曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2017年10月

10月9日にイチゴの苗を2つの畝に35本植える。品種は『宝交早生』で苗1150円(税抜き)。一番安い苗。それ以外はすべて330円~350円くらい。高いのを35本も植えたら、それだけで1万円を超える。初めて作るのにそんな冒険は出来ない。
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教科書通りに高さ30㎝もある畝を作ったが、近所の人は誰もそんな畝など作りはしない。ほとんど平地と変わらない畝に適当に植え付けている。イチゴは本体の苗からルーラーと呼ばれる茎が1本伸びて、その先に子供の苗が出来、さらにまたそこからルーラーが伸びて、孫の苗が出来、次々と実をならせて行くのだそうだ。
教科書にはルーラーの伸びる方向を外に向けて揃えるように植えましょうとある。だが苗によってはルーラーが伸びる方向が分からないものがある。困って、ご近所さんに聞きに行ったら、「そんなの適当だよ。みんな外側に伸びたら見た目はきれいだけど、反対側に伸びたって、イチゴはちゃんとできるから。気にしない、気にしない。適当々々」
真面目に作るのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
片方の畝にはモミを敷く。これは雨で土の跳ね返りが葉っぱにつくのを防ぐためである。乾燥も防ぐ。もちろん教科書通り。ご近所さんは土に植えっぱなしである。少々土が跳ね返っても気にしていない。
もう一つの畝にもこの後モミを敷いたので、1022日の台風の大雨でも葉っぱが泥だらけになることはなかった。大根やカブ、白菜、レタスはかなり泥
が跳ね返っている。
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10月中旬のホーム玉ねぎ(手前)        10月中旬の白菜
奥はわけぎ
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(左)10月中旬。手前から、ほうれん草・春菊・小松菜
(右)10月中旬。手前から、おろし大根・かぶ・おでん大根
かぶの両脇に花が植えてある。マリーゴールドである。たまたま種苗店でマリーゴールドの苗を見つける。暑い時の花のイメージがあるので、もうシーズン末期ではないかと聞いたら、12月まで楽しめると言うので『お試し』で購入する。実はマリーゴールドでは前々から試してみたいことがあったのである。と言うのは、マリーゴールドには害虫を近づけない特性があり、土中のセンチュウも追い払う力があると聞いていたからだ。さつま芋もじゃが芋もかなり穴を開けられてしまった。多分、センチュウの仕業だと思う。
カブの葉にも害虫が来ている。2カ月ほどでどの程度効果があるか分からないが、試してみようと思った次第。春になったらまたマリーゴールドを植える予定である。トマトやナスの害虫には効果があるらしい。来年は畝の間に植えて効果のほどを実験してみる。
イメージ 710月30日
晩生玉ねぎ『アトン』の苗を100本植える。近所は『もみじ』とか『ソニック』を植える。『アトン』は新品種でとても大きい玉ねぎが出来るらしい。
店員が言うには、「その大きさに感動して、リーピーターになる人もいます」。そう言われたら、新しいもの好きで、何でも試さずにはいられない私が買わない訳には行かない。楽しみが出来たが、果たしてでかい玉ねぎなんて美味いのだろうか。ちょっと不安ではある。
10月31日
極早生玉ねぎ『濱の宝』の苗を65本植える。早生を植えるつもりだったが、早生だと晩生より1カ月早く出来るだけで、極早生だと4月下旬には食べられると言う。早い方がいいので、これも初めて極早生に挑戦。
うまく行けば、1月からホーム玉ねぎ、4月から極早生、6月から晩生と続き、ほぼ1年間、玉ねぎを買わずにすむが、果たしてそんなにうまく行くかどうか?
兎にも角にも、今日で秋の植え付けはすべて終了。豆類は作らない。ほっと一息つく。後はきちんと肥料をやるだけ。農事に追い立てられた2カ月であった。畑周りの事は後はのんびりとやる。
『多胡辰敬』の他に書いている歴史小説が500枚になった。後100枚はかからない。目下の目標はこれを書き上げること。頑張ろう!!!さすがに年内は無理か。

