曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2018年09月

来る10月19日~21日、第8回『午後から雨になるでしょう』プロデュース
朗読公演『クライマガコのための遁走曲(フーガ)』が行われます。

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去年の夏のブログでご紹介した、脚本家の吉永亜矢さんの2年ぶりの公演です。美人で颯爽として、いつも風を切って歩いている、儂の大好きな脚本家です。(脚本家の旦那がいるけれど……)
毎年、公演をしていたのに、2年ぶりになってしまったのには訳がある。
彼女は何年も前から、お母さんの介護をしているのだ。去年は特に大変で、とても公演どころではなかったのである。介護が楽になることはないのだが、今年こそはと頑張って公演に漕ぎつけたのです。
家庭があり、自分の仕事があり、お母さんの介護があり、その上、公演までこなすなんて、儂もどちらかと言うと頑張る方だけど、とてもかないません。脚本家なのだから、脚本を書いて演出家に渡すだけならまだしも、演出もする訳ですから、エネルギーは倍必要です。
ここ2回朗読劇になったのはそこに理由があります。介護をすませ、へとへとになって、お芝居の演出をつけるのはさすがにスーパーウーマンにとっても限界でした。それでも舞台をやりたい。そこで彼女は考えたのです。朗読劇なら可能だと。声に絞ったのだと儂は思いました。秋の一日、彼女の声に耳を澄ませてください。儂は彼女の芝居を観たことがあるし、前回の朗読劇の台本を読んでいるので、上京できないけれど、暗い客席にいるつもりになって想像します。きっと日常では忘れてしまった言葉、しんみりと心に残る言葉、追いかけたくなる言葉……を、聞くことが出来ると思います。
普段お芝居を観る機会のないあなた。秋天の一日、異次元の世界に浸ってみて下さい。

外はかなりの雨。今度の台風もまた出雲は直撃を免れそうだが、いまからこれだけの雨が降っていると言うことは、やはり前回の台風より相当大きいようだ。被害の小さいことを祈るばかり。いい秋を迎えたいものだ。

