曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2017年03月

今年は寒い。一昨夜は霜注意報が出ていた。去年はもう桜が咲いていたと思うのだが、まだ花の気配もない。
この冬は風邪をひいていないことに気がつき、ふと、三、四年前に腸感冒に罹ったことを思い出した。
腸感冒とは何ぞや?
もしかしたら、やはり三、四年前に「秘密のケンミンショー」を見ていて、知っている人がいるかも知れないが、説明する。
私もたまたま見ていたのだが、番組内で若いサラリーマン風が体調が悪くて「腸感冒に罹ったらしい」と言ったら、同僚が「君、島根県出身でしょう」と指摘するコーナーがあったのである。
解説するには、「島根県の医者だけが風邪を腸感冒と言う」と、言うことだったのである。
帰郷して間もない頃なので、本当かなと思って、親に聞いたら、確かにかかりつけの医者は腸感冒と診断すると言う。
畑先生にも確認したら、「あの先生は腸感冒先生だけん。なんでも腸感冒じゃ」と、言うではないか。
その後、私は風邪をひいて、先生に診てもらったら、「腸感冒」だと言われた。
私はその時不思議な事に妙に嬉しかった。
帰るなり、親に報告。「やったぜ、ついに俺も腸感冒になったぞ」
だが、症状はどうみても、普通の風邪なのである。なぜ、腸感冒と名付ける理由があるのかがさっぱり分からなかった。幸いすぐに治った。
断っておくが、この先生、私は名医と感謝している。父の大腸がんも先生のお陰で見つかって手術出来たし、妻が胆嚢の手術をした時も、検査結果を見て、すぐに電話して来て、紹介状を書いておくから医大へ行けと手を打ってくれた。
腸感冒に罹って以来、『なぜ、島根の医者は腸感冒と言うのか』と、聞きたいのだが、未だに聞けずにいる。先生はいつも忙しそうにしているから、なかなか聞くタイミングがないのだ。いつか暇そうな時に聞こうと思っている。分かったら報告します。

今日は島根県立古代出雲歴史博物館で【企画展「出雲国風土記ー語り継がれる古代の出雲ー」記念講演】があった。博物館は出雲大社の東隣にある。
少し遠回りになるが、「特養」に顔を出し、妻の昼御飯に付き合ってから行く。
次の外泊が諸般の事情により、一ヵ月も間が空くので、こまめに顔を出してやろうと思った次第。今日で3回目。元気で安心する。スタッフが細かくノートをつけていてくれるので、毎日の様子が分かる。時々、ノンアルコールのビールを出してもらい、美味そうに飲んでいるようだ。
問題は衣類だ。少し太り気味で窮屈になっているので、楽に着られるものを買わないといけないのだが、女物はサイズが分からなくて往生する。東京だと前開きの介護用の衣類を売っているデパート(バカ高いけれど)などがあるのだが、出雲にはない。ネットだと、お婆さん用としか思えないようなものばかりで、買う気になれない。妹が来てくれた時に一緒に買いに行こうと思っている。
車の中でコンビニ弁当を食って博物館へ行く。
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事前申し込みで定員100名。参加できなかった人が沢山いたようだ。大きな部屋がないのでしょうがない。次回からの6回のリレー講座は定員わずか60名。参加できなかった人はさぞ悔しかろう。無理に博物館内でやらなくても広いところを借りてやればいいのに。
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今日は記念講演。(『出雲風土記』へのきざはし)講師は関和彦。
1時間半の講演は時間超過しながらもあっという間に終わる。
面白かったのは「楯縫郡」の「楯縫」の意味。「楯縫郡」は島根半島の宍道湖の北側。
「風土記」には……天の御鳥命(あめのみとりのみこと)を楯部として(派遣し)、大神の宮(出雲大社)の御装束の楯を造り始めた場所……と、ある。
御装束の楯とは何ぞや?
この後、……楯・桙を造りて皇神(すめがみ)等に奉る。故に楯縫という。と、ある。
文字通りに受け取ると、何か儀式に使う服飾のようなものを想像するが、何と楯は壁、桙は柱を意味することが、古代の社の埴輪や神社の写真などから証明される。
即ち、楯縫と言うところは、出雲大社の建築材料である壁や柱を作った場所で、それを出雲大社を建築する皇神に奉ったと言うことだったのである。
これは一例で、教わったことは全てこれに等しいことばかり。
余りにも沢山の事を詰め込み過ぎて、頭が破裂しそうだ。
こういう話を聞いていると、知識を得るだけではつまらない、古代史の謎を解明する立場の方になって見たかったなあと思う。