妻の外泊は21日から26日まで。今日は特養のバザー。外泊の後半は天気が良くなって日光浴が出来たが、週末はまた雨。8月、9月、10月は2回、台風が来たが、みな似たようなコースを通り、こちらは大きな被害はなかった。今日は小雨。明日もそれほどひどい天気にはならないと思う
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10時開始で、オープニングは小学生の吹奏楽。今は田舎の小学生でも、トランペットやトロンボーンを吹いている。実に羨ましい。私が田舎の小学生の頃は、せいぜいハーモニカである。妻は小学生を見ると、自分の小学生時代を思い出し、涙が出ると言う。「皆の前で独唱してたのよ。あなた、できる?」「できん」「そうでしょう、わたしは目立ちたがりだったのよ」と、笑う。
こう言う記憶や、言葉は昔何度も聞いた話で、間違いはないのだが……演奏が始まると、例によって大きな声で一人で会場を盛り上げる。
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次は、平田のソーラン踊りの人たちの踊り。
妻も手を振って大いに楽しむ。
今や日本中がソーラン踊りだ。
このリズミカルで激しい、明るく楽しい踊りには、伝統的な踊りは太刀打ちできなくなっているような気がする。安来節にも頑張ってもらおう。
最後に職員のケンケン相撲の優勝者当てをやって、昼食。午後からのバザーの手伝いをするので、施設が弁当を出してくれる。私は妻といつものように昼食を食べてからバザーの手伝いに行く。私の役目はお買い上げ商品の袋詰めである。久しぶりに社会参加した気分になる。
この夏からでも、「夏祭り」「敬老会」「バザー」があり、11月には「花の郷」へ秋の花を見に外出すると言う。入所者のほとんどが車椅子だから、何をするにしても大変だ。

語録5
2007.2.5
(私を)おじさんと思っているので
「俺はお父さんでしょ」
「お父さんは消えちゃたの。死んだのかな」
「死んだ時、泣かなかったのかな」
「泣いたよ、子供たちがかわいそうで。私はうるさいのがいなくなってほっとしたかな」
2007.2.6
「〇〇ちゃん(娘)が抱きついて来ると幸せよ。私、ママちゃんにはできなかったから。じっと我慢していた」
(母が働いていたので)
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オムツ交換していて
「そんな優しいとこ人には見せないでね。お父さんが人に好きになられると困るから」
2007.2.7
 「夢の中でお父さんと付き合ってますと言う女が現れたの。性悪女であることないこと言いやがるの。私が驚くと思って」
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「土産話でいいなら安くていいね。私も外国行かせて。脚本家の妻だからいっぱい話を持って帰るよ」
2007.2.8
「お父さんも残しておいて。お父さんが死んだら読むから」
2007.2.9
「いいね、ももちゃん(愛犬)、ここはお茶を注いでもらえるよ。うちの主人なんかお茶なんて注いでくれないから」
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「夢の中ではいつお父さんの後ろ姿を見てるの。足が長くてかっこいいの」
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おむつ交換の時
「お人形さんみたいにしないで。セルロイドの手が取れるようなやつの」
「私がお父さんのおむつをかえてあげる」
2007.2.11
パット交換した時、寝ぼけて、「ああ、気持ちいい」
2007.2.12
「もう一度結婚式するの?」
「お父さん、気持ちがふらふらしているから。新鮮な気持ちでもう一度やり直すの」
2007.2.13
「お酒飲んでいい?ダンス踊ってくれる?よかったね、ももちゃん。今日は夢がかなうよ」
2007.2.14
オムツ交換の時「普通の人ならできないね」
時計を見て「6時から9時までずっと」
2007.2.15
「おむつ替える時、甘えちゃうの。小さい時の〇〇ちゃん(娘)みたいに」



