曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2017年06月

第一章 出会い(12
 
 父忠重は何事もなかったかのように、法師丸に学問と武芸に励めと言った。
改めて将棋に触れることもなかった。法師丸の心がすでに将棋から離れていることは分かっていたから。
御屋形様の上洛は法師丸にとって止めとなる出来事だった。子供ながら法師丸は元の生活に戻らねばならぬことを自覚していた。
兄達のように普通の武士の子になろうと思った。これまでのことは忘れ、尼子家で出世の道を歩む多胡家の子にならねばならぬ。それが武士の子なら誰もが歩む当たり前の道なのだから。
それが親孝行であり、尼子家への御奉公なのだ。
父も母も安心するだろう。
これまで親に心配を掛けたことを忸怩たる思いもあり、罪滅ぼしに、父の気にいる子にならねばならぬと思った。
が、学問も武芸も何一つとしてどうにも身が入らなかった。
本人は一生懸命やらねばならぬと、書物に向かい、筆を取るのだが、どうにも頭に入らぬし、どんな文章に触れても心に響かぬ。
弓を引き、剣を取っても上達せぬ。馬を攻めれば落ちて寝込む始末。
初めは時が経てばと思っていた忠重も、一年経っても変わらぬ様子に不安になって来た。その頃には、法師丸は多胡家の出来損ないの三男坊の評価がすっかり定着していたのである。将棋の天才として一時期名を轟かせたこともすっかり忘れ去られていた。
忠重は法師丸に説教した。
「これでは養子の口も見つからぬ。坊主になるしかないぞ」
 次兄の重明はもう養嗣子として片寄家に迎えられることが決まっていた。
 さすがに坊主になるのは嫌で、心を入れ直したのであったが、それも長続きしなかった。
 御屋形様が上洛してから、たちまち一年半が過ぎ、新しい年が来て、法師丸は十一歳になった。
 梅が咲き始めた頃、法師丸は父に呼ばれた。
 法師丸は覚悟した。とうとう寺にやられる時が来たのだと。
 案の定、厳しい顔があった。
 法師丸は神妙な顔で畏まった。
 父は黙って見詰めていたが、やがて軽くため息を漏らすと、一言、
「都へ行け」
 と言った。
 初め法師丸は父が何を言ったのか分からなかった。
(確か、都へ行けと……)
 心の中で復唱した。
寺に行けと言われることを覚悟していたのに、都へ行けとは。生涯において耳にすることなど絶対にあり得ない言葉だと思っていたのに。確かに父はそう言ったのだ。
(どう言うことじゃ……)
 ただ当惑するしかない顔は、呆けたように見えたであろう。
「御屋形様に御奉公するのじゃ」
「えっ」
 法師丸は思わず声を上げた。
「御屋形様がお前をお召しになったのじゃ。民部(経久)様からもお許しを頂いた」
 この時、法師丸は身体の奥底の一点に火が熾きる場所があることを知った。みるみる身体が熱くなって行くのが判った。血が音を立てて煮えたぎり、手足の先まで燃えあがらせた。心の臓も煮えたぎる血を集めて沸騰した。頭の天辺まで高熱を発したように熱くなり、法師丸は眩暈を覚えた。
 嘘のようだった。とても現実のこととは思えなかった。だが、これは嘘ではないのだ。現実なのだ。
 法師丸の身にありうべからざる奇跡としか言いようのない事が起きたのだ。
「なして急に……」
 思わず声が上ずったが、忠重はにこりともせず、
「すぐに上洛の支度をする」
 不機嫌な声であった。
 法師丸は父がこの御奉公を歓迎していないことを悟った。守護所に通っていた時と同じように。
「はい、父上」
 父の目から逃げるようにひれ伏した。
 退出した法師丸は正国と重明に掴まった。
「都へ行くちゅうのは本当か」
「やっぱりこれか」
 と重明は将棋を指す振りをした。
「知らん、知らん。御奉公じゃ」
 と否定しながらも、昨日まで空洞だった心にぴしっと駒を打ち付ける音が鳴り響いた。将棋を忘れるのに三年かかったのに、蘇るのは一瞬だった。
(また御屋形様の前で将棋が指せる)
法師丸は御奉公の第一が将棋であると信じていた。
しかし、父の顔を思い出したら、将棋のしの字も口には出せなかった。
法師丸は兄達を振り払うように逃げ出した。
 一人になりたかった。誰もいないところで、大声で叫びたかったのだ。
(都へ行けるんじゃ)
 腹の底から笑って、喜んで、辺り構わず転がりたかったのだ。嬉しくて、嬉しくて、どこをどう走ったのかも覚えていなかった。夢のようだった。嬉しさの余り気を失いそうだった。
(御屋形様は我を忘れてはいなかったんじゃ)
 それが一番嬉しかった。何が嬉しいと言って、御屋形様に呼ばれて都へ行けることが。
 行けば御屋形様と虎御前が待っている。
もう二度とはあるまいと思っていた将棋三昧の日々が戻って来る。
 御屋形様が上洛してから二年余。その前に一年近く守護所には呼ばれていないので、法師丸は三年以上将棋と離れている。が、法師丸はなぜか妙に自信があった。今度は虎御前に勝てると。必ずや御屋形様の前で勝ってみせると奮い立った。
 御屋形様は言っていた。裾の子なのだから好きな事をやれと。
(将棋で名を上げてやるけん。どげん御屋形様がお喜びになることか。それこそ御奉公ではないか)
 空想が果てしなく膨らむ。自分の名が都に轟き渡る。多胡博打で名を轟かせた五代前の御先祖様のように。
(御屋形様が後ろ盾になって下されば、公方様や天子様に召し出されるようなことになるかもしれん。もし、そげなことになったら……ああっ……)
走りながら、自分でも気が狂ったかと思った。どうにも我慢がならなくて、今にも叫び、笑い、手を振り、足を鳴らして踊り出しそうになるのを必死にこらえた。そんな所を見られたら、人に何と言われるか分からない。
 気がついたら富田川の上流の冬枯れの河原に駆け込んでいた。町外れのここまで来ればと思ったが、喉まで出かかっていた雄叫びを呑み込んだ。
 また父の不機嫌な顔が浮かんだのである。
 法師丸は凍てつく静けさの中に佇んだ。
火照った身体を冷やしながら、法師丸はふと思った。こうしてしみじみと喜びを噛みしめるのもいいものだと。叫んだり、笑ったりして喜ぶのは余りにも子供っぽ過ぎる。
(我はもう子供ではない。都へ行って、御奉公するんじゃから)
 法師丸は大人の入り口に立っていることに気が付き、思わず身震いした。
 
