曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2018年06月

6月24日に、4年前に亡くなった幼馴染からの思いがけない贈り物を貰った。
イメージ 1それが、この箱に入っていた。
隣の畑の片隅に木立に囲まれた農機具小屋があり、その横の空き地にこの箱があった。この箱の手前にも木が茂っていて、帰郷して何年にもなるのに、こんな箱があることも知らなかった。目には入っていたかもしれないが、興味を引くものではなかったようだ。もちろん、幼馴染が作ったもので、何とこの中には藁の束がぎっしりと詰まっていた。
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実は奥さんも開けるのは幼馴染が死んでから初めて。もし、使えそうだったら使って欲しいと言われる。忙しくてこの箱の整理も出来なかったのだが、そろそろ去年の余った藁をこの箱に片づけようと思い、古い藁を処分しなければならなくなったのだ。焼却するぐらいなら、儂に使って欲しいと言ってくれた次第。しっかりした箱で雨水も入っていない。多少、ネズミなどが食っているが、何年も経ったものとは思えないくらいしっかりした藁であった。しかもきちんと束ねて縛ってある。いかにも丁寧な幼馴染の仕事ぶりだ。「使わせてもらうよ。ありがとうね」しみじみと1才下の幼馴染を思い出す。思いがけない贈り物に感謝しながら使わせてもらう。
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それが、坊ちゃんカボチャの畑の敷き藁となる。贅沢にたっぷりと使わせてもらった。右がすくすく育っている坊ちゃんカボチャ。6月28日段階。もう、この大きさのカボチャがごろごろ出来ている。

【じゃが芋のためし掘り・6月25日】
かなり前から枯れた「はるか」が2本あったのでためし掘りした。ジャガイモは少しでも緑が残っていると、葉っぱで作った養分を、芋に送り込んでいるので、完全に枯れてから掘り上げるのがいいのだそうだ。去年までは、そんなことは知らないから、まだ枯れ切ってないのを片っ端から引っこ抜いていた。
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「はるか」の手前の2本を掘り起こす。
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これが新農法じゃが芋の現段階の結果。
卵よりは大きいのが3、4個で、後の半数が卵より小さいものばかり。
正直、出来は悪い。去年までのように肥料をやり、土寄せをしていたら、軽くこの2倍は出来て、もっと大きいものも出来ていたはずだ。とはいえ、これは完全に無肥料で育てている。ある意味、無肥料で何の世話もせずに、ここまで育ったのなら、悪くはないのではないかと思い直す。
と言うのも、なぜか今年の「はるか」は茎の伸びも悪く、葉っぱの茂り方も悪く、とても成長が悪かった。だが、隣に作った、「グラウンドペチカ」と「アンデスレッド」は、とても勢いが良くて、「はるか」の倍は育っている。もう倒れているが、葉はまだまだ緑をたくさん残している。これだけ、上物が育っていれば、当然芋も大きくなっていていいはずである。という訳で、じゃが芋の新農法の結論は「グラウンドペチカ」と「アンデスレッド」の結果待ちである。

【植木屋さん推奨・垂直農法・6月25日】
植木屋さんが松の剪定に来る。儂が畑先生に、トマト以外にも、ナスまで垂直農法を取り入れたと能書きを垂れていたら、植木屋さん驚く。「出雲に垂直農法をやっている人がいたなんて。後で畑を見せて下さい」と言われる。儂もびっくり。
「植木屋さんも畑をやっているのですか」
「私は畑はやってません。でも、道法さん(垂直農法の農家)の垂直農法は植木をやる者にとってもとても示唆に富み、勉強になるので研究しています」と、言うではないか。
「垂直農法はいいと思いますよ」と、励ましてくれる。
植木屋の実体験から言っても、真っ直ぐに育つものこそ一番健康で正しいのだそうだ。来月、植木屋さんは道法さんの講演が広島の豊島(瀬戸内の島・道法さんは豊島の人)であるので、わざわざ聞きに行くと言う。いやあ、すごい人がいるものだ。儂だって行きたいけど、とても無理。以前、山陰に講演に来られたことがあると聞き、もし来られるようなことがあったら教えてくれと、植木屋さんに頼んでおく。