私の知り合いの若い夫婦は福祉障害や援助関係の仕事に就いている。二人とも思うところがあって転職したものである。その縁で障害者の現状を知る機会がある
彼女が訪問する家庭には知的と身体の重複障害を持つ20代の女性がいて、母子家庭なので、兄が仕事を終えて帰宅してから世話をし、入浴が終わると深夜の2時になるのだそうだ。
その話を聞いて声を失うが、こう言うことは初めてではない。色々な重度の障害を持った人と、その家族の様々な実態に接するたびに同じ事を繰り返している。そして、毎度怒りを覚える。「どうにかならんのか」と。選挙が終わったばかりだから、その思いはいや増す。
手当を増やし、人手を増やすと言うスローガンにさえも苛立ちを覚える。手当を増やし、人手を増やすことはいいことだが、それで事足れりが透けて見える事に嫌悪感を抱いてしまう。
私はこういう事例に接すると、介護される人と介護する人の絶望的な孤独に思いを馳せる。
この孤独の深さをどう乗り越えたらいいのだろう。いや、そもそもつながることができるのだろうか? 家族を入浴させ、ようやく深夜2時にベッドに倒れ込む人と、つながることができるのか?
私なんか、お恥ずかしい話だが、「世の中にはこんな厳しく辛い介護をしている人がいるのだから、俺も頑張らなければ」のレベルを未だに越えることが出来ない。
21日から、外泊で妻が戻っている。
昼ご飯を食べさせた後、ベッドに寝かせ、その間に夕食の買い物へ行き、戻って来て、さてコーヒーでも飲んで一休みし、その後、ソファで横になろうと思っていたら、妻が起こせと言う。車椅子に乗りたいと言う。
そのまま夕食まで昼寝してくれると思っていたのに。起きても、すぐにまた寝ると言うのも分かっているのだ。移乗するだけだから大したことはないのだが、ちょっとだけ手間がかかる。左足が拘縮しているので、左足に装具をつけないと、うまく移乗が出来ない。わずかなことだが、それすらも面倒なのだ。寝たふりして、聞かなかったことにする手もあるのだが、介護して深夜2時に寝る人の話を思い浮かべる。
(その人からくらべたら、嫌だなんて言っていられない)
妻を起こしてやり。軽いおやつを食べさせてやる。案の定、20分もしたら、寝ると言う。
寝せてから、私はやっとソファにゴロンとなる。
手元の薄い冊子を手に取り、何気なく記事を読む。
アメリカの女性詩人、エミリ・ディキンスンと言う人の詩が紹介してあった。
 
『もし私が一人の生命の苦しみを和らげ
 一人の苦痛をさますことができるなら
 気を失った駒鳥を
 巣に戻すことが出来るなら
私の生きるのは無駄ではない』
 
素直に共感できた。おそらく誰もが共感するのではないだろうか。
こういう詩を読めば、多くの人は共感するのだ。
私は思う。この共感が、一個人で終わらずに、共助や共生につながって行けばいいのにと。
現状はその方法論がないのかなあと思っている。その方向を示すのは哲学の役目かもしれないし、社会制度が解決するのかもしれないし、人々の輪が果たすのかもしれない。
結局は人間にかかっている。問題は、私たちは簡単に人間以下になるけれど、人間以上にはなれないことだ。
 