ところで、出雲市の広報を見たら、市内の出雲神話に出て来る場所を解説付きでめぐるバスツアーの案内あり。半分は初めて知る地名。半日で600円。この上さらにこれにも参加するや否や。カレンダーを睨んでいる。
まだある。
出雲図書館で「古文書に親しむ会」と言うのがあるではないか。これには何とかして出たい。前々から古文書の勉強をやりたかったのだ。本当はこれに一番出たいのかもしれない。
他にも、お隣の大田市では万葉の会を盛んにやっている。何たって柿本人麻呂の石見の国だから。これは風土記の講座と重なって出席できないのだが、一泊二日で人麻呂の歌を巡るツアーは魅力だった。
松江では……ああ、やめておこう。






















畑先生のじゃがいも畑。見てください。
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左の隣接する二畝と離れた一畝。畝の中央の浅い溝のようになったところに種イモが植えてある。畝の両側が高くなっているのは土寄せする時の土が用意してあるのだ。
それにしても、何と見事な畑だろう。まるで定規で測ったように作ってある。
畑先生の畑を初めて見た人は皆仰天する。
「一体どんな人がこんな畑を作っているのだ。こんなすごい畑は初めて見た」
いつだって雑草一本もない。

恥ずかしながら私のじゃがいも畑。
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三つ畝があるが、種イモを植えたところがこんもりと盛り上がっているのが分かるだろう。植え方が浅かったので、土をかけたら盛り上がってしまったのである。
「深く植えろと言ったじゃないか」
と畑先生は言うが、私にしてみれば、どの程度が深いのか分からないのである。
深さ何センチに植えて、何センチ土をかけろと言ってもらわないと。
だが、畑先生はいつもアバウトな言い方しかしない。しかも今年は畑先生より私の方が早く植えてしまったので、先生の畑を参考にすることが出来なかった。
毎年、作っているのだから、先生の作り方を覚えていればいいはずなのだが、いつも時間に追われて、あたふたと作っているから、去年のことなどつい忘れてしまう。
後はまだ自分の畑の作法が決まっていないことに原因がある。毎年毎年、ネットの情報などに惑わされて、植え方や種まきの方法などがその都度変わってしまうのだ。
もうそろそろ自分流の確固たる畑作りの作法を決めないといけない。
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新玉ねぎ(早生)の葉っぱが倒れたら食べていいよと言う合図なので、早速抜いてみた。
見た目はまあまあで、近所の人もいい出来だと褒めてくれる。もちろんお世辞が入っていることは言うまでもない。
新玉ねぎは辛くないので、オニオンスライスで食べなさい。葉っぱも白い茎の部分も食べられると教えてくれる。




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夕食にオニオンスライスを作ろうとして、見かけほどいい出来ではないことが分かる。
玉の締まりが悪くて、上手に薄くスライスできないのだ。
新玉ねぎに限らず、晩生の乾燥させて保存する玉ねぎも、私が作るものは玉の締まりが悪い。
取入れする一ヵ月ぐらい前に、リンをやるとよく締まった玉が出来ると物の本には書いてあるのだが、これまで面倒くさくてリンをやったことがない。
今回ももちろん手を抜いた。
と言うか、そもそも一度目も二度目も肥料をやる時期が遅かった。それも関係しているのかもしれない。
人様にあげられる出来ではない。スープやカレー、シチューの材料にはなる。自家用だ。
手間暇を惜しんではいけないことは分かってはいるのだが、来週来週と延ばしているうちに時機を逸してしまうのだ。
「これが薄かったら美味いだろうなあ」と思いながら、厚紙のようなオニオンスライスを食べた。
実は包丁も切れないのだ。研がなければと思いながら、何年も放りっぱなしにしている。








