曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2017年08月

8月27日(日曜日)の夜はこの夏初めて冷房も除湿もなし、窓を開けただけで心地よく過ごすことが出来た。風が虫の声を運び、うるさいくらい。翌日からは残暑が戻るも、八雲立つ雲はもう見ることはない。
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←さつま芋のつる

さつま芋の葉が生い茂り、今年もさつま芋のつるを食べる時期が来た。隣のMちゃんは毎年わが家の芋つるを楽しみにしていて、今年も芋つるを沢山取って行った。
これを料理上手の奥さんが煮て分けてくれる。
いつも重曹で皮ごと煮るのに、今年はなぜかつるの皮を全部むいて煮てくれた。
手間がかかるのに申し訳ないことだ。重曹で皮ごと煮ても十分に柔らかく美味しいのに。うちに年寄りがいるから気を使ってくれたのかもしれない。
柔らかく、余り甘くなく上品な味だった。これが食卓にのると芋つるの季節になったと思う。
東京にいた時は一度も食べたことがなかったのに。聞けば、東京のスーパーでも一握りで100円ぐらいで売っているらしい。




←芋つるの煮つけ








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←アオスジアゲハ

無事に二匹目のサナギが羽化した。
以前、ブログで紹介した一匹目のサナギは私が殺してしまった。
10日経っても羽化しないので、これはもう死んでしまったと思い込んだのだ。
ちょうどその時、サナギも内部から黒く変色して来たので、やっぱり腐ってしまったと思って捨ててしまったのだ。
だが、その後、ふと「待てよ、あの黒くなったのは、サナギの中で蝶々になりかけていたのではないか」と思い直した。
すると、28日の夜、二匹目のサナギの内部が黒くなりだした。そして、29 日の朝起きてみたら立派な蝶々になっていたという訳。
やっぱり一匹目のサナギは羽化しようとしていたのに、私の早とちりで殺してしまったのだ。二十数年ぶりにアオスジアゲハの幼虫を育てたので、羽化の過程をすっかり忘れていたのだ。
一匹目は可哀そうなことをしてしまった。合掌。


イメージ 4これはついに枯れてしまったいちじく。
カミキリムシの猛攻に耐え切れず、穴を開けられまくり、ぼろぼろになって力尽きた。
二十年近い古木だったので、寿命でもあったのだ。
手前の緑がさつま芋。
そろそろためし掘りをしてみようかと思っている。

ところで、右隣の奥さんが外来種のカミキリ虫にいちじくをやられたと言っていた。TVのニュースでやっていたらしく、腹が赤いカミキリムシだそうで、それと同じカミキリムシがいたのだそうだ。
すぐにそのイチジクを見に行くが、腹の赤いカミキリムシは発見できず。
カミキリムシまで外来種だなんて、嫌な世の中になったものだ。






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その奥さんが作るお米。
豊作のようだ。朝、ものすごい数の雀が飛び立った。
だが、もうカカシを見ることなどない。
反射テープを張り渡して、雀対策をしている田んぼもこの辺りでは数えるほどしかない。
もう、お米の一粒も大切にする時代ではなくなったのだろう。

今夜30日もエアコンなし。風だけで過ごしている。
秋がそこまで来ている。ご近所は皆畑づくりを終え、早い人はもうホウレンソウなどをまいている。焦る、焦る。
去年の農作業日誌をチェックし、9月10日ごろには種まきをしようと、大慌てで畑を耕す。夕方、やっと苦土石灰をまく。
その苦土石灰を買いに行ったホームセンターでホーム玉ねぎなるものを見つける。
遅くとも9月下旬にまでに小さな球を植えると、年を越したら、3月ごろまでは食べられるらしい。早生と晩生の普通の玉ねぎしか作る気がなかったのに、つい買ってしまう。予定外。こいつを植え付ける畑も考えないといけない。この秋には初めてイチゴを植え付ける予定で、夏の暑い間から畑を広げているので、予定外の作物の土地があるや否や。

JRの旧大社駅の前は車でよく通る。出雲市駅と大社を結ぶ短い大社線が廃線になって27年。今は古い駅舎だけが残っている。絵になるので、TVや映画のロケ地としてよく使われる。マドンナが誰か、何編だったかも忘れたが、『男はつらいよ』でも使われたことがあった。近くまで来ると、いつも思い出すことがある。
JR旧大社駅→「男はつらいよ」つながりで、久々に師匠の話。イメージ 1














