曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2018年03月

イメージ 13月の20日過ぎ頃からイチゴの花が咲き出した。白く小さいのが花。皆、早いので驚いている。3月に咲くことは普通はないらしい。いつもなら4月になってから咲くのにと。異常に暖かいせいかもしれない。



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本を読むとこの頃は「訪花昆虫」が少ないので、人工授粉しろと書いてあった。3月28日、百円ショップで筆を買って来て、人工授粉する。
お隣さんは「そんなことしたことないわ」と笑っていた。「それでも出来ていたし」と先達はのんきと言うか、余裕だ。
右の写真の、一本長く延びているのを「ランナー」と言う。この先に苗が出来て、またイチゴが出来、その苗からまたランナーが延びて、また苗を作る。こうしてイチゴがどんどんできるものらしいが、この時期に延びるランナーはイチゴの生育の邪魔をする。片っ端から取れと本に書いてあったので、早速、取る。これからはちょこちょこ畑を覗いてはこういうことをしないといけないのだろう。
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ヤバいのは新農法じゃが芋だ。
3月30日段階。
芋をそのまま植えたものからは芽が出始めたのだが、半分に切って、干してから植えたものはまるで音沙汰なし。
おそるおそる指で突いてみると、芋がペコペコにへこむ。どうやら腐って、乾燥してしまったようだ。
指南書には半分に切って二日干せばよいと書いてあったのだが、干し方が中途半端だったのだろうか。丸いままの芋は全体の4割もないから、もし半分に切った芋が全滅だと大ダメージだ。どおおおっと疲れが出る。畑先生の笑う顔が浮かぶ。この調子だと、上の写真の芋からちゃんとした芋が出来るのか怪しいもんだ。下手をすると全滅だ。この後、トマトやさつま芋をつくるのが嫌になって来た。でも、作らない訳には行かない。まだトマトの新農法にチャレンジするのか。勇気を問われている。
雨がほとんど降らず、連日、暖かい日が続いている。
東京の方が桜は早かったが、こちらも一気に咲き始めた。品種にもよるが明日が満開だろうか。4月3日が特養のお花見である。私も参加するのだが、3日には散り始めているかも。楽しい花見をしたいのだが。天気はずっと良さそうなのだが、微妙に黄砂が続いている。
数日前の二日間の黄砂はすさまじく、風も強く、黄色い靄で北山も見えないほどであった。あれほどの黄砂はもうないと思うが、連日埃っぽい嫌な陽気である。春霞とは絶対に違う。3日には抜けるような青空とピンクの桜の下で花見をしたいものだ。
その前に、明日4月1日は全戸参加の溝掃除。すでに各戸に土嚢袋が数枚配られ、我が家も敷地内の下水桝の清掃をした。わが家も田舎の家だから、敷地内に7個も下水桝がある。途中で嫌になり、二つは蓋も開けないで来年に回した。毎年律儀にやることはあるまい。1年おきでもいい。すぐには溢れやしない。
明日は家の周囲や、大きな通りの溝掃除である。
8時から清掃になっているのだが、出雲時間で皆早いから、7時には起きて、誰かが始めたら出て行かねばならない。
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3月18日
ツクシ

3月22日
赤米

3月30日
アスパラ





ツクシは母と妹が摘んで来て、袴と坊主を取って、あくぬきしているところ。
この後、母に料理させたが、味付けがいい加減で、どえらい醤油がらい佃煮を作ってしまった。
赤米は風土記談義の精勤賞。
水に一時間漬け、1.4倍の水で炊飯器で炊いたが、もちもちして美味くてびっくり。
黒米も食べてみたい。皆勤賞だと黒米ももらえるのだが。
アスパラは近所のアスパラ農家で分けてもらった。TVのニュースにも取り上げられる農家さんで毎年買っている。手伝いに来てくれた妹たちが帰る時は、友達へのお土産に必ず買って行く。
今が最盛期で、これだけで17本入っていて、500円。せめて消費税分は払うと言っても受け取ってくれない。美味しいよおおお~っ!入れ歯の年寄りでも美味しい美味しいと言って食べることが出来る。こういうところは田舎の良いところである。

