曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2017年09月

イメージ 19月15日の朝。 
小松菜が芽を出す。小松菜は早い。見えにくいが薄い緑色の小さな二枚葉です。
心配なのは台風18号の接近。畑先生は種が流されるといけないので、種蒔きを中止したが、私は12日と13日にもう蒔いてしまった。芽も出た。これででかい台風が来たらどうなるのか、ずっと天気予報とにらめっこしている。
8月7日ごろ直撃かと思われた台風は、四国の南をかすめて本土へ上陸。出雲地方は風雨もそれほどではなかった。今度も似たようなコースだが、あの時よりはもう少し中国地方寄りのコースを取りそうな様子。前回より風雨は強くなる

イメージ 2ことを覚悟している。でも、予報を見ると、近畿東海のように200~350ミリも雨が降ることはなさそう。これまで種蒔き直後に台風が来たことがないのでさっぱり見当がつかない。
昨日15日の夕方には、雨で水びだしになるのが嫌で、坊ちゃんカボチャのつるを上げる。
葉っぱに隠れていた実が出て来る出て来る。大小合わせて60個以上は出て来たのではなかろうか。
毎年うどん粉病にやられるのだが、今年は遅かったので、こんなに採れたのだろう。トータルで100個以上は採れたかも。
昨日はこの他にも、枯れ葉や枯れ草が濡れると厄介なので大急ぎで片づける。





イメージ 3イメージ 4
9月16日朝。

サラダかぶの芽

おろし2号の芽





おでん大根の芽も少し、春菊の芽も少し出ていた。
遅いのはいつもほうれん草。
水に一昼夜つけてから蒔けば早く芽が出ることは分かっているのだが、水につけると、手にくっついて蒔きにくいので、ついそのまま蒔いてしまう。種をふいて水分を取ればいいと言う人もいるけど面倒くさい。
お昼過ぎ。出雲地方はまだ穏やか。お湿り程度の雨。明日17日どうなることやら。
ところで、なぜ、真昼間ファミレスからブログを書いたかと言うと、週末はネットが通じないのです。昨夜もバンザイでした。
川しものお百姓さんみたいなもので、上流のお百姓さんが一斉に水を自分の畑に引いたら、下流には水が流れて来ないのと同じだと思う。フレッツ光で無線ランを使っているけど、わが家はNTTの末端なのだと思う。同じ回線料を払っているのだから、末端割引してほしいと切に思う。
これはポケットWIFIで送っている。Yモバイル。出先でパソコンを使うので、ポケットWIFIも必要なのだ。では自宅でYモバイルを使えばいいではないかと思われるだろうが、これまた悲しいことに、わが家はYモバイルの電波が届くぎりぎりの末端なのである。試したことがあるが、待てど暮らせど通じなかった。どんだけ田舎に住んでいるのだと呆れられてもしょうがない。
さあ、これから夕方まで、ドリンクバのコーヒーをがぶ飲みしながらファミレスで頑張ろう。

最新の台風情報を見たら、こちらにまっしぐらに向かっている。雨も強くなって来た。だいぶ心配になって来た。

4時ごろ、うっすら明るくなる。嵐の前の静けさか。

イメージ 1その前にさつま芋の結果から。
9 月12日に芋堀好きが来て残りの9本を掘ってくれる。(左の写真)
私は見ていなかったが、全部に芋は出来ていたそうだ。数も、大きさもそこそこの出来と言ってよいだろう。
4、5日干してから保存する。12日夜早速天ぷらにしてみる。甘くて味もまあまあ。