第三章 戦国擾乱(4
 
 早速、辰敬は吉童子丸に対面する為、庭を回ってさらに奥まった小庭に通された。
 現れたのはおまんであった。相変らぬ強烈な白粉の匂いが降り注いできた。
「若様はわぬしには会いとうないと仰せられておる」
 見下した驕慢な声も変わらなかったが、そっと上目に見上げた辰敬はそのやつれように思わず目を背けたくなった。
 白粉の乗りが悪いのか、まるで古家の漆喰のように白粉は剥げ落ちていた。深い皺にこびりついた白粉が今にもぽろぽろとこぼれ落ちそうだった。
 京極家を襲った不幸は、満々と膨らんでいた白粉狸をかくも無惨に面変わりさせていたのである。
 それから三日通ったが、吉童子丸とは会えなかった。
 三日目にはいくら待っても無駄なので戻れと言われたが、辰敬はあの美しい人の願いを打ち捨てることは出来なかった。
 雨が降り出したが、小庭に座り続けた。
 梅雨も終わりが近づいた事を教える雨はたちまち辰敬を濡れ鼠にした。
 ぴかっと空が光り、遠く雷鳴が轟いた時、何やら悲鳴が聞こえたような気がした。
 辰敬は耳を澄ました。
 激しく叩きつける雨音を通して、邸の奥から確かに悲鳴と女達の叫ぶ声が聞こえて来る。
「若様」
「吉童子丸様」
「あれえ、お許し下さいまし」
 ただならぬ気配が伝わって来る。
 思わず腰を浮かせると、辰敬は縁に上がった。声のする方へ進むと、奥の一間の前で数人の女房衆がおろおろしていた。
 覗き込むと、おまんが倒れていた。その上に吉童子丸が馬乗りになり、狂ったように扇子で打ち据えていた。吉童子丸の目はつり上がり、容赦なかった。おまんは両手で頭を庇い、必死に許しを請うていた。
「若様、お許し下さいまし」
「黙れ、狸婆」
 薄い唇から吐き出された言葉に、辰敬は思わず噴き出しそうになった。確かにおまんは辰敬が白粉狸と毒づいた憎々しさはなく、ひたすら許しを乞うカチカチ山の古狸に見えたのである。
 言い得て妙である。暫く会わなかった吉童子丸は、幼児の面影は失せ、一回り大きくなり、口も達者になったようであった。
 恨み骨髄のおまんが打たれているのを見るのは小気味良く、留飲が下がったが、吉童子丸の打擲はいつ果てる事もなく続いた。
「失せろ。嫌いじゃ。お前なんか」
 尋常ならざる光景であった。
 初めはざまあみろと思っていた辰敬だったが、いかに若様とは言え、子供とは言っても、度を越しているように思えて来た。抗う事の出来ない家来の、しかも女房衆に対してすべき振舞ではない。
 吉童子丸は七歳になっているはずだ。
 辰敬が御屋形様の前で将棋を指したのが六歳の時で、子供ながら立派に御奉公していたと言う自負があった。
 そう思うと、いくら同情すべき事情があるとは言え、吉童子丸のこの幼すぎる振る舞いに対して嫌悪を覚えた。涙を流しながら耐えているおまんの、白粉が剥げ落ちた、やつれた顔が哀れに思えた。
辰敬は理に合わぬことが嫌いで、正義感の強い子であった。力にものを言わす事も性に合わなかった。
 我慢ならなくなった辰敬は、おろおろしている女房衆達をかき分けると、吉童子丸の前に進み出て両手をついた。
「吉童子丸様、おなごを打つのは武士にあるまじき振る舞いにございます。どうかおやめ下さいまし」
 振り上げた扇子が止まり、吉童子丸がきっと辰敬を睨みつけた。
 おまんも吃驚して辰敬を見上げた。
 扇子を握った手がぶるぶると震えると、吉童子丸は言葉にならない悲鳴のような声を上げて扇子を振り下ろした。
 ばしっと鈍い音がして、辰敬は思わず頬をおさえた。頬が裂けたかと思ったほどの痛みが走り、火傷したように熱くなった。みみず腫れが出来たに違いなかったが、掌で確かめる間もなく、狂ったように扇子が振り下ろされた。
 今度は辰敬が耐える番となった。
 吉童子丸は辰敬の傍らに立つと、さらに激しく辰敬を打ち続けた。
 辰敬は身を庇おうともせず、打擲を受けた。
 扇子はたちまちぼろぼろになり、ばらばらに飛び散ってしまった。すると、吉童子丸は拳を固め、まだ飽き足らぬとばかり辰敬を殴り続けた。
 怒りを駆り立ててしまったのは分かるにしても、正気の沙汰ではなかった。
 おまん同様に辰敬も耐えるしかなかった。吉童子丸が諦めるか、疲れて止めるまで我慢しようと決意していた。その態度は吉童子丸にも伝わるのだろう、ますます吉童子丸は逆上した。
 意味不明の声を喚き続けたが、一段と大きく張り叫んだ時、一瞬、辰敬にはそれが悲鳴に聞こえた。
 はっと見上げた時、吉童子丸は泣きそうな顔をしていた。七歳の男の子の顔であった。
 この時、辰敬は吉童子丸の悲しみの大きさを初めて知った思いがした。五十を過ぎた御屋形様の悲しみは沈黙であったが、吉童子丸は突然の悲劇にどう向き合っていいか分からないのだ。運命の残酷さに怒っているかのようにも思えた。
 辰敬は心の底から思った。気がすむまで打ってくれと。打つことで少しでも悲しみが癒えるなら、これくらいの痛みは喜んで耐えようと。
 が、不意に拳の嵐が止まった。
吉童子丸は小さな拳を左手で押さえると顔を歪めていた。
「若様、いかがなさいました」
 おまんがにじり寄ったが、吉童子丸は振り払って部屋を飛び出した。
 おまんと女房衆達も追いかけて消えた。
 暫く待たされていると、若い女房が引き返して来て、吉童子丸が拳を痛めたらしいと伝えた。骨は折れてはいないが、ひびは入っているかもしれないと言う。
 そう言う訳で、御奉公は暫くまた休みになった。
 