第二章 都の子(11
 
 まるで女の肌を愛でるかのように、紙に指を這わせると感極まった声を発した。
「雲州の紙も見事なもんやなあ……」
その時、辰敬は板戸の蔭に立ついちに気がついたが、すぐにいつもと違う気配を感じ取った。
いちの視線は紙の束に注がれていたが、いつもの疎ましげな色はなく、食い入るように見詰めていたのだ。
辰敬は公典のために純粋な気持ちで届けたつもりであったが、いちの目の輝きを見たら嬉しくない訳がなかった。
 嬉しい事は続き、邸に戻った辰敬に、木阿弥が筆をくれた。
「わぬしの心がけが嬉しうてな。御屋形様が紙ならば、儂は筆をやる」
 翌日、筆を握り締め、上京へ素っ飛んで行ったのは言うまでもない。
 ところが、藪垣の前まで来た時、
「阿呆」
 公典の怒鳴り声がするやいちの悲鳴がして、どさっと人の倒れる音がした。
 何事かと土間に飛び込むと、土間に倒れたいちに公典が馬乗りになり、狂ったように折檻していた。
「この阿呆が……阿呆が……なんちゅうことをしてくれたんや……」
 長い髪を掴み、いちの頭を振り回す姿は尋常ではなかった。
「おじさん、やめてくれ」
 辰敬は公典に抱きつくと、必死にいちから引き剥がした。
「放せ」
「いったいどうしたんじゃ」
「こいつが……こいつが……」
 血走った目がいちを睨みつけていた。
「売りよったんや。昨日もろたあの紙を、全部売り払いよったんや」
 辰敬は耳を疑った。
「売った……」
 思わずいちを咎めた……ように見えたのであろう。いちは激しく反発した。
「薬をこうたんや」
「薬」
「おかあはんの薬や。おかあはん、ずっと具合が悪かったんや。我慢しとったんやんけど、我慢できんぐらい悪うなったから、うちが紙を売って薬をこうたんや。悪いんか」
 唇の端から血が滲んでいた。
「儂に一言相談してからでもええやないか」
 いちはきっと父を見据えた。
「相談したら、紙を売ってくれたんか。薬をこうてくれたんか」
 いちはかぶりを振った。
「おとうはんは紙一枚売らんかったやろ。おとうはんはそう言う人や。たとえおかあはんが死んでも……」
「それが親に向かって言う言葉か」
「この際やから言わして貰う。おとうはんはまんまも食べれへんような事ばかりして……あんなことはな、あんなことは……三条西はんや中原はんに任せておけばええのや。裏の常陸坊はんかてそう言うてたわ」
「なんやと……」
 公典の顔から血が引いて行くのが辰敬にもわかった。真っ青になり、痩躯をぶるぶると震わせると、
「もう一度、言うてみい」
 また狂ったように襲いかかろうとしたので、辰敬は慌てて羽交い締めにした。
「放せ、放せ。こんな奴、我が子やない」
 抱き止める辰敬は必死であった。その腕の中で公典は身もだえしながら喚いた。
「お前に何が分かる……三条西実隆ゆうたら、それは偉いお公家さんや。有職故実の大家や。せやけど、まろに言わせたらただの物知りで、歌を詠むのがうまいだけのお人やないか。中原はんかて、局務をろくに勤めてはらへん。寂れた朝儀のありさまを書き残して、後世に伝えようと思うとる者なんか誰一人としておらへん。皆名前ばっかりや。家職も果たさんと……真に朝廷を憂い、主上を思っておるのは誰やと思うとるんや」
 板戸の向こうからすすり泣きが漏れて来た。
「もうやめてたも……わらわが悪いんや……皆に迷惑かけて……いち、いち……もう、ええよ、この薬、いらん。どうせ治らへんさかいに……」
 激しく咳き込んだ。
「おかあはん」
 いちは床に這い上がると、板戸の陰に転がり込んだ。
「起きたらあかん」
 と、労わったが、竹ちよの泣き声は陰々滅滅と続いた。
 公典は顔を顰めると、辰敬を押しのけるように出て行ってしまった。
 やがて泣き声が止んだので、辰敬はそっと板戸の向こうを窺った。
いちの背中越しに、筵に小袖一枚で横たわる竹ちよは、ちょっと見ない間に痩せたように見えた。
いちに背中をさすって貰っているうちに寝てしまったようだ。
「もうやめてたも」
 背を向けたままいちが疲れ切った声を吐き出した。辰敬が黙ったまま突っ立っていると苛立ったように続けた。
「あのなあ、おとうはん、前はあれほどひどくはなかったんや……わぬしが反古を届けてくれてからや……あないにひどくなったんは……」
 辰敬は頭を殴られたような気がした。
 がっくりと首が落ちた。いちの背に詫びるように首を垂れ続けたが、小さな痩せた背は壁のように微動だにしなかった。
 辰敬は悄然と引き返した。
すると、土間を出ようとした時、
「おおきにな」
 思わず足が止まった。聞き間違いかと耳に残る響きを反芻した。これまでに一度も耳にした事のない、優しい声だったが、どこかぎこちなかった。
 辰敬はそっと肩越しに振り返った。
 いちが立って、こちらを向いていた。
「薬を買えたのはわぬしのお陰や」
 その瞬間、辰敬の心にぱっと明かりが灯った。満面に笑みが広がったが、いちはすっと目を逸らし、板戸の向こうに消えてしまった。
 笑みはしぼんだ。
 帰りの辰敬は複雑な気持ちだった。
いちは感謝以上のものを示してくれたと信じていたのだが、辰敬はもう加田家へ行くことは憚らねばならないだろう。
 