 法師丸が御屋形様に呼ばれた事情はすぐに分かった。
 北近江の騒乱が終わったのである。
 この冬、近江箕浦にある日光寺で、政経の息子京極材宗と京極高清との間で和睦がなったのだ。
 応仁の乱の最中から実に三十五年間にも亘って繰り広げられた気の遠くなるような戦いにようやく幕が降ろされたのだ。
 御屋形様に平安が訪れた事を法師丸は喜んだ。
 上洛の支度をしながら、母は涙ぐんだ。
 一旦、都へ上ったら、法師丸はいつ戻って来るか分からないからである。まさか今生の別れということはないだろうが、十一歳で家を出て、一体何歳になったら戻って来れるのか、誰も分からなかったのだ。
 が、法師丸は都へ行けると言うことだけで頭が一杯で、出雲に戻ることなど考えてもいなかった。もちろん親兄姉と離れることは心細くもあるが、都の魅力は何物にも勝った。
 その出発前の慌ただしい最中に、忠重は法師丸の元服をすませることにした。十一歳は早いかもしれないがこの年で出て行ってしまったら、適齢期はまだ都にいる可能性が大きい。そこで急遽済ませてしまうことにしたのだ。
 急のことなので烏帽子親も立てず、簡略にすませた。
 元服すれば烏帽子名が与えられる。大人の名に変わるのだ。
 忠重が書いて与えた名は「辰敬」とあった。
 法師丸は首を捻った。読めるわけもない。
 忠重は噛み砕くように優しく教えた。
( とき ) ( たか )と読む。辰とは、日、月、星を意味する。すなわち天のことじゃ。天を敬う人となれと言うことじゃ」
 法師丸は神妙に頷いたが、内心、誰にも読めないような、年寄り臭い難しい名に閉口していた。兄達のように判りやすく読みやすい名前を付けてくれればいいのに。どうして自分だけ、こんな変わった名前なのだろうと。
 式が終わり、子供たちだけになると、早速新しい名を巡ってかまびすしいことであった。
「わぬし、天を敬うちゅうことがわかっちょるのか」
 正国が問い詰めるのに、即座に答えられないでいると、
「天道に狂いなし。天を信じ、天の教えを守れば、自ずと人として正しい道を歩むことが出来る。それこそが天意にかなうことじゃ。天を敬えば自ずとそのような生き方が出来ると言うことなのじゃ」
 長兄らしく解説してみせたのだが、重明が茶々を入れた。
「わかっちょらんけん、この顔は。こいつには立派過ぎるんじゃ。勿体ないわ。似合わんけん」
「ほんにどこぞの御隠居かと思うたに」
「わぬし、名前負けしそうじゃなあ」
「お兄様達は非道ございます」
 たまりかねたように袈裟が抗議した。
「わらわは思うのです。遠くへ行く子を心配しない親はいません。父上は法師が行く遠い空の果てを見ながら、法師の無事を天に祈られたと思うのです。その時、辰敬と言う名を思いつかれたのではないでしょうか」
 正国が感心した。
「袈裟も言うのう。いや、まさに袈裟の言う通りじゃ。法師、いや辰敬、心得よ」
「はい、兄上」
 姉の言葉は辰敬の心にも素直に沁みたのであった。
 仲の良い四人の子供達の声に、忠重はしみじみと耳を傾けていた。この賑やかさは、法師丸と言う一風変わった子がいたからこそのものである。あの子がいなくなればこの賑やかさもきっと消えてしまうだろう。
 忠重は祈るように呟いた。
「天よ、守りたまえ」
 