【垂直農法倒れる・6月28日】
昨夜は大雨。雷も鳴り、風も吹いた。今朝はその雨の中、父をCT検査に連れて行く。
午前中で終わり、雨も上がる。午後から外出、夕方、戻ったら、何と垂直農法のトマトが倒れているではないか。
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4本の内、左端の1本を残し、3本が倒れている。見ると根元から支柱が折れ曲がっている。ああ、泣きたくなる。雨が降り出す中、隣の奥さんに手を貸してもらい、3本を起こして応急措置で何とか支える。右隣の支柱1本立ての普通の栽培トマトと比べたら、いかに垂直農法のトマトが太く重いか知れようと言うものだ。何たって脇芽を8本も縛り付けているのだから。この先、台風も来るだろうし、こいつの補強は大変なことになりそうだ。
イメージ 10トマトもぼちぼちでき始めている。
左から、「土カチンカチン農法」、真ん中の3個が「脇芽縛りの垂直農法」、右が「いわゆる普通農法」。
食べ比べて味を確かめる。
正直、垂直農法は一割方甘みが少ないような気がする。他は似たり寄ったりだが、プロの農家が作るものではないから、非常に低レベルの争いである。食べ放題、無農薬、新鮮だけが取り柄。自家用とはそんなものか。糖度まで自慢できるようになるのはいつのことやら。