 春が来て、気がついた時には桜は散り、辰敬が上洛して一年になろうとしていた。
 四月二十一日、細川澄元は七千人の兵を率いて上洛した。そして、日を改め、三好之長を供に千人の兵を引き連れて、細川邸へ向かうと政元との会見に臨んだ。
 政元は澄元に摂津国守護職を譲った。
 澄之には丹波国守護職を譲った。
 四月二十八日、澄之は丹後を攻める若狭国守護武田元信を援ける為に、千五百人の兵を率いて丹後に向かった。
 これが人々が固唾を呑んで見守った結果であったが、辰敬は都の桜にさえそうであったように、世の動きにも全くと言っていいほど無関心だった。
「管領職に専念するために、澄元と澄之に守護職を譲る。今後の二人の働きを見て、ふさわしい方に京兆家を継がせる。と、まあ尤もらしく裁いたように見えるが、結局は決められんかったんや。相変わらず優柔不断なんやけど、実はこれには裏があるのや。そもそも大樹から丹後攻めを命じられとったのは右京兆や。せやけど右京兆はやりとうなかったんや。何でかと言うとな……」
 木阿弥は辰敬の顔を覗き込むとにたりと笑った。木阿弥がこういう顔をした時は決して期待を裏切らなかったのだが……。
「守護大名に在京義務があることはわぬしも知っとるやろ。せやけど今日日呑気に都にいたら国を盗られてしまうよって、在京義務を守る守護大名なんかおらへん。ところが、たった一人、若狭国守護武田元信だけは都に留まり続けたんや。大樹はその忠勤ぶりにいたく感激してな、武田元信を幕府の相伴衆に取り立てたのや」
 これは異例の出来事だった。相伴衆は管領家一族や有力守護大名が任ぜられるものと決まっていたので、武田元信あたりが相伴衆になることなど普通は絶対にあり得ない事だったのである。将軍義澄はそれくらい武田元信を寵愛していたのである。
「すると、武田元信はどうしたと思う。何とすぐに若狭へ戻りよった。そして、かねてより領地の帰属を巡って争っていた隣国丹後に攻め込みよったのや。相伴衆になった途端、その威光を笠に着て戦を仕掛けるなんて、皆、呆れ果てたのやけど、大樹の寵愛は変わらん。右京兆ならずとも嫌になるはずや。それなのに、丹波は丹後の隣国やさかい、丹波国守護の右京兆は大樹から武田元信を援け、丹後の一色義有を攻めるようにとせっつかれとったんや。右京兆は大樹とはうまくいっとらん上に、武田と一色の喧嘩に首を突っ込んでも一文の得にもならん。そこで、澄之に丹波を譲ったんや。澄之は丹波を貰ったのはええけど、丹後攻めせなあかんようになった。澄之にしてみればええ迷惑や。澄元は摂津を貰って都におるのに、自分は都から追いやられて戦をせなならん。ほんまはやりとうないんやけど、鼻先に京兆家の惣領職がぶら下がっておるよって手柄は上げたい。悩ましいところや。どこまで本気でやるか迷ってはる。援軍が千五百人と言うのがええ証拠や。多分、すぐに戻って来よるで……」
 木阿弥の声は辰敬の右の耳から左の耳に抜け、頭の中にはぽりぽりと沢庵を噛む音しか残っていなかった。
 
