曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2017年04月

日曜日に行われる「風土記のリレー講座」が、連休のせいか今日土曜日に行われるので、特養へ行ってから歴博へ行く。
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先週はお昼に稲荷と巻き寿司を差し入れしたら食べてくれた。
残りは夕食の時も食べたとそうだ。
いつも稲荷では飽きるだろうと思い、今日はバッテラを差し入れする。
好物だったので、喜んで食べてくれると思いきや、一切れと半分だけ。
昔は本当に好きだったのに嗜好が変わったのかもしれない。
身体を動かしている訳ではないので、食欲が湧かないのもしかたないのかも。
車椅子に一時間以上は座っていたが、食後は腰が痛くなったと言うのでベッドに移す。
昔は2時間以上は平気で座っていたのだが……。









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母の日も近いので、昔、子供が母の日にプレゼントした「いわさきちひろ」の絵を持って行き、飾ってやる。
本人もこの絵は好きだったのでとても喜ぶ。
今日は連休初日でお見舞いが多かった。
やっぱりお見舞いが多いと施設内の空気が違う。
だが、あればあったで、お見舞いのない人が寂しそうに見えてしまう。皆にお見舞いがあることを願う。

2時からの風土記講座に出て、終了後、忘れ物に気がつき、特養へ戻る。
服が変わっている。
お風呂に入ったのだ。さっぱりした顔を見ることが出来て、忘れ物に感謝する。
さて、来週の差しれは何にしようか。








今日のリレー講座は4回目。「出雲の氏族とその地域性」
出雲は東西に出雲臣、神門臣(かんどおみ)と呼ばれる大きな勢力があり、ヤマト政権の蘇我氏、物部氏と結びついていたが、物部氏の没落により、出雲臣が出雲の頂点に立つに至ったと言う話。
教科書では仏教を信奉する蘇我氏と反仏教の物部氏との戦いで、物部氏が敗れたと習ったが、どうやら今ではこの考え方は見直されているらしい。物部氏もお寺を建てていたらしい。
江戸時代=鎖国と信じていたが、これも見直そうと言われている。
歴史的事実と信じ込んでいたことが間違っていたかもしれない。見直そうとするからいいけれど、そうでなければこれほど恐ろしい事はない。

帰宅して、夕食の支度まで、トマトの畑の準備。連休中に畑の作業は全部やり終えてしまいたい。トマトの支柱の間隔は、ネットで調べたら40㎝だったが、畑先生が50㎝にした方がいいと言うので、先生の仰せに従うことにする。

415日の【古代出雲歴史博物館の学芸員と行く「出雲国風土記かけめぐりツアー」】の報告。
一畑トラベル主催、昼食付きで一人5000円。最小催行人数20名。参加者10名(夫婦3組、男女2人ずつ)だったのにやってくれた。感謝。儲けがあるのかと逆に心配してしまった。
9時に古代出雲歴史博物館出発。松江を目指す→八雲立つ風土記の丘展示学習室→六所神社・国府跡・意宇の森→山代郷新造院跡→昼飯→矢田の渡し→大井窯跡群→目無水(めなしみず)見学→佐太神社→古代出雲歴史博物館見学のコース。
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40分ほどで八雲立つ風土記の丘展示学習室到着。ここは撮影OK。ブログ等で是非紹介してくれと言うので、鹿の埴輪を紹介する。振り返る鹿の埴輪は全国にも3つしかない、珍しいものだそうだ。
この風土記の丘がある一帯は中海の南側に開けた、古墳時代から続く古代出雲の中心地。
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六所神社の裏(北側)は国府跡。
風土記には「佐久佐社(さくさのやしろ)」「青幡佐久佐比古命(あおはたさくさひこのみこと)が座すので大草(さくさ)という」と記されている。
国庁が置かれてから、出雲の総社とされた。ここにお参りすれば、出雲の全神社にお参りしたことになると言う、便利と言うか、有り難いお宮。室町時代に総社を六所に変えるように命じられてから六所神社と名乗るようになった。
六は東西南北と天地の六方の神を意味しているそうだ。言われなければかつては出雲の総社だったとは思えない、さほど大きくもない寂しい神社である。
現住所は松江市大草町。
宮司の話では、ここらあたりは朝なぎ、夕なぎが朝夕入れ替わって吹き、とても心地よい土地柄とのこと。

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写真は六所神社の文字紋。『有』は分解すると『十』と『月』になる。
 