7日の夜に大和路ツアーから戻ってきて以来、ずっと体調が良くなかった。
頭がぼーっとして、寝不足感満載。身体も重く感じられる。何となくだるい。別に熱がある訳でも、吐き気がする訳でもなく、食欲は普通にある。
この頭がぼーっとして、何となくふらっとするような気がするのは慢性的なもので、数年前に眩暈で入院して以後、続いている。医者からは眩暈の後遺症はすっきりと解消することはなく、長期間続くと聞かされていたし、このぼーっとした感じも退院直後からくらべればよくなっているので、そんなに気にはしていない。
この春の健康診断で脳の検査もしてもらったが異常はなかった。
だから、何となく体調が良くないなと思っていても、雨の中1万3千歩も歩いたし、そもそもツアー初日の5日からして睡眠不足だったから、1日2日休めば良くなると軽く考えていた。
だが、実際には身体を労わることはせず、8日は朝から畑に出て、お昼には特養に顔出しした。ツアー出発前の4日に顔出ししているので、無理して8日に行くこともなかったのだが、行ってやらないと申し訳なさが先に立つ。そして、喫茶店に籠って、これまたしばらく休んでいた小説の直しに取り組む。
9日は「古文書の会」。午前中は小説直しして、その足で出雲図書館へ。夕食の買い物をして、帰宅したら畑。
10日日曜は、午前中母を伴い、親戚の見舞いに病院へ。帰宅して、少し畑をやり、また特養へ顔出しする。一昨日に顔出ししているのだから、せいて行くことはないのだが、自分の決め事で、日曜日には必ず行くことにしている。破ると気持ちが悪いので辛いなあと思いながらも行った。正直に言えば休みたかったのであるが、さぼって後味の悪い気持ちを引きずるよりは、身体はしんどくてもやるべきことをやっていい気分になった方がいい。その後、喫茶店に籠るが小説の直しは調子が出ない。さあ、やるぞという気分にならないのだ。困ったもんだと思いながらも、14日からは妻が外泊で戻る。戻って来たら、またしばらく小説どころではなくなる。だからこそ、後、3、4日ほどの間に、やるだけのことをやっておかねばと尻を叩く。
そして、13日によせばいいのに、また特養に顔出しする。翌日から外泊で、迎えに行くのだからしゃにむに行かなくても良かったのだが、水曜日は両親の訪問医が2時頃に来る。必ず立ち会うので、この日は中途半端なスケジュールになる。そこで、訪問医が来る日は特養の顔出しとセットにしているのだ。だからと言って、ここまで律儀に原則を守ることもないのだが、これが性分と言うやつなのだろう。
で、14日から外泊。19日まで。
助かるのは、助っ人の妹が15日から来てくれること。15日からは、夕食の食事準備だけはしなくてよい。大いに助かるのだが、毎朝7時に起きるのが何だかやけに辛い。頭がぼーっとする度合いがひどくなり、身体も全身がどんよりと重い。
いつもだと最後にパット交換するのは夜の12時だが、そんな時間まで起きていると、朝7時に起きるのが辛いので、11時にはパット交換をすませてしまう。
しかし、8時間睡眠でも辛い。もともと眠りが浅いタイプで、いい歳をして、睡眠時間は子供並みに欲しいのだ。
17日には、朝の世話をして、寝させている間に、「風土記談義」に行く。こればかりは休むわけには行かない。
3日目、4日目には、余りにもしんどくて、午後、妻が寝ている間に、自分も横になる。こんなことはこれまで一度もなかったことだ。とうとうこんなに「おいぼれてしまったのか」と思わず嘆く。
妻が寝ている間、畑もしないといけないのだが、暑くもあり、とてもではないが集中的にまとまったことができない。何をやっても中途半端。
こうして、どうにか19日に漕ぎつけ、特養からお迎えに来てもらう。
送り出したら、これまでなら、正直に言うと「やれ、嬉しや。これで、自由じゃ。わしの時間じゃ」と、喜び勇んで、パソコン抱えて、市内に飛び出したのに、この日は自室に直行、そのまま布団にバタンキュー。夕方までうたた寝する。
少しよくなった気がして、翌20日から、新たな気持ちで、小説の直しを続けようと外へ出るも、なんだか調子が出ない、早く帰宅して、妻がいなくなったベッドでぐだぐだとW杯の録画を見て過ごす。一体、この不調はいつまで続くのだろう。いつになったらすっきりするのだろうと不安を覚える。ツアーから戻ってからだから長い。本当に何か悪い病気にでもかかってしまったのかと薄気味悪くなる。すると、夕方からしきりに鼻水が出る。6時に病院へ電話したら6時半までやっていると言うのでとにもかくにも行ってみる。
体温計ったら、37.3分あった。痰にも多少色がついているので、抗生物質などを出してもらう。夕食後の薬を一回飲んだら、翌朝には体調はすっきりした感じがする。
この日は父を術後管理している医大の先生に見せる日なので、病院へ連れて行く。
帰宅したら、さすがにぶり返す。でも、翌日午前中安静にしたら、午後からは外出できた。小説の直しも少し進む。
そして、今日23日は朝から出て、しっかり小説の直しが出来て、夕方にはこの間、またまたたまってしまった畑仕事にも手をつけることが出来た。
頭のぼんやり感は軽くなり、身体の嫌な重みも消える。
薬も効いているようだ。
思うにこの間の不調はどうやら疲労の蓄積によるものだったのではなかろうか。
しっかり疲労を取らないままに、あれもこれもと悪い癖が出てやり過ぎたようだ。
いつもなら、風邪で3日も休めば、無駄にした日を悔やむのだが、今回ばかりは、もしや悪い病気ではと危惧していただけに、風邪ですんで、ほっと一安心したと言う顛末でありました。風邪にありがとうと言いたいぐらいである。
若くはないのだから、考えないといけません。
と、言いつつも、明日24日は日曜日、特養に行く日と決まっている。でも、この調子なら大丈夫でしょう。