 都を紫に染めた藤が散り、紫陽花が梅雨の訪れを告げる頃となったある日、辰敬は上京の寺まで使いに出た。
 公家屋敷が立ち並ぶ小路にさしかかると、大きな声が聞こえて来た。
「あかんゆうたらあかんとゆうとるやろ」
 前方の屋敷の門前に人だかりが出来ていた。
「御前様はいそがしいんや」
 門を背に居丈高に踏ん反り返る青侍の顔が見えた。
「あんたはんは耳つんぼか。何度言うたらわかるんや」
 覗き込んだ辰敬は、その青侍の足元に土下座せんばかりに頭を下げ続ける男を見て息を呑んだ。公典であった。
「庭先でよろしいのや。お手間は取らせませぬゆえ、ほんの少しお聞かせ願いたいのでございます」
「それが手間なんや。あんたはんの噂は聞いとるで。しつこいんやから。皆迷惑しとるんや。評判もえろう悪いで。中原はんの悪口も言うとるそうやないか」
「そんな、滅相もありまへん。嘘や、決してそんなこと言うてまへん。お願いでございます。この通りや、ぜひお目通りを」
「うるさいわい。ええ加減にさらせ」
 と怒鳴って踵を返そうとした時、公典は思わず青侍の袴の裾を掴んだ。
「お待ちください」
「こら、何をするんや。放さんかい」
 と青侍は公典の薄い胸を蹴飛ばした。
公典はわっと叫んで引っ繰り返った。
 青侍はじろりと見回した。
「見世物やないで」
野次馬達は潮が引くように立ち去った。
辰敬も公典に気づかれぬようその場を離れたが、物陰からそっと見守った。
青侍は忌々しげに公典を見下ろすと、
「人に物を頼む時は樽代ぐらい持参するものやで」
 と憎まれ口を利いて、門内に消えた。
 要は賄賂を要求しているのだが、明らかに期待はしていない口ぶりだった。
 暫くすると公典はよろよろと立ち上がると、土埃も払わずのろのろ立ち去った。
その後ろ姿を見送りながら、辰敬は初めて公典の苦労を知った。今まで公典がどうやって朝儀を書き留めているのか考えたたこともなかったのである。考えてみれば、公典は禁裏に出入り出来る身分になく、しかも主家が絶えてしまった公典には頼るべきつてもない。朝儀の仔細を書き留めようと思えば、こうして儀式に列した公家を訪ねて聞くしかないのである。そんな当たり前の事に、辰敬はいま気がついたのである。
 見たくないものを見てしまったと辰敬は思った。見なければ良かったと思った。なぜなら忘れようにも忘れられない光景になってしまったから。
 
「澄之は丹後を引き上げて丹波に戻ったで。な、言うた通りやろ」
 膳の向こうで、木阿弥が片目を瞑った。
「一方、澄元の方やけど、三好之長が右京兆のお気に入りになっとるらしい。三好は人たらしやからなあ……」
 辰敬が乗って来ないので、木阿弥は話題を変えた。
「ところで、わぬし、手習いを始めたと言うが、励んでおる姿を見た事もないし、手跡 ( て )を見た事もない。御屋形様から下され物まで頂いておるにどないなっとるんや」
 うっと冷や飯が喉につかえた。
「あ、あのう、通うとるんじゃ」
「ほう、どこぞの寺にでも通うておるのか」
 思わず頷くと、
「どこの寺や、誰に習っておるのや」
「あのう、そのう、加田様じゃ」
 自然にその名が出た。と言うより、他に知っている名がなかった。
「寺やないのか。誰や」
「公家じゃ」
「公家」
 木阿弥が素っ頓狂な声を上げた。
「聞いた事のない公家やな」
 根掘り葉掘り聞かれるのに、適当に応えていたが、稽古の結果を見せろと言われてしまった。
 
