曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2018年11月

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『クライマガコのための遁走曲』の台本をわざわざ送って頂いた。忙しかったのと風邪で手に取るどころではなかったが、やっとページをめくることが出来た。
舞台を観てなくて、脚本だけで語るのは失礼だし、理解も至らぬところがあるのを容赦して貰って、語らせて頂くことにした。
この話は「ツクヨミ団地」「あめのま」「クライマガコのための遁走曲」「ときじくのかぐのこのみ」の4つから成り立っているのだが、それぞれ独立した話に見えて、重層的に重なっていて、4つの話をすべて聴いた時に、作者の問いかけが聞こえて来る仕掛けになっている。
儂はこういう巧みな仕掛けが大好きなのだ。儂のツボにはまったというやつだ。
それと、作者の吉永亜矢さんの真面目さが、儂の真面目さ(自分で言うのも恥ずかしいけれど、儂は根は几帳面で真面目なのだ)とシンクロしたのである。と、言っても多くの人は皆真面目に生きているわけだから、強いて言えば、生きることを真面目に考えている人と言うべきか。
そう言うと、なんだか儂までカッコよく思えて来た。^^)
今回はそこにもう一つ、「つくよみ」「あめのま」「ときじくのかぐのこのみ」と『古事記』などに登場する神の名や、木の実などの名前が表題に使われているのが個人的には嬉しかった。物語は『古事記』とは関係なく、それらの言葉は象徴的に使われているのだが、「深い静けさ」と「限りない拡がり」と「永遠の時」を感じさせてくれる。
粗筋を紹介しようとすると、克明に解析しなくてはならなくて、論文みたいになってしまうので、独断と偏見で儂のツボにはまった台詞や文章のいくつかを紹介することにした。
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二階のひと「わたしなんて最近、膝が痛くて。膝の、膝姐さんが」
一階のひと「膝姐さん?」
二階のひと「だってもうこの歳になったら膝小僧なんてかわいらしいものじゃないでしょ、だから膝姐さん」
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一階のひと「(略)それがいつだとしても、そう思えたらきっと帰って来よう。いまのこのときのここにるこのわたしに。ただいま、おかえりなさい…」
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この世界をつくったあめのまというものがいると聴いたの。あめのまはいつもわたしたちを見ていると。
でも。おとこのこは少し混乱した。でもそんなこと、いったい誰に聴いたのさ。
物知りの庭師に、とおんなのこは答えた。あめのまは、そのたったひとつの目で、なにもかも見ているのですって。
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「そのうえこっちは、なにから逃げてるとお思いかい?」
言い負かし女王はふんぞり返り、丸々と太った人差し指を顔の前に立てた。
「あたしは、あたしから逃げているんだ。どうだい?」
ぼくは口を開き、なるほど、をのみこむために口を閉じた。それは案外のみこみにくいものらしく、喉につかえ、口から出たがっていた。
「覚えておくといい、あんたが議論している相手が誰だかを」
「議論なんて」
「あたしは、クライマガコさ」
クライマガコ。なるほど。僕は心の中で思う存分、言った。なるほど。なるほど。
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「あんたが読んでも読んでもまた誰かが書く。きりがない。そういうことさ。なんだってそんなに書きたがる?」
「まったく、ぼくもそう思います。ぼくだけじゃない、みんな不思議がってるんです。どうしてこんなに書きたい人間がいるのだろう。そもそも人間はなぜ物語を求めるのだろうか、いきていくことに必要がないものを。それこそ古事記の時代から」
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これはクライマガコの部屋だ。ぼくは目だけを動かし、姿を探す。だが本しか見えない。そしてその本たちにはさまざまな形はあっても色がなかった。すべてがいちど泥水に浸かった跡のように砂色で、書名も著者名もないのだ。忘れ去られ、死にかけた本たちに見えた。こんなところで。クライマガコは。ひとりきりで。
だから逃げ出したのか。
おはなし。嗄れた声が聴こえた。声は部屋全体から響いてきた。そうか、この部屋そのものがマガコなのだ。
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「あんたは書く。それがあんたにかけられた呪いさ」
「ほんとうは、どこへ行こうとしているんですか、マガコさん」
「そっちこそどうなんだい?行く先がどこでもいいなら、なにもこのバスでなくてもいいはずだ」
「おまけにぼくは、二度と家に帰らない決意をした人間には見えない。荷物も持ってない。あなたと同じだ。ぼくも、あなたも、迷っているんだ」
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これぜんぶ、きみの本?きみが読んだの。
最初はね。退屈だったから物語を読むことにしたの。庭師に頼んで物語のなる木からひとつ、ふたつ、もらってきたわけ。
へえ。
あとはわからない。たぶん夜中、わたしが眠っているときに本と本が結婚して、子供を生んでるのだと思う。
・・・・・・・・・
たいへん。そうまでして、マガコはどこへ行くつもり。
たぶん、海の向こうの…
バスは海を走れる?
わからない、けど、物語の生まれる場所へ。
・・・・・・・