以前から調子の悪かったパソコンがいよいよ怪しくなって来た。
以前は原稿を書いている途中に、突然、マイクロソフトワードのエクスプローラーが停止しました的な表示が出たのだが、一応は修復しましたとなって、そこまでは修復済みで保存されたのだが、このところ保存されなくなってしまった。1頁、2頁書いたものが消えてしまうのだ。本当に泣きたくなる。何度も繰り返したので、それからは数行書いては保存を繰り返していたのだが、ついには保存しようと×を押すと、いきなりマイクロソフトワードが停止しましたとなる。
修復済みと表示されているのに、全然保存されていない。
結局、細かく保存しようとしても、この体たらくになってしまった。
ワードは2010を使っている。パソコンはVaioの高級機だったはずで、8、9年(?)は使っている。
思い切って買い替えた方がいいのか。買い替えてもこれまでずっと人にセットアップしてもらっていたので、自分でやる自信がない。特にメールの設定は絶対に出来ない。
こんな調子なので、ブログがしばらく止まりましたら、パソコンを買い替えて、悪戦苦闘していると思って下さい。多分、買い替えないといけないのではと思う。でも、一応これから電機屋に行って見ます。

その後の話です。
電機屋へ行き、相談。
本当なら午後も喫茶店でパソを叩くつもりだったが、そんな気分にもなれず、宝塚記念もあるので帰宅。パソコン代でも稼げたらいいなあと宝塚記念を買う。
断然一番人気1.4倍のキタサンブラック。誰もが絶対王者、無敵と言う。しかし、何十年も競馬をして来た私は、こういう馬が馬群に沈む光景を何度も見て来た。天皇賞をレコードで圧勝した反動は必ずあるはず。一応抑えるけれど、着外もあると予想。
天皇賞2着のシュバルグランも切る。
3連単はゴールドアクター、ミッキークイーン、キタサンブラック、サトノクラウンの4頭マルチ。
馬連はゴールドアクターとサトノクラウンの1点。
ワイドもゴールドアクターとサトノクラウン、ミッキークイーンとサトノクラウンの2点。
結果はキタサンブラックは馬群に沈み、サトノクラウン→ゴールドアクター→ミッキークイーンの順で決まる。
久々の大当たりであった。本当に馬券でパソコンが買えることになった。
最近勝負弱くなって、もう競馬も年貢の納め時かと寂しく思っていただけに、儲けたことより、今でもこんな勝負ができたことが嬉しい。
そうだ、買い間違えてしまった『くずし字辞典』も買えるではないか。
早速、明日注文しよう。
競馬ももう少し続けよう。今日のこの勝負の感覚を忘れないようにして。