 翌朝、辰敬は加田家に転がり込むと、土間に両手をついた。
「お助けて下さい」

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3月18日。荒神谷博物館の『風土記談義』の一年が終了し、皆勤賞と精勤賞の表彰がある。精勤賞は一回休んだ人が貰う。
私は昨秋、特養の行事で一回休みがあり、皆勤賞はならず。無念であった。
去年は皆勤賞も精勤賞も10人いなかったのに、今年は皆勤賞が22人、精勤賞も17人と大量に表彰される。どうしてこんなに出席率が上がったのだろうかと考えてみたら、前年までの風土記談義は、現存する五風土記の内、播磨国風土記など他国の風土記の講義であった。それが去年の春から満を持して
『出雲国風土記』が始まった。皆、この講義を待っていたのだと思い当たる。誰しもおらが国の歴史には興味がある。
日曜の講義も、出雲東部の川沿いにある神社とその元宮の位置について考察する。マニアックな講義に思えるが、古代人は川を神の通り道と信仰していたという観点に立つと、古代出雲の中心を流れる川の支流域に多くの神社がある理由も分かろうと言うもの。驚いたのはこの神社の場所を一つ一つ特定し、さらにどこから移って来たのか(元宮の特定は重要)を、20年間も岡山から通って調査している原子物理学者がいると言うお話。この人の資料をもとに講義があったのだが、世の中すごい人がいるものだ。
出雲国風土記に登場する、山や川や神社の知識は確実に増えていることを実感する。
講義は月一回だが、関連する本は読むし、他の講演会に出たり、企画展を見たりするから、一年間で勉強した量はかなりなものだ。塵も積もれば山となるである。
イメージ 2左が皆勤賞と精勤賞の副賞。
「懐橘談(かいきつだん)」の復刻解読写本と荒神谷博物館の水田で獲れた赤米。皆勤賞はこれに黒米がつく。
「懐橘談」は松江藩藩儒黒沢石斎が前編を承応2年(1653年)、後編を寛文元年
(1661年)にまとめた出雲国の地誌で、古代出雲国風土記以降初めての出雲国の地誌と言われている。ぱらぱらとめくっただけだが、江戸時代も初期の作であるから、出雲大社の祭神もまだしっかりと素戔嗚尊(すさのおのみこと)になっている。神仏習合時代の仏教支配を受けていた時代の出雲大社のことも書いてある。土地土地の産物などが紹介されているので、風土記と比較したら面白いかもしれない。

この日は、10回目の研修旅行の案内も配られる。
6月5日~7日。「大和路の出雲を訪ねる旅」
個室希望だと50,690円。安くはないが、去年初めて四国旅行をして楽しかったのですぐに申し込む。これだけが年一回の自分への御褒美と思っている。
古代大和にいかに出雲の神々が関わっていたかを訪ねる旅である。
神賀詞(かんよごと・出雲国国造が代替わりする時、天皇に奏上する寿詞)に登場する神社を主に訪ねる。
……
710年平城京遷都
712年古事記完成
713年風土記撰進の詔
716年出雲国26 代国造出雲臣果安(いずものおみはたやす)神賀詞奏上
720年日本書紀完成
724年27代国造出雲臣広嶋神賀詞奏上
726年出雲臣広嶋神賀詞奏上(帰国して1年間潔斎して、再度大和に上る)
733年出雲国風土記完成・編纂したのは広嶋
750年28代国造出雲臣弟山神賀詞奏上
751年出雲臣弟山神賀詞奏上(帰国して1年間潔斎して、再度大和に上る)
……
716年が最初の神賀詞奏上と言われている。
この寿詞の中で、大穴持命(おほなもちのみこと=オオクニヌシ)が自分の分身と3人の子供で、皇孫をお守りすると誓っている。その分身と3人の子供を祀った神社、および関連する神社を巡るのが今回のツアーである。
調べたら車が入ることが分かったので行く神社もあると言う。去年に続きまたマニアックな神社巡りの旅になりそうで、今から楽しみにしている。
それまで忙しいことが多々あるが、このツアーを楽しみにひたすら頑張ろうと思う。

