曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2018年05月

第三章 戦国擾乱(じょうらん)(1
 
「御開門、御開門」
深更、時ならぬ声が京極邸の散り始めた夜桜を震わせた。
江北からの早馬であった。
使者は政経の寝所に駆け付けると、
「治部様、御生害」
と、治部少輔(じぶしょうゆう)材宗(きむね)の自害を告げたのであった。
永正四年四月三日の夜、日が変わる頃であった。
起き上った御屋形様は褥(しとね)の上で影法師になられたそうな。寝所の闇よりも濃い影となり、闇に張り付いたまま朝が来るまで、まるで自分も死んだように動かれなかったそうな。
そう辰敬が聞いたのは後日の事だった。
辰敬が騒ぎに目を覚ました時に見たのは、足をもつれさせながら飛び出して行く木阿弥の後ろ姿だった。
辰敬も慌てて外へ飛び出した。
奉公人達も起き出していて、邸内は上を下への大騒ぎとなっていた。邸外に住まう家人達も知らせを聞き、おっとり刀で駆け付けて来た。あちらこちらに篝火が焚かれ、揺れる炎の中に右往左往する人影が地獄の亡者のように見えた。
不意打ちだったと言う。
夜明け前、気がついた時には、材宗の館は京極高清の軍勢に十重二十重に囲まれていたのである。
館には百人足らずの兵しかおらず、近在の兵を集める暇もなかった。
和睦して二年の平和が続くうちに、気が緩んでいたと言うしかなかった。いや、戦いに倦んでいたと言うのが本当のところかもしれない。
館の周囲の濠や土塁の手入れもお座なりになっていた。濠は古材や木の枝、枯れ蘆の束などを放り込まれて、あっという間に埋められてしまった。
材宗は御寮人と吉童子丸を落とすと、館に火をかけ、自害して果てたのであった。
常御殿も騒然としていた。集まった家人達の歯ぎしりが聞こえた。
「和睦を破るとは……高清め、許せぬ」
「上坂家信は何をしておったのや。なぜ高清を止めなんだのや」
 上坂家信は高清の執権である。
 江北の守護代多賀清直、宗直父子が高清に叛いて滅んだ後、江北の有力国人衆として高清を支えていた。
 今浜(現在の長浜市)を本拠としている。
 二年前、箕浦日光寺で材宗と高清が和睦したのも、上坂家信の仲介があったからである。
 昔の事だが、十七年前の延徳二年には、上坂家信は政経、材宗父子に合力し、高清を江北から追い出していた。
 その後は短期間とは言え、政経・材宗政権を支えていた時期もあったのである。
 その後、高清側についたのも私利私欲からではなく、江北の動揺に付け込み、侵攻を図る六角高頼から江北を守るためであった。守護代多賀清直、宗直父子のように、主家の寝首を掻くような真似は決してしない、何よりも江北の安定を願う国人武将であった。
 だからこそ政経と材宗も家信の仲介を受け入れたのである。
「上坂を信じたのが間違いやったのや」
「彼奴も同じ穴の狢や」
「和睦は見せかけやったのや。卑怯者め」
「治部様の御無念、晴らさずにはおくものか」
 今にも一戦を交えんとばかりに刀を握り締める者もいれば、
「御屋形様の御心中、いかばかりか……」
 辺りを憚らず声を放って泣く者もいた。
 奥からも慟哭が黒い津波となって押し寄せて来た。女達の泣き声であった。
 悲嘆と怒りの声が渦巻く真夜中の邸内で、辰敬は誰からも声をかけられることもなく、ただ騒ぎを眺めているだけであった。
 そこへ寝所の方から木阿弥が引き上げて来た。
 木阿弥は辰敬に気づくと首を振った。
「御屋形様は誰にもお会いにならぬ」
 様子を見に行ったものの追い返されたようだ。
 一際大きな泣き声が響き渡った。
木阿弥は顔をしかめると、悲痛な声から逃れるように暗い御庭に向かった。
辰敬もついて行くと、木阿弥は一本の老桜の下の庭石にため息を吐きながらどかっと腰を落とした。
はらはらと花びらが落ちて来た。
見上げると、雲は悲しみの屋敷を押し潰すかのように低く垂れ込めていた。
ここまで来ると屋敷の明りも木の間にちろちろ揺れるだけで、騒ぎは別世界のことのような錯覚に陥った。いや、そうであって欲しかった。辰敬は切実にそう思った。
「和睦したのに、なして……」
 抑えていた感情が吹き出した。
 ふんと鼻で笑ったような声が返って来た。
 驚いて暗闇を凝視すると、木阿弥の冷徹な顔があった。