3月19日から、怒涛の「風土記」月間が始まった。これから5月28日まで日曜日はほぼ休みなし。19日は午前中は「荒神谷博物館」で「風土記談義②」。午後は1時半から、大社の「文化プレイス」で「出雲と大和の誕生の謎を解く」の講演があった。談義終了後、すぐに自宅に戻り、昼飯を掻き込んで大社へ行く。
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👈荒神谷博物館の『銅鐸』のレプリカ。
 昔は木に吊るして鳴らしたそうだ。


「風土記談義②」はまだ「出雲国風土記」の原文には入らなくて、その手前の話。
面白かったのは「写本」の話。
昔は筆写するしかないから、写本をして行くうちに必ず書き間違いが起きる。パソコンもなければ、コピー機もないのだからやむを得ない。
間違えた字を見ると思わず笑いたくなるのだが、私は昔の人が気の毒でならない。
なぜ、そんな心情移入をするかと言うと、私はいま新井白石を調べていることがあって、白石が若い頃から写本で苦労したことを知ったからだ。
白石は本を買うことが出来ないので、若い時からすべて自分で筆写した。
晩年になると、今度は自分の著作を後世に残すために副本を作りたいと思っても、写本を作る人手が足りなくなってしまった。
また白石は同じ本の所有者と、写本同士を突き合わせ、厳密な校合もしている。
本を筆写することは想像を絶する行為なのだ。

今回、取り上げられたのが、
     少領従七位上勲業出雲(倉野家本「出雲国風土記」より)
の中の『勲業』の二文字が全く意味不明である点についての考察。これは出雲臣と言う人物の位を示しているのだが、『勲業』と言う用語がそもそもこの世に存在しないのだ。
「出雲国風土記」にはあちらこちらに、この『勲業』が出て来る。
すると、面白いことに、筆写した人物も、この文字がおかしいと思ったのだろう。
『業』の字が次第に妙な形に変化して行く。筆写する人の迷いが染って、とうとう訳の分からん字になってしまうのだ。あまりにも珍妙な文字に笑ってしまったのである。
結局、『業』は『十二等』の写し違いと判明する。『勲十二等』なら意味が通じる。
『勲十二等』を書き写しているうちに、崩し字を誤って『業』と書いてしまい、それをまた写そうとした後世の人間は意味が分からず、悩みに悩み、やっと近年になって『十二等』と元に戻った訳だ。
私にとっては推理小説を読むみたいで面白かったが、多くの昔の人はたった一字の写し違いでとんでもない苦労をさせられたのだ。
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大社文化プレイスは大社図書館と同じ建物。配布資料が足りなくなるくらいの盛況。私の前に記名していた人は何と米子から来ていた。脱帽。
黒潮の本流がぶつかったところが紀伊半島で、分流がぶつかったところが島根半島。黒潮に乗って文明がもたらされたと言うのが基調のお話。
個人的には魏志倭人伝に出て来る「投馬国」が出雲であると言う説が面白かった。
北九州から水行20日で出雲(投馬国)にたどり着くと、次の水行10日で丹後か若狭辺りに着き、そこから陸行1月で大和に至ることが出来ると言うのだ。1月はかかり過ぎかもしれないが、荷物を運ぶわけだからかなりな日数はかかるだろうとのこと。問題は出雲と投馬では音が違い過ぎるところだが、講師は古代の中国人がイズモをどのように発音したかによると解説した。
イズモ→イトゥモ→トゥモ と発音したとしたら、投馬もあり得るのではないかと。
確かに、出雲廻り航路だと、瀬戸内航路で大阪に上陸してからの陸行1月の問題を克服できる。
北九州から瀬戸内航路を主張した本居宣長はここで困ってしまい、1月は1日の間違いであると主張したのだ。大阪から大和は1日で行けると言うわけだ。都合の悪いデーターが出て来ると、すべて昔の人が間違っていると決めつけるのは今も江戸時代の学者も変わらない。
「昔の人が書いたものは信用できない」
こう言ったのは原発推進論者だ。西暦869年、東北地方を襲った未曽有の大地震、貞観(じょうがん)地震の記録をもとに巨大地震の警鐘を発した人に対する言葉だ。
結果は貞観地震と同規模の1000年に一度の巨大地震が起きた。
話は戻るが、古代中国人が出雲をどう発音したのかと言う講師の言葉で、私はまた新井白石に思いが至る。
白石は魏志倭人伝の地名や国名を考察するに当たり、古代中国人の発音に立ち返って研究した。
白石は魏志倭人伝だけではなく、東北地方の歴史地理研究に当たってもアイヌ語を地名を比定する手掛かりとした。「語言」に立ち返って、地名研究をするのが、白石の方法論なのである。すべてが正しいとは言えなくても、学問研究に一定の方法論を持ち込んだ白石はやはり大した人だったのだと思う。
黒潮、古墳、魏志倭人伝、風土記、万葉……話は多岐に亘り、時を忘れるほど楽しい一日であった。