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六所神社裏(北側)国府跡が広がる。
正面の山は神名火山(かんなびやま・現在は茶臼山)、名前の如く、神様が宿ると古代人が信仰した山。出雲には神名火山と呼ばれる山は4つある。そのうちの一つ。
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国庁を取り巻く溝の跡。
国庁跡を見てから、近くの意宇の森へ。田圃の道路際に雑木が少し茂っているだけの猫の額ほどの土地。車から降りてみるほどの事もないので、車中から見ただけ。
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意宇の社(おうのやしろ)
風土記の冒頭を飾る、国引き神話の舞台となった場所。
八束水臣津野命(やつかみずおみつつのみこと)が出雲の国を小さく作り過ぎたので、国引きをしたと言われている場所。
国引きが終わって、意宇社に杖を突きたて、「おゑ」と詔(の)りしたので、
この地を意宇と言うと風土記では語っている。
意宇社は田の中にある小山で、周囲は八歩ばかり。その上に木が一本あると語られている。

注)歩はいっぽ、にほの歩ではない。歩幅ではない。古代の距離単位で1歩=1.78mである。
もはや小山はないが、広さは車窓越しに見た光景に重なる記述である。

どうしてこんな狭い、どうということのない一角が、国引きの舞台になるのか、なぜこんな所に社があったのか理解か行かなかったのだが、よおく考えてみると、古代出雲人(日本人)は山や岩、木など自然物に神が存在すると考えたのだ。だからこそ神名火山が誕生した。彼らは山や岩や木、そのものを拝んだ。神は見えないものであるから、そもそも神が存在するための建築物も必要なかったわけだ。
出雲大社のような社(やしろ)が初めからあると考えたらいけない。
古代エジプトでは神の像を作り、神殿を建てた。仏教では仏像を作って寺院を建てたが、そういう宗教観とは一線を画して考えなければいけないのだ。
そう自分に言い聞かせて想像してみた。
広い田地の中に、小山があって、ぽつんと立つ一本の木。その向こうには神名火山が横たわっている。豊穣の地を見守っているかのように見えないだろうか。恵みをもたらす象徴と見えないだろうか。古代の人が神が宿っていると信じたのもなんとなく分かるような気がする。古木だったのか、それとも天に向かって真っすぐ伸びた木だったのか、それとも雷に打たれても耐えた木だったのか、どんな木だったのか想像するだけでも楽しい。今回のツアーで古代出雲の原初の風景を体感できた瞬間であった。これだけでも参加した価値があったと思った。
 

日曜日は特養へ見舞いに行くことに決めている。午後からは大社で神話と風土記のシンポジウムもあるので、午前中は畑周りの作業をしてから、午後は特養→シンポジウム。
妻は去年の二回の入院でなぜか突然パン食になってしまい、三度々々飽きもせずパンを食べる。家に戻れば、パンは朝だけで、昼は麺類だったり、グラタンのようなものを食べ、夜は必ず御飯を食べる。どうして三食パンになったのか理由が分からない。欧米人は三食パンだから、パン食を否定はしないが、日本人としてはどうしてもご飯を食べてもらいたい。そこで、今日はスーパーで稲荷と巻き寿司を買ってゆく。
許可を貰って一緒に昼を食べる。
パンも食べると言ったが、稲荷を見せたら、稲荷2ヶと巻き寿司1ヶ、おかずを少し食べ、食後のフルーツ(リンゴ)を食べる。稲荷は好物なのだ。
1時から入場なので、歯を磨いてやり、慌ただしく大社の文化プレイスへ行く。今日は忙しかったが、来週からはもう少しゆっくりできるだろう。
帰る時、ホールでホワイトボードに向かっている二人を見る。車椅子が女性で、傍らにいるのが夫だろうか。もしかしたら息子と母親かもしれないが、私には夫婦に見えた。妻が車椅子だと境遇が同じだから、ついそう思ったのかもしれない。この男性は以前にもちらっと見たことのある人。どうやら字を教えている様子に見えた。
多分、名前か何かを、思い出させようとしているのだろう。
昔、似たようなことをしたのを思い出す。
こう言う人がいるとこちらも嬉しくなる。

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シンポジウムは奈良県立万葉文化会館・三重県立斎宮歴史博物館・島根県立古代出雲歴史博物館の三館連携シンポジウム。
基調講演が「出雲風土記と古事記、日本書紀の神話」
報告が「万葉に詠まれた神話」
「風土記を継ぐ社会(出雲市青木遺跡の全国的意義)」
「出雲国風土記はどのように伝えられてきたか」
パネルディスカッション
「語り継がれる神話、読み継がれる風土記」
13:30~17:00

600人の会場に500人くらいは集まっていただろうか。先週の風土記ツアーの夫婦も見かける。





第二部の報告は、1時間は欲しい内容なのに一講演20分しか割り当てられていないので、超特急の講演になり、咀嚼する時間がない。「万葉歌に詠まれた神話」はもっと時間をかけてゆっくりと聞きたかった。
万葉歌に大国主が詠まれていることなど初めて知った。但し、万葉では大汝少彦名(おおなむらすくなひこな)と詠まれている。
今回のテーマに関することだが、出雲の神話と風土記が中央にどのように浸透しているのか、これまで自分としては考えたこともなかった。と、言うよりまだそのレベルまで勉強していなかったから、また面白い視点を与えられたような気がした。奥は深い。