「和睦なんてものはやなあ、一時のものや」
 これまで見た事もない、鋭い鑿で彫り込んだような顔であった。
「武士は常在戦場や。戦をしておるのが普通で、戦がない時の方が特別なのや。和睦とは正面切って鉾を交えぬだけで、裏では戦いは続いておるのや。お互いに相手の陣営を切り崩したり、取り込んだり、見えない戦いを繰り広げておるのや。むしろこっちの方が大切な戦いやったりするのや」
 どこの守護大名や守護代も国人領主と呼ばれる在地の有力武士に支えられている。
 より多くの国人領主を味方につけた者が領国を拡大することが出来るのである。
「和睦したと言う事は、言い換えれば互いに裏の戦いに切り替えたと言う事や。治部様もこの間、御味方を増やそうと工作されておったはずや。せやけど、高清に後れをとったのや。どこかに六角頼みがあったのやろうなあ。いざとなれば助けてくれるとな。その甘さがこの結果となったのやろう。結局のところ六角高頼を恃んだのが命取りになったのかも知れんなあ」
 北近江の京極政経と南近江の六角高頼は応仁の乱で東軍と西軍に分れてから、長い間敵対関係にあったが、政経は高清との戦いを巻き返すために六角高頼と手を結んだ。ほんの数年前の事である。高頼の娘を材宗の妻に迎えたのだ。
 が、それは毒薬みたいなもので、一時は高頼の支援は力となったが、長い目で見れば逆効果であった。
北近江の国人領主達は六角氏が江北に入って来る事に反発し、かえって高清のもとに結集したのである。
材宗を抹殺することは江北国人領主の総意だったのである。材宗がいる限り、口実をつけて六角高頼は江北を窺う。高頼の介入を阻止するには、材宗に消えて貰うしかないのだ。それも高頼に介入の時間を与えないよう一気に形を付ける必要があったのである。
京極高清も上坂家信もこの総意に乗っかったのである。いや、乗る事が江北の支配者となるべき者の取るべき道だったのである。
これで高清は幕府から近江半国江北の守護と認められるであろう。京極家の名実ともに家督となるのだ。
「京極騒乱が始まった時、御屋形様にはまだ出雲や隠岐、飛騨がかろうじて残っておったが、高清には江北しかなかったのや。御屋形様は負けたら出雲へ逃げはったけど、高清は江北を失ったら行くところがあらへん。その必死さの違いがこうなったのやとわしは思う。二兎追う者は一兎をも得ず。御屋形様は最後に残った出雲と江北を共に失いはったのや……」
 辰敬はおずおずと問うた。
「京極家はどうなるのじゃろう」
「滅びるしかないやろう」
 余りにも冷たい、突き放した言い方に、辰敬は一瞬怒りを覚えた。
「どこにでもある話や。日本中腐るほど転がっとる。京極家だけが特別なわけやない。武門の定めや……」
 それ以上は口を利くのも大儀そうに目を閉じてしまった。
 言われるまでもない事だった。辰敬は自分の立場が不安になって聞いてしまったのだ。
(やっぱり出雲に戻る事になるんじゃろうなあ……)
 こんな時にいちを想っている自分を辰敬は情けなく思った。
 二日後、治部様御寮人と吉童子丸が戻って来たが、二人とも輿の中で姿を見ることは出来なかった
 葬儀の日、辰敬は雑用に追い回された。ようやく焼香を許された時には、御屋形様達も僧侶も引き上げた後だった。
その葬儀が終わった日の夜、木阿弥は戻って来なかった。
翌日も、その次の日も姿を見なかった。
辰敬は殉死したのかと心配したが、次郎丸が嘲るように笑った。
「そんなあほな。あいつ、逃げよったんや。知らんかったのか」
 辰敬はぽかんと立ち尽くした。初めは次郎丸の言う意味が分からなくて、
(逃げた……木阿弥さんが逃げた……)
 と心の内で反芻して、ようやく木阿弥の逃亡を現実の事として理解したのであった。
「京極家におってもしゃあないと思ったんやろ」
次郎丸は吐き捨てた。
「御恩も忘れて、恩知らずめ……こう言う時こそ、御屋形様を御慰めするのが役目やろうに。後足で泥をかけるような真似をしくさって。けたくその悪い奴や。ほんま目端の利く爺やで……」
 口を極めて罵ったが、次郎丸が罵れば罵るほど、辰敬の気持ちは次郎丸から離れていた。
 本当に木阿弥は御屋形様を見捨てて逃げたのだろうか。都の夜道を逃げて行く木阿弥の後ろ姿をどうしても想像出来なかった。
 辰敬は木阿弥が好きだった。大好きと言うほどではないけれど。