楽をすることを覚えてしまったので、わずか5泊6日の妻の外泊が骨身にこたえる。
30度近くあり、暑かったせいもあるかもしれない。特養の迎えの車が来る寸前になって、急に背中を拭いてくれと言われ、あたふたして背中をふいてやったりしたせいかもしれない。この暑かった5日間、お風呂に入れなかったのだから、頼まれたら断れない。と、言うより、毎日背中を拭いてやるべきだったのに、気がつかなかった私が悪い。
それにしてもわずか数日でこの体たらくは情けない。昔、退院して在宅になった直後は、3ヶ月間、ショートステイなしで介護していたことが、今思うと信じられない。今より若かったとはいえ、我ながらよくやったと思う。しかも、その間、時代小説も書いていたのだから。本当によくそんなことが出来たものだと自分でも感心する。よっぽど気合が入っていたのだ。その当時の緊張と責任感と小説への意欲は実感として残っている。
ぐたっとソファに倒れ、そんなことを思い出していたら、つけっぱなしのTVから、海老蔵の記者会見のニュースが流れて来る。小林麻央さんが亡くなったことを知る。
私は彼女のブログは読んでいない。
読めば辛いのが分かっているので読みに行くことが出来なかったのである。
ネットでその断片を知るぐらいだったが、それすらも読むのが辛かった。
その死を悼む者の一人であるが、私はこの人がブログを始めたことを知った時、ふと思ったことがあった。
彼女はこのブログを幼い二人の子供のために残したいのではないかと。
なぜ、そう思ったかと言うと、私の妻は3歳の時に父親が死んでいる。妻の見たこともない、記憶にすらない父親への思いは強烈で、今も「今日パパちゃんが来るのよ、会いに来てくれるのよ」と、とても嬉しそうに言うことがあるからだ。
親のない子の気持ちがこうなのだから、ましてや子を残して逝かねばならぬ母親の気持ちはいかばかりか。
最後まで頑張った母の姿を残したかったのではないかと思ったのである。
ニュースを見ながら、彼女のためには、この世にブログと言うものがあってよかったなと思う。
私の妻は若い時から、酔っぱらったりすると「父親に会いたい、会いたい」と言っていたものだ。もし父親がブログでも残していたらと想像すると…。
市川宗家にはお家芸として、歌舞伎十八番と言う十八本の演目が定められている。
彼女のブログはその立派な十九番目になることだろう。その時、残された息子が次の海老蔵になっているのだ。

イメージ 1そろそろミニトマト、ナス(早生)が成り始め、じゃが芋(はるか)もいつ掘ろうか様子を見ている。

👈早生のナス。6月1日の第一号。

早く食べたいので、早生を植えた。早速焼きナスにして食べた。ナスの料理は色々あるが、私はほとんど焼きナス一辺倒。飽きたら母に煮てもらう。揚げたり、蒸したり、炒めたりは面倒くさくてやる気にならない。
漬物が好きではないから、浅漬けも作らない。
だから、わざわざ秋ナスを作ろうと言う気も起きない。もう一つの理由は、秋ナスを作ると10月頃まで畑を占領されてしまい、冬野菜を作るのが遅れてしまうからである。




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隣組の「インカのひとみ」が全滅したことは報告したと思うが、1ヶ月後、我が家の「インカのひとみ」も哀しい結果に。

6月9日に掘る。(上左)
写真で見ると大きさが分からないが、一番大きいものでもピンポン球ほどもない。
1ヶ月前に枯れてしまった隣組のインカは小さ過ぎて、とても食べられる代物ではなかったそうだ。
私のインカはその後、1ヶ月生き延びた分すこしだけ成長した次第。
数だけは採れたが、半分はビー玉ぐらいしかなかった。
病気なのか、虫なのか、原因がさっぱりわからない。隣の畑先生の男爵イモも3分の1がやられてしまったから、インカ種だけに限ったものでもないようだ。


「インカのひとみ」でも、煮っころがし程度には出来そうな大きさのものが数十個ほどあった。
捨てるのは勿体ないし、せめて味ぐらい知りたいので、調理する。(上右)

小粒で固いので、レンジでチンする。
見ての通り、みごとな黄色。
今回はベーコンとこれまた不出来の玉ねぎと一緒に炒める。
きめが細かくて、クリーミーな感じがしたが、本当の味はどんなものか想像するしかない。
問題は来年もう一度挑戦するのか、「アンデスレッド」にするのか、それとももうインカ種はやめるのか。
しつこい性分だから、再挑戦したい気持ちは大いにあるのだが、また同じ目に遭ったらと思うと、悩ましいところである。



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👈6月14日
「はるか」のためし掘り。

大きいもので、大人の握り拳より少し小さい出来。
去年はもっと大きいものが出来たので、少し不満である。
多分、三本立てなので去年ほどには大きくならなかったのかもしれない。

去年は三本立てが、強風になぎ倒され、二本立てや一本立てになってしまった。その分、芋が大きくなったのではないだろうか。今年は風で余り倒されなくて、ほとんど三本立てなので、去年ほど大きいものは出来ないかもしれない。もう少ししたら掘ろう。
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手前が坊ちゃんカボチャで、向こうがミニトマト。
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👈坊ちゃんカボチャの赤ん坊
今年は実のつきが良くて、沢山獲れそう。