 その六月二十三日の夜のことだった。
木阿弥がいなくなって、狭いながらもがらんとした部屋で、辰敬は眠れぬ夜を過ごしていた。暗い屋根裏を眺めながら、吉童子丸との相性の悪さに呆れていた。余程、星の廻り合わせが悪いらしい。御奉公はもう上手く行かないのではないか。ぼんやりとそんなことを考えていると邸内が騒がしくなった。
 ばたばたと走り回る足音がして、ただならぬ声があちこちから上がった。
 また何か起きたらしい。材宗の悲報がもたらされた夜が甦った。何が起きたのだろう。辰敬は京極家に関わりのない事を願った。これ以上、京極家に災いが襲いかかるのは許して欲しかった。
 その時、バーンと土間の片開きの戸が開き、
「一大事や」
 と黒い影が叫んだ。
「右京兆はんが殺されはったそうや」
 辰敬は弾かれたように跳ね起きた。
「えらいこっちゃ。えらいこっちゃで」
 と駆け去った声は次郎丸だった。
 その声を聞きながら、辰敬は全身から力が抜けて行くのを感じていた。みるみる身体も冷え、夜気もまるで真冬の寒気が戻ったように感じられた。辰敬はぶるんと身震いすると茫然と呟いた。
(そんな馬鹿な……管領細川政元が殺されたなんて……。半将軍と呼ばれ、公方様や天子様さえ恐れる、権勢並ぶもの無き細川一門の当主が……なぜ、一体誰がそんな恐ろしい事を……)
 