 皮肉屋で、何事も斜に構えて、辛辣な言辞を浴びせられると心が萎えたものだ。だが、木阿弥の言う事には常に理があった。
 だから、目端が利いて京極家を見限ったと言われると違うような気がするのである。
 もし、本当に目端が利く男なら、初めから御屋形様の御伽衆にはならなかったであろう。日頃の言動を思い出せば、木阿弥には京極家の行く末が見えていたはずだ。
 きっと御屋形様のお側に侍るのが居たたまれなくなったに違いない。木阿弥にはそんな優しさがある。きついことを言うのは、自分の優しさを隠すためだったのではないかと、辰敬は今になって気が付いた。そう言えば辛辣な言葉の端に、ふっと寂しさや哀しさを感じたことは一度や二度ではなかった。決して御屋形様を見捨てて逃げたのではない。そう信じたかった。辰敬とて御屋形様の前に出るのは辛すぎる。
「ええな、わぬしは帰る所があって。どうせ出雲に戻るのやろ」
 何を言う気かと訝しげに見返すと、
「京極家も腐っても鯛や……もう少し様子をみようかと、皆、言うとるわ」
 散々木阿弥を罵った癖に、その言の端が乾かぬうちに、この言い草である。
 辰敬は蹴飛ばしてやろうかと思ったがぐっと我慢した。
 その後、常御殿に出仕しても、長屋に戻って来ても、問われるのは出雲へ戻る事であった。
 だが、御屋形様からは何の沙汰もなかった。
 吉童子丸が戻って来たら、守に復帰することになっていたはずなのに、それも沙汰がない。
 木阿弥がいなくなって奥の様子がさっぱり分からなくなっていた。沙汰がないのは、もう出雲へ戻す事が決まっているからではないのかと、悪い方へとばかり想像が膨らむ。
 
 その頃、巷では二度目の丹後征伐の噂で持ち切りだった。
 昨年の丹後征伐は澄之に任せてお茶を濁したのだが、此度はついに管領細川政元も遠征せざるを得なくなったのである。
 話は三月の末に戻る。
 若狭国守護武田元信に肩入れする将軍義澄の丹後征伐への執念はいや増すばかりであった。今度ばかりは逃げられそうにないと悟った政元は、管領職を辞すと、奥州に巡礼に行くと称して旅に出てしまったのである。
 これまでにも将軍と対立する度に、政元は修験道の修行をするとか、管領を辞めると言っては、都から逃げ出していた。
 その度に将軍が頭を下げて政元を連れ戻していた。逆に将軍が立腹して出京し、政元が詫びて戻って貰う事もあった。
 奥州を目指す政元が若狭小浜まで来た時、武田元信が駆け付けて来ると、必死に政元を引き止めた。
 そこへ、将軍の御教書( みぎょうしょ)や天皇の勅書まで届いたので、政元と言えども都へ戻らざるを得なかったのである。
 木阿弥がいたら、武田元信や将軍義澄の狼狽ぶりや、勅書を出して貰う為の朝廷への必死の工作などを、見て来たように語ってくれたであろうが、もはやその木阿弥を思い出す事もなくなっていた。
 辰敬は無性にいちの顔が見たかった。
 あの日以来、邸内の規律は目に見えて緩んでいたので、辰敬は誰にも咎められることもなく邸を抜け出す事ができた。
 
 久し振りに加田家を訪ねると、
「おおごとやったなあ」
 公典が飛び出して来ると、京極家の様子を矢継ぎ早に尋ねた。
「で、わぬし、どないなるんや。出雲に戻るのか」
 ここでも関心はすぐに辰敬の身の振り方に向けられた。
 いちと竹ちよも心配そうに見つめていた。
 辰敬は首を振った。
「わからんのじゃ」
 尼子家や出雲の親から、何か言って来てもよさそうなものだが、そのような便りがあるのかないのかも知らされず、忘れられたように放置されている状況を説明すると、
「そうやなあ、わぬしのことに構っている場合やないからなあ」
 いちも心なしほっとしたようであった。
「京極家はどないなりますのやろ。もうお殿様やないのやろ。年貢も入ってこんのやろ」
 竹ちよが心配するのに、
「あほか。とっくの昔からや。せやけど、腐っても鯛や……」
 ここでも腐っても鯛が出た。
「家産もまだ仰山あるやろ。すぐにどうのこうのと言う事はあらへん。我が家とは違う。いや、こんな我が家でも持ちこたえとるがな」
 と自虐めかして笑ったが、妻子は笑わなかった。
「問題は後継ぎや。吉童子丸様はまだ子供やろ。幾つや」
 辰敬は即座に答えられなかった。
「六つ、いや、七つじゃ」
「御屋形様や」
「ああ……」
 辰敬は首を傾げた。