第二章 都の子(6
 
 印地とは投石による戦闘である。
子供達が二手に分かれて石を投げ合う遊びも印地と言うが、あの喚き声や地響きはただ事ではない。
 うおっと鬨(とき)の声が上がった。東の鴨川の方から聞こえて来る。当時は投石も有力な戦闘行為の一つであった。紛れもなく石の飛び交う戦いが始まったに違いない。
 その時、辰敬の中で何かが弾けた。
 名状し難い凶暴な衝動が噴き上げて来て、辰敬は駆りたてられるように長屋を飛び出していた。
 気がついたら、群衆に混じって、荒れ地の中を鴨川の堤に向かって走っていた。
 頭が裂けてうずくまっている者や、血まみれになって逃げて来る者がいた。
 鬨の声や絶叫が一段と大きくなった。
「危ない」
「子供が行くんやない」
 誰かが袖を掴んだが、辰敬は振り払って突進した。
 堤には大勢の見物人が集まっていた。
辰敬は見物人の壁に頭から突っ込み、かき分けるようにして前へ出た。
 鴨川の上空を無数の飛礫(つぶて)と無数の矢が飛び交っていた。
 河原に展開した河原者達と四条大橋一帯に陣取った侍所(さむらいどころ)の兵士達が、飛礫と弓矢で戦っていたのである。河原者達は四条大橋めがけて投石し、兵士達は弓矢で応戦していた。
 四条大橋側には町衆も加わり、石を投げている者もいれば、胴巻きをつけて矢を射かけている者もいた。
 祭に喧嘩は付きものだった。祭の異様な高揚感が日頃鬱積した不満や怒りを爆発させる。逆に言えば、日頃の不満や怒りは、祭の時こそ爆発させる絶好の機会なのだ。それが祇園会ならば尚更であった。皆、この時を待っていたのだ。事あれかしを願っている連中にとって、理由など何でも良かった。足を踏んだ、肩が当たった、目つきが気に食わないで、喧嘩になり、果てはこのような戦になる。
 誰かが河原者が仕掛けたと言ったが、そうかも知れないが、そうではないかも知れない。いずれにしても、この騒ぎのきっかけなど、取るに足らぬ事に違いない。
 河原者達は侍所の兵士達を相手に一歩も退かなかった。
 都でこのような騒ぎになった時、もし京極家が侍所所司を任じられていれば、所司代の多賀氏が京極家の兵士を率いて出動し、侍所と共に協力して当たる。
だが、侍所所司は常置されなかった。むしろ置かれていなかった時期の方が長いぐらいである。
 京極家も最後に侍所所司を務めたのは文明十七年の一年だけで、その後は侍所所司は置かれなかった。
 幕府は侍所所司不在の時でも、都の治安を守り、裁判を行うために侍所開闔(かいこう)を置き、その下に事務方や兵士を備えていた。
開闔は侍所の長官で幕府奉行人が務めるが、奉行衆は文官であるから弱卒と知れていた。
 侍所開闔松田頼亮(よりすけ)自ら一隊を率いて駆け付けて来たが、河原者達は恐れ入るどころか一層激しく飛礫を浴びせた。
弓矢を装備している方がたじたじとなっていた。
 辰敬も田舎では富田川を挟んで、百姓や町人の子達と印地をしたものだが、いま目の前にある光景が、同じ印地と呼ばれるものとは到底信じられなかった。そこにあるのはまさに戦だった。憎悪のぶつかり合いだった。
 飛礫は数で矢を凌駕していた。
 一本の矢を番え、狙いを定める間に、飛礫は何倍もの数が降り注いだ。落ちている石を拾って投げればいいだけなのだから。河原に石は無数にあった。
 降り注ぐ飛礫を圧倒されたように見ていた辰敬の目が、その時、視界を真一文字に貫く一個の石を捉えた。
 その石は唸りを上げて、辰敬の視界を一直線に横切ったのである。一瞬の事なのに、辰敬にはその石の形も、色もくっきりと見えた。餅のように平たくて、縁は鋭く研ぎ磨かれ、金色の光りを放っていた。その時だけ時間が止まったかのようであった。金色に見えたのは、夏の陽光が煌めいたからであった。
 金色の石は空を裂き、糸を引くように飛ぶと、今しも矢を放とうとした兵士の額を真っ二つに割った。
 その間の距離がどれほどあったであろうか。何と遠くまで、速く、強い石を投げたものよ。
(一体あんな石を投げるのはどんな奴なのだろう)
 と、河原を見渡した辰敬はあっと声を上げた。
(あいつ……)
 投石集団の先頭にいたのはあいつだった。
 あの少女から屋根板を奪った憎いあいつである。
 その少年が投げた。
 あの凄まじい飛礫を。
 同時に周囲の少年達も一斉に飛礫を飛ばした。
 そこにいたのは数十人の少年達だけの集団だった。彼らは際立って統制が取れていた。
 石を投げるのは少年達の中でも屈強な者達だけであった。
 それ以外の少年達は石の補給係であった。石を背負い籠に入れて、最前線に運んで来るのだ。その石はどれも平らで投げやすく、しかも縁は鋭く研ぎ磨かれている。
 この少年達の集団はこの時の為に、戦闘用の石を大量に準備していたのだ。
大人の河原者達がやみくもに河原の石を拾って投げているのとは天と地の違いである。
 投げ手の前には盾を構え、矢を塞ぐ役の少年達もいた。
 あいつの号令一過、少年達は進んだり、引いたり。散ったかと思えば集まり、また二手に分かれて左右から攻撃したりと、自在に飛礫を投げ続けた。
 それもただ投げているのではない。
 飛礫は常にあいつが最初に投げた一点に集中した。
 狙われた者とその周囲にいた者達は凄まじい飛礫の集中攻撃を浴びて、たちまち血まみれになって倒れた。
 指揮の巧みさと統制のとれた動きに辰敬は思わず見惚れた。
 辰敬より、二つか三つ年上に過ぎないはずだが、今日のあいつは立派な大人に見えた。
 見事な若者頭であった。
 憎いばかりに。
 悔しさが込み上げて来た。どう足掻いてもあいつには太刀打ちできない。
 辰敬にとってあいつほど憎い奴はいない。あの少女の仇であり、辰敬にとってもこれまでの人生最大の屈辱を与えた奴である。憎んでも憎み足りないあいつが、辰敬も認めざるを得ない勇者ぶりを示している。
 光り輝いてさえ見えるのが、悔しくてならなかった。
 噛みしめた奥歯がぎしぎしと音を立てて鳴った。奥歯が砕けるのではないかと思うほどの音であった。その悔しさは、あの時、少女を前にして何も出来なかった自分への悔しさでもあった。あの時のみじめな姿が甦った。二度と見たくない無様な姿を思い浮かべる度に、不甲斐ない自分への怒りが込み上げて来る。同時にそれは屈辱を与えたあいつへの怒りでもあった。思い出すたびに、二つの怒りはいつもないまぜになって噴き出すのだが、あいつを目の当たりにした今の怒りは、自分の年齢でもそこまで思い詰めるかと、我ながら恐くなるくらい激しいものであった
(あいつをぶち殺してやる)
 それが不可能ではない事は、足元に転がっている石が教えてくれた。平たくて、縁を鋭く研いだ石であった。
まともにぶつかったら絶対に勝てないが、印地ならば勝てるかも知れない。
 いや、絶対に勝てる。
 辰敬は少女への思いを石に込めて投げれば絶対に当たると信じた。
 一撃で倒す。
そして、あの子に会いに行くのだ。
 あいつを倒したと誇らしく告げるのだ。
 仇を取ってやったと胸を張る。
 あの子は目を見張るだろう。黒い瞳が辰敬を見据え、驚きはたちまち好意に変わるだろう。
 その場面を想像しただけで、辰敬は勇者にならねばならぬと己に言い聞かせた。同時に無限の勇気が湧き上がって来るのを感じた。
 辰敬は足元の石を掴んだ。
 固く握りしめると、見物人を押しのけ、一気に土手を駆け下りた。
 背後でどよめきが上がるのを聞きながら、河原を走った。少しでもあいつとの距離を縮めるために。
 あいつは正面の敵に相対し、真横から突進して来る辰敬には全く無警戒だった。
 左のこめかみは全く無警戒に晒されている。
 当たる。
 辰敬は確信した。
 渾身の力を込めて右腕を振り上げた。そして、振り下ろそうとした瞬間、頭に凄まじい衝撃を受けた。
 一瞬目の前が真っ暗になり、辰敬は気を失った。
 