都の夜を震撼させた惨劇は細川屋敷の湯殿で起きた。
 政元は丹後に出陣したが、一色義有が和睦を申し出ると、その交渉を武田元信に任せ、和議も整わぬうちに、五月の末には澄元とともに帰洛していたのであった。
 澄之は丹後に残り、義有の重臣石川直経の籠もる加悦(かや)城を包囲していた。他にもまだ丹後で戦っている者がいるのに、都に戻った政元はそんな事は忘れたように、猿楽や連歌会などの遊芸に憂さを晴らしていた。
 一心に打ち込んでいる事と言えば、飯綱の修行の他にはなかった。天狗を祀り、修験道の霊地となっている愛宕山への信仰はいや増すばかりで、近年、毎月の参詣を欠かす事はなかった。
 その愛宕の縁日を翌日に控えた夜遅く、政元は湯殿で潔斎の行水をした。それは愛宕の縁日の前夜に必ず行われる決まり事であった。
 そこを、その夜の湯殿の警固をしていた竹田孫七の刃が襲った。政元は一刀の許に斬り捨てられた。政元、四十二歳。あっけない最期であった。
 黒幕は香西元長と薬師寺長忠で、もちろん澄之とは示し合わせてのことであった。
 翌朝、香西元長率いる軍勢は細川澄元の屋敷を襲った。
 この時、政元の三人目の養子細川高国と淡路守護細川尚春は幕府の警固に当たり、澄之澄元両派のどちらにも与みそうとはしなかった。戦いの帰趨を見守ったのである。
 激戦は数刻に及んだ。
 剛の者香西元長の怒涛の攻撃を、負けじ劣らじの剛の者三好之長は必死に凌いだ。
 陽が傾きかけた頃、決死の覚悟の馬廻りの者に守られ、澄元と三好之長は命からがら屋敷を脱出した。追撃を振り切り一散に近江を目指し、甲賀の山中為俊の許へ逃げ込んだのであった。
 京兆家の家督争いが澄元有利に進むことへの澄之派の焦りが引き起こした事件であったが、そこには三好之長を筆頭とする阿波者の増長に対する反発もあったのである。
 薬師寺長忠は先に政元に謀反を起こした薬師寺元一の弟である。兄が背いた時、兄につかず政元に忠誠をつくしたので、元一が死んだ後も、兄の跡を継ぎ、摂津守護代を任されていた。
 ところが細川澄元が摂津守護となると、三好之長がまるで自分が守護代になったかのように振舞い始めたので、之長への憎悪を膨らませていたのだ。
 細川一門の内衆でもないのに増長する之長と、我が物顔の阿波者に対しては、細川一門は苦々しく思っていた。それを許している政元への懐疑を抱いている者達も多かったから、養父暗殺の道義は別にして、正面切っての非難の声は小さかった。
政元は修験道に没頭し、政への情熱を失っていた。加えて、気まぐれな言動で周囲は翻弄され続けていたから、人心はとっくに政元から離れていたのだ。
しかし、政元は余りにも巨大な存在であったから、突然、その重しが消えた時、誰もが身の処し方に戸惑った。ひとまずは息をひそめて成り行きを見守ったのであった。
 ところで、澄之はこの事件の前にようやく石川直経との和議に漕ぎ着け、丹波へ引き上げていた。その上での暗殺決行であった。
 七月八日、澄之は丹波から入洛した。将軍足利義澄から御内書により家督を認められたからであった。
 澄之は洛中崇禅寺の遊初軒を居に定めた。ここは八代将軍義政の子で、若死にした九代将軍義尚の旧御所だったこともあった。細川政元が十代将軍義材を押し込めにした後、十一代将軍義澄を擁立した所でもあった。
 翌日、澄之は細川一門の棟梁たる京兆家の家督として、義澄に拝謁した。澄之、十九歳であった。
 その報を受けた時、辰敬の眼前に昨日の澄之の姿がまざまざと甦った。
 辰敬は見物の最前列に立っていたのだが、目と鼻の先を通り過ぎる馬上の澄之に圧倒された。そこにあるのはただの十九歳の輝きではなかった。父を殺し、父に取って代わった若者の剥き出しの生命力だった。辰敬とは数年違いの若者が放つ、触れれば切られそうな刃の如き若さを、辰敬は九分の畏怖と一分の憧れが籠もった目で見詰めたのであった。
背伸びしたがる辰敬は、十九と言う数字はすぐにも手が届きそうに感じていたのだが、その十九歳の光は別世界の別な人間が放つものだったのである。
 真夏の灼熱の光に打たれながら、辰敬は昨日の感慨を改めて噛みしめ、眩暈を覚えるのであった。
 七月十一日、澄之は政元の葬礼を執り行った。
 京極家中は政元の死に対して冷ややかだった。
 なぜなら、京極材宗と京極高清の北近江での最後の戦いの時、管領細川政元は高清方に付き、援兵を送ったからであった。
 材宗が敗れ、和睦を余儀なくされたのは、政元のせいと家中は恨みに思っていたのだ。
 この春、材宗が自害に追い込まれ、その思いはなおさら強くなっていたから、天罰が下されたのだと言う者もいた。
 その気持は辰敬も良く分かるのだが、辰敬には打ち消し難い感慨があった。正直に言うと、政元の死が残念でならなかったのだ。
管領細川政元を見た事もない。どんな人間かは噂でしか知らぬ。近年は悪評しか聞かぬ。その通りの人間だったかも知れぬ。
 それでも辰敬は期待していたのだ。政元が魔法使いである事を。
 上洛したばかりの少年が、政元に抱いた憧れを、政元には叶えて欲しかったのだ。
 飯綱の法を自在に操り、全知全能の魔法者として君臨する姿を見たかったのである。
 素朴な考えだが、魔法使いの管領がこの世を統べれば、戦いのない、平和な世が実現するはずだ。
 だが、現実は冷酷だった。
 魔法使いはいなかったのである。
 辰敬は思った。魔法使いがいないのなら、神仏もいないのではないかと。余りにも恐ろしい考えに、辰敬は思わず身震いした。
 しかし、そう思わざるを得ない現実があった。武士は戦いに明け暮れ、民百姓は貧しさと飢えに苦しんでいる。巷には嘆きと怨嗟の声が渦巻いている。
 世はまさに末世であった。
 この先どうなるのか。一体どこまで続くのか。辰敬は怯えた。
怯えていたのは辰敬だけではない。誰もが怯えていた。
上は天皇から下は乞食に至るまで、明日さえも判らぬ世に。最も怯えていたのは武士かもしれない。
 澄之派は細川宗家の家督となったものの、細川一門も幕府も固める事が出来ないでいた。 そもそも今回の主殺しも、焦りと主への不信感が高じて引き起こしたものであり、十分な計画が立てられていたとは言えなかった。周囲への根回しもなかった。傍からは暴走としか見えない行為だった。
 しかも、澄之には常に出自の問題が付きまとっていた。澄之は関白九条家の出身である。公家の血を引く者が、細川一門の棟梁となったことへの不満は強くなる事はあっても減る事はなかった。
 澄之派は公家の血を引く者が管領となれば、武家と公家が力を合わせて安定した政権を築く事が出来ると主張したがなかなか受け入れられなかった。
 では、反澄之派が澄元支持かと言えばそうでもなかった。細川一門の中で、阿波細川家が突出することへの警戒感も決して消えることはなかったのである。
 近江の甲賀へ逃げ込んだ澄元と三好之長は早速反撃の態勢を整えつつあった。南近江の守護六角高頼と手を結び、近江の国人を糾合し、細川一門や近国の有力者、寺社などに反撃の檄を飛ばした。
 澄之派も勢力拡大に励み、応戦の準備に全力を挙げた。
 洛中の武家屋敷は濠を拡げ、櫓を建てた。
 普段は武家御所も守護大名達の屋敷も一切の武装はしないものと決まっていた。それは、武装しないのは、世の中が平和に治まっている証しと思われたからであった。武装するのは世が治まっていない証しで、為政者としては失格とみなされたのだ。
 それゆえ、屋敷の周りに濠を掘り、櫓を建てる事を、都人は城を築くと言った。
 だが、ここに至っては綺麗事を言ってはいられず、皆、こぞって城を築いた。
 連日、埃を巻き上げて早馬が走り抜け、流言飛語は飛び交い、誰もが疑心暗鬼に駆り立てられた。
 誰が敵で誰が味方で、誰を疑い誰を信じていいのか分からなくなっていた。
判っている事はただ一つ。誰もがこのままでは終わらぬ事を知っていた。これから本当の戦いが始まる事を。
 誰もがほうろうで炒られる豆粒だった。焼けたほうろうの上で、むやみに弾け、跳ね回っているのであった。
 暑い夏はますます熱く、都全体が一つの巨大なほうろうだった。

