曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2017年12月

29日から、1月4日まで、お正月の外泊。29日の午後、迎えに行く。
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上の写真は暮れの特養。忘年会は2時半頃からだったので都合がつかず見物できず。
妻はカラオケをすすめられ、テレサテンを歌うの、やっぱり歌わないのとゴネていたが、迎えに行った29日に職員さんに聞いたら、何とか歌ったらしい。こういう機会があったら出来るだけ出て行って欲しいので、少しでも歌ったと知り嬉しかった。
30日は娘夫婦が戻って来てくれる。やっぱり娘の顔は効果がある。
30日の夜の9時過ぎに足を揉めと言う。いつも適当にやってお茶を濁しているのだが、今度はあっち向けろ、こっち向けろ、膝を曲げろ、足を伸ばせなどと注文が多く、なかなか解放してくれず、結局40分以上揉み続ける。何とか途中で逃げ出そうとするのだが、そのたびに注文が出るのでやめるにやめられず。だが、考えてみれば、特養にいる時はプロのマッサージは受けることが出来ても、夜の9時過ぎにマッサージは絶対に受けられない。こんなことは外泊した時しかできないのだからと思うと「やっぱりやってやらなければなあ」と、しばらく揉んで放免してもらう。
31日朝は、着替えをしていたら、「部下がみてるぞ、だめな上司だな」と叱られる。
朝食の準備をしていたら「こんな所で働いていたとは知らなかった。それじゃ小間使いじゃないか。皿洗ったり……」と、今年も最後まで絶口調。
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これは暮れのイオンモール出雲に展示されていた「吉兆さん」。
「吉兆さん」は1月3日に大社の町で行われる。
「吉兆さん」と呼ばれているのが、歳徳神の大幟で、これを持って町内を歩き、大社にお参りする。
大幟の前を行くのが「番内さん」。竹のササラで地を打って悪魔祓いをする。
暮れから正月にかけては外出できないので、十数年初詣をしたこともない。勿論、見物に行ったこともないが、帰郷して初めて「吉兆さん」を見たので、正月の雰囲気を出すために載せてみた。
来年は「辰敬」の他に、3年かけて書いている時代小説があって、これが9割方進んだので、これを早い時期に完成させるのが目標です。
1年間変わり映えのしないブログでしたが、お付き合い頂き、ありがとうございました。来年も時たま覗いてみて頂けたら喜びます。
と、言うことで、今年最後の語録。

2006.3.7
「お父さん、いま心臓が悪そうな息をしたよ。ふうーって」
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2006.3.9
「(手が)だらんとして上がらないの。かなしいよ」
「〇〇(むすこ)にいったの、上げたい時に上がらないの」
2006.3.11
「お母さん、お母さんと呼ばれて幸せよ」
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「ずっとヒロアキ兄ちゃんでいてね。私の中では優しいんだから」
(「俺、ヒロヒサだよ」と、言ったのに対して)
2006.3.12
里いも料理を食べて
「里芋おいしい。いっしょうけんめい作っているのを見て涙が出たよ。私をらくさせてあげようと。涙が出たよ」
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「優しくしてもらうのが一番うれしいの。涙が出るくらいうれしいの」
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「寒くない」
「ありがとう。優しくなったね。お父さん。昔はとってつけたみたいだったけど、今は」
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「私、最近大学に合格した夢ばかり見るの」
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妻の俳句
「映画はやっぱり二人で見るもんだ」
2006.3.14
ご飯を並べてもらい。「わあ、私、お姫様みたい」
2006.3.15
「パパちゃんは口うるさい男だった」(と、聞いていたようだ)
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「〇〇(むすこ)はああいう時役に立つよ。何でも話していいよ。聞いてあげるからと言ってくれるよ」
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「いやになったら捨てていいよ」
2006.3.16
「株式市場もみないなんて、つまらない人間になった」
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「いま一番欲しいもの何?私は家族の幸せ」
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「レポートを書いたよ。大学行ったら休めるかと思ったら高校より忙しい」
2006.3.17
「昔の人に会うと楽しんだよね。その頃に返るから」
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「おじちゃん(俺をおじちゃんと思い込んで)、まめだね。お嫁さんいらないね。掃除したり、料理したり」
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「こんなん見てたら、邦子さん、幸せね。と、お母さん言うよ」
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「私の左足はどこで折ったのかな。長くなるけど、つながってない。やり直さないといけない」
2006.3.18
「マラソンでゴールして、お父さんに抱きつきたい」
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「左手痛いと言ってるじゃないか。くそったれ」
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「寒くない?」と、聞いたら。「泳ぎに行ける?」
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部屋に入ったら、ベッドから「遠いところからご苦労さん」
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「夜になるとお父さんに甘えたくなるの」
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「お父さん、今日コーヒーを買ってお金がいったでしょう。明日、お金おろすからね」
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マッサージしていて「気持ちいいだろう」
「いちおうウンと言っとかないと、何されるかわからないから」
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「へんな夢見てた。お父さんに移り香があって悩んでたの。どこで持って来たんだろうね。まだ匂うような気がする」
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「夢を見てたの。モモちゃん(飼い犬)が私に『お方様』て言うの。『そんなことぐらいで泣くな』と」
2006.3.19
「お父さん、皇太子に似て来た。ばかみたいにニコニコして」
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「お父さんにお金貰ったけどどこへやったかしら」
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「おむつ替えるの、下手になったね。寒くておしっこするよ」