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左)6月4日、玉ねぎが倒れたので、全部、抜く。大和路ツアーへ行っている間、乾燥して、戻って来てから干す。
右)わけぎ。これも大和路ツアー前日に全部引っこ抜く。乾燥させて秋まで保存。
秋に植え付けする予定。酢味噌和えにして食べたら美味かったので、沢山植え付けする予定である。
イメージ 36月9日。
ツアーから戻って来た翌朝、池をみたらギンヤンマの抜け殻が団子状態。オタマジャクシが異常発生しているので、ヤゴたちは、オタマジャクシを餌にすくすく育ったのだろうか。
ただ、この調子だと、池が殿様ガエルだらけになりそうで、どうなることやらと心配している。藻エビの姿が見えなくなった。カエルに食われたのだろうか。生態系が変わってしまって風情がなくなりそう。
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イメージ 6出雲へ戻って来てから、乾燥した玉ねぎを束ねた。
出来は期待外れ。とても大きい玉ねぎが出来ると言ううたい文句に惹かれて、植えた『アトン』なる銘柄であるが、毎年植えている玉ねぎより小さいくらいである。今年は肥料をやる時期は守ったし、肥料も例年通り化成肥料をやったのだが、どこがいけなかったのかさっぱり分からない。地味が痩せているのかもしれない。お隣さんみたいに、農協からトラック一杯分の堆肥を買って鋤き込まないといけないのかも。
今年から、玉ねぎの吊るし場所を台所の横の窓の外にした。
見栄えのいい玉ねぎばかりで、これで収量の6割ぐらいか。
👈6月16日。
どさっとすごい音がしたと思ったら、玉ねぎが落下。玉ねぎを吊るすのは毎年庇の下に固定した竿だったのだが、そこが北向きで湿気が強かったので、今年から東向きの陽当たりもよく、風も通る場所にした。ただ、玉ねぎを吊るす支柱を固定せず、フックをつないだものに引っ掛けていただけなので、風に煽られて落ちてしまったようだ。うんざり。
14日から妻が外泊で戻って来ている。一日中家に居て、空いた時間に農事に集中できるのだが、さすがにやり直しする気が失せて、ケースに入れて放り投げている。
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ナスは普通は側枝は2本の支柱を斜めに差して固定する。ところが、例のトマトの脇芽を垂直に縛り付けて栽培する人が、ナスの側枝も垂直に縛り付けて栽培する方法を紹介しているではないか。
いちいち側枝に斜めの支柱を当てるのも面倒だなあと思っていたので、早速、飛びつく。ナスの側枝はトマトの脇芽のように次から次へとは伸びないので楽そうに見える。これで肥料をやらなくても、ナスが沢山出来ると言う。
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左)トマト。かなり大きくなった。左から5~8本目までが、トマトの脇芽を垂直に縛り付ける栽培法。沢山の脇芽がジャングル状態で果たして能書き通りの効果があるのかどうか、実に怪しい。一応、ミニトマトが出来てはいるが、他の栽培法と比べたらとても小さい。こんな状態だと、ナスの垂直栽培もあやしいものだ。
右)坊ちゃんカボチャ。ツルが伸びて来たので、藁を敷いている。
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イチゴはランナーがすごい勢いで伸びている。このランナーに出来た苗を秋になったら植え付ける。次回からは苗代がただになる。ランナーに出来る苗をどうやって育てていいのか分からない。時間があるからぼちぼち研究しよう。
あとはじゃが芋の収穫だが、これがまた怪しい。一番沢山植えた『はるか』が全然成長していない。じゃが芋新農法もダメっぽい。参ったなア。

2日目は、ザ・橿原(ホテル)⇒橿原神宮⇒飛鳥坐(あすかいます)神社【桃〇E】⇒
多武峰観光ホテル(昼食)⇒談山神社【桃〇F】⇒大神(おおみわ)神社【桃〇A】⇒
薬師寺⇒夜は飲み会
しかし、この日は終日雨。濡れながら、歩く歩く。
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古い神社ばかり探訪する中で、一番新しい神社(130年前創建)を見学。新しいから宝物館も小さく、見るべきものなし。ここが新しい神話になることがあるのだろうか?それはまたいつのことか?

神賀詞で、賀夜奈流美命(カヤナルミノミコト)の御魂を坐した飛鳥の神奈備を訪ねる。飛鳥坐神社【桃〇E】には事代主(コトシロヌシ)神、高皇産霊(タカムスビ)命、飛鳥三日比売(アスカミカヒメ)命、大物主命を祀るとされている。アスカミカヒメがカヤナルミノミコトであると言われている。平安初期に移築されているので、神奈備山がどの山か諸説あり、どこに建てられていたのかも不明。
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雨の中、明日香の町を行く。