 頭がずきずきと痛む。
 右の側頭部から奥に向かって、錐を突き立てるような痛みだった。
 痛みに耐えきれず声を発した時、闇が消えて、見下ろす木阿弥の顔があった。
「よう生きとったな」
 第一声がそれだった。いつもの何とも捉えようのない顔だが、声には呆れたような響きがあった。
 辰敬は長屋の床に横たえられていた。
 そっと頭に手をやると、ぐるぐる巻きに布が巻いてあった。
「触るんやない。まだ傷は塞がっておらん。河原者の飛礫が当たったんや。少しずれとったら今頃はあの世や。そう医者がゆうとったで」
 辰敬は最後の記憶に辿り着くと、ようやく置かれた状況を理解した。
 あいつを倒すどころか、飛礫を投げもしないうちに、河原から飛んで来た飛礫を喰らってしまったのだ。
 またも仕出かした失態の大きさを自覚した途端、痛みがぶり返した。言語道断の不始末だけでも絶望的な大罪なのに、激痛と言う天罰まで下され、辰敬は再び目の前が真っ暗になりかけた。
 すると、何がおかしいのか、木阿弥がにやりと笑ったような気がした。
 人の気も知らないでと睨みつけると、木阿弥は確かに笑みを向けていた。
「喜ぶんやな」
 また木阿弥の悪い癖だ。何の前置きもなく、不意に突拍子もない事を言い、相手を当惑させて喜んでいる。
「わぬし、出雲に戻らんでもようなったで」
「えっ……」
 辰敬は耳を疑った。余りにも突然の、思いもかけない言葉に、ただ当惑するばかりであった。
「何や、嬉しうないんか。出雲に戻りたくはないんやろ」
 辰敬は思わず頷いた。
「ほなら、もっと嬉しそうな顔をせんか」
 辰敬が訳を聞こうとしたら、
「わぬし、見直したで」
 皮肉屋の木阿弥がいたく感心した。
「侍所開闔松田頼亮様の援軍が駆け付けて来た時、わぬしは援軍に加わり、河原者に飛礫を放って戦ったと言うやないか」
 辰敬は呆気に取られた。
(どう言うことじゃ。何でそんな話になっとるんじゃろう)
さっぱり訳が分からなかった。
「御屋形様もことのほか御喜びやった。それはそうやろ。世が世なら京極家が侍所開闔と力を合わせて、不逞の輩を成敗しておるのやからな。嬉しくない訳がない」
 木阿弥は孫でも見るように目を細めた。
「子供と思っておったが見直したで。京極武士の心意気を見せたんやからな。御屋形様も『やっぱり見どころのある子やった』と仰せになられ、出雲に戻す事も取りやめになったんや」
 現金なもので、そう聞いた途端、痛みが消えた。
 木阿弥がいなかったら、両手両足を突きあげて、万歳を叫びたいところだった。何と言う僥倖だろう。こんなに嬉しい事はなかった。あの少女と別れなくてすんだのだ。いつかまたどこかで逢える日が来るかもしれない。いや、必ずその日は来る。そう辰敬は信じた。
「そんな嬉しいんか」
 辰敬は慌てて取り繕うとしたが、笑みはひとりでに込み上げて来るのであった。
「まだまだ子供やな」
 木阿弥がからかった。
 それにしても分からないのは、どうして辰敬が小さな勇士に祭り上げられたのかと言うことだった。
 辰敬はおずおずと問うた。
「誰が御屋形様に話したんじゃろ」
「知らん。誰でもええやないか。見とる人は見とるんや」
 と木阿弥は呑気なことを言う。
(誰だろう。あんな大嘘の作り話までして、我を助けてくれるとは)
 この京極邸に心当たりは一人もいない。
 礼を言いたくもあるが、助け船を出してくれた訳が分からぬことが薄気味悪かった。おまけに本当の姿を見られていると思うと、どうにも居心地が悪かった。
「ごめんなさいよ」
 そこへ、前掛け姿の女が入って来た。水仕女 ( みずしめ )のおろくだった。厨(くりや)で働く中年の端女(はしため)で、井戸端でよく顔を合わせる女である。
「やっぱり若い子は元気やな。そろそろ目が覚めてもええ頃と思っておったんや。どっこいしょ」
 と上がり込むと、いきなり辰敬の前をはだけ、股ぐらに手を突っ込んで来た。
「何をするんじゃ」
 吃驚して手を払いのけたが、
( むつき )を替えるんやないか」
 辰敬はおむつをあてがわれていることに初めて気がつき、狼狽した。
「ほれ、びっしょりや。早う替えんと、木阿弥はんが鼻をつまんではるで」
「やめろ。触るな」
 辰敬は上体を起こすと必死に抗いながら後ずさりした。
「そんな恥ずかしがらんでもええ。わらわはもう四日も通っておるのや」
 四日と聞いて、顔から火が出た。
 おろくがにたっと歯茎を剥いた。
「わしが頼んだんや。下の世話をしてもろたんや。礼を言わんか」
「礼なんかええ。若い子の世話もええもんや。タコ坊はんもなかなか立派なものを持ってはる……」
「もういい。自分でやる」
「あれ、ゆでタコにならはった。ま、これだけ元気になったら、もう世話もええやろ。褓は後で返してくれたらええさかいな」
 と、おろくは引き上げて行った。
 木阿弥が大きくのびをした。
「やれやれやなあ。ほんまに儂も疲れたで。上洛早々あれこれあり過ぎや」
 辰敬は申し訳なさそうに頭を下げると、土間に降りた。まだ頭がふらふらする。片隅で木阿弥に背を向け褓を取っ払い、下帯を締めた。