イメージ 1イメージ 2イチゴ畑の手前の枯れたイチジク。
この根を撤去すれば畑が広がることは分かっていたが、帰郷してすぐ、今イチゴ畑のある所に枯れたイチジクの木が2本あって、そいつの根を掘るのにえらい苦労したので、放置していた。
だが、開拓魂に火が付き、文字通り根っこを燃やしてみることにした。これなら力仕事しなくていいし、庭の枯れ木や枯れ葉も燃やせるし、第一寒くなくていい。焚火気分で楽しんでやれると思っていたが、ちょっと見通しが甘かったようだ。幹は枯れたが土中の根はまだ生木みたいなものでなかなか燃えてくれない。時間は掛かりそうだが、焚火をしたくなったら出て来てやろうと思う。本当に暖かくて気持ちがいい。
人がこんなに焚火が好きなのは、火を囲んだ太古の人の記憶がDNAに染み込んでいるからだろうと思った。
イメージ 3イメージ 4金柑と分葱(わけぎ)
写真で見ると、金柑はよくできているように見えるが、実は色が悪い。くすんだような色で、輝くような黄金色になっていない。非常に見栄えが悪く、まずそうで食う気にならない。
今年は下草も抜き、肥料もやり、どんなに美味しい金柑が出来るか楽しみにしていたので、がっかりである。
理由はわからん。
分葱も葉が枯れたように茶色になってしまった。理由はわからん。多分、肥料をやらずに放りっぱなしにしていたからではないかと。慌てて肥料をやったがどうなるやら。
イメージ 5イメージ 6大社街道沿いの桜の木。
左の写真では分からないが、白く小さなものが無数になっている。
近くで見ると(右の写真)桜の実が白くなったものであった。
葉が生い茂っている時は気が付かなかったが、実が一杯なっていて、葉が落ちたので、「何だろう」となったのだろう。白くなったのは枯れた(?)のか。記憶をたどれば、赤い小さな桜の実を見たことがっているが、冬にこんな光景を見たのは初めてである。家の近所の桜は普通に冬枯れている。
自然のことは分からないことだらけである。
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以前、紹介した吉田雄亮さんの新作が暮れに発売されましたのでご案内します。
深川鞘番所シリーズとして、10作続いたものですが2年前に終わりました。ところが読者からの次作を望む声があって、2年ぶりに再開することとなり、
「新・深川鞘番所」として発刊されたものです。
発売してすぐ増刷も決まったそうです。
暮れから、正月休みにかけてのひと時を本を友に過ごそうと思われる方がおられましたら、お手に取ってください。
私は明日から本気で正月の準備をしないと間に合わない。正月外泊で妻が戻って来るので、あれもこれもとやることが一杯あるのだが、思うに何をやらないかを決めた方がいいようだ。