「もうええ、なんぼでも。どうせええ齢にきまっとる。御屋形様、死ねへんやないか。ええ後見人でもおれば別やけど、そないな人、もうおらへんやろうし。御屋形様にもしもの事があったら、今度こそ京極家、本当の終わりやで」
 辰敬は死罪を言い渡されたような気がした。
 


豊作と喜んでいられたのはわずか3週間足らず。あっという間にイチゴが終わってしまった。昨秋からのあの作業は何だったのか。苗が31本で8000円余。それに肥料代、支柱、防鳥ネット代を入れたら赤字である。悲しくなるから人件費は初めから考えないことにしている。霜よけの藁を敷いたり、黒マルチを張ったり、苦労の数々を思い出すと、費用対効果の薄さに泣きたくなる。もう、来年からは止めようと思うが、それでは支柱や防鳥ネットが無駄になる。折角、ノウハウを手に入れたので、この秋からは苗を買わず、ただで作ることにした。イチゴの終わった苗から子供の苗を取って植えればいいのだ。肥料代だけですむ。それなら3週間足らずで終わっても我慢の範囲である。
と、いう訳で気を取り直して、さつま芋の植え付けにとりかかる。
その前に、例の新農法トマト栽培。脇芽ぐるぐる縛り。
5月20日
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左の写真の3本横に出ているのが脇芽。常識ではすべて取るのだが、3本を支柱にくっつけるようにまとめて縛る。この後もこの上に出て来た脇芽を縛り付け、今のところ数本の脇芽を縛り付けている。皆、呆れて見ている。見世物状態であるが、見てる分には面白いと思う。
5月25日
12日に安納芋バイオの苗ツル10本を植え付けた。いよいよ本命の紅はるか20本を植えようと思っていたら隣保の葬式になる。9時に驚き見舞いに行き、すぐに隣保全員集まって役の割り振り。今回は火葬場について行く役になる。27日が葬儀なので今回も3日勤めになる。
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麦マルチの麦を抜き、前日に黒マルチを張ったものに、苗を植え付けるのだが、作業にかかったのは夕方。


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苗ツルの植え方には上図のように、垂直に突き差す方法と、斜めに植える方法と、船形に植える方法がある。
私はこれまで6年間は斜めに植えていた。ところが解説書を読むと、船形に植えるのが一番いいと書いてあったので、5本だけ船形に植えてみた。
5月26日
火葬場の付き添いは、今日は特にやることはない。香典のお返しに挨拶状を挟み込むことぐらい。日曜に特養へ顔出しする予定だったが、明日は行けないので、土曜日に特養へ行く。マッサージをして、一緒に昼飯を食い、天気が良かったので散歩する。
その帰りに、安納芋の苗ツルを書い足しに行く。10本植えたうちの3本が枯れてしまい、カッコ悪いので植えなおそうと思ったのだが、もうどこも苗は売り切れが多い。特に安納芋がない。一つだけあったが、50本束を買うのは勿体ない。仕方ないので金時の10本束を買い、また夕方3本植える。残った時間で茄子の隣に残った7本を植えるための畝を急遽作る。
5月27日
この日は朝8時から空き缶拾いがある。地域の行事だから、葬式があっても、さぼるわけには行かない。
家の周りのゴミ拾いをしてから、葬儀。私は火葬場へついて行き、葬家の飲食代を立て替え払いし、葬家が葬儀場へ向かったら、葬儀場の係に「いま出発しました」と連絡する。実は一番楽な役なのであった。
夕方、葬儀は終ったが、実はこの日は隣保の集金会もある。大急ぎで夕食の準備をし、7時に集会所に集まる。集会所の改修の話があって、いつもより長くなる。葬儀では楽な役だったのにくたびれ果てる。普段は酒なんか飲まないのに、ビールを二缶も飲む。
5月28日
朝6時半に目が覚めたので、畑に出て、一昨日作った畝に黒マルチを張り、残った金時の苗を7本植える。これで芋終了。紅はるか20本、安納芋7本、金時10本。これでようやく植え付けシーズン終了。
イメージ 6もうあらかた田植えは終ったようだ。
これが特養へ行く時にいつも不思議だなあと首を傾げる田圃。
田圃の端に浮島のように四角い雑草だらけの地面が突き出している。どうして削って田圃にしてしまわないのか?