96歳の父が18日に入院した。
この夏の暑さがこたえたのか、食欲が減退気味だったが、先週末、ついに何も食べれず、水も一口も飲めなくなった。
儂には一切弱気なことは言わないのに、丁度助っ人に来ていた娘には「入院したい」とか「年を取ることがこんなにきついこととは思わなかった」と言ったそうだ。
妹は今月は忙しくて休む予定だったのだが、衣装の入れ替えなど儂には出来ないと思い、急遽無理して来てくれたのだ。虫が騒いだと言っていた。
儂の妻も外泊で戻って来ていたし、娘夫婦も来ていたから、こんなに弱った父を抱えて、もし儂一人だったらと思うとぞっとした。
「入院したい」と弱音を吐いたのが、15日の土曜日。16日が日曜、17日は祝日。
16日は一旦元気が戻ったように見えたが、17日はもういけない。訪問医に相談してひとまず点滴してもらうことに。
ところが点滴の針が刺さらない。
看護士さん曰く。「水分がなくて、血管がぺしゃんこになっていてなかなかうまく刺さらなくて……」
血管がぺしゃんこなんて初めて聞いた。
16日娘夫婦は帰京。
18日、訪問医が紹介状を書いてくれて、徳洲会病院に入院できた次第。妹も用事があるのでこの日に戻る。
病院では早速点滴を打つ。
すると、お昼にはハーフ食だが、ぺろりと平らげる。二日連続点滴を打ったからだろうか。ひとまず胸を撫で下ろす。この年で入院したら寝たきりになってしまうと聞いていたので、それを一番恐れていたのだが、手術をしたわけではないので案じるほどではなかったのかもしれない。点滴も19日で終わる。治療計画書ではおよそ1週間で退院予定とはなっているが、主治医とも面談したが、今回の不調の原因がこれと言ってはっきりと特定はできないとのこと。
数値的にも画像的にもそれほど悪いものは見当たらないのだそうだ。
もしかしたら「老衰かもしれないが、老衰なら直す方法はない」ようなことを告げられる。確かにこればかりは誰も避けられない。一番聞きたくない言葉だったなあと思う。96歳で要介護1、療法士さんも驚いていたが、衰えは確実に迫っているのだ。
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リハビリは19日から始まっていて、ベッドの上でマッサージを受け、足を曲げたり延ばしたりする。その後、足に5キロの重りをつけて、ペダル漕ぎする。
廊下で杖を突きながら歩行訓練もする。専用のリハビリルームが6Fにあるので、次はそこで訓練するそうだ。しっかりリハビリしてくれているので安心する。
ところが、21日に儂に異変が。
夜中に何度もトイレに通い、明け方には耐えがたい腹痛に襲われ、激しい下痢に見舞われる。この日、儂はかかりつけ医の病院で、エコーを受けることになっていたのだが、起き上がることが出来ない。儂が病気になると言う、この家では絶対に起きてはいけないことが起きたようで、儂は焦りに焦りまくる。
その後もトイレに通い、最後は布団にくるまって寝ていたら、お昼ごろには何とか起き上がれるようになる。エコーは2時からなので、何とか間に合う。
エコーでは胆のうのポリープは異常なし。10年近く飼っているのだが、大きさは変わらず。あらたにすい臓に嚢胞が見つかったが、心配は無用。ただ、脂肪肝が見つかる。これは、正直ショックである。儂みたいにほとんど酒飲まない人間に出来るなんてどうにも納得が行かない。
その後、かかりつけ医から『腸感冒』と診断され、腸炎の薬などを出してもらう。
出ました!『腸感冒』!以前、このブログで、『秘密のケンミンショー』で「島根の医者は風邪を腸感冒という」と紹介されたことを取り上げ、いつかなぜ『腸感冒』と言うようになったか、そのうち先生に訊いてみると書いた。帰郷して『腸感冒』と言われたのは、これで二度目である。聞くチャンスだったのだが、混んでいたし、父の見舞いにも行かなければならなかったので、また次の機会にすることに。
病院には毎日顔を出しているが、特養もほったらかしにしておくわけには行かない。
22日は妻が特養に戻って4日目なので儂としては絶対に顔を出してやらないといけない日である。声だけで儂と分かってくれるとほっとする。久しぶりに天気が良くて散歩も出来たが、便失禁あり。ちょうどお昼ご飯の準備で忙しい時に、スタッフに頼むのも気が引けたので、自分でやってしまう。十何年やっているから、こんなこと何でもない。
その後、病院へ。出雲市の西から東まで横断。
今日はリハビリ休みの日。少し歩かせようかと思ったが、今日はやりたくないと言うので無理はさせず。おやつやバナナ、幼児用ジュースが欲しいと言うので、明日はおふくろを連れて見舞いする時、届ける予定。それだけ元気が出た証か。
ところで、脂肪肝対策も今夜から始める。
先生は運動をしろと言う。儂には一番縁のない言葉。これまでそんな時間がないと諦めていたのだが、そうも言ってられない。そこで夕食後、歩くことから始めることに。今夜は15分歩いて引き返す。30分の散歩から始める。ただ、これを冬の出雲で続ける気はない。ある程度、体力が出来たところで、体育館やプールの運動に切り替えようと思っている。本当に儂は忙しくできている人間なんだなあとつくづく思う。