第二章 都の子(8
 
辰敬は諦めなかった。この日を逃したら次はいつ会えるか分からない。辰敬は奪い合いの混乱の中で、娘の白いふくらはぎが通りを北へ遠ざかって行くのを見ていた。
辰敬は走った。
二条大路に出ると、広い道のはるか先に、豆粒のように小さい娘の後ろ姿を見つけた。朝の早い時間だったから見通せたが、賑わう日中なら見つけることは不可能だったろう。
娘は東の野っ原の方へとぼとぼと引き返していた。もう振り返ろうとはしなかったので、後をつけるのは楽だった。辰敬は一気に距離を詰めた。
娘は小路を左に折れた。室町小路だ。この道を北へ上り詰めた所に、花の御所の跡地がある。
娘は冷泉小路、大炊御門大路を渡ると、次の春日小路の手前で、左手の路地に曲がって消えた。
辰敬は角まで走ると、そっと路地を覗いた。
路地の両側には築地塀に囲まれた小屋敷が続いていて、娘はその中ほどの藪垣に囲まれた一軒に消えた。
辰敬は意外に思った。辰敬は娘は下京の貧しい町民と思い込んでいた。藪垣とは言え、上京の垣根のある家に住んでいるとは思ってもいなかったのである。
辰敬はそっと近づき、かつては門柱が立っていたと思われる藪垣の切れ目から内部を窺った。三十坪ほどの敷地に、板屋根の小屋敷と納屋があるだけで、屋敷は昨夜の嵐で倒れなかったのが奇跡と思われるほどの陋屋だった。屋根にも幾つか穴が開いていた。
「何で付け回すんや」
 いきなり娘が現れると、痩せた身体を震わせながら憤怒の声で叫んだ。悲鳴に似た、今にも泣き出しそうな声だった。
眉は吊り上がり、般若のような顔だったが、辰敬は怖いほどに美しいと思った。
辰敬は屋根板を差し出した。
「これだけしか取り戻せんかった」
「いらん、そんなもんいらんとゆうたやろ」
 辰敬は屋根を見上げた。
「穴が……」
「余計な御世話や」
「だけんど……」
「わぬしのものなんかいらん。帰ってんか。侍なんか嫌いや」
「なんや、いち、どないした……」
 初老の夫婦が出て来ると辰敬に怪訝な顔を向けた。男は貧乏神が現れたのかと思ったほど貧相で小柄だった。煮しめたような直垂(ひたたれ)の前が肌蹴、あばらの浮いた胸が覗いている。
 女も油気のない白髪まじりの髪を束ね、疲れた顔をしている。
「屋根板を拾いに行ったんやないのか」
 手ぶらの娘に父親が問うと、いちと呼ばれた娘はぷいとそっぽを向いた。
 辰敬はすかさず屋根板を差し出した。
「取られそうになったのを取り返したんじゃ」
 夫婦ははっと屋根板を見詰め、辰敬に目を移した。値踏みするように全身を見回すと、困惑したように顔を見合わせた。侍の子を警戒しているようだった。
「いずれの家中や」
「京極家じゃ」
 男は首を傾げ、
「都の者やないな」
「出雲じゃ」
「出雲はもう尼子のものやろ」
「父上は尼子家に御奉公しちょるが、我は京極家の御屋形様に呼ばれて上洛したんじゃ」
 途端に一家の顔色が変わった。視線は警戒からあからさまな敵意に変わっていた。その刺すような視線に辰敬はたじろぎ、当惑を隠せないでいた。
 気まずい空気が流れた。
父親はちらちらと屋根板に目を落としていたが、不意に何食わぬ顔で、
「ほなら、もろうておこうか」
 と言ったので、妻と娘は驚いて、咎めるような目を向けた。
「かまへん。くれるゆうんやから。もろておけばええのや。ほなら、そこへ置いて帰ってくれてええさかい。おおきに」
 と、辰敬は体よく追い返されてしまった。
 辰敬は路地の出口まで来ると、そっといちの屋敷を振り返った。隠れて成り行きを見守っていると、いちの父親は梯子を運んで来て、屋根に上がった。
 だが、へっぴり腰が危うく見えた途端、父親は屋根を踏み抜き、わっと悲鳴を上げて転落した。
 辰敬はだっと駆け出した。
 藪垣の内では母子も飛び出して来て、大騒ぎをしていた。父親は腰を打ったが、大事はなかったようであった。
「お前様、穴が増えたやありませんか」
 妻が難じた。
「やかましい……ごちゃごちゃ言うな……竹ちよ、はよう起こせ……手を貸せ……あ、痛たたた……」
 いちの母は竹ちよと知れた。竹ちよは仏頂面で亭主を引っ張り上げた。