それは、40年ぐらい昔のことだ。師匠が後にも先にも一度だけ「男をつらいよ」を映画館で観た時の話である。
私が弟子の時代、師匠が映画館に映画を観に行ったのは、この「男はつらいよ」と、後は洋画を一本だけ観に行った記憶がある。確か「カプリコン1」だったと思う。運転手付きの車で自分だけ観に行き、私は留守番だ。
当時、師匠は映画はTVで日曜映画劇場とか深夜の旧作放映しか観なかった。
起床するのがお昼で、ぐずぐずしているとすぐに夕方になってしまうので、出かけること自体が億劫になっていたように思う。今思うとまだ50代だったのに、糖尿病のせいもあったのかもしれない。
そんな人がなぜわざわざ封切映画を観に行ったかと言うと、師匠に喜劇映画の脚本の依頼があったからだ。依頼して来たのは、砂塚秀夫(故人)と言う、中堅どころの喜劇役者だった。彼がTVにわき役としてレギュラー出演するきっかけ(?)となった連続TVドラマの原作脚本が師匠だったので、その縁で頼んで来たのだ。自分で制作資金をたしか5千万円(?)だったかと思う、用意していた。
断る理由はないが、正直に言って、映画の主演をするほどのネームバリューはないので、作っても大丈夫なのかなあと師匠は首をかしげていた。
同じように首をかしげたのが森繁久彌。
撮影に入って、師匠が現場を観に行った時、森繁久彌に会った。森繁久彌は砂塚秀夫の師匠だったので、特別出演していたのだ。勿論、ワンシーンで無料出演である。森繁久彌は芸能界の大御所俳優である。師匠が脚本を書いた「次郎長三国志」でも、森の石松で出演していたし、東宝映画の喜劇でも、師匠の脚本で出演していたから、師匠とは昵懇の仲である。
「モリシゲがさあ、『あのバカ、なんで映画なんか撮る気になったんだろう』と、俺に言うんだよ」と、師匠は言っていた。
その砂塚秀夫が渥美清の「寅さん」に負けない映画を作りたいと言うので、師匠は一度も見ていないのではまずいだろうと観に行ったという訳だ。


今みたいにビデオもDVDもないから、映画を観たければ、二番館、三番館に落ちるのを捜して観るかか、封切を観るしかなかった。
たまたま最新作を封切したところだった。その「寅さん」のマドンナも誰かは忘れたが、帰宅した師匠は何だか浮かない顔をしていた。
「曽田よ。みんなで写真を撮る場面があってさ、寅さんが『バター』て言ったら、観客がどっと笑ったんだよ。あれ、何で笑ったんだ。俺、さっぱりわからねえんだけど」
私はのけぞってしまった。一から説明してあげた。
「先生、写真を撮る時は『チーズ』と言うんです」
「何で」
「『チーズ』と言うと、口角が上がって笑ったように見えるからなんです」
「ふーん」
「ところが、寅さんが『チーズ』と言うべきところを、『バター』と言ったので、観客は笑ったのです」
さらに、私は解説を続けた。チーズをバターと言うギャグは小学生でも使う。誰でも知っている手あかのついた古いギャグで、今や笑いを取るために使うようなギャグではない。まともにやったら誰も笑わないだろう。でも、これを寅さんが言ったから、観客は笑ったのです。写真を撮る時、チーズと言う、こんなことも寅さんは知らないのかと、皆、笑ったのですと。
師匠はつまらなさそうな顔をしていた。私はそれを見て心配になった。
こんなギャグも知らない人が喜劇の脚本を書いても大丈夫なのかと。