じゃが芋は新農法に取り組むことは3.1に紹介したが、さつま芋も新農法に取り組むことにした。それが『麦マルチ栽培法』
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高さ30㎝の畝を作り、畝全体と周囲に麦の種を蒔き、麦のマルチを作るのだ。
左の写真が3.11に大麦の種を蒔いたところである。
右の写真は、大麦の種を蒔いた上に、不織布をべた掛けしたところである。
不織布を掛けるのは、鳥が麦の種を食ってしまうからだ。
麦が育ち、不織布が掛けている所が一面麦に覆われる。それを麦マルチと言う。5月末か6月初め、さつま芋の苗を植え付ける時、畝に育った麦だけを抜き、そこに黒マルチを張って、さつま芋の苗を植える予定。畝の周囲の麦はそのままにしておく。雑草防御になるし、畝で育った麦はさつま芋の生育によい影響を与える土壌改良の役割を果たすらしい。それゆえ、本当ならさつま芋を植えるのは二カ月も先なのだが、早々と準備を始めた訳である。畑先生が来て、もうさつま芋をするのかと目を丸くしていた。新農法を得々と説明したが、お手並み拝見とばかりニヤニヤ笑っておった。
3.12はいよいよ新農法じゃが芋の植え付け。
イメージ 3今年は左から『はるか』48個。
中、『アンデスレッド』24個。
右、『グラウンドペチカ』24個を植える。
本を読んだら種芋は50g以上あるものを植えろとある。大きすぎてもいけない。そこで100g以上の芋は半分に切って、三日間乾燥させた。50~100gの芋はそのまま使う。

イメージ 4植え方も大違い。これまでは半分に切った切り口に灰をつけて、切り口を下にして土の中に植えたが、新農法では黒マルチに切れ目を入れ、そこから切り口を上に種芋を差し込み、土に押し込むように置くだけ。丸い芋も土に押し込むだけで、決して土の中には埋めないのだ。
土寄せを繰り返さなくても、肥料をやらなくても、これで芋が出来ると言う。イメージ 5
左が『はるか』48個。右手前が『アンデスレッド』24個。奥が『グラウンドペチカ』
24個。ペチカは皮のまま煮て食べると美味いと言うので買った。
正直半信半疑なのだが、これでじゃが芋が出来たらこんな楽なことはない。芋は黒マルチの下にごろごろ出来て、もう芋ほりをする必要もないらしい。芋掘りと言うより芋拾いなのだそうだ。いやあ、本当に楽しみだ。
後は連休頃、トマトと茄子と南瓜の植え付けをする準備をゆっくりやればよい。
実はトマトも新農法で多収量を狙っていて、暇な時に本を読んで研究している。
今年は新農法元年である。リタイヤしたら農業するのが理想の生活と思う向きがあるかもしれないが、私に言わせたら大間違いである。5年も6年も同じものを同じように作っていたら、飽きます。うんざりです。面白くもなんともない。嫌になってしまう。そういうこともあって、新農法に惹かれるのだが、元来新しいもの好きなのである。珍しい事や誰もやらない事、常識に外れた事など、やみくもにやりたくなる。チャレンジしないではいられない性分なのだ。新しいものにチャレンジしない人生なんてつまりませんからね。それは畑だけではない。あれも、これも、あらゆることにチャレンジするのだ。