今日から妻が外泊。畑から直行のミニトマトやナス、じゃが芋を食べさせてやろう。

歌手の竹内まりやが実家の旅館を再建するために頑張っていると言うニュースは週刊誌やネットでご存知の向きもあるかもしれない。竹内まりやは大社町の出身で、実家は竹野屋と言う老舗旅館である。
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出雲大社の正面入り口(出雲駅伝のスタート場所)のすぐ前にあり、昔は総理大臣の竹下登が大社に来た時は必ず泊まったと聞いている。神門通りを通るたびに、なんだかくすんだ印象がしていたのだが、竹内まりやが乗り出したニュースで、初めて経営不振だったことを知る。地元の人は皆知っていたようだが、私は疎くて。
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5月中旬。
週末の出雲大社前。
竹野屋は左手画面が切れた所にある。



平成の大遷宮の時はすごい観光客で、神門通りも一新、次々と新しい店が出来たが、
今や連休が終わるとこんなに静かだ。
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👈神門通り。
 奥が出雲大社。


出雲大社の観光地としての問題点は、言い古されたことだが、観光客は来るのだが、出雲大社にお参りしたら、すぐに他所へ廻ってしまい、泊まってくれないことだ。
宿泊は玉造温泉などになってしまう。
これでは旅館経営など出来るわけがないと素人でも分かる。
出雲大社に温泉でも出ればいいのだろうが、たとえ出ても、風土記の時代から続く玉造の湯には勝てそうもない。

参詣客をいかに宿泊させるかは、門前町の旅館の死活問題で、古くから旅館は知恵を絞って来た。
出雲大社でも、江戸時代は御師が御札を配って歩き、出雲大社(当時はまだ杵築大社と言った)を宣伝し、多くの人を大社参詣に誘った。
そして、こうしてやって来た参詣客を少しでも長逗留させるために、大社の旅館(当時は旅籠・はたご)は秘策を編み出した。
それが『富くじ』である。参詣客に『富くじ』を買わせ、『富突き』の日まで逗留させるのだ。今で言えば。宝くじを買わせ、宝くじの当選発表があるまで旅館に泊まらせようと言う訳だ。セコイようだが、これは効果があったようだ。『大社史話会』の会報に紹介されていた話だから間違いない。
しかし、この手は今は使えない。どうしたら、参詣客に泊まって貰えるのだろう。
私は町内の住人ではないが、遠い親戚には土産物屋をやっている家もあるから、いつも賑わいのある町であって欲しい。そんなところへ、出雲の夕景が聖地として自然遺産に選ばれたと言うニュースがもたらされた。
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👈稲佐浜の弁天島
 向うは大社漁港。
 出雲大社はこのずっ
 と右手にある。
 6時半頃。






これを聞いて思わず期待したのは、夕陽の聖地を観光客が見に来てくれたら、宿泊は大社になるのではと言うことだ。何しろ、出雲の日没は遅い。この時期は7時半である。こんな遅くまで夕陽を見ていたら、夕食を食べて、泊る所は大社しかないではないか。
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弁天島から続く『薗(その)の長浜』
国引き神話で新羅から余った土地を引っ張った時の綱が長い浜になったとされる海岸線。この稲佐の浜で国譲りの交渉が行われたとされる。
弁天島の横にひょこっと盛り上がって見える山が『三瓶山』。綱を引き寄せる時に杭にしたと言われる石見の国の名峰である。

道具立ては揃っている。この時期、夕陽は大社漁港の上に沈むので正直風情には欠けるが、季節が移れば、夕陽は水平線に落ちる。神話の浜のスぺクタクルな夕陽だと思うのだが、果たしてどれだけの人が沈む夕陽まで観てくれるのか。
がんばっているのは竹内まりやだけではない。大社の人たちは大遷宮人気を何とか風化させないように努力している。
縁結びの神様や神話のロマンや夕景の聖地で人が集まって欲しいと願う。
ところで、私個人としては出雲を訪ねて来た人たちに、今ここにあるのは大和朝廷が古事記や日本書紀で創り上げた神話であって、原出雲人の神話とは別物であることをも知って欲しい。その代表が国引き神話。古事記や日本書紀では無視されている。だが、この神話は今もなお生きている。現代人のほとんどは国引き神話と古事記や日本書紀の神話が別物であることを知らないで混同しているのだ。バスガイドも国引き神話も大国主命(おおくにぬしのみこと)や国譲りの話もごちゃまぜにしてしまうから。中央が創った神話の陰には、改作された地方の神話や抹殺された神話が沢山ある。だが、国引き神話だけは風土記のお陰で残った。大勢の人が来て、一人でもそこまで思いを馳せてくれたらそれでいいのではないかと思うのだ。神話はロマンでもあるが、政治でもある。

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