国民的映画となっていた「男はつらいよ」に匹敵する映画がそう簡単に作れる訳がない。
それなのに、師匠は寅さんの舞台が柴又の帝釈天なら、こっちは神楽坂の毘沙門天にしようと決めてしまった。
師匠のマンションが中央線飯田橋駅の南側の法政大学の近くにあり、飯田橋駅の北側は神楽坂で毘沙門天があったのだ。近くて取材も楽だからと言う安易な理由だった。
かと言って、師匠が取材するわけではない。私が取材して回ったのだが、若い私は芸者や花街のしきたりなど何も知らないから、私が調べたことは師匠からみたら噴飯ものであった。「何だ、お前、こんなことも知らなかったのか。恥ずかしい。よくこんなこと聞けたな」とあきれられた。私が取材したことなど全然役に立たなかった。
スケジュールを守らないと予算をオーバーするので、脚本に与えられた時間は一カ月。予算と主演砂塚秀夫では呼べる役者にも限りがあったが、とにもかくにも『毘沙門天慕情』と言う映画が出来た。松竹が二本立ての映画の添え物として買い取ってくれた。この当時、映画会社は二本立てを自社で作るのに四苦八苦していて、メインは自社で作っても、二本目は外注とか、このように買取をしていたのだ。買取なら安く買い叩けるから損を少なくできるからだ。砂塚秀夫も5千万などでは到底買ってもらえず、かなり損をしたのではないだろうか。話題にもならなかった。師匠も当たるなんて夢にも思っていない。出来は脚本を書いた本人が一番分かっているから。

その後、しばらくして、私は師匠が「寅さん」が好きではないことに気が付いた。「寅さん」的な人間は嫌いなのだ。「寅さん」は国民的人気があり、誰にも愛されるキャラクターとされていたが、実は「寅さん」みたいな男は嫌いだと言う人も少数だが確かに居たのだ。
「男はつらいよ」はよくできた面白い映画と師匠は認めるが、自分にはあんな脚本はどう逆立ちしても書けないことは分かっていたのだ。師匠が好きな喜劇は「男はつらいよ」のようなお話ではないのだ。
なぜ、それが分かったかと言うと、ある日、師匠が斎藤寅次郎という映画監督の話をしてくれたのであった。戦前戦後に活躍した喜劇映画の大監督である。この人が、戦前の軍国主義真っ盛りの時代に一本の喜劇映画を作った。
「曽田よ。捨て子を一日に一人拾って来る男の話を作ったんだぜ。お前、こんな話、考えつくか。とんでもない人だよ。斎藤寅次郎は」
その時の師匠は感に堪えない顔をしていた。滅多に人を褒めない師匠が感服していたのだ。
師匠は戦後、その斎藤寅次郎の助監督をした。師匠の記念すべきデビュー作は斎藤寅次郎監督の喜劇だったのだ。
「戦後の成金が登場して来てさ、さっと腕まくりをするんだ。すると手首から腕までびっしりと腕時計をしているんだ。笑っちゃったよ」
その時の師匠の楽しそうな顔といったらなかった。心から尊敬し、愛していたのだ。そして、最後にこう言った。
「この人の真似はできない。俺にはこんな喜劇は作れないと思ったよ」
ここまで書いて、ふと思った。
結局、師匠は喜劇は苦手だったのだろうかと。
いやそうではない。喜劇は難しいのだ。

816日から外泊。21日まで。
家に帰る日は外泊の間に着用する衣類などを選びたいから必ず迎えに行くことにしている。
特養に戻る日はさすがに送って行くのがしんどくて、少しでも楽をしたくて迎えに来てもらう。今日は高温注意報が出ていて、本日の日本最高温度。道理で暑いはず。お迎えが来てくれて大いに助かる。
16日のこと。
特養の玄関で妻の乗った車椅子を車に積み込んでいたら、入所者のお婆さんから「いいねえ」と家に帰るのを羨ましがられる。
その顔が本当に羨ましそうだったので、私は気の毒になってしまった。どんな顔をしていいのか困ってしまい、曖昧な笑みを浮かべ、ぺこりと頭を下げる。妻を車に乗せる間、振り返らなかったけれど、お婆さんの視線をずっと感じていた。車を出した時、バックミラーをちらりと見たら、やっぱりお婆さんは見送っていた。「見せつけてしまって、ごめんね」と呟く。皆、それぞれの事情がある。帰りたくても帰れない人は大勢いるのだ。