問題は不作だった池の西側。
こちらは9月10日に私が残りを掘った。
残り13本目からの結果。
13本目(2)、14本目(0)、15本目(中3)、16本目(中24)、17本目(中23)、18本目(中4)、19本目(4)、20本目(小4)、21本目(中13)、22本目(中4)、23本目(中1)、24本目(中34)、25本目(中21)、26本目(中13)、27本目(311)、28本目(124)、29本目(中3)。
ゼロは1本だけで、芋は出来ていたものの、大きなものは少なく、中程度や小さいものが多かった。
ご近所さんの畑は西の端だが、サツマ芋は虫に食われて穴だらけでひどい出来だったそうだ。土は砂地でいいはずなのに、線虫?が増えたらしい。ここはじゃが芋のインカのひとみも全滅した所。土に何かあるのかもしれない。さつま芋は結局土質で決まるらしいから、努力しても限りがあるのかもしれないが、来年からはホームセンターで「さつま芋の肥料」と言うのを、高くても買って、一年生になった気持ちで取り組みたい。
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9月12日秋の種まき開始。大慌てで石灰を撒き、化成肥料と鶏糞を撒いた所に畝を二つ作る。一つは上のほうれん草や春菊、小松菜用で、もう一つは
大根などの種を蒔く。大きな畝を作ってしまい、毎年種は二条に蒔くのに、今年は三条も蒔いたので時間がかかる。
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9月13日。大根とカブの種を蒔く。毎年大根は色々な銘柄を試している。
本当は辛味大根を作りたかったのだが、おろし大根にすると口がひんまがりそうなほど辛いので、年を取った父が食べられない。今年は「おろし二号」とやらで妥協する。カブも初めて「サラダかぶ」を試す。
イメージ 4左の畝の三条の筋があるのが、手前から「ほうれん草」「春菊」「小松菜」の種を筋蒔きしたもの。
種が乾燥しないように、去年一袋800円もした「もみ殻」を撒く。まだたっぷり残っている。
二条で作っても食いきれないのに、三条も作ってどうなることやら。間引く手間を考えただけでうんざりする。
右の畝には、手前から「おろし大根」「サラダかぶ」「おでん大根」の種を蒔いた。
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左の写真は
おでん大根の種。







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左の写真は庭木を剪定していて見つけた鳥の巣。
鳥の種類は不明。
材料のほとんどはビニールやポリ袋の切れ端などである。
居心地はいいのだろうか。
丈夫そうには見えるけれど。
















   

今日、特養の家族会の役員会があった。
先日、職員さんから役員になって欲しいと頼まれていたので出席する。そりゃあ何もやらなくてすむならその方が楽に決まっているが、頼まれて断るわけにはいかないではないか。やってみなければ分からないことなので、兎に角、やってみることにした。
何事も経験だ。早速すごい人達に出会う。
メンバーは6人で、新役員は4人(女性1人)だが、6人のうち2人の男性は毎日家族の顔を見に特養に来ていると言う。私より年上のようだが、すごい人たちがいるものだと感心する。
一人は奥さんの見舞いだが、口もきけず、意思表示もできないらしいが、それでも毎日顔を見に来るのだそうだ。お二人とも優しくて情の深そうな人だった。
現副会長が新会長を務めてくれるので、残りが副会長と幹事1人、監事2人、顧問1人に。私は監事になる。会計監査だが、行事の時は皆で手分けしてやるようだ。早速、9月に敬老会、10月にはバザーがあるらしい。それ以外のことは年齢と体力に相談して決めましょうと言うことに。
去年の会計報告を見ると、家族会の会費の出費のほとんどは香典であった。
ほとんど毎月のように香典の出費がある。特養とはこういう場所なんだと改めて思い知らされる
 
役員会が終わった後、妻のところへ行く。
例によって、昼ご飯に付き合い、歯磨きして、雨が降っていたので、施設内を車椅子散歩して帰る。
居室での昼食前の会話。
「サザエさん来てください。パンにバターを塗ってください」
「なぜサザエさんなんだ?」
「サザエさんはバターを塗るのがうまいの。たっぷり塗ってくれるの」
そして、サザエさんの話でひとしきり。
「ここは有名人がいっぱいいるの。サザエさんは有名人が好きなの」
 