「こら、もっと優しうせんか」
 騒ぎをよそに、いちは憮然と屋根を見上げていた。
 辰敬はそっとその場を離れた。
 その日の昼過ぎ、いちの一家三人は屋根板を十枚も背負い、滝のように汗を流して現れた辰敬を見て、目を見張った。
「我がやるけん」
 梯子はそのままになっていたので、呆気に取られている一家を尻目に屋根に上がった。
 板屋根の修理の経験はないが、日常茶飯に目にしていることなので、見よう見まねで夕方までには全部の穴を塞いだ。
 その間、夫婦は迷惑そうな顔をしていたが、修理が終わると流石にほっとしたようであった。
「ふーん、侍の子にしては使えるやないか」
 いちの父親は憎まれ口を利くと、
「ほなら、梯子を返しといてや。おおきに」
 と引っ込んでしまった。
 いちは姿を見せなかった。
 辰敬は裏の家に梯子を返しに行った。
 茅葺きの小さな庵に住んでいるのは常陸坊と名乗る陰気な中年の山伏だった。
 辰敬は恐る恐るいちの父親が何者なのか尋ねた。
「お公家はんや」
 面倒臭そうに答えたが、辰敬が怪訝な顔をしたのを見ると、
「あんまり貧乏やから驚いたのやろ。ま、公家ゆうても(そうろうにん)やけどな……と、ゆうても分からんやろうなあ」
 にっと笑うと、
「候人と言うのは公家に奉公する公家の事や。禁裏に仕える公家やない。摂関家のような大きな家に仕える公家の家来や。まあ、使用人みたいなものや。加田(かだきみのり)ゆうて名前だけは立派やけどな」
 迷惑そうな顔をしていたくせに、結構話好きだった。
「荘園を持っておる訳でも、関所や座の権利を持っておる訳でもない。主から扶持を頂いて細々と暮らしておるのや。ま、今日日荘園なんか持っておっても、皆、武士に押領されて、米一粒たりとも入っては来んけどな。せやから、加田はんの主みたいに首を括る羽目になる」
 いきなり剣呑な話になって、辰敬は固唾を呑んだ。常陸坊はおもむろに白湯で喉を潤すと、隣家の悲運を淡々と続けた。
「加田はんの主は、一条家の分家であちこちに荘園を持ってはったんやけど、皆、押領されてしもうて、伯耆国の西にかろうじて一つだけ残ったんや。せやけど、それも危のうなったんで、主自ら伯耆に下向して、荘園を取り留めようとしはったんや。ところが現地の地侍は尼子経久の宛行(あてがいじょう)を見せ付け、米一粒どころか、草一本たりともやらぬと追い返したんや。加田はんの主は最後の頼みの綱を断たれてしもうて、絶望しはったんやな。都へ戻る途中に首を括ってしもうたんや。それが、七、八年前の事かな。哀れなのは残された加田はん達や。主家は絶え、扶持も入らんようになったんや。雑色と下女も一人ずつおったが、加田はんは暇を出してしまはった。この御時世、候人を雇ってくれる公家はなし。どないして暮らしてはるのか、わしもよくは知らんのや」
 加田一家が武士を嫌うのは尤も至極であった。
だが、よりによってその元凶が尼子家だったとは。屋根の修理でいちの歓心を買えると思った甘い期待は木っ端微塵に砕かれた。
辰敬はいちの憎しみの籠もった目を思い出し、運命のいたずらを呪った。
 公家受難の時代であったが、公家領だけの災難ではなかった。寺社領、門跡領は言うに及ばず、朝廷領さえも武士の押妨を受けていた。一乱以降その勢いは留まるところを知らず、畿内の荘園で無傷な所は殆どなかった。
 食えなくなった公家達はまだかろうじて経営出来ている地方の荘園に逃げ出した。下剋上で成り上がった武士たちは、都の文化に憧れていたので、その地で歌学や蹴鞠、管弦を伝授した。
 朝廷の許しを得て下向する者はいい方で、中には朝廷への勤めを放棄して、無断で下向する者もいれば、期限が来ても都に戻らぬ者もいる始末だった。
 頼れる荘園のない公家達は歌学や蹴鞠などを伝授しながら地方を旅して回った。武士が嫌いと言っては生きて行けぬ。したたかな公家の中には、田舎侍達からしっかりと謝礼を巻き上げ、結構な旅暮らしをする者もいたのである。
 忙しい一日が終わって、京極邸へ戻った時はすっかり暗くなっていた。
 長屋の前に木阿弥の影があった。
 屋根を見上げている。土間の上の屋根板が消え、ぽっかりと大きな穴が開いていた。
