると切腹して果てた。
 大軍を擁する澄元の上洛が迫り、澄元有利と判断した高国らが、それまでの曖昧な態度をかなぐり捨て、澄元派に雪崩を打って加わったのである。
 澄元が上洛する前に実績を作り、澄元が家督となった時に、少しでも有利な立場を得ようとしての行動だった。
 澄之はわずか四十日の天下であった。
 その日、辰敬は遠くから遊初軒の戦闘を眺めながら、澄之切腹の報を聞いた。
 辰敬は公家に生まれた若者が、十九歳で腹を切ったことに激しい衝撃を受けた。
 十九歳で名流細川一門の棟梁となる。
一敗地にまみれた日には腹を切る。
辰敬は自分がその年齢になった時、その立場に置かれたとして、果たしてそんな事が出来るのかと想像した。
臍下丹田の辺りに不意に刃を突き立てられたような痛みが走った。
辰敬はぶるんと身震いした。怯えたように首を振った。とても真似は出来ない。
この時、辰敬は武士とは詰まるところ腹を切らねばならぬ者であることを、思い知らされたのであった。
 都の名門の子と地方の一武士の子の違いはあっても、武士の子である事に違いはない。辰敬は否応もなく武士の子である事を自覚させられた。
 これまでも死については漠然と考えたことはあったが、武士にとってはすぐ目の前にあることを見せつけられたのであった。いや隣かもしれない。背後かもしれない。
 生まれて初めて武士の生死について考えさせられた辰敬は、とぼとぼと帰途についた。
 いつかは自分にも来るかもしれない未来に向かって。十九歳はまだまだ遠い先の事だと自分に言い聞かせながら。
 
 翌日、澄元は五万の大軍を率いて入京し、将軍足利義澄に謁見した。
義澄はあっさりと家督を認めた。
澄元もまた十九歳であった。
澄元と三好之長は得意の絶頂にあった。だが、これで世が治まった訳ではなかった。一連の擾乱は『永正の錯乱』の序幕に過ぎなかったのである。
紀伊に潜伏していた畠山尚順(ひさのぶ)が決起したのである。長年の宿敵である同族の畠山義英 (よしひで)とも和解し、大和の筒井氏らとも結んで、澄元に向かって来たのだ。
畠山氏は三管領であった。応仁の乱を経て、三管領の一つ斯波氏は力を失い、畠山氏も中央から追いやられ、細川政元の専制体制が築かれた。
しかし、畠山氏は二つに分かれ、敵対しながらも、大和南部や紀伊、河内を拠点に執拗に抵抗を続けていた。
都へ攻め上るほどの力はなかったが、細川政元は畠山氏が他の反細川勢力と結ぶ事を常に警戒していた。
独裁者細川政元にとっても、追い払っても追い払ってもまとわりつく蠅のように煩わしい、厄介な存在だったのである。
澄元は大和に赤沢長経を送り込んだ。
そこへ、西から足利義尹(よしただ)上洛の噂がもたらされた。

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