夜、ダイニングでパソコンを叩いていると、隣室から妻の独り言が聞こえて来る。その独り言に合いの手を入れてやると、隣室とまがりなりにも会話が始まる。
熊本に戻りたい(ベッドのままバスに乗って帰れると思っている)とか、たま(子供時代に飼っていた猫)がいかに可愛かったかの話……。
おむつ交換やベッドの傾きの調整に行くと、足を揉んでくれとか、腕を揉んでくれと言う。お世話を終えて、ほっと一息ついて休みたいと思っている時に限って頼まれる。ため息が聞こえないようにマッサージをする。正直、後にしてくれと言いたい時がある。
申し訳ないと思いながらも、俺も疲れているからと適当にお茶を濁して切り上げる。そんなおざなりな手抜きのマッサージでも気持ちがいいと喜んでくれた時、はっと思い当たった。
「家に戻るとはこういうことなんだなあ」と実感したのである。
マッサージ時間が長いか短いか、上手いか下手かが問題なのではない。家族とのちょっとした触れ合いが嬉しいのだと。
あのお婆さんもこういうものを求めていたのだろうなと、その時間、特養のベッドで一人寝ているだろうお婆さんを思う。

19日は「古文書に親しむ会」あり。2時~4時まで。
昼ご飯を食べさせ、1時にベッドに移してから、図書館へ。妻が寝ている間に勉強するのだ。
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前回から「銀山記」を始めたのだが、文章が漢文体で全部漢字なので、難し過ぎるという声があったらしく、急遽、漢文のイロハを勉強することになる。
と、言っても、返り点や一二点の読み方などを基礎から教えるわけではなく、いきなり教科書を読みながら、慣れてくださいというのが先生の方針。
教科書が戦前の昭和13年発行の、旧制中学一年生の漢文の教科書。
昔は中学一年生でこんなレベルの漢文を勉強していたのかと驚く。
私たちは高校一年で初めて漢文を習った。
当時、古文漢文はさぼりにさぼったので、時代小説を書き始めた時は勉強不足を嘆いたものだった。それは今も同じだ。
漢文も、返り点や一二点までは何とかなるが、上中下点に従って読もうとすると、もういけない。高校生に戻って、旧制中学一年生の教科書で悪戦苦闘する。
「空海」「小野道風」「菅原道真」「義経」などのお話をみっちり2時間以上やると(先生は時間を忘れるのだ。休憩時間も忘れる)くたびれるのなんの。終わったら、車を飛ばして帰宅。
翌20日は「風土記談義」。10時~11時半。荒神谷博物館へ。
朝は7時に起きて、オムツ交換し、服を着替え、車椅子に移す。朝食の支度をして、食べさせた後、投薬、歯磨き。8時半過ぎに再びベッドに戻すと、自分の朝食をかき込み、博物館へ。博物館は片道車で30分近くかかるので、かなり慌ただしい。
昼ご飯はいつも12時なので、急いで帰るも、日曜なので大社や日御碕へ行く車で道が混んでいる。少し遅れて帰宅。
21日はお昼ご飯を食べて、少し休み、2時に迎えに来てもらう。迎えはいつも2時に決めている。朝ご飯を食べてから、午前中に迎えに来てもらったら、少しでも楽が出来ることは分かっているのだが、少しでも家に居させてやりたいのでそうしている。
戻って来た時は、後5日、後4日と特養に戻る日を指折り数えて、己を叱咤し、前日の夜にはやっと明日が来るとほっとするのがいつもだが、いざその日になると、戻すのが可哀想になる。心で詫びて手を振る。

                      第二章 都の子(3)


振り返るとつるつるに頭を剃りあげた老人が立っていた。坊主ではない。小袖に袴を穿いた同朋衆のようななりしている。

「出雲から御奉公に上がった多胡辰敬と申します」

「ほう、わぬしか」

 老人は怪訝な顔で辰敬を見回した。

「何でこんな所におるんや。吉童子丸様の御相手をしとるんやないのか。遊んではると聞いておったんやけど」

 辰敬が怪訝な顔をする番であった。

「わぬしの御家来衆がわぬしに挨拶してから帰りたいと言わはったのやけど、乳母のおまん殿がわぬしは若様の御相手をしていて手が離せぬと言うたので、御帰りになったとか……」