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明日香の町は遺跡や寺社等が普通にある。



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神主さんから話を聞くことが出来たが、「オオクニヌシは国譲りをしたので、出雲にやられたのです」と、まるで用がなくなったので、追い出されたのだと言わんばかり。同行の仲間はなんちゅう言い草だと呆れていたが、私はこれが大和の人のごく普通の感覚なのだと思った。大和の人はオオクニヌシは大和の神と思っているのだ。
こういう言葉が何の疑いもなくあっさりと出て来るのを聞けただけで、今回の研究旅行の意義はあったと思う。
ところで、ここの神主さんの姓は飛鳥、なんと87代と言う。出雲国造の千家さんが
84代だから、俄かには信じがたいが……。昔は立派な社であったらしい。古代の法令では、「飛鳥坐神社が四つの子社の修理をしているように、大きな社は子社の修理をしなさい」と名を挙げられているくらいであったが、そのうちさびれてしまい、20年前まではぼろぼろだったらしいが、吉野町からダムで水没する神社をそっくり買って移築したものだそうだ。今は天狗とお多福が悩ましい踊りをするお祭りで評判になりそこそこ潤っているような気配はあったが、実際はどうなんだろうか。神賀詞とはかけ離れた神社になっていた。

この次に、多武峰(とうのみね)で昼食を摂り、談山神社へ。【桃〇F】
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多武峰観光ホテルの食堂から、道路を挟んで談山神社を望む。雨が降り、ガスが出る。雨に濡れた緑は鮮やか。神賀詞とも出雲系の神とも関係がない神社。なぜ行くことになったかと言うと、勉強仲間に藤原さんと言う人がいて、自分の先祖は藤原不比等と主張。なれば、藤原氏の祖の中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子が、蘇我入鹿を倒すための密談をしたと言う談山神社を見たいと冗談みたいなことを言ったのが実現したものである。昼食後、皆、雨に濡れながら笑って見学。
この裏山が談山(かたらいやま)と呼ばれている。この山の中で二人は密談したと言われている。

この後、バスは桜井市へ。三輪山【桃△A】と大神(オオミワ)神社【桃〇A】へ向かう。今回のツアーで、私が一番行きたかったところ。神賀詞では、冒頭にオオナモチ(オオクニヌシ)は自分の和魂(にぎみたま)をオオモノヌシクシミカタマとして大三輪の神奈備に坐し、三人の子と合わせ、天皇の御世の守り神とし、自分(オオクニヌシ)は杵築の宮に静まると誓っている。三輪山に坐すのはオオクニヌシのいわば分身であって、中心となる場所なのである。私が一番注目するのは三人の子の坐す神奈備が今や不明なのに、オオクニヌシの分身の坐す神奈備が三輪山とはっきり分かっていることである。即ち大神神社の御神体は三輪山なのである。これは古代日本人が山や岩などに神が宿ると信じた原初の信仰を今に残していることになる。それゆえ、大神神社には本殿はなく、あるのは拝殿と鳥居だけであり、日本最古の神社とされている。それをこの目で確かめたかったのである。
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左、車の中から写した三輪山。太い柱は大神神社へ行く道にある大鳥居の柱。
右、大神神社の拝殿。普通はこの裏に神様の御神体がある神殿や本殿があるが、この拝殿の裏はすぐ三輪山である。三輪山は禁足地であるから入ることは出来ない。ゆえに拝殿と裏山の間には結界がある。
イメージ 12その結界になっているのが『三つ鳥居』と呼ばれる鳥居である。拝殿のすぐ裏にあるが写真撮影禁止。
左の写真がその模型である。
なぜ、こういう形をしているかは分からないそうだ。文献なし。三つ鳥居の礎石は鎌倉時代か、平安時代にまでさかのぼれるそうだ。
三輪山の頂や、中腹、麓には大きな岩がいくつかあり、いわゆる磐座(いわくら)となっているそうだ。山や磐座を信仰したことが窺える。古墳時代からの祭祀の遺跡がある。
藤岡先生に確認したが、出雲国風土記でも399社の社の名前が上がっているが、杵築の宮(出雲大社)は別格として、社の形をとっていたのは5つか、6つぐらいで、残りのほとんどは、山や岩、木などを直接神として拝む形式だったらしい。
当初の目的である原初の信仰の名残を確認できた。
三輪山の南面には出雲の地名が残っている。北西には纏向(まきむく)遺跡があるが、ここには古くは出雲庄があったそうだ。
奈良には出雲以外にも、石見、飛騨、土佐などの地名が残っている。これは平城京の建設に動員された地方の民がそのまま都に残って住み着いたからだそうだ。