「どないしたんやろ」
 まさか辰敬が剥がして、加田家の屋根の修理に使ったとは言える訳がない。
「風で飛んだんじゃ」
「阿呆、飛んだのは三枚だけや。こないに大きな穴は開いとらん。誰かが剥がして修理に使ったに違いない。儂の屋根板を剥がすとは太い奴や。草の根分けても探し出し、懲らしめてやる」
 息巻く木阿弥に気づかれないように、辰敬はそっと首を竦めた。
 次の日から、辰敬は時間の許す限り上京へ通った。
が、加田家のある路地へ入る勇気はなく、日がな小路の雑踏から、路地の出入り口を眺めていた。
いちの姿がちらりとでも見えると、心の臓は破裂した。息も止まった。その痛みと苦しさに、辰敬は恍惚となった。
が、辰敬はもういちを尾けようとはしなかった。もし尾けていることが分かったら、その時こそすべてが終わると思ったのだ。
こんなことを続けていて、どうなるのかまるで成算はなかったが、今はこうして遠くからいちの姿を垣間見られるだけで幸せと思わねばならなかった。
いつしか木枯らしが吹き始め、日毎に風は冷たくなったが、そこに立つだけで、身体の奥から燃えるように熱くなる辰敬は寒さを感じなかった。
が、暮れも迫ったその日の比叡おろしは骨の髄までこたえた。
がちがち歯を鳴らし、こういう日を耐えてこそ男と痩せ我慢していると、唸りとともに砂煙を上げて、一陣の風が吹きつけた。
皆、風に背を向け砂塵を避けた。
「ああ、待て、待て……」
 叫びながら路地の奥から飛び出して来た男がいた。いちの父親加田公典であった。
 公典が追いかけているのは数枚の反古紙であった。だが、比叡おろしに吹かれた紙はまるで公典を嘲笑うように舞い上がった。
 辰敬も町行く人々も、この奇妙な追いかけっこを呆気にとられたように見送った。
「ははは……」
 聞き覚えのある笑い声がした。
 振り返ると常陸坊が立っていた。
 常陸坊はじろりと見下ろした。
「毎日、御苦労なことやな」
 常陸坊は気がついていたのだ。
(毎日ではない)
 と言い返そうとしたが、下手に弁解すると、倍返しにいたぶられそうな気がしたので黙っていた。
 常陸坊は震えている辰敬に、
「温まって行くか」
 と声を掛けるとすたすたと歩き出した。
 辰敬は飛びつくように尾いて行った。
 いちに見つかるのではないかとどきどきしながら路地を進んだが、常陸坊の庵に足を踏み入れると、辰敬は少しがっかりした。心のどこかで、いちに見つけて欲しいと願っている自分がいたのだ。辰敬が近くにいることを意識して欲しくもあった。いちを尾けた訳でも、加田家を訪ねた訳でもない。常陸坊に会っているのだから、いちに咎められる理由はないはず。
 そんなことを思いながら、常陸坊が湧かしてくれた白湯を飲んでいると、いちの隣家にいると思っただけで、ほんわかと幸せな気分になるのであった。
「加田はんはなあ、それはそれはけったいなお公家はんや」
 常陸坊は問わず語りに語り出した。先日とは口調が違っていた。
「記録魔なんや」
 辰敬が首を傾げると、
「内裏の出来事や主上の身の周りであった事、朝議や宮廷の行事など、ありとあらゆることを微に入り細に渡って書き留めてはるのや。それも誰に頼まれた訳でもないのにや。もちろんそんな役目に就いている訳でもない。奉公先すらない候人なのにや。皆、呆れ果ておる。女房の竹ちよはんも嘆いてはる。せやけど、加田はんはただひたすら書き留めてはるのや。それがさっきの紙や。貧乏やから紙を買う金などあらへん。反故紙を集め、その裏に書いてはるのや」
 常陸坊は辰敬の目を覗き込んだ。
「紙は加田はんの命や」
 不健康な黄色く濁った目がぎらりと光った。
 薄気味悪くて目を背けると、常陸坊が鼻白んだように呟いた。
「なんや、鈍い奴やなあ。せっかくええこと教えてやったのに」
 辰敬が怪訝な顔をすると、常陸坊は大真面目な顔でのたもうた。
「将を射んとすれば先ず馬を射よと言うやろ」
 辰敬ははっと常陸坊を見詰めた。
 常陸坊はにたりと唇を歪めた。お見通しと言わんばかりの笑い方がいかにも下卑ていた。
辰敬は赤面し、逃げ出した。
常陸坊は声を上げて笑った。
 