「えっ、帰った」

 辰敬は愕然とした。

「もう帰ったのか」

 庄兵衛からは辰敬を送り届けたら、お別れだと聞いてはいたが、まさか別れの言葉も交わさずに行ってしまったとは。

「御家来衆はくれぐれもわぬしによろしうと言わはったと、わしは応対した者から聞いたで」

 辰敬は怒りでわなわなと身体が震えた。

 辰敬とて庄兵衛達には礼を言い、きちんと別れの挨拶はしたかった。

「あいつ、嘘をついたんじゃ。我は若様の相手はしとらんけん。ずっと一人で庭におったんじゃ。放りっぱなしにされとったんじゃ」

「なに、ほんまか……」

 さすがに老人も驚いたようであった。

(くそ、白粉狸め。殺してやる。いつか狸汁にして食ってやる)

 ぎゅっと唇を噛みしめる辰敬を老人は黙って見ていたが、

「わしの部屋に行こう」

 辰敬を邸内の一画にある長屋の一部屋に連れて行き、

「ちょっと待っておれ」

 と、辰敬を置いて出て行った。

 その部屋は片土間で、片側は板張りの床で筵が敷いてある。

 辰敬はその床に腰を下ろした。

 壁際に小さな行李と畳んだ寝具がある他には家財道具らしきものはない。

 所在なく待ち続け、ようやく灯ともし頃になって、老人がにこにこしながら戻って来た。

「御屋形様に会って来たんや。わぬし、今日からここでわしと一緒に暮らしてええそうや」

 辰敬がぽかんとしていると、老人はにやりと片眼を瞑った。

「わしは阿弥 (もくあみ)と言うてな、御屋形様の御伽衆や。早う言うたら話し相手や。御屋形様がいつ何時お召しになっても、すぐに参上できるようにここに暮らしておるのや。ひとりもんやしな」

 木阿弥が言うには、御屋形様は辰敬を奥向きに勤める者に預けて奉公させるつもりでいたらしい。

「わしがここにおった方が御奉公に便利やし、わしが御奉公の手解きもすると申し上げたら、御許しが出たのや」

 余りにも沢山の事があった日なので、木阿弥の親切が温かく感じられ、辰敬はその温もりの中に素直に身を委ねた。

「わしは御屋形様の御相手、わぬしは吉童子丸様の御相手。似た者同士じゃ。仲良くしよう」

 木阿弥は麦混じりの冷や飯に湯を掛けただけの湯漬けを出してくれた。

「お客さんは今日までやで」

 食べ終わると、辰敬は奥の壁際の一画を宛がわれ、木阿弥がどこかから借りて来た (あさぶすま)にくるまって寝た。

 暗闇の中で、都の一日目の夜を噛みしめていると、

「わしは御屋形様の御相手、お前は吉童子丸様の御相手……」

と言う木阿弥の声が甦って来て、御屋形様は子供の自分など及ばぬ、遥か遠い世界の人であることを思い知らされたのであった。


 翌朝。

「ほれ、いつまで寝とるんや」

 叩き起こされると、いきなり水汲みから始まった。井戸で水を汲み、土間の水瓶に運ぶのだが、何往復もしなければならなかった。

 その後、飯を炊くことになり、

「そうか、出雲ではわぬしも若様やからな。飯を炊いたことはないか。ほならわしが教えたる」

 井戸端で米のとぎ方から教えられた。

「わしらが米の飯を頂けるのも、御屋形様の御伽衆を勤めておるから特別な計らいや。一粒たりともこぼすんやないで」

 竈は土間を抜けた長屋の裏にあった。

 炊くのは一苦労だった。火加減は難しく、煙が目に沁み、涙がボロボロこぼれた。

「どうや、自分で炊いた飯は美味かろう」

 木阿弥はご機嫌だった。

 早速、御屋形様のお召しがあり、

「片づけを頼むで。掃除と洗濯もな。ああ、今日は天気もええから、麻衾も干しとくんやで。判らんことは誰かに聞くんや」

 山のような仕事を押し付けられた。

(こんなことをするために都に出て来た訳ではないのに……)