理由を知りたいのだが、この田圃の持ち主に未だかって一度も出くわしたことがない。いつか会ったら絶対に聞いてみようと思っている。

今日は荒神谷博物館で『風土記談義』があった。
昨日、妻の外泊が終わり特養に戻ったので、今日は心置きなく『談義』へ。
前回、一年以上かかって『出雲国風土記』の意宇郡(おうのこほり)が終わったと書いたが、今日が意宇郡の最後であった。スライドで意宇郡の島や川、神社を見せてもらう。出雲にいてもそうそう行けない場所なので実風景を見せてもらうと理解が深まる。
『出雲国風土記』には全部で九郡の記述がある。そのうちの最初の一郡が一年かかって終わったのだから、全部読み通すまであとどれくらいかかるのだろう。
講師の平野先生は若い時から、車の中にはいつも『出雲国風土記』を置いていたと知る。とてもいいことだと思い、これから私も真似をして、本や資料、地図などを常に車に積んでおくことにする。走っていれば、通りかかった神社や川などはたいてい風土記に登場するのだから、そのつど確認できる。
一年以上通って勉強して来たが、そこで知ったのは『出雲国風土記』を勉強しているのは我々現代人だけではない。昔から多くの有名無名の人たちが勉強していた事である。
その有名人の中に生徒も先生も超有名人がいる。
生徒が『徳川六代将軍家宣』で先生が『新井白石』である。ただの先生ではない。個人教授だからすごい。家宣はマンツーマンで白石から『出雲国風土記』を学んだのである。
と、言っても家宣が将軍になる前の話である。
家宣は五代将軍綱吉に後継ぎが出来なかったので養嗣子となって将軍位を継いだものであり、将軍になる前は甲府藩主で徳川綱豊と言う。
その綱豊時代に侍講(個人教授)として仕えたのが新井白石である。その時、白石36歳。当時の市井の大儒者木下順庵の門下で、浪人中であったが、順庵が一目置くほどの才能であったので、順庵の推薦で綱豊の侍講となったのである。
儒学の先生になったので師儒と言う。二人は師弟の契りを結び、マンツーマンでひたすら学問に励む。綱豊は大変勉強熱心な殿様で、白石はまだ天下に名が知られる前であったが、それはそれは熱心に教えた。この間、二人は将来綱豊が次期将軍になるとは夢にも思わず、儒学は言うに及ばず、歴史、地理、古典、詩などありとあらゆる分野を学び、教えた。
個人教授は17年にも及び、綱豊は綱吉の死後、将軍となる。
白石は政治顧問となり、家宣の政をたすけ、正徳の治を行う。
『出雲国風土記』を学んだのは、その甲府時代のことである。
私がなぜそのことを知ったかと言うと、白石の事績を調べるために、白石の晩年の書簡を読んでいたら、白石がそれに関する記述を友人に送っていたからである。
その内容がこれまた面白いので、紹介しようと思うが、前置きが少し長いので我慢して読んで貰いたい。
家宣は将軍になるもすぐに死に、跡を継いだ家継も幼くして死ぬ。父子合わせて七年ほどの治世で、将軍吉宗の時代となるや、白石はたちまち失脚する。
その失脚後の白石の孤独な晩年を支えたのが文通であった。文通相手は数少ないが、実に多くの手紙をやりとりしている。その文通相手の中で、もっとも身分が高かったのが、加賀百万石の太守前田綱紀(つなのり)であった。この殿様は大変な学問好きで知られ、美術工芸の発展に力を入れ、農業や藩政改革にも取り組み、名君とあがめられた。
このお殿様が失脚して落ち込んでいる白石に救いの手を差し伸べる。白石を高く評価し、白石の本を自分の書庫に収めたいと申し込む。白石の本が自分の書庫にあれば、書庫の価値が高まるとまで言い、白石を感激させる。白石は感激の余り、門外不出の『西洋紀聞』を綱紀に貸し出す。この本は密入国した宣教師を尋問した記録をもとに著したものだが、キリスト教に関する記述があるので公に出来なかった本であった。もしこの本を貸し出したことが露見したら、失脚した白石はさらなるお咎めを受ける恐れがあったにもかかわらず、危険を冒してまで貸したのであった。それほど綱紀の知己を得るのが魅力的だったのである。二人の仲は一気に深まり、二人はお互いに所蔵している本を書き出して見せ合う。二人は互いに本の貸し借りを繰り返すが、ある時、綱紀は『出雲国風土記』を貸して欲しいと所望する。
ところが、白石はこれほどの庇護者である大大名の頼みを断る。
その理由は、この本は家宣が勉強した時に使った本で、後に家宣から恩賜品として頂戴したものであった。
「旧主恩顧の品は門外不出にしております。ましてやこの本には家宣公の書き込みもあります」
本だけではない。白石は家宣ゆかりの品は一切表に出さなかったのである。
これが儒教社会における君臣の関係と言うものであり、この君臣の関係を盾にとられると、綱紀にしても引き下がらざるを得なかったのである。

一体綱豊は『出雲国風土記』にどんな書き込みをしたのだろう。
白石はどんな風に講義したのだろう。白石は綱豊の講義に当たっては、理解を深めるために万全の準備をした。沢山の資料を揃えて講義に臨んだことが分かっている。あの時代にどんな資料を揃えたのであろうか。
『出雲国風土記』の冒頭の国引き神話のくだりに、「おとめの胸鉏(すき)とらして」とある。