と、いう訳で久しぶりに昔の語録(3)
2007.1.12
「お父さん、洗い物で一日終わるね。休んでね」
「無理しないでね。私が動けなくなったからって、イヤになるから」
朝のTV『風のはるか』を観て
「子思いなのね、ここのお父さんと同じで」
ニュースを観て
「私、夢の中で日本の経営状態に不安を感じるの」
「私死のうと思った時、赤いブラウス着たいの」
「一日寝ていると、おしっこしかすることしかないから」
2007.1.13
オムツ交換時
「嫌がらないでやってね、嫌がってやると面倒くさくなるから」
2007.1.14
少女アニメのDVDを送って来たのに
「覚えてる?言わないでよ、涙が出て来るから。こんなのやってた時代があったんだって」
2007.1.15
「ケーキくれないと泣くよ。わあんと泣くよ。隣近所に聞こえるくらい」
「私にばかり、がまんしろ、がまんしろと言わないの」
着替えをしていて
「いたい。手荒なことをしたらいたい。たたくよ」
2007.1.16
「足が切れるみたいに痛い。切れているから腐っているんじゃないかと思う」
自分がリハビリで作ったコスモスの俳句を見て
「コスモスはどこ吹く風で知らんぷりみたいな感じがする」
2007.1.24
「お父さんは色で言うなら灰色。だれがどこから見ても灰色」(面白くないと言いたかったらしい)
2007.1.26
便テキ(摘出)してやった後で
「おおげさなんだよ。いやなことがやっと終わったという感じがする」
「おとうさんがいつもかんがえているのは、おしっことうんこのことばかり」
2007.1.28
TV観ていて
「(長男)のお侍姿見てみたい。似合うと思うけど」
「犬のキスするところ見たことないけど、モモ(飼い犬・豆柴)もキスするのかな」
「お父さん、私を車に積んで、ダンスに行くの」
着替えをしていて
「手が冷たい。どんなに冷たいか。私も冷たい手でやるよ」
「おせちの箱詰め、見ているだけで楽しいの。幸せなの」
TVの歌番組を観ていて
『精霊流しの』一節。♪ついて行きましょう
「あなたが死んだら私もやりそう」
「お父さんも、こういう詩を書いたら」
『コスモス』を聞いて
「こういう歌わかるようになった。年だね」
2007.1.29
「お化けに会わなくなって助かった。いつも6時半ごろ起きたらその辺にいて会ってたから」

イメージ 1ご近所がさつま芋のためし掘りをしたので、私も9月1日にためし掘りをする。
今年は池を挟んで東側に苗を10本植え、西側に30本植えた。東側にさつま芋を植えるのは2年目。西側は帰郷以来7年連続。
まず、東側を1本だけ掘ってみる。両方とも品種名は「紅はるか」。
左の写真の通り、まあまあの出来ではなかろうか。
これなら掘るのも楽しかろう。と、言うことで、残り9本分は残しておく。芋堀を楽しみにしている者がいるのだ。

次に、西側の出来はいかにと、翌日の2日にためし掘りをする。西側は1本だけ苗が枯れたので、成長したのは29本。



イメージ 2東同様に出来ているものと、軽い気持ちで掘ってみたら、なんと芋の姿も形も見えず。掘れども土ばかり。いやな予感を抱えながら2本目も掘ってみるが、ここも威勢がいいのは葉とつるばかりで何もできていない。
3本目、祈るように掘ったら、ソフトボール大が一個だけ。

←左の写真。

以後、4本目(0)、5本目(0)、6本目(0)、
7本目(3)、8本目(0)、9本目(2)、10本目(3)、11本目(2)、12本目(2)。
ここまでで嫌になってやめた。
苗12本に出来た芋が13個である。つると葉っぱばかり成長して、芋が出来ないと言う、絵に描いたような典型的失敗パターンである。
茫然自失。7年芋を作って来て、初めての大失敗である。これまで芋ほど楽なものはない。ほっておけば育つなんて、えらそうなことをほざいていた自分が正直恥ずかしい。
「ひろちゃん、さつま芋に肥料をやったらだめだよ」と、畑先生。
「やってませんよ、水一滴もやってませんよ」
苗を植え付けた時、一週間ぐらい水をやっただけで、それから後はほったらかしで本当に何もしていないのだ。7年間、それでやって来ている。過去6年はそれでそこそこ出来ていたのだ。
畑先生と原因を究明しているうちに、肥料はやっていないが、土づくりをするために、私は2 年前から枯れたホテイアオイやバーク堆肥を入れたことを話す。バーク堆肥は木の皮を砕いて発酵させたもので、土の改良に使う。土が固いので何とか柔らかい土にしたかったのだ。
畑先生「それだよ、ホテイアオイやバーク堆肥の窒素分が効きすぎちゃったんだよ。さつま芋に窒素をやったら葉っぱばかり成長するんだから」
私はホームセンターで売っている肥料を与えているわけではないから、ホテイアオイやバーク堆肥を入れても、それが肥料になるほど効くとは思わなかったのだ。
畑先生「そんなに土の改良に一生懸命になることはないよ。山の方へ行ってごらん。カチンカチンの土でさつま芋作ったり、大根を作っているよ」
7年前、畑を始めた時、死んでしまった幼馴染に言われたのだ。
「ひろちゃん、ふわふわの土を作るんだよ」
この7年間、芋畑だけではない、ひたすら「ふわふわ」の畑を目指してきた。。私は幼馴染に言いたいのだ。「ふわふわの畑が出来たぞ」と。
さつま芋の畑をふわふわにするのも諦めてはいない。どうしたらいいのか。
来年からはさつま芋にも真剣に取り組まなければならない。
残りのサツマイモの出来具合は掘り手が10日過ぎに来るので判明する。せめて東側だけでも出来ていればいいのだが。
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9月5日
隣の田圃