 憮然とした顔で洗濯物を干していると、嘲るような笑い声がした。

 振り向くと、短袴(みじかばかま)に裸足の若い雑色 ( ぞうしき )が立っていた。

「わぬし、騙されたんや」

 辰敬が怪訝な顔をすると、

「木阿弥は初めからわぬしを下働きでこき使う魂胆で御長屋に引き取ったんや。あいつは口うるさくてけちやから、誰も下働きが勤まらんのや。すぐにやめてしまうので、あいつも困っておったんや」

 辰敬は暗然とした。

「あの爺、人遣いが荒いさかい、覚悟しとくんやな」

 遠ざかる笑い声を背に、辰敬はため息をついた。昨日今日で何度ため息をついたことか。

 ようやくすべての仕事を片付けた時、辰敬にもお召しがあった。

 昨日と同じ庭で待っていると、昨日と同じように吉童子丸とおまん達が現れた。

 恭しく頭を下げたものの、おまんに対しては平静ではいられなかった。が、その仏頂面に対して、おまんも容赦はなかった。

「何や、尼子の御家来衆は主家への礼儀を忘れたと見える」

 改めて頭を下げるのも業腹だったし、どうせ礼儀知らずの田舎者と思われているのなら思わせておけと、辰敬は突っ立っていた。こういう時、子供であることは都合がいい。

 おまんは忌々しげに睨みつけていたが、

「さて、今日は何をして御慰めするのや」

 辰敬は苛められているのかと思った。

 上洛して二日目である。しかも朝からこき使われ、そんな事を考える余裕すらなかった。

 返答に窮していると、

「そんな心がけで大切な御守りが勤まると思っているのかえ」

 辰敬はそっと吉童子丸を窺った。

(この若様は何がしたいのじゃろう……何が好きなのじゃろう……今までどんな遊びをしていたのじゃろう……)

 腹が立って来た。

(そう言うことは、まず初めに白粉狸が教えてくれることではないのか。教えてくれなければ何をしていいか見当もつかん……)

「ええい、じれったい子や」

 苛立ったおまんがふと手を打った。

「そうや、竹馬がよい。竹馬や、竹馬をするんや。男の子らしい、ええ遊びや」

 辰敬は愕然となった。

「これ、誰か早う竹を切らせて、持って来るんや」

 しばらくして、女房が二本の笹竹を運んで来ると、恭しく吉童子丸の前に置いた。

「さあ、吉童子丸様お遊びなさいませ」

 おまんが猫なで声ですすめたが、吉童子丸は仏頂面で見下ろしているだけであった。

「これ、辰敬、何をしとるんや。若様にお手本を示すのや。遊んでお見せするのや」

 と、竹を拾い上げて辰敬に押し付けた。

 辰敬は仕方なく、嫌々竹を股の間に挟んだ。

「ほれ、走らぬか。お前はお馬さんに乗ってるんや」

 と、尻まで叩かれた。

 辰敬は渋々笹を引きずりながら駆け出した。

 悲しくて涙か出そうだった。

(こんなこと十二歳にもなった男のすることか。元服さえ済ませたのに)