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古いワイシャツが儂の作業着。畑をやり始めて何年かして遊び心で背中にマジックで(農)と書いた。3枚あったがその後の作業用ワイシャツは「無字」のまま着ていた。ところが先日、買ったばかりの洗濯できるワイシャツ゚を作業着用と思ってうっかり着てしまったら、土と草の汁で使い物にならなくなってしまった。たった一回しか使っていないのに。冠婚葬祭用にアオキで買って5000円くらいしたのだ。新品の洗濯したワイシャツと作業用を間違えないように、慌てて「無字」の作業着用に(農)と書こうとしたのだが、6枚も(農)ばかりだと(能)がないので、(畑)と(土)と書いた。人は笑っているけど、こんなおふざけでもしないことには百姓仕事なんてやってられない。たいしたことをしているわけではないけれど。
そして、このシャツを着て、秋シーズンに突入。
右の写真は9月8日。敷き藁が余ったので、二つ目の枯れ葉と藁のミルフィーユを作る。面倒くさくて、未だにブルーシートを被せていない。
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9月10日干しネギ           9月10日安納芋バイオ
池の東側に九条ネギの苗を植えたが、この夏の猛暑で殆ど枯れてしまったので、同じ九条ネギの干しネギを買って来て植える。干しネギなるシロモノがあることをすっかり忘れていた。気が付いていたら、暑い最中に、苗を植え、育てる手間が省けたのに……。
そろそろよかろうと、一番早く植えた安納芋バイオを掘ってみる。
右の写真は、何とわずか一株に出来た安納芋バイオである。こんなに沢山できるとは!7年目にして初めて。これならばと、期待に胸を膨らませて残りの4本を掘ったら
大小4個~6個程度なり。なぜ、この株だけこんなに出来たのかさっぱっりわからん。
この暑さのせいか、安納芋バイオの苗も10本中5本も枯れてしまった。こんなことも芋づくりをして初めてのこと。
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9月10日芋つる            9月16日さつま芋御飯
安納芋バイオのツルを早速食う。写真は炭酸(重曹)で茹でてあく抜きをしているところ。皮も柔らかくなるので、いちいち皮むきをしなくても簡単に料理できる。それを知らないから、去年までは芋のツルの皮を剥いていた。大変な作業。儂はやらないけれど。この後、鍋で炒めて、醤油や味醂で味付けする。
この芋ツルを農協のスーパーで一束(軽く握ったぐらい)150円で売っていたそうだ。こんな田舎でわざわざ買って食べる人がいるのだろうか。貰おうと思えばだれからでも貰えるのに。ただ今年のツルは例年に比べて細いと皆異口同音に言う。
さつま芋御飯はバイオ金時で作る。両方とも儂が作った訳ではない。助っ人の妹が作ってくれた。儂は講釈だけ。NHKの「ためしてガッテン」でやっていたが、安納芋や紅はるかは粘質系。金時は粉質系。今年はたまたまこの3種類を作ったので、食べ比べが出来る。
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9月16日お隣の稲刈り         9月16日お隣の田圃で遊ぶまる子
連休を利用して、娘夫婦が犬を連れて戻って来た。それに合わせて、妻も外泊。
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妻の足にじゃれるまる子。妻は初めは「モモ」(昔飼っていた柴犬)と呼んでいたが、一日たったら「まる」と呼んでいた。娘にも会えたし、楽しい外泊だったろうと思う。
右の写真は御主人の帰りを待つまる子。
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左の写真。
9月15日。
大根の種を植える。
おでん大根24本分。
おろし大根26本分。