イメージ 1二冊目のくずし字の辞典をやっと購入。
右の赤い方が、古文書の会の生徒全員が持っている本。二冊合わせて1万円以上。初めに買った方は多分使わないだろうと思うとかえすがえすももったいないことをしたと悔やまれる。
10月14日。早速古文書の会に持参する。
ちょうど、14日で『石見國銀山記』が終了。2時間のうち残り1時間は『梶川氏日記』に入る。
これはかの有名な『松の廊下刃傷事件』で、浅野内匠頭を取り押さえた、梶川与惣兵衛の記録で、今でいうところの実録である。この人のこの日記は有名で、私も各種の資料で一部を読んだことはあるが、くずし字で書かれた原文を全文読むのは初めてである。
『石見國銀山記』は漢文体で書かれていて、資料も活字体に直されているので、字が読めないことはない。
ところが『梶川氏日記』はくずし字で書かれたものを、そのままコピーしたものだから、またまたミミズがのたくったような、目が痛くなるような文字の連続。
「個人のくせもありますから、難しいですが頑張って読みましょう」と、先生。
たしかに『銀山記』の方が百倍楽であった。
ただ、これから読むのは忠臣蔵に関する資料であるから、この後は『栗崎道有記録』と言う、吉良上野介の傷を手当した医者の記録や、『田村家御年代記』と言う、内匠頭の切腹の記録、またその切腹を見届けた目付『多門伝八郎覚書』と続き、さらには赤穂浪士が家族にあてた手紙が何本か。独力では読めないが、教わりながら読むには面白いものばかりである。しかし、どの字も個性的な字で、昔の人はよくもこんな字を読めたものだと呆れているところだ。これらの資料はみな現代訳があり、探せば見つかるのだが、うんうん唸りながら読むのが勉強になるだろう。
映画などでは「殿中でござる」と羽交い絞めして、内匠頭を背後から制止しているが、実際はわっと飛び掛かって取り押さえたようだ。その時、梶川の手が内匠頭の小刀の鍔を押さえたのだそうだ。取り押さえた後、梶川が見まわした時、すでに吉良上野介は医者の所へ運ばれていたと言う。切りつけた時はすごい音がしたが、後で聞いたら傷は大したことなかったそうだと書いている。