今日では「乙女の胸のような鉏を取って」、朝鮮半島にぐさりと突き立てて余った土地を切り分けたと解釈するが、私はこの「乙女の胸のような鉏」がどうにもぴんと来ない。成熟しない乙女の薄い胸のような鉏を形容しているらしい。薄くて土に突き刺さりやすいのだそうだが、どこか違うような気がしてならない。
白石がここをどう解釈したのか知りたくてならないのだが、今や望むべくもない。この恩賜の『出雲風土記』は残っていないから。残念でならない。

と、言われてしまった。助っ人に来てくれた妹にイチゴの自慢をしたら、「私の友達がイチゴは誰でもできると言ってたよ」と、返って来た言葉がこれだ。へこんだ。でも確かにその通りかもしれない。
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左:5月16日の朝に収穫したイチゴ。これは少ない方。毎朝これ以上獲れる。大小不ぞろいだが、数だけは獲れるところを見たら、誰でもできるは正しいようだ。
右:5月16日夕方、老母が作ったイチゴジャム。小さいのや形の悪いやつ、ダンゴムシや蟻が穴を開けた不良品などを冷凍しておいたもので作った。小瓶に4つ分。うまし。
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左:5月14日 ミニトマトの紅あじの脇芽を取って土に差す。根がついたら畑に移す。脇芽からでも立派に育つので、高い苗を買う必要はない。毎年、苗は10本ぐらい買って、残りの10本ぐらいは脇芽から育てようと思うのだが、つい苗を買ってしまう。今年はこの中からよく育ったものを3本ほど植える。
右:5月16日 遠い親戚の農家からミニトマトを貰う。去年までは花栽培をしていて、今年からトマト栽培に切り替えた。勿論ハウス栽培である。左がミニトマトで右の袋入りが、フルーツトマト?。これで、規格外で売り物にならないのだと言う。
これで規格外だなんて、トマト作りの自信を早くも失う。
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左:5月10日に植えたナス、6本。普通は品種名か商品名があるのに、このナスにはそれらしきものがなく「おいしくてつくりやすいナス」としか表示してない。ありがたみに欠けるが、長卵形の手ごろな大きさらしいので購入する。長ナスや大長ナスは大きすぎて食いきれない。乾燥したホテイアオイを敷き藁代わりに敷く。
右:5月16日に植えた坊ちゃんカボチャ。5本。
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5月12日
『安納芋バイオ』のツルを10本植える。5月の末に『紅はるか』を植える予定でいるが、同じものを育ててもつまらないので、今年は安納芋を植えてみる。種苗屋へ行くと、普通に安納芋のツルと、安納芋バイオと言うツルがあり、後者の方が10本束で100円高くて、税抜き498円。高い方がいいに違いないと言う思い込みがあってすぐに飛びつく。
バイオ苗は、味がよく、形が揃い、発根も良く、普通苗より1週間早く収穫できると言う。腐りにくく貯蔵性も高いといいことづくめのことが書いてあったが、それもちゃんと育てばの話である。普通に育ててみることにして、今年も肥料もやらずに育てるがどうなることやら。

イメージ 85月17日のじゃが芋畑。
『グラウンドペチカ』の勢いが一番良くて花も満開。次が写ってはいないが『アンデスレッド』で、右隣の『はるか』の出来が一番遅れている。それにしても肥料など一粒もやっていないのに、隣近所の普通に栽培しているじゃが芋と比べても遜色ない見事な育ちぶりである。畑先生は花は10日ほど経ったら取ると言っていたが、新農法解説には花のことには触れていなかったのでそのままにしている。黒マルチの下に芋がゴロゴロ出来ることを祈るのみ。
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左:5月9日 家の横の道に雀の子が2羽。車が近づいても全然逃げない。以前に燕の子に出くわした時は、それでも1、2mは飛び跳ねたが、この2羽は動こうともしない。車から降りて追い立てると、ぴょこぴょこ走って逃げる。捕まえて育ててやろうかと思ったが、野鳥は捕まえてはいけないことは分かっている。モト冬樹みたいに叱られる。たちまち野良猫に捕まりそうではあるし、カラスもいる。どこかで親鳥が見ているはず。幸運を祈って車に戻る。
右:5月12日 池の側の畝で安納芋バイオの苗ツルを植えていると、突如、ばしゃばしゃと水音。振り返ると2羽の鴨のカップルが舞い降りたところ。丁度、畑先生もいて二人で芋の話をしていたのに、恐れる風もなし。このカップル、初めの頃は儂の姿を見たら逃げていたのだが、何度も来るうちに人なれしたようだ。腐ったホテイアオイを食べている。去年も来たカップルなのか、新しいカップルなのかは分からない。
可愛いものだ。

イメージ 15月9日
特養で訪問の先生に妻の歯石取りをしてもらう。帰郷してすぐに歯が悪くなり、何度も何度も歯医者に通い、親知らずを抜いた時は県立中央病院に一晩入院した。