 竹馬遊びなど、ものごころついた頃、兄弟で遊んだ記憶がかすかに残っているだけであった。

「これ、もっと早く走らぬか」

 池の周りを走らされた。

「もっと面白楽しく走れぬのか。ほれ、はいどう、はいどう……」

 おまん一人が大騒ぎする中、池を二周して戻って来た時、吉童子丸がぷいと奥へ引っ込んだ。

 辰敬は正直ほっとした。

 翌日はぎっちょうをすることになった。これもおまんが決めた事である。

 長い棒で平たく削った木の球を打つ遊びである。竹馬よりはましだった。

 辰敬はお手本を示すことになり、思い切り球を打ったが、何と女房衆の一人の顔に命中してしまった。

 悲鳴が上がり、大騒ぎとなってしまった。

 その次の日は、外遊びはやめて、座敷で小弓をすることになった。これもまたおまんが決めた。

 おもちゃのような小さな弓で的当てをする遊びだ。

 辰敬が吉童子丸に手を添えて教えたのだが、矢はあらぬ方向にそれ、おまんの目に当たってしまった。

 また大騒ぎになったことは言うまでもない。

 そのせいか、数日休みがあって、お召しがあった時、おまんは当てつけがましくまだ眼帯をしていた。

 そして、まるで仇討ちでもするかのように、庭で馬遊びをさせられた。

 四つん這いの辰敬に吉童子丸を跨らせたのだ。吉童子丸には鞭まで持たせ、

「吉童子丸様、お馬の稽古でございますよ。これ、辰敬、走らぬか」

 膝小僧が痛くて、砂利の上など走れるわけがない。のろのろ歩いているだけでも、膝頭に血が滲んで来る。

 救いは相変わらず吉童子丸が楽しんでいないことだった。ただ言われたままに跨っているだけで、おまんが鞭を使えと言うのには、うんざりした顔をした。嫌々跨っているのは背中で分かる。辰敬は吉童子丸がいつものように奥へ逃げ帰ってくれないか、そればかりを願っていた。

 すると、その奥の方が急に何やらざわめき始めた。

「何事や」

 確かめに行った女房が駆け戻って来た。

「阿波攻めは失敗やそうです。細川尚春様は讃岐で負けはって、淡路に逃げ帰られはったそうです」

「なんやて、右京兆様が負けた」

 おまんは驚いて大声をあげた。

 辰敬も思わず立ち上がっていた。

 吉童子丸の悲鳴が響き渡った。


 その日から辰敬は謹慎の身となった。

 が、若様を振り落として叱られた事より、管領細川政元の征討軍が負けた事の衝撃の方が大きかった。

 屋敷内には細川成之と澄元が阿波勢を率いて都に攻め込んで来ると言う噂が流れていた。

 公家や金持ちの町衆の中には逃げ出す準備をしている者もいるらしい。

「ははは、阿波細川はそないな阿呆やない。今は天下に阿波細川の力を見せつけただけで十分と思うているはずや。薬師寺元一の勇み足で味噌を付けたが、この勝利で流れは阿波細川に傾く。機が熟するのをじっと待っておればええのや」

 木阿弥は笑った。

 辰敬は疑問に思っている事を尋ねた。

「右京兆様は何で魔法を使わんのじゃ。元寇の時、神風が吹いたように、大風で敵を吹き飛ばせば勝てたじゃろうに」

 木阿弥がぎろりと目を向けた。

「わぬしは魔法を信じてんのか」

 頭ごなしになじられたような気がして、辰敬は黙した。

 木阿弥はにたりと笑った。

「この世には魔法を信じる者と信じない者、この二通りの人間しかおらんのや。どっちでもええのや。いわしの頭も信心からと言うからな……せやけど、()は怪力乱神を語らずとも言う」

 辰敬の頼りなげな顔を見て、

「何や、論語を知らんのか……聖人は常を語りて怪を語らず、徳を語りて力を語らず、治を語りて乱を語らず、人を語りて神を語らずや。自ら怪力乱神を求める右京兆様は君子の資格はあらへんのやろうなあ……」

 そう呟く木阿弥の目は辰敬の顔を離れて、暗い虚空を見上げていた。

「右京兆様の気持ちも分からんではないのやけど……」

 そのため息も辰敬には聞こえていなかった。

 辰敬は学問を疎かにしていた事に恥じ入っていた。

 謹慎はすぐには解けなかった。

 が、おまんと顔を合わせることもなく、吉童子丸の相手をしなくて済むのなら、謹慎も悪くはないものだと辰敬は思っていた。

 そんなある夜、時ならぬ大風が吹いた。


 翌朝、邸内は後片付けで大わらわだった。

 辰敬はそっと屋敷を抜け出した。

辰敬は上洛してから一度も屋敷から出た事がなかった。その上、謹慎を食らい、屋敷の生活にはほとほと息が詰まりそうだった。外へ出たくてうずうずしていたのだ。

 東京極大路に出ると、足は北の上京に向かっていた。

 都へ来たからには、まず一番に御所を見たかったのだ。

 武家御所も見物したかったが、十一代将軍足利義澄が住む小川御所は元は細川家の屋敷であった。九代将軍義尚の御所だったこともあるが、義尚死後の将軍位を巡る争いに絡んで一部を破壊されたものを、義澄が将軍になった時に、費用を倹約するために建て直したと聞いて、その気は失せていた。

 むしろ、花の御所の跡地を見たかった。三代将軍足利義満が築き、花の御所と謳われた室町第も今や荒れ地になっていると聞いてはいたが……。その変わりようを見るのも大切な事のように思っていたのだ。