イメージ 2イメージ 1両方ともトンボの抜け殻。
朝、発見。
羽化して、無事に飛び立ったようだ。

左ののヤゴは池から上がって、2m以上離れたカーポートのブロックによじ登って羽化したもの。
わざわざ竹を立ててやらなくてもよかったのだ。
池の底はセメントなので、竹を差すことができず、竹をブロックに縛り付けて沈めておいたのだが、もう、来年からはやめよう。
トンボはたくましい。

イメージ 3これはジャガイモ畑のモグラの穴。
前からあったのだが、土寄せした途端に悪さを始めた。せっかく寄せた土を掘り、化成肥料を散らしてしまった。たった一日で荒らされてしまい、ぶっ殺したくなった。

モグラが嫌がる薬があるはずだから、買って来ようかと畑先生に相談したら、先生、曰く。「正露丸が効くらしいぞ」。モグラの穴や、トンネルの途中に、正露丸を二粒ほど放り込んでおくと、嫌がって寄り付かなくなるらしい。
親に聞いたら、正露丸なんてないと言う。どうしたもんだか。

イメージ 5イメージ 4両方とも晩生の玉ねぎ。
2本ほどに坊主が出来てしまった。
左ははもう倒れている。3、4本倒れてしまった。
坊主が出来るのは失敗。
倒れるのも早すぎる。葉っぱがこうなるのは食べられるようになってからだから、2ヶ月も早い事になる。
晩生の玉ねぎの収穫時期は6月になってからである。
どうしてこんなことになったのか?


坊主は止め肥の時期を間違えると出来てしまうのだが、私は今まで一度も間違えたことはない。帰郷して、玉ねぎを作るのは5回目になるが、こんなことは初めてで、さっぱりわけがわからん。想定外の事ばかり起こる。

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👈つるなしのスナップエンドウ。
豆類はようやく食べられそうになった。
この半月、あちこちから筍をもらい、毎日筍の煮つけばかり食っていた。これから1ヶ月は毎日豆だ。






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ぼんやりしていたら、皆、ジャガイモの土寄せを始めたので、慌てて第1回目の土寄せをする。ほぼ芽が出たのだが、成長して大きくなったものもあれば、まだやっと小さな芽がでたばかりのものもある。種イモをまるまる一個植えれば、芽はほぼ同じ時期に出て、育ち具合もほぼ同じになるが、私のように種イモを半分に切って植えると、種イモにも芽が集中している場所とそうでない場所があり、小さい芽や大きい芽のばらつきもあり、どうしても芽の成長が遅くて、数の少ないものが出来る。
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ジャガイモの根元に化成肥料を二つかみやり、土を寄せてかぶせる。白い粒状のものが化成肥料。
この時、ジャガイモの茎を二本ないし三本にするために、余分な茎を引き抜く。
これを二本立てにするとか三本立てにすると言うのだが、私のジャガイモは4本以上あるものが少ないので、そのままにしておいて(面倒くさいし)、次に土寄せする時に二本立てか三本立てにする予定。










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土寄せ終了。手前が「インカのひとみ」で、向こうの二列が「はるか」。
今年は去年の1.5倍作ったので、夕食の準備の前に小一時間ちょこちょことやって二日かかる。これを後二回やらないといけない。どうしてこんな面倒な事をしないといけないのかが疑問であった。なぜなら、北海道のジャガイモ農家があの広大な農地で、一株一株肥料をやって、土寄せなんかしているはずがない。それなのに私たちが足元にも及ばない立派なジャガイモが出来ている。だったら、私たちも土寄せなんかしなくてもいいのではと聞いてみたら、どうやら土も肥料も違うからではないかと言うことだった。
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竹はヤゴ(トンボの幼虫)が羽化する時の為につくってやった。
泥の中にいるヤゴはその時が来たら、この竹を上って来て、羽化する。
枯れたホテイアオイを引き上げている時に、これまで数匹のヤゴを発見しているので、つい作ってしまった。
忙しいのに、三つ子の魂だから、しかたないなと思いながら。
昔、昆虫少年だったから、トンボや蝶の幼虫を見つけたら、羽化させるのが
無上の喜びなのです。
東京にいた時、近くのクスノキの街路樹でアオスジアゲハの幼虫を見つけ、片っ端から捕まえて来て、育て、さなぎで冬越しさせ、翌春、約20頭分のさなぎを小学校一年生の担任の先生にプレゼントしたら、とても喜んでくれたことがあった。
きっと一年坊主たちは美しい蝶の誕生を目を輝かせて見たことだろう。
ちなみに、蝶々は1頭、2頭と数えます。

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