上の写真。9月17日。
種は一つの穴に4個ずつ植えたが、早くも2個芽が出た。
雑草を抜くのが大変なので、今年から黒マルチを張る。しかも、大根も垂直農法で育てる計画でいる。乞う、ご期待。


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二人分届けられる。赤飯と紅白饅頭。
配達してまわる町内役員から、来年は儂が配って回るのだと教えられる。
島根県は有数の長寿県で、100歳以上の人口比も1位だったのかな。父は100歳は無理でも、東京オリンピックは見ると言っていたが、この夏の急速な衰えぶりを目の当たりにすると、一緒にオリンピックを見ることが出来るのだろうかと思ってしまう。

先日、出雲市塩冶町在の親戚のお葬式があった。そこで、儂が「曽田」の発祥を探っていて、塩冶に「曽田」と言う地名があることを話したら、後日、親戚の一人が「出雲塩冶誌」のコピーを送ってくれる。その小地名の項に、
〇中世、塩冶八幡宮への寄進状に「そたノ後」
〇慶安4年(1651)塩冶村御検地帳に「そた」
〇明治9年・下塩冶村道水路取調帳に「曽田堤」
が、あることが分かる。その人が、「出雲塩冶誌」を作った人を紹介してくれたので、今日(7日)、大雨の中訪問する。
元公民館長のIさんは82歳翁。ワープロが出始めた頃から古文書を解読する作業を進めていて、膨大な資料を作っておられた。ワープロ化されていることがどれだけ後学の者に役立つことか。頭が下がる。独学で古文書の勉強をし、塩冶の土地台帳の古いものが広島大学にあるので、何度も広島大学に通ったと言われる。儂に見せたいものがあると用意されていた資料もあり、不自由な体でコピーも取って下さる。
「曽田」関係のみならず、御維新で官軍が出雲を通過する時の緊張した様子を知らせる資料や、検地の時、百姓が「うそいつわりは申しません」と血判した資料などのコピーを見せてもらう。これは珍しいものらしい。
しかし、Iさんをもってしても、曽田の地名の謂れや苗字との関係は不明。
出雲図書館にIさんたちがまとめた「出雲市民文庫」があるので、読むことをすすめられる。その足で図書館へ。

市民文庫3に、
〇寛正3年(1462室町時代)9月「日御碕神社神田打渡状」に、「貮段神東村(塩冶村の前身)、坪者多田曽田在」との記述を発見。

市民文庫6には我が菩提寺の高円寺(臨済宗)の先代住職の話が載っている。
我が現住所は出雲市荒茅町というが、その前身は古荒木村と荒木村と茅原村が明治に合併して出来た荒茅村である。住職曰く。「塩冶から荒茅に移ってきた曽田姓で代数が大きい家は菩提寺は塩冶の神門(かんど)寺(浄土宗)です」
神門寺を菩提寺にする曽田を三人くらいすぐに名前が出て来る。いずれも古い家だ。