ほかにも選んでいたらきりがない。全部書いていたら、台本を書き写せと言うことになるので、ここらで筆を擱く。こうやって見ると、こういう紹介の仕方も悪くはないかな。ありかなと思う。

最後に、この物語を読み終わって、最初に思い浮かんだことを記す。
普通は批評が最初だが、思い浮かんだのはまったく個人的な感慨。
「儂は歳をとったんだなあ」
ごく自然に呟き、当然のように受け入れていた。
このように無から発想し、キャラクターを創り、世界を創る力は落ちている。
だから、歴史上の人物や事件、多くの資料に頼らないと書けないのかもしれないと。
儂は『クライマガコ』ならぬ『クライマガオ』だ。

一番やってはいけないことをやってしまった。
妻が外泊中に病気になってしまったのである。風邪を引いてしまった。大失敗。
11月15日~17日まで、息子夫婦がやっと休みが取れて帰省。妻の外泊は19日~24日。
息子夫婦は二人ともペーパードライバーなので、いつも儂がアッシー君。3歳の男の子がいるので、チャイルドシートを用意して待つ。丁度七五三で、出雲は17日から旧暦の神在月、神迎え祭がある。
妻も孫に会うのを楽しみにしているので、三日間特養に通う。16、17日は息子家族も含め一緒に昼ご飯を食べる。
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だが、最終日の17日には、孫が「ばあばあには会わない」と泣いて拒否する。
特養の雰囲気になじめなかったのと、消毒薬のような匂いが嫌だったようだ。喘息で煙や刺激臭が苦手らしい。最終日だから気持ちよくお別れしたかったから、妻を思うと胸が痛むも喘息の孫も可哀想。
お嫁さんがなんとかなだめてくれて、妻の車椅子を押してくれる。(左の写真)
帰省中も夜中に三時間ほど咳をして眠れなかったそうだ。帰省する前の夜も眠れなかったらしい。そういう話を聞くと、長男も喘息だったので、幼い頃は妻が真夜中でも病院に連れて行ったことを思い出す。
お嫁さんも孫も無理して戻ってくれているので、儂も出来るだけのことはしてやりたくて、孫を連れだして、池でメダカや藻エビ獲りをする。ヤゴまで獲れる。バッタも見つけた。
畑に儂と一緒に「スナップエンドウ」の種も蒔く。息子が田舎をよく見せてやりたいと言うので近所の散歩もした。
神迎え祭前日の16日には稲佐の浜に行く。丁度準備のための作業をショベルカーが始めたところで、まだ閑散として静かな浜辺であった。天気に恵まれた三日間で、一回だけ泣かれたが笑顔で帰京した。疲れが出て喘息が出なければよいがと見送る。
一日休めば、妻の外泊も大丈夫だろうとスケジュールを組んだのであるが、妻を特養に迎えに行き、連れて戻った19日の夜から喉が痛み、咳が出る。
喉スプレーをしても良くならないので、20日の夕方病院へ。立派な風邪でした。
本当ならここで目の前が真っ暗になる所だが、幸いにも妹が18日から助っ人に来てくれていた。この妹は福岡から車で来るので、何か胸騒ぎがした時は必ず予定を前倒しして早く来てくれる。今回もなぜか胸騒ぎがしたそうで、(まさか儂の風邪とは思わなかったであろうが)無理して来てくれたおかげで救われた。
但、妻の世話までは出来ないので、これだけは儂がしないといけない。妻だけではない、老いた親や妹にも風邪をうつしてはいけないから、一日中マスクを二枚重ねして
過ごす。病院でインフルエンザの検査をされた時は、もしインフルだったらどうしようと蒼ざめたものだ。
朝7時に起きるのが一番辛いが、親の面倒を妹が見てくれるので、どうにか切り抜けることが出来た。
儂が風邪を引くのは早春と晩秋と決まっている。早春はもう暖かいと薄着になるのが早すぎて風邪を引く。晩秋はまだ大丈夫と薄着を続けて風邪を引く。来年からはマジで考えないと。
今日24日に妻を送り届けてホッとしたところである。
帰省客の準備を入れると10日間以上、風邪もあって、何もできなかったので、不義理が山のようにたまる。読まなければいけないものが三つ。古文書及び郷土史関連で会わなければいけない人もいる。もう二カ月近く待ってもらっている。畑もイチゴに肥料をやらないといけない。えんどうの種も蒔かないといけない。どれから手をつけたらいいのか。
早く調子を取り戻さないと。風邪だけはぶり返さないように。