歯医者通いは私のトラウマになっていたので、特養に入所してからも歯の具合がずっと気になっていた。お願いして検査してもらった。訪問診療なので、病院のように診療用の椅子がない。車椅子の診療でどうかなと心配していたら、案の定、痛くないはずなのに「痛い」を連発して、看護師さんをびびらせてしまう。先生も初めてなので無理しないようにと言うことで、少し歯垢を取って終わり。でも、歯石は少なく思った以上に奇麗だと言われてほっとする。後二、三回は掛かるだろうが、これからは半年ごとに検査してもらうことを頼む。帰郷してから、歯磨き後にコンクール液で口をすすいでいる。この効果も少しはあるのかもしれない。私もやる時は嫌がられるくらいに徹底的にやるからな。そうしないと、この上、歯まで悪くなったら悲惨である。脳出血は防いでやれなかったから、せめて歯ぐらい守ってやらねばと思う。
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5月12日
原則として、週2回のお昼、日曜日には必ず行き、後は水曜か木曜のどちらかに顔出しすることにしている。13日の日曜に用事が出来たので、土曜日の今日顔を出す。
14日の月曜日から外泊で戻って来るから、そんなに密に顔を出さなくてもいいと言えばいいのだが、(畑もあるし、小説の直しもひいひい言いながらやっているのだから、さぼる口実はいくらもある)このところ、ごく自然体で通っている自分に気が付いている。
以前は、「今日も行くぞ」とか、「今日も行かねば」と、気合を入れて通っていたものだが、通っているうちに見舞う方も身も心も楽になる術を得たような気がする。
たとえば11時頃一緒に食べる弁当を買って行くと、まずベッドに上がり込み、ベッドの上に座り込んで、妻の足のマッサージをする。適当に触っているだけのマッサージで良い。本格的に素人が揉むと痛がる。30分ぐらい下らん話をしながら、ただ揉んだりさすったりしているだけで良い。
「どうしてお前なんかと結婚したんだろう。私が小学生だから騙されたのかな」
なんて、今日は言っていた。
これが、マッサージする方も実に楽でいいのだ。見舞う方も楽にならないと、言い見舞いも出来ないということか。
11時半になったら、車椅子に移し、散歩する。
「♪緑のそよ風いい日だね~」思わず歌が出る、そんな陽気だった。
儂はここまでしか歌えない。どんな歌も最初の一行ぐらいしか歌えない。子供の頃から次を覚えようという気がまるでない人間だったのである。妻はすごい。
「♪ちょうちょもひらひら豆の花 七色畑に妹のナンチャラカンチャラ~」
ゼーンブ歌えるから本当に呆れる。
この後、一緒にご飯を食べ、歯を磨いて(嫌がられながら)帰るのだが、この一時間半を過ごすことで、少しだけだが人間らしい道へ戻れたような気がする。だから特養へ来ることがある種の救済になっているのかも。外人は必ず教会に行くが、私たちには教会のような存在がない。私にとっての特養はそういう存在なのかもと思う。
そう思う大きな理由はもう一つある。それは仲間の存在だ。私同様妻の見舞いをしている仲間がいる。その人は毎日来ている。行けばたいてい車椅子の妻を押すその人と会える。「やあ」と笑って手を上げる。今の私にとって特養はそういう場所である。

語録(12)
「私黙って頑張りすぎたから足が悪くなった」
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「今日はお父さんと水かけっこして遊びたい」
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トイレ誘導して
「いつも連れて行ってもらうと、お父さん、大変だなあと思っているよ」
2006.6.2
TVのニュース。地震で妻を失った夫を見て
「お父さんなんか、いつまでもああやって祈っているんだろうね」
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モモ(豆柴)が鳴いたら
「モモ、お母さんだって表へ出たいんだから」
2006.6.3
若い役者を見て
「可愛がってあげたい。唇がうすくて。チュッしてあげたい」
2006.6.4
トイレ誘導して
「ありがとう、ありがとう。何回言ってもありがとう」
「何回言ってもありがとうていい言葉だね」
「モモちゃん、ほめられちゃったよ」
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「お父さん、女が出来たら、美里ちゃん(と言う娘がいるつもり)粗末にするでしょう」
「私もママちゃんが男が出来たら、粗末にしたからよく分かるの」
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「お父さん、そうやってものを書いているといい男ね。昔の方が鼻が高かったね」
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「私、最近タバコ吸わないでしょ。タバコやめられるような気がして来た」
(病気になる前は吸っていた。病気になってからはやめている)
2006.6.5
「いいわね、思い出のある人は。私なんか何もない。私なんかお父さんにキスしてもらったことも覚えてない」
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「私、病気してから記憶がおかしくなった」