雨ますます激しくなる中、夕方、薬師寺へ。
藤岡先生のつてがあって、東塔の解体修理現場に入ることが出来る。最上階まで上がって、修理中の東塔を見下ろす。撮影は許可されているが、ネットに掲載することは不可。その後、玄奘三蔵院伽藍も見学する。5時に閉めるのに、20分もオーバーして見せてもらえる。平山郁夫の遺作を鑑賞することが出来た。閉館後の我々だけの静かな鑑賞は得難い空間で、一生の思い出になった。
この日、ずぶ濡れになりながら、歩いた歩いた。とどめが東塔の修理現場のスロープ登り。1万3千歩ぐらい歩いたそうだ。

3日目最終日は東大寺大仏殿と奈良国立博物館。イメージ 13
広いからここも歩いた。博物館も歩かないと見ることが出来ない。東大寺は杉並区立向陽中学時代以来の訪問。小学生と中学生の修学旅行と中国人ばかり。大変な混雑。
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奈良国立博物館は平安の正倉院と言われる春日大社の宝物の展示であったが、私にとっては掛け軸や絵巻物などで、神仏習合の具体的な様子が分かったのが最大の成果であった。いくら本を読んでも、神仏習合は分かりにくい。それが、仏教の側から描かれていたり、神様の側から描かれていると、一目瞭然だったのである。
日本の歴史において、実は神仏習合はとても重要なことだったのではないかと、最近になって見直している。これも出雲国風土記の勉強を始めてからである。今回は出雲国風土記を学ぶものにとっては王道を行く学習旅行であったと思う。
昼飯食って、出雲に戻る。
夜の8時過ぎ、真っ暗な荒神谷博物館に到着。
「あっ、蛍だ」女の人の声で星のない夜空を見上げると、一匹の蛍が舞っていた。

6時前に起きて、荒神谷博物館へ。7時出発。松江駅に寄ってから、一路奈良県の御所市を目指すが、その間、30分ずつ2回、引率の藤岡大拙先生の講義がバスの中である。先生、86歳。敬服する。
イメージ 2今回のツアーは大和路に残る出雲の神々を訪ねるのが目的であるが、真っ先に問題になるのは当然の如く、なぜ大和に出雲の神々が祀られているのかと言うことである。
一番妥当な考えは、国譲りをした見返りに出雲の神々が勧請され、天皇を守る大切な役目を与えられたと言うものである。これまでは、この考えが一般的で、広く受け入れられて来たのだが、それに対し、出雲系と言われる神々はもともと大和で生まれたという説がとなえられるようになる。
たとえば、オホナモチ(オオクニヌシ)の子と言われている事代主(コトシロヌシ)は鴨氏の神であった。コトシロヌシは鴨氏にとって代わった葛城氏に受け継がれ、その葛城氏は蘇我氏にとって代わられる。蘇我氏が滅んだ時に、蘇我氏が信じていたスサノオやオオクニヌシは追放されたと言うものである。これを過激に主張したのが梅原猛であるが、近年、大山誠一と言う考古学者が、蘇我氏の持っていた神話が出雲神話の元になっていることを精密に主張している。詳しくは説明しきれないので、「神話と天皇」(平凡社)を参考書としてあげておく。
私もコトシロヌシが鴨氏の神であったことを知った時から、なにかしっくりこないものを感じていたので、今では大山説に傾いている。
そういう問題意識を抱きながら、まずは神賀詞(かんよごと)に登場する神を中心に出雲の神をまつっている神社を訪ねた。
イメージ 1桃△A 三輪山
桃〇A 大神神社
桃〇B 鴨都波神社
桃〇C 葛城一言主神社
桃〇D 高鴨神社
桃〇E 飛鳥坐神社
桃〇F 談山神社
桃〇G 大名持神社
桃×H 河俣神社
茶   伊勢街道


緑△イ 耳成山  緑△ロ 畝傍山  緑△ハ 天香具山(大和三山)