幼馴染の田圃。母子で稲刈り。今年は早い。去年は遅かったところへ、雨が降って、なかなか稲刈りが出来なくて往生したので、去年の二の舞しないように早めたのだ。こうして見ると、コンバインで刈り取り、もみは自動的に袋に詰められ、楽そうに見えるけれど、実はコンバインを田圃に入れる前には手間がかかるのである。
都会の人向けに解説すると、コンバインは田圃の外周に沿って刈り取って行くのだが、最初に外周に沿う部分の2列分(だったと思う)は、あらかじめ刈っておかなければならない。さらに田圃のコーナーでは、コンバインが方向転換しないといけないから、その分のスペースだけ稲を刈っておかなければならない。これが2m四方ぐらいあるだろうか。しかも隣家の田圃は逆コの字型だから、コンバインで刈って行く方向にも工夫がいる。まずは大きく長方形に刈って、次に逆コの字の突き出た部分を刈って行くのだ。
スペースを作るためにカマで刈り取るのはお母さんの仕事。毎年、よくやっておられると頭が下がる。
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これは刈り取って残った稲わらの束。私はこれを10束分ぐらいを分けてもらった。敷き藁や寒さ除けなどに役に立つ。前々から藁やもみ殻は欲しくてたまらなかったのだが、田舎でももみ殻は一袋800円ぐらいする。藁に至っては一束2000円で買った記憶がある。高くて手が出ない。これで来年は安心だが、これまで6年間、どうして隣で貰わなかったのかふと疑問に思う。理由は簡単。コンバインが故障していたのだ。毎年、コンバインは稲を刈ると、もみを取った後は、藁をカッターで切り刻んで田圃に撒いていたのだ。ところが、今年はカッターが故障し、使えなかったので、藁がそのまま残ってしまったという訳だ。
こうして藁をもらえるのも今年が初めてで最後かもしれない。もっと一杯貰っておこう。藁もいい肥料になるはずだと言ったら、畑先生が藁は一年目は肥料にならないよ。肥料になるのは2年目からだと教えてくれた。
農業は大変だ。

                  第二章 都の子(4)
 