2006.6.7
右手で痛む方の左の足をさすり
「お父さんが触るから、痛くないようもんでおくの」
「お父さん、夢に向かって頑張ってね。小説頑張ってね。本出たら走って買いに行くから」
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「知りもしないのに、片足ばんばん触らないで(痛むから)動かすよと言って、動かして」
知ったかぶりでマッサージをするなと言う事
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「冷たいお茶があるよ」
「ありがとう。愛されてる気がする」
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「お父さんもごろんと膝に寝転がってもいいよ。甘えていいよ」
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「お父さんがダンスしてくれるようになって嬉しいよ。そこで一緒に寝てても、ダンスしてるような気がする」
2006.6.12
トイレ誘導して
「お父さん、全然苦にしないでやってくれる。嫌じゃないの」
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「お父さんも人がいいねえ、こんな車椅子押して」
2006.6.22
「〇〇(息子)がお父さんみたいに、金持ちでもなく、貧乏でもなく、頭のいい人と知り合ったらいい。〇〇はああ見えて気遣いだから」
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「お父さんがひょいと出て行くような気がする。そうしたら〇〇(息子)も〇〇(娘)も強くなる」
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介護していて
「何か言ったら、ごめんと言わず、ははははと笑う」
2006.6.23
「何で俺が〇〇おじちゃんなんだよ」
「だってそうなんだもん」
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「お父さん、見てると、ご飯に見えて来る(笑って)」
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「私も静養かねて外国へ行きたい。お父さん、お金入ったら連れて行ってね」
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「自分が輝いている人は人も輝かせる。〇〇(息子)と〇〇(娘)は輝いているから。私が輝かせているの」
2006.6.24
「うちも野菜作ろう。子供たちに送ってやろう」
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「私、あなたに先立たれたらどうしようか。誰も教えてくれないから、生きているうちに教えて」
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「ヒデキ兄ちゃんの所へ連れて行って。向こうの方が広いし、楽しいし、冷蔵庫も大きいし」
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「わたしも年取ったら一人で暮らしたい。ざわざわしたところから離れて。犬といっしょでもいいよ」
2006.6.25
トイレで
「お父さんが見ていると、おしこが恥ずかしがって出ない」
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「お父さん優しいと、ヒロアキ兄ちゃんと間違えることある」
2006.6.26
「お父さん、しばらく見ない間に年取ったね。しわしわよ」
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私が「洗濯物干して来る」と言うと
「どうぞ、いいね。私、ここにいたらだらずになってしまう」
※東京にいるのに出雲弁が出る。
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「背中洗って貰ったり、擦ってもらうのがくせになった。気持ちいいもの」
2006.6.27
「みーこおばちゃんが見てるの。博久さんの料理にいつあきるか。私、あきないよ」
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TVでがん患者の大会を見て
「お母さん、こういうの行くよ。モモちゃん、留守番してなさい」
「歩けるようになるかな」
「なるよ」
「ありがとう、でもびっこだね」
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ベッドから
「おりるの」
「もう遅いから寝てなさい」
「そうやって、はがいじめするんだから」


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