イメージ 1哲っちゃんが死んでしまった。
11月2日に病院で亡くなったそうだ。
本名斎藤哲也と言っても誰も知らないだろう。元競輪選手で、スポーツニッポンの競輪欄で競輪のコラムを書いていた。コラムと言っても、当たらない穴予想だ。正確には競輪の予想屋さんがコラムを書いていたと言うべきか。
享年59歳。病名は悪性リンパ腫。

(👈11月6日のスポーツニッポン)

哲ちゃんはこの病と19年間戦っていたのだ。
彼は競輪学校の卒業チャンピオンになったほどの優秀な競輪選手だった。記念競輪で優勝したこともある。だが、40歳の時、悪性リンパ腫が発症。闘病生活に入る。普通の人なら、そこで人生を諦めるところだ。本人も二度と自転車には乗れないと思ったそうだが、そこからが、この人はすごかった。
数年間の闘病生活を経て、何と競輪選手として復活してしまったのだ。競輪選手が病気でなくても、数年間休んでまた復活するなんて普通はあり得ないことだ。それくらい、競輪とは過酷なスポーツである。ガンを克服して復活するなんて、漫画でも考えられない話なのである。しかし、やはり昔の力はなく、2003年に引退し、2005年からスポーツニッポンで競輪予想のコラムを始めたそうだ。
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(👈10月19日のスポーツニッポン)

儂がこの人のことを知ったのは、2011年に出雲に戻って、愛読紙がスポーツニッポンに変わってからだから、7年前になる。
『斎藤哲也の小銭で穴ゲット』と言う、予想欄があって、一読するや、腹を抱えて笑ってしまった。笑った理由は二つ。一つは余りにも文章がおもしろかったこと。もう一つは余りにも予想が突拍子もなかったこと。穴も穴も超大穴狙いで、そんなの来るわけないじゃん!と言うような予想だったのである。小銭100円で一万円を超える配当を狙うのだから、ありえへんような予想にならざるを得ないのだが、タラレバばかりだから当たらん、当たらん。儂は2、3回付き合ったけれど、それ以降は一度も買っていない。ただ、コラムが面白いから読んでいるだけだった。
だが、ある時、この人が、悪性リンパ腫で競輪を廃業、病と戦いながら競輪予想をしていることを知った。何だ!この明るさは!何だ!この底抜けのお茶目なおっさんは!そして、何と言っても一番驚いたのは、文章の面白さだった!いつ死ぬかもしれないのに、長生きできないことは約束されているのに、こんな文章を書く人がいることにたまげた。腹の底から笑わせる。
文章だけではない。風貌も行動も桁違いだった。写真ではよくわからないだろうがツルツル頭にサングラス、ちょび髭の風貌はヤクザも裸足で逃げ出す。黒の背広に黒のボルサリーノ。ポケットチーフは女性のパンティ。
おちゃめもここまで徹底したら尊敬の二文字しかない。
儂はすっかりファンになってしまった。大勢のファンがいたのもむべなるかな。
どんな辛いことがあっても、悲しいことがあっても、こういう男がいたら確かに救われる。短い競輪の予想で人を救うのだから、宗教家や人生相談は真っ青であろう。
いつかこういう日が来るとは思っていたけれど、不死身の哲ちゃんと思っていたけれど……数日、コラムがないのでどうしたのかなと思っていたら、訃報が掲載された。
実に寂しい。さよなら哲ちゃん。出雲の7年間、このコラムを読む時、どれだけ楽しく、どれだけ励まされたか。ありがとう。
ところで、追悼文に、高配当的中で人気コラムになったと書いてあったから、儂が愛読者になる前は当たっていた時期があったようだ。哲ちゃんの名誉の為に記しておく。