 
 
 
 

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裏のMちゃんと運び屋さんと私の3人で庭の枝や草などの大片づけをする。市の処分場は重量で処分費を決めるので、生木を持ち込むと重くなる。1カ月ぐらい前に切った高野槙やそれ以前に私が切った木が乾いたので今日持ち込むことにした。
9時ごろから始めるのかなと思っていたら、Mちゃん7時半ごろにはもう片づけを始める。田舎の人は早い。私は大慌てで朝飯をかき込み、庭に飛び出す。ブルーシートに枝や枯れ草などを乗せて門の前までずるずる引っ張って行く。大小5枚のブルーシートで運び出したところへトラックが来る。上の写真はその2回目に積み込んだところ。トラックは3往復する。傍ら裏庭で枯れ葉を燃やす。そのついでに何やら竹に似た木か草か分からんものを抜く。こいつはほっておくとタケノコのようにあちこちからにょきにょき出て、背丈より大きくなる。掘ってみたらまるで山芋みたいな根が出て来る。天気が良かったのが救い。1時前に終わったがくたびれた。庭だけはこれで正月が迎えられる。
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   👆12月17日 イチゴ畑 カンペキ

👈12月12日 おろし大根&おでん大根

上は左がおろし大根。右がおでん大根。両方とも大きさ的には不満。こんな大きさのものなのか、作り方が下手で小ぶりなのか、よくわからない。味は普通。自分で作ったので美味いと言うことにしている。親は美味い美味い、自分の家で作ったものが食べられるのはありがたいことだと言ってくれる。
イチゴ畑は最後の補強をした翌朝の様子である。カンペキである。少々の風でもびくともしない。これで一安心。来年の2月になったら敷き藁を取り、追肥をするのだそうだ。ところで、気になったので、イチゴ先生の畑を見に行く。敷き藁なんぞ一本たりとも敷いていない。「なーんだ。敷かないのかよ」である。次からは敷かないことにする。隣のイチゴ畑も敷き藁を飛ばされた後はもう敷かないと言っている。
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👈12月17日
 早生の玉ねぎ

早生には12月下旬に第一回の化成肥料をやれと育て方に書いてあったので、ちょっと早いけれど、さっさと済ませてしまいたいので肥料をやる。マルチ栽培の場合は一つまみやれとあるが、一つまみがどれくらいか分からない。困ったものだ。初めはすこしづつおっかなびっくりでやっていたが、最後は一つまみの分量がどんどん多くなる。マルチの上に散らばっているのは雨で溶けて穴の中に流れ込んで行く。晩生の玉ねぎは1月上旬にやる予定。庭と畑はすんだが、正月準備が控えている。去年は妻は病院だったが、今年は自宅で迎える。故郷の味、熊本の馬刺しを食べさせてやろうと思って通販で頼んだ。高いな。