神賀詞では、オホナモチ(オオクニヌシ)が自分の和魂(ニギミタマ)を大御和の
神奈備(かんなび)【桃△A 三輪山】に、子のアジスキタカヒコネノミコトを葛城の鴨の神奈備【桃〇D 高鴨神社】に、コトシロヌシノミコトを宇奈堤(ウナテ)に、【桃×H 河俣神社】、カヤナルミノミコトを飛鳥の神奈備【桃〇E 飛鳥坐神社】に、皇孫の守り神として置き、自分(オオクニヌシ)は杵築宮(出雲大社)に静まるとある。
今日はそのうち神賀詞に関係あるのは【桃〇D 高鴨神社】のみ。【桃×H 河俣神社】には行かず。なぜ行かないのか、藤岡先生に尋ねたら、先生が後から見た時はコースが決まっていてしまったそうだ。行きたかったのになあ。

お昼に御所市に到着、「柿の葉寿司」を食べてから、葛城一言主(カツラギヒトコトヌシ)神社へ。
今日はC⇒D⇒B⇒G⇒橿原市と移動する。
鴨氏の神社でコトシロヌシとワカタケル(雄略天皇)を祀る。出雲の神様と思われているコトシロヌシが大和の神社に祀られている例の一つとして、見学する。
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神社の中にはいくつか蜘蛛塚がある。神武天皇が東征した時、抵抗した勢力を土蜘蛛と呼んだ。蜘蛛塚の蜘蛛とは滅ぼされた土蜘蛛を意味する。


次に行ったのが高鴨神社。神賀詞に関わる場所である。
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神賀詞ではアジスキタカヒコネ(オホナモチ=オオクニヌシの子)の御魂を葛城の鴨の神奈備に坐したとあるが、神奈備はおそらく山と思われるが、どの山か分かっていないようだ。後に高鴨神社の祭神はアジスキタカヒコネに加えて、三坐が加わる。
下照姫(オオクニヌシの娘)、天雅彦(アメノワカヒコ・下照姫の夫)、田心姫(タジリヒメ・オオクニヌシの妻)を祀り、四坐となる。天雅彦は高天原の神だが、葦原中津国を征服するために様子見に派遣されたが、オオクニヌシに篭絡され、下照姫と結婚して高天原に復命しなかったという神である。出雲系の神に入れてもいい。ここでも登場するのは出雲系と言われる神である。
右端の殿舎の赤い色のR型にカーブした棟を見た同行の人が、一枚板でこのようなカーブを作り出しているのは大したものだと褒めていた。

この後、小一時間かけて、吉野町の大名持神社【桃〇G】へ行く。
伊勢街道を吉野川(和歌山県に入ったら紀の川)沿いに東へ走る。
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大名持とはオオクニヌシのことであるが、この名の神社は出雲にはない。
上の地図では分からないが、奈良県全図で見ると、この神社の位置は奈良県のどまんなかにある。東へ行けば伊勢へ100㎞、伊勢への最短距離にある。地理的に重要な位置にあることが分かる。
三大実録(859年)によると、正一位を賜っている。大和国で神階が大名持神社を越えているのは春日大社一社だけであった。これを見ても如何に重要な神社であるか分かる。
そんな特別な神社にオオクニヌシが祀られる意味を、次に行く飛鳥坐神社や三輪山&大神神社を見ながら考察する。
神奈備は神社の裏の山で「妹山」と言う。忌山が転訛したと言われている。忌山とは木を切ったり、入ったりしてはならない神聖な山のことである。この山は亜熱帯的な独特な樹相で知られたとても豊かな森を残している。
この「妹山」と吉野川を挟んであるのが「脊山」。
浄瑠璃の「妹脊山女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の舞台になった所でもある。日本版ロメオとジュリエットの悲劇で、江戸時代人気を博した。
この日、回った神社の中では一番古錆びた、小さな寂しい神社で、古代にそんな重要で大きな神社だった面影はどこにもない。本殿も藁ぶきである。聞けば今や2地区の氏神に過ぎず、氏子も20人ほどしかいないそうだ。

中世においては、参詣する人は数キロ先から榊を口にくわえて歩いて参詣したそうだ。榊をくわえるのは話をせず、静かに参詣するため。
そして、吉野川で身を清める。
6月30日には、潮が湧くので、その水で水を清める。この潮は熊野灘の海水と言われている。熊野灘までは約120㎞。
この潮が湧く話は、東大寺のお水取りにも共通点がある。東大寺のお水取りの水は遠く離れた若狭(福井)の水が湧いたものを使う。

夕方、ぽつぽつと雨が降る中、一路橿原市のホテルに向かう。

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