その日、偶然、その話を補強する話を教えてくれる人あり。
荒茅の南に、また別な曽田さん(菩提寺は高円寺)がいるのだが、その人で12代目。儂と同じ歳。その人の家には、「自分たちが荒茅に移った時、塩冶から5人一緒に移った」と言う言い伝えがあるそうだ。それが、全員曽田姓だったかどうか分からない。実は儂も12代目である。となると、5人一緒の開拓グループの中にわが家も入っているようだ。状況証拠しかないけれど、我が家の先祖は、出雲の中心塩冶郷(風土記の時代から続く)から、湿地のド田舎に移ったのだ。

ここまで書いて、なぜ曽田の地名が出来たのか、曽田の姓がどうして出来たのかまだ答えが出ないのだが、お待たせしました。いよいよ表題の【「そた」は美女だった】
のお話を紹介する。

市民文庫3に「塩冶村史」からの一部が紹介されている。
『(前略)彼の孝女だけは一心に苗を植えていた。老母を養うために雇われ。賃を得ようと思って田植えをし、一刻も休んではならんと働いているのである。そこで勅使が出雲に下向になさったわけを知らせて、履(くつ)と絵にひきあわせると、この女は丁度作ったように符合したといふ。この女は「そた」といふものであったので、この地を後に「曽田」といふことになったといふ」

「塩冶旧記」によると、
『(前略)王は(夢さとしにより)使者を出して貴女を求めしに、使者玉津の処まで来たりし時、多くの田植え女の中に全身より光のさせる女一人居たり、仍って使者はこれを見つけて「あそこにいるのがソンダ」と云ひてその姫を連れかへれり。それよりこの地を曽田と称するに至れりと称す』

これによると、「そた」と言う名の美女がいて、それが地名の始まりとなるのだが、
にわかには信じ難い。その通りだったら、これほど嬉しいことはないのだが、いかにも作りものっぽい話である。そもそも曽田と言う地名も、姓も日本のあちこちにあるのだから、日本中の曽田がすべてこの話を発祥とするには無理があろうと言うものだ。

このシンデレラに似た話には元ネタらしき話がある。
「日本伝説集」によると、
「光仁天皇は。ある夜、出雲大社の神のお夢を見られた。大神は一枚の画像と一足の履をさずけて、「この美女の画像と履をしるしに、国々に御幸なされよ。世に二つとない美女をえさせられる」と告げた。帝はお喜びになって、お供を連れて旅だった。
(略)
宝亀2年の5月、御輿は出雲の国に入った。神門の原に立つと、遠くに大社の黒い森が霞んでいた。早乙女たちは田植えの手を休め、我先に御幸を迎えようとして道に上がった。この時、苗田にただ一人残って働く処女があった。侍臣の一人が不審に思って声を掛けた。「それなる女、お前も早く来て尊い画像を拝むがよいぞ。富貴を欲しくは思わぬか」処女は「尊いものを拝みとうございますが、雇われる身は、手を休めるわけにはゆきません」と答えた。処女は上朝山の里の生まれで、父は三歳の時に遠国に去り、母の手一つで育てられたが、その母は病床に倒れ、いまは里人の厚意にすがって働いていたのである。
侍臣は律儀な処女に深く感じいった。近づいてみると、その処女はかの画像の美女に瓜二つであった。招き寄せて履をはかせると、それは所持の履にしっくりとあった。
処女はやがて帝につかえるようになり、吉祥姫と呼ばれた。姫は御子を産んだのち、老母が重病になったので上朝山に帰った。帝もその後を追って姫とともにしばらく神門郷の智井の宮に住まわせられた。帝が崩御されたので、所原の王院山に御陵を築いた。それが院の塚である。姫の塚は上朝山にある。

「そた」美女の話は、上記の話を元ネタに作られたと考えるのが自然だろう。
それにしても、なぜ、「そた」と言う名前が出て来たのか?女の名前で「そた」なんて存在するのだろうか。後の話で「ソンダ=尊田」とあるから、こっちのほうが地名の発祥に近いのかもしれない。現時点では、たまたま曽田という地名に住んでいて、曽田と言う人が地名や名前に値打ちをつけるために作った話かもしれないと思っている。
依然として雲をつかむような話である。しかしながら、真偽のほどはさておき、これだけ色々な話が出て来るとは予想外だった。
さらに調べ続けたら、どんな話が出て来るか、楽しみではある。乞うご期待。

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