大震災後、帰郷したので、毎年3.11を迎えると、よく思い切って帰郷したものだと我ながら感心している。あのままずるずる東京にいたら、妻を飛行機に乗せることはさらに難しくなっていただろう。出雲のようにすぐに特養に入れたかどうかも分からない。
親もこれほど年を取ると、大したことはしていないが、側に居るだけでもなにかしら役に立っているように思う。安心感はあるようだ。
日曜日には必ず特養へ行くことにしているので、三日ぶりに顔を出す。11時過ぎに行くが、今日は寝ていたので足だけをずっとマッサージしていた。寝ぼけ眼で気持ちがいいと言う。ベッドサイドで車椅子に座って手を動かしていればいいだけだから楽でいい。
天気は良かったが、風が冷たいので散歩向きの天気ではなかった。
3.4の晴れた日に、今年になって初めて車椅子で外へ出ている。
お彼岸を過ぎたら外へどんどん出ることが出来るようになるだろう。
起こして、昼ご飯を一緒に食べ、歯磨きをして引き上げる。一緒に行くと言うので、15日から外泊、迎えに来るからとなだめて帰る。

語録(10)
2006.4.17
トイレ誘導した後
「おしっこしてお利口だから、チョコレートぐらい買って来てよ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私の足も(病気が)長かったねえ。3月からだから。お父さん、世話してくれて。あの写真撮ったの誰?〇〇ちゃん(娘)?二人が仲良くしているの好きだからね」
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「私の左手はいいって!(触ると痛いから)あなたには関係ないと言ったじゃないか」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「うわあっ、エプロンまでありがとう。病気はするもんだね。優しいでしょ、モモちゃん(犬に)、こういう人を選びなさいよ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「お茶が来た、お茶が来た。じっと待ってるとお茶が来た。うれしい」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「豚肉が美味しかった。タレが美味しかった」
(夜の8時に夕食のメニューを思い出して。夕食を覚えているのは稀有なこと)
わが家ではないと言うので
「俺とお前の家だよ」
「お父さんがいるから、そうかもしれない」
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「お父さん、いい男ね。便をさせてくれてありがとう」
2006.4.26
夜、パット交換していると、痛いので、寝ぼけ眼で叩いたり、ひっかいたりする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「アンパン買いに行くの、連れてって」
「雨降ってるよ」
「傘さして行くの」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「お父さん、ここで一人で暮らしてたら、来てくれる人たくさんいるよ。いい男だから」
「おむつはいやだ。いつになったらおむつはしなくてもいいのだろう」
2006.4.29
TVぐらい見せてよ」
「ご飯の時は見ないと子供たちにも言ったでしょ」
「お父さんと二人の時はいいの」
「お父さんと話しながら食べればいいじゃない」
「お父さんと話すことはなくなったの」
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左手をマッサージしてやる
「動くようになるかな」
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TVを見て
100才になったらああなるんだ。私もああなるのかなあ」
2006.5.1
「お父さん、ときめきながら帰りなさい。私もときめきながら待ってるの」
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「モモちゃん(犬)、お茶が出たよ。うちの家でもお父さんがいれてくれるといいね」
2006.5.2
「ありがたいね、こんなにしてもらって。引き取り手がないと、川尻の家に帰れなかったんだから」
(実家に戻ったつもりなのか?)
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「こんなにしてくれる人はいないよ。〇〇姉ちゃん(従姉)こんなにしてもらったんだ。結婚したくなるよね」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私はこうして、がまんしてがまんして生きて来たから、一緒に暮らして行ける。幸せだったと思わない?」
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「新築の3階建てにしよう。ワンフロアーの」
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TVで愛のメモリーを聞いて〉
「どんな気持ちで聞いているの?分かって聞いているの?」
「お前は?」「分かって聞いているの」
〈カモメが飛んだ日の♪あなたは一人で生きられるのね~を聞いて〉
「私もそう思う。だから私は捨てられたんだって」
「起こして、食事の準備しないといけないから」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「やっこちゃん(架空の女の子)久しく見なかったら夢の中に出て来た。お父さん、お父さん、ばかり言ってる。お父さん、好きなんだね」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〈おもいっきり生電話〉を見ていて
「生電話に相談しようか。夫は女がいないんですけど。このまま女を知らないで死ぬんでしょうか。女がこわいことを知らないまま死ぬなんて。女はこわいことを知らないんだから。本当に私が一番こわいことを。殺してやりたい。夢の中ではいつもあなたを殺してるんだけど」


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