 辰敬は思わず駆け出していた。
 荒れ地を駆け抜け、小屋の向こうに飛び出した時、辰敬はあっと立ちすくんだ。
 ぎらりと幾つもの凶悪な目が振り返ったのである。
 辰敬と同じ年頃の少年達数人の群れだったが、揃いも揃って異相異形だった。蓬髪で色褪せ、破れた帷子(かきかたびら)の粗衣をまとい、中には半裸の少年や童形の少年もいた。
「返して」
 群れの足元から必死な声がした。
 見下ろした辰敬は息を呑んだ。
 泥足に囲まれて蹲っていたのは一人の少女だった。長い髪を振り乱し、地べたから見上げるその必死な顔に、辰敬は目を奪われていた。
汗で顔に貼りついた髪の間から、黒目勝ちの大きな目が光っていた。その瞳は吸い込まれそうに深かった。小さいのに鼻梁の通った形のいい鼻。花のように可憐な唇。雪のように白い肌。少女のすべてが辰敬の目を占領していた。
(何と綺麗なおなごの子じゃ)
もはや子供ではないが、娘と言うにはまだ早い少女は、これまで辰敬が見た事のない女の子であった。出雲には絶対にいない。
(都にはこげなおなごの子がおるのか)
 まさしく都が生み、都が育てた異性だった。
「わぬしらは盗人や」
その都のおなごの子が抗議した。
「ぬかせ。盗人はわぬしや」
 蓬髪を後ろで束ねた少年がせせら笑った。頭一つ大きいこの少年が群れの頭らしい。
 群れは屋根板の束を抱えていた。少女が拾い集めた物を奪い取ったのであろう。
「河原に落ちている物はわしらの物や」
 その先は鴨川の堤に続き、河原が広がり、光る川面が見えた。
 とすると、この少年達が河原者と呼ばれている者達か。
 屋敷では鴨川に一人で行ってはならぬと言われていたし、河原者には注意するように言われていた。
 少女は懸命に言い返した。
「河原で拾うたんやない。畑で拾ったんや」
「いや、河原で拾っておった」
 仲間の少年達が黄色い歯を剥き出し、にやにやと笑った。
「嘘や」
「やかましい」
 頭の少年が少女を足蹴にした。
 思わずあっと辰敬は声を上げていた。
 少年達がまた振り返った。
 少女も辰敬に気づくと、
「嘘や、嘘や……」
 と、助けを求めるかのように辰敬に訴えかけた。
 が、辰敬は金縛りにあったように動けなかった。
 辰敬を見据える少年達の薄笑いが恐かったのだ。これまで経験した事のない、背筋が凍りつくような、名状し難い恐怖に絡み取られていた。
 似たような恐怖は新宮党の少年達に囲まれた時に味わっていたが、あの時の恐怖とはまるで別物だった。同じような状況とは言え、あの時、取り囲んでいたのは、同じ尼子家の武士の子達であったが、いま辰敬の前にいるのは、これまで会ったことも、見たこともない種類の少年達であった。まだ大人にならない体のどこにそれほど秘められていたのかと思うほどの憎悪が迸っていた。
 辰敬が何か少しでも反応すれば、身を八つ裂きにされそうな恐怖があって、辰敬は瞬き一つ、息をすることさえ出来なかったのである。とても長い時間に感じられ、立っているのも限界と思った時、不意に少年達は堤に向かって引き返して行った。対岸の河原から仲間の少年達が呼んでいた。
 もし誰もいなかったら、辰敬はその場にへたり込んでいたかもしれない。かろうじて立っていたのは、そこに少女がいたからであった。
 が、当然のことながら、少女から向けられたのは恨めしげな眼であった。
 辰敬は目を合わせることが出来なかった。
 漆黒の深い瞳の底からみるみる光るものが溢れて来て、目の端から糸を引いて落ちた時、辰敬は目を伏せた。
 少女は肩を震わせながら荒れ地の中を三条大路の方へ去って行った。腰まである長い髪も震えていた。声を押し殺して泣いているのだろう。
 追いかけたかった。
 が、足が動かなかった。もし、またあの目を向けられるかと思うと……。今度は確実に軽蔑の眼差しに変わるはず。追いかける勇気がなかった。
 辰敬は少女の後ろ姿が三条大路を左に折れて見えなくなるまで、ただ立ち尽くしているしかなかった。
 胸が張り裂けそうだった。
 少女への申し訳なさと、自分の不甲斐なさとで。
 辰敬はとぼとぼと引き返した。
 もはや花の御所の跡を見物する気は失せていた。
(どうして止めなかったのだろう……たとえ助けられなくても……たとえ半殺しにあっても……男だったら……武士の子だったら……)
 己を責め続け、慙愧の念で頭を殴りつけたかった。いや、築地塀に頭をぶつけて死んでしまいたかった。恥ずかしさの余り生きて行けなかった。