 大路沿いのあちらこちらの屋敷で、屋根の補修をしている。武家や公家の屋敷も板葺きだから、雨風には弱い。

 板葺きを屋根竹と石で押さえただけの町屋はひとたまりもなかった。

 都は縦に六本の大路と十本の小路、横に十二本の大路と二十八本の小路が通っている。

 それらの大路小路には、吹き飛ばされた屋根板を拾い集める人々が大勢出ていた。

 屋根竹の束を抱えている者もいる。

 町屋の屋根も、皆、修理に大わらわである。板葺きはまだいい方で、藁葺きや茅葺きの小屋や雑舎も沢山あった。拾い集めた材料で修理するのだから、拾うのも競争である。

 折れた木の枝を抱えているのは薪にするのだろう。

 風で飛ばされたと思われる桶を抱えている者もいる。

 持たざる者にとっては大風も天からの贈り物と言えた。

 京極邸は東西に延びる五条大路と四条大路の間の高辻小路にある。二条大路から北が、都の北半分で上京とされているから、京極邸は下京の中ほどにある。

 辰敬は四条大路を横切り、さらに北へ上り、三条大路の近くまで来た時、右手からかすかに悲鳴が聞こえて来た。

 女の声だった。

 右手には荒れ地と畑が広がっているが、三条大路の道沿いと近辺にはまばらに人家があった。

「返して」

 そう聞こえた。

「わらわのや、返して」

 荒れ地の中の小屋の向こうから聞こえて来る。


今日は特養の近くで夏祭りがある。特養からも家族参加で夏祭りへ誘われる。私も参加することにして、6時に特養へ行く。いつもは一週間に最低一度はお昼ご飯を一緒に食べることにしているが、夕食を一緒に食べるのは初めて。いつものスーパーで弁当とお茶を買って妻のところへ。
一緒に食事を済ませたが、7時から出発の予定だったのに雨が降り出す。今日はやっと天気が良くなったと喜んでいたので、皆、がっかり。仕方ないから、特養の中から花火だけでも見て帰ろうと、世界陸上を見て時間を潰していたら、小止みになったので、妻を車椅子に移し、思い切って出かける。
初めは乗り気でなかった妻も会場に入るや、途端に元気になる。いつの間にか雨もやむ。
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田舎の小さな夏祭りだが、大型トラックの舞台があって、御当地のケーブルTVのタレント嬢がドレス姿で歌っている。
手を振り、足でリズムを取り、全身で喜びを表す妻。考えてみれば、倒れてから13年間、こんな場所に来たことは一度もなかったのだ。
イメージ 2小さな夜店が二つ。
後は焼きそばに、綿あめに、たこ焼きなどの懐かしい光景。
舞台の前にはブルーシートが敷き詰められ、ビール片手の観客。
やがて、歌のお姉さんとのデュエットタイムになる。
「二人の大阪」を、1番から3番まで、3人の男性とデュエットすることになるが、一人登場しただけで、後が続かない。
妻に歌いたいかと聞いたら、出たいと言う。一瞬ためらったが、本人が出たいと言っているのだから、私としては出してやりたい。
想定外の出場希望に、お姉さんは戸惑っていたが、すぐに受け入れてくれる。私はうまく歌えないからと断りを入れる。
3人目も決まり、デュエットスタート。

妻の番になるが当然歌えない。あれだけ歌が好きで、歌謡曲なら何でも歌詞を覚えている妻が、「二人の大阪」を歌えない。寄り添って歌ってくれたお姉さんに「あなたきれいね」と、ずっと言い続けていたそうだ。
大勢の観客の前で、妻をさらし者にしたような気がしないでもないが、私は障害があって、正常なふるまいは出来なくても、ひるまずに出すことにしている。だって、妻だって楽しみたいのだ。みんなと同じように楽しみたいのだ。余計な奴がしゃしゃり出て来てと思われるのは重々分かっていても。
最後に花火を見て、歓声を上げて、特養のベッドへ戻った。
こういう行事は妻のような人間にとってこそ必要なのだと思った夜であった。そして、それは大勢の人の協力があって出来ること。

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