ところで、10月14日は『銅鐸の日』だそうだ。初めて知った。
1996年の10月14日に、雲南市加茂町岩倉で39個の銅鐸が発見されたのを記念して制定された。私がお米を取り寄せている加茂町の出雲市との境に近い方の山の中で、銅剣が沢山出土した荒神谷とは山を挟んで3キロちょっとしか離れていない。

翌日、10月15日はその荒神谷博物館で『風土記講義』。
3月から始めてまだ入り口である。
この調子で進んだら、『出雲国風土記』一冊読むのに何年かかるだろう。『風土記』の文字数なんて、400字詰め原稿用紙で100枚ほどのものなのである。ほとんどが獲れる鳥獣魚貝などの名前や、神社の名前、地名の謂れ、郡家(ぐうけ)や駅(うまや)の方角や距離などで、伝承などが長々と沢山書いてあるわけではない。いかに丁寧に進めているか分かろうと言うもの。今日は大和朝廷の影響がいかに記述に反映しているかの話。大国主命に関する記述がある一方、天孫系(天皇)の神の記述が盛り込まれていることを、地図上でその地域の発展を確かめながら解説してもらう。時間がかかるはずだ。研究するとか、読み込むと言うことは、こう言うことなんだと専門家の研究の仕方の一端も窺えて面白い。
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『宍道湖ふれあいパーク』から島根半島の西を望む。公園は玉造温泉の手前にある。

↓Aが湖岸の出雲空港。飛行機は宍道湖上を降下する。



↓Bの低い平らな部分は、風土記時代には『去豆(こず)の折絶(おりたえ)』と呼ばれていた。
島根半島も近くで見ると分からないが、こうして宍道湖の南岸から遠望すると、ぽっこりと膨らんだ山塊が、いかにも引っ張って来たように見える。この山塊が、島根半島の西端、国引き神話で一番最初に、朝鮮半島の新羅の岬を切り取って引っ張って来たと言われている部分である。
そして、その右手に見えるのが、次に隠岐の国から切り取って引っ張って来たと言われる山塊である。その二つの間の平らな部分が、二つの山塊をつないでいて、『去豆の折絶』と風土記には記してある。
この『折絶』と言う言葉は、古語辞典には載っていない。風土記にしか載っていない言葉で、今では意味がよく分からないそうだ。残念なことだ。これに限らず、多くの古い昔の言葉が失われているのだろう。
国引き神話では四つの土地を引っ張って来ているから、折絶は三つあることになる。
『去豆の折絶』『多久の折絶』『宇波の折絶』と並ぶ。またの機会に紹介しよう。
『去豆の折絶』は車で走るとすぐに抜けて日本海に出る。そこが十六島湾で、十六島と書いて「うっぷるい」と読む。風土記にも海苔が採れるとあり、いまも十六島(うっぷるい)海苔は名産品である。ウップルイが朝鮮語から来ているとか、アイヌ語発祥だとか、いろいろな説があるようだが、これという定説はないようだ。これだけ学問研究が進んでいても分からないことだらけである。

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