 が、本当に死にたいかと問われたら、死にたくはなかった。死んでしまえば、あの少女と会えなくなってしまう。
(ああ、われはなんちゅう軟弱者じゃ)
 己を恥じねばならぬ時に、おなごの子のことを考えている己を辰敬は持て余していた。
 が、いくら己を呪い、深い悔恨に沈んでも、心はすぐに忘れて舞い上がり、身体の奥に火が熾きて、身も心もたちまち灼熱の炎で焼き焦がされてしまうのであった。それはどんなに抑え込もうとしても、決して抑え込めないものであった。
 その日から、辰敬は寝ても覚めても、少女の事ばかり考えていた。
 一体あの子はどこに住んでいるのだろう。
 親は何をしているのだろう。
 裕福そうには見えなかった。裕福なら屋根板を拾い集めたりはしないだろう。
 屋根板が飛んだら困るような暮らしをしているのだろう。
 店棚を出した町屋で親の商いを手伝っているのだろうか。としたら、どんな商いをしているのか。
 その日稼ぎの長屋暮らしかもしれない。
 それともどこかに奉公しているのだろうか。
 近郊の百姓の娘かとも思ったが、辰敬はすぐに打ち消した。
 少女にはえも言えぬ気品があった。
 百姓や町人とは思えなかった。ならば公家の娘か。また打ち消した。公家の娘が屋根板を拾いに出るとは思えなかったし、公家の娘にしては身なりが粗末過ぎる気がした。
 他国から流れ込んで来た牢人の娘かもしれない。諸国でも戦乱が続いている。もしかしたら没落した名族の出かもしれない。
 こんなにおなごのことばかり考えているのは初めてのことだった。
 想うだけで心の臓が早鐘を打ったように高鳴り、苦しいほどだったが、夢想している時間は何にもまして楽しかった。
 己の恥は忘れ去り、少女の事ばかり想っていた。
 辰敬は屋敷の目を盗んで、抜け出すようになっていた。
 あの少女を探して。
 どうにも会いたくてたまらなかった。
 会って、口を聞けなくても、遠くからでもいい、姿だけでも見たかった。
 辰敬は神仏に祈りながら都を彷徨った。
(今日こそ、会わせて下さい)
 少女は三条大路を西に向かった。
 勿論、真っ先にそこへ行ったが、三条大路は京の七つ口の一つ粟田口に至る道で、旅人や商人達が行き交うだけであった。
 少女は洛中から東京極大路を横切って来たものと思われた。
 辰敬は二条大路から南、三条大路辺りを重点的に探し回った。
 この二条大路を入ったばかりの万里小路(までのこうじ)と交叉する辺りは、三条大路にかけて一面の野っ原であった。広大な野っ原で、草深く、追剥が隠れるのに格好の地で、夜道を通る者は誰一人いなかった。
未だにこんな寂しい場所が上京と下京の境に残っていたのであるが、花の御所、室町第が出来るまでは、ここに三条御所と呼ばれる武家御所があり、政の中心地だった時代もあった。
 むやみに歩き回っているうちに、上京に迷い込み、御所に突き当たった時、そこが御所とは俄かには信じられなかった。築地塀の板屋根はあちらこちらが剥がれ落ちたままになっていた。築地も崩れ落ち、御所の内が見える所もあった。
ぐるりと一周したが、方一町(百m)ほどの四角形であった。こんなものかと辰敬は思った。庄兵衛から聞いた大昔の大内裏と比べたら、今の御所、土御門内裏(つちみかどだいり)は恐らく何十分の一に過ぎないのではないのだろうか。
東と南は堀だったが、長い間泥浚えもしていないのであろう、汚泥で埋まっている所さえあった。
 みすぼらしさと言い、荒れようと言い、十一歳の少年にも身に迫るものがあった。
(天子様は日の本の国をお造りになった神様の子孫じゃ。神代からこの国を統べる一番偉い御方じゃ。そのお住まいでさえこげな有様になるのじゃ……)
思うまいと思えど、京極家の行く末を思わざるを得なかった。
御所の周囲は公家屋敷が取り囲んでいたが、東は公家屋敷の裏手は鴨川が見通せるほどの荒れようであった。西は公武の邸宅が続き、さすがに政の中心地らしくなる。商家もあるが武家や公家を相手にする内福な店ばかりに見えたので、辰敬はそれ以上は上京に足を踏み入れることはせず、二条大路から南、四条大路まで捜索範囲を広げた。
初めは用心して二日置きぐらいに屋敷を抜け出していたのだが、近頃は連日抜け出し、足が棒になるほど歩き回っていた
歩くことは辛くはなかった。なぜなら苦しくなったら、少女の姿を思い浮かべればいいから。出会えた時の喜びが、いまの苦痛の何倍にもなって返って来ると思えば、足の痛みなどどこかへ飛んで行った。