要介護1の両親が手間がかかるようになり、要介護5の妻の相手が一番楽になった。勿論特養に入っているからであるが……。先日も好天だったが、今日は風もなく散歩が本当に気持ちが良かった。
イメージ 1特養の近くの小学校へ野球の試合を見に行く。
横断幕まであって、熱の入った応援をしていた。ただの練習試合ではなくて、何かのリーグ戦のようなものをやっているようであった。
特養へ顔出ししても、天気が悪くて外へ出られないと、こっちまで気分が滅入るが、これだけ天気に恵まれると晴れ晴れとした気分になる。
今日のお昼は『カキ飯弁当』を奮発する。おみやげも『たねや』の最中。東京の知り合いが贈ってくれた。いつもはこんな洒落た最中は食べない。口にしたのはいつのことだったか忘れた。皮と餡が別になっていて、挟んで食べる。昼食後に特別サービスで食べさせたらとても喜んでいた。儂も嬉しい。
が、家に帰るとため息の出ることばかり。
発端は10日前に父が仕出かしてくれた。
家では入浴介助までしていられない。浴槽でしりもちをついて立てなくなったこともあり、これからはデイサービスで入浴するようにしたのに、どうしても入ると言ってきかず、母に見て貰っているから大丈夫だと強引に入浴する。湯につかっただけで長湯はしなかったが、母は途中で監視を忘れて引き上げたので、結局儂が上がってからの着替えを手伝う。杖ついて引き上げていったので、後は母に見てもらっていたら
「どうしたの、大丈夫」と、母の声。
何事かと飛んで行ったら、父は部屋の入り口で動けなくなっていて、その場で崩れるように倒れる。儂は咄嗟に背後から抱きかかえるも、支えきれずそのまま父を抱くような格好で倒れる。意識を失い、声を掛けても返事がない。
儂は一瞬死んだかと思った。このまま死ぬのか。人間てこんな風に死ぬのかと思った。倅に抱きかかえられて死ぬならこれもありかとまで思った。その間、数分か。訪問医に電話しようと、当番表を見に行こうとした時、不意に、
「うんこがしたい」と、父が言う。
復活の第一声がそれかよ!人を散々心配させておいて。腹が立ったが、兎に角大事に至らなかったことはよしとしなければと、父を起こし、ポータブルトイレの前まで連れて行ったら、「あっ、出た」だって。思わず天を仰いだ。
翌日、ケアマネに電話し、早速、杖は限界なので、歩行器にし、デイサービスの送り迎えは車椅子にする。ポータブルトイレも便座が温まり、消臭機能もある一番高いやつを購入する。3割負担だから少し助かる。
生活全般も見直し、移動距離を短くするため、父の居室をこれまで妻の病室だった部屋に移し、ベッドも妻のベッドを使うことにする。この部屋ならすぐに玄関に出られるし、台所も隣である。
妻が外泊で戻って来る6日間だけ元の部屋に戻ることにする。
父が倒れた原因は訪問医によると、脱水や血圧の低下が考えられるとのことであった。
やれやれこれで一段落と思ったら、まだ事件は続く。
二日前、朝起きて部屋に入ったら、父が冷たい木の床に屑籠を枕に寝ている。布団は被っていたが。起こしてどうしたのかと聞いたら、ポータブルトイレから戻る時に、ベッドに上がれずに動けなくなってしまったと言う。想像だにしていなかったことに
唖然と言葉を失う。
ベッドは電動で上下できるので、コントローラーの使い方を教えたが、コントローラーの上下の矢印が読めないと言う。目も悪くなっているのだ。トイレとベッドを近づけることで何とか対処しているが、考えなければならない。踏み台が欲しいと父は言うが、上がるのはいいが、今度はベッドから立つとき、ベッドが低くなっているので立ち上がれない恐れがある。どうしたものか。
施設へ入所するにしてもどこも順番待ち。取り急ぎ、介護度の見直しをしてもらうことにする。
そして、もう一人困ったのが母。歯茎が痛むので金曜に歯医者に連れて行く。ためしに病院の名を訊いたら、10年以上通っているのに忘れたと言う。
化膿していたので、三日間昼に飲む薬と、痛み止めを貰うも、もはや薬の管理など出来ないので、儂は家を出ることが出来なくなった。いつかこんな日が来ると覚悟していたが、とうとう来てしまったなあと言うのが実感。昨日の文化の日は、隣保の一畑参りで、みなマイクロバスで参詣したが、儂はとてもじゃないが外出できず。
これからは台所が書斎だ。

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