週末は松江で講演、荒神谷博物館で月例の風土記講義。
一番行きたかったのは、12月12日に東京市ヶ谷であった角川主催の歴史セミナー。募集人員40名。参加費4000円。飛行機代かけても行きたかった。そのテーマが『古事記のなかの出雲大社はどこまで本当か』。私が一番知りたいことである。夜の講演だから日帰りが出来ない。翌13日は父の訪問医の往診がある。何かと忙しい師走でもあり、泣きの涙で諦める。しかし、諦めが悪く、往生際の悪い私はレジュメだけでも手に入れようと、4000円払ってもいいからと電話したら、何と係の女性が「実は延期になりました。4月28日に行います」と、言うではないか。思わずバンザイ!ゴールデンウィークでもあり、親の具合にもよるので、必ず行けるかどうかは分からないが可能性はある。しつこく電話してみるもんだ。ちょっと楽しみ。
昨日12月16日は松江で古代文化センター主催の『国引きするスサノオ』の講演。
出雲大社の主祭神は誰もが大国主命と思っているだろうが、実はスサノオノミコトが主祭神であった時期が、中世から江戸時代の初期まで相当長い期間続いているのだ。
なぜ、スサノオに変わったかと言うと、神仏習合の影響である。神仏習合で勢力を広げるのは仏教の方である。中世出雲では出雲大社のすぐ近くの鰐淵寺(がくえんじ)が武士と結び勢力を広げる。武士は因幡の白兎を助けた大国主命より、荒ぶる神のスサノオを信奉する。そして、国引きをしたのはスサノオであると言う、仏教的世界観に立った神話を作る。古代インドにある霊鷲山(りょうじゅせん)の一部が崩れて、ぷかぷか漂っているのを、スサノオが引っ張ってつなぎとめたと。
武士の世となると、出雲大社は武士と結んだ鰐淵寺の支配を受ける。何と境内に三重塔やその他の仏教施設が出来る。戦国時代、尼子経久は出雲大社で僧侶を集めて法華経を唱えさせる。
そう言う歴史を知った時、私は単純に「実にけしからん」と思ったのだが、講演では民衆の支持があったからスサノオは長い間受け入れられていたのだと説く。
スサノオは昔から人々に愛される要素を持った神であった。冥界に行ってしまった母のイザナミを慕って、泣き叫び、海や山を破壊したので、父のイザナギに追放される。高天原に戻って来るが、乱暴狼藉を働き、姉のアマテラスを悩ませる。二度目に追放された出雲では、八岐大蛇を退治して、クシナダヒメを救って英雄となる。
スサノオの子孫にオオクニヌシが誕生し、スサノオはオオクニヌシをバックアップする大神となる。そういう波乱万丈の荒ぶる神が人々を惹きつけたのである。
私はスサノオは高天原と出雲を仲介するために大和勢力が都合よく創造した神(注)
と決めつけていたが、この支離滅裂な途方もないキャラクターは出雲の人間をも惹きつけるだけの魅力があったのだと見直させられたのであった。
1667年寛文7年の遷宮造営の時、国造家は祭神をスサノオから大己貴神(オホナムヂ)=オオクニヌシに改め、鰐淵寺僧侶の関与を絶つ。
※(注・文末に補足18日)
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12月17日は風土記講義。
10時ごろの荒神谷博物館。
この日は降ったかと思うと晴れ、晴れたかと思うと降り出し、目まぐるしく天気が変わる。
この時は激しく降っていた。
白いのは広場の雪。その向こうに細長く見えるのが蓮池。

まだ、風土記の最初に登場する意宇郡(おうのこおり)の解説。郷と驛(うまや)の解説が終わり、今日は「忌部神戸(いむべのかむべ)」のお話。
国造が神吉詞(かむよごと)を奏すために朝廷へ上る時、みそぎの清浄な玉をつくる場所とある。温泉があり、老若男女集まって楽しむ。病も治る。神の湯と呼ばれているとあり。忌部神戸とは今の玉造で、神の湯は玉造温泉のことである。
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神吉詞










そこで、今日の講義はそのほとんどが「神吉詞」について。
神吉詞とは、出雲国造が代替わりする時、朝廷に参上し、天皇の世を称え、朝廷に奉仕することを陳べる詞章である。
710年平城京
712年古事記完成
713年風土記撰進の詔
716年26代国造出雲臣果安(はたやす)が奏上したのが初めてと言われている。
720年日本書紀完成
724年27代国造出雲臣広嶋、神吉詞奏上
733年出雲国風土記完成
神吉詞では大穴持命(おほなもちのみこと)=大国主命は分身を大和へ送り、3人の
御子も大和へ送り、大穴持命は杵築大社にあって、皇孫を守る云々。
素晴らしい文章なのが切ない。強大な権力に支配されるのを受容するのはこう言う文章を書くことなんだと教えられたような気がした。

(注)創造と書くと、スサノオを創造したように誤解されるので、補足します。
大社の南、日本海に注ぐ神戸川(かんどがわ)上流に須佐(現出雲市)と言う小さな山里がある。スサノオノミコトは元はこの山里の守護神に過ぎなかった。
この須佐と山を隔てた東の斐伊川の上流に、大昔は熊谷郷(現雲南市)があり、ここにはクシイナダヒメの伝承がある。
古代出雲の山間部でいつの頃からか、この二人の神を結ぶ話が作られる。ここにどの程度ヤマタノオロチが関わるのかはっきりしないが、おそらく素朴な地域神話であったと思われる。
それを、大和朝廷が取り込んだことにより、スサノオは壮大な神話の担い手になって行ったものらしい。天孫系神話に後から入り込み、大和と出雲を仲介する役割を与えられるうちに、どんどんその役割が大きくなり、国を産んだイザナギやイザナミよりも、姉でありこの国の最高神であるアマテラスよりも、愛され親しまれる存在になったのだと思う。

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