だが、暑さは応えた。体験した事のない者にとって、都の蒸し暑さは日に日に耐え難くなって行く。いつの間にかそう言う季節になっていた。
そんなある日。熱がこもってぼうっとした頭に、少女の幻を思い浮べながら歩いていた辰敬は、不用意に入ってはいけない路地に入ってしまった。
 狭い路地の両側に暖簾の揺れる間口が続き、派手な色模様の小袖を着た女達が立ち、行き交う男達に声を掛けている。皆、頭の後ろで結んだ髪を腰のあたりまで垂らしている。
辻子 (ずしぎみ)の巣窟だった。
化粧 (けわい)と汗の入り混じった淫靡な臭いが押し寄せて来る。
辰敬はまずい所へ来たと思った。
これまでにも似たような場所には何箇所か出くわしていた。富田にいた時から、近づいてはいけない所と言われていたので、避けていたのだが、少女のことを夢想していてうっかり踏み込んでしまったのだ。これまでの遊所と比べて、一段と格が落ちることは、女達や客層を見れば子供にも分かる。
 辰敬はすぐに出て行こうとしたが、袖を掴まれ強い力で引き戻された。
 眉を剃り、薄墨で引き直した女の化粧顔が見下ろしていた。目尻の皺に白粉がこびりついている。
「嬶様が恋いしうて会いに来たのかえ」
 鉄漿(かね)で黒く染めた歯が紅の剥げ落ちた唇からにっと覗いた。
「逃げんでもええ。誰や、呼んでやるさかい、言うてみ」
「侍の子やで」
 向かいに立っていた女が笑うと、辰敬を掴まえた女はむきになって言い返した。
「侍の嬶や娘で身を売っておる者は仰山おる。かく言うわらわとて、家は美濃の斯波様の被官やった」
「よう言うわ。どうせ足軽のくせに」
「なんやて」
「坊や、こんな嘘つきのおばさんより、お姉さんの方がええよ。可愛がってあげようか」
 と白粉臭い身体をすり寄せて来たので、辰敬は思わず女を突き飛ばし、脱兎の如く路地を飛び出した。
 悪夢はその時に起こった。
 目の前に山のように竹籠を担いでいる女がいた。避けようがなかった。
 女は悲鳴を上げ、二人は折り重なるように倒れた。竹籠が転がり、辰敬の身体の下で笊がぺしゃんこになった。
 たちまち辰敬達は野次馬に取り囲まれた。
「阿呆。どこに目をつけとるんや」
 女は粟津供御人だった。
 供御 (くごにん)とは朝廷の供御を務める者を言う。天皇の膳部の食料を調達する者で、遠く平安朝の院政期に現れたものである。
 粟津供御人は近江国琵琶湖の南部粟津の漁民で、同じ南部の橋本の漁民とひとくくりにして粟津橋本供御人とも言う。もともとは鯉や鮒などの生魚を都で行商していたのであるが、供御人となってからは、朝廷へ生魚を納める対価として都における生魚の専売権や通行税の免除などの特権を得た。
 御所は見る影もなく荒れ果ててしまったが、朝廷が与えるこの種の権威が衰えることはなかった。それは供御人が天皇に奉仕する誇りを持ち続ける一方、朝廷の権威を盾に既得権の拡大と強化を図り続けて来たからである。
 皇室で消費する食料や衣服など、あらゆる物が供御人によって納められ、供御人は扱う商品ごとに座を作った。その中でも粟津橋本供御人は、鎌倉室町の世を経て行くうちに力をつけ、生魚だけに限らず、筵や擂鉢、箸などの日用雑貨や青物、石灰等々ありとあらゆる商品を手掛けるようになっていた。今や都の卸売市場の東半分を牛耳っていると豪語するほどであった。
「弁償してもらわんとあきまへんえ。銭は仰山持ってはるんやろうなあ」
 女は狐のような目で咎めた。
 銭(びたせん)一枚持っているはずもなく、辰敬は首を振った。
「嘘はあかんで。銭なしで逢うてくれる辻子君はおらへんで」
「違う。道に迷ったんじゃ」
「おお。ませた子や。都へ行ったら、辻子君を買えと教えられたんやろう」
 都の物売りの大半は女であった。女の物売りは手強かった。
「これやからお上りさんはかなわんわ。どこの在所から出て来たんや。色気ばかりつきよって」
 下卑た笑い声が上がった。
 辰敬は悔しさと怒りで震えたが、取り囲む敵意と反感の前には無力だった。女は武士の子なら金を踏んだくれると思ったのではない、武士の子だからこそ金を踏んだくってやろうとしていることに、辰敬は気づいた。周囲もそれを面白がっている。それが都の民の武士への正直な感情だったのである。
「いずれの家中や。案内して貰いまひょ」
 

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