第一章 出会い(6
 
法師丸五歳の夏だった。
朝から暑い日で、法師丸は屋敷を抜け出すと、近くの寺に虫取りに出かけた。
その寺は今はなく、名も覚えてはいない。寺があった場所は今では城域に含まれ、役所となっている。
その頃、寺の裏手は月山富田城の垂直に削り取られた崖に続いていた。
鬱蒼と木々が生い茂る裏庭は、月山と接していることもあって、蝶や蜻蛉、蝉、カブトにクワガタ、かみきり虫、玉虫など……光り輝く小さな生き物たちの宝庫だった。
法師丸は朝早くから、日が暮れるまで、時が経つのも忘れて虫を追い回した。
夏は虫取りが法師丸の日課だったのである。
が、その日は小物ばかりで、つまらなくなった法師丸は船着き場に向かった。虫捕りに飽きたら船着き場に行くのも法師丸の習慣になっていた。
富田城と富田川の間はさほど広くはないので、城下町は富田川の東側の堤に沿って南北に細長く続いている。町を横切ればすぐに堤に出る。
堤は北は中海まで続き、人馬が途切れることなく行き交い、富田川にも大小さまざまな船が上り下りした。船着き場の喧騒を眺めているだけで心が躍った。
運が良ければ唐人(朝鮮人)の船を見ることが出来た。異国の金色に輝く猿や孔雀の美しさに目を見張ったものだ。
法師丸は捕まえた虫達を放つと、庫裏の横へ出た。小走りに通り抜けようとした時、ふと足が止まった。
緑が陰を作る庫裏の縁側に、向かい合って座っている二人の男がいた。一人はこの寺の住持で、一人は乞食 ( ほいと )のような老人であった。
麻の小袖を涼しげに着た恰幅のいい僧侶に対して、老人は垢まみれで、ぼろぼろの布子をまとい、帯代わりに荒縄を回していた。
法師丸はこの老人を知っていた。屋敷に鮎を売りに来たことがあったのだ。正月には松飾りを売り歩いているのを見たこともある。栗やきのこ、猪の肉を売るのを見たこともある。名前は知らぬが、皆、小屋爺と呼んでいた。町外れに筵掛けの小屋を建てて暮らしているので、そう呼ばれているのだ。
立派な僧侶と薄汚い小屋爺、余りにも対照的な組み合わせに、法師丸は好奇心を駆り立てられた。
しかも二人は青々と剃り上げた頭と、赤く日焼けした禿げ頭をくっつかんばかりに寄せ合って、二人の間にあるものを見下ろしていた。
住持は難しい顔をして、しきりにうんうん唸っていたが、小屋爺は上目遣いに住持の顔を見ながらにたにたと笑っていた。
(和尚さんと小屋爺は何をしているんだろう)
 法師丸はそっと近づいた。
 二人の間に置かれていたのは、薄い板であった。その板には等間隔で縦横に直線が引かれ、縦に九マス、横にも九マスが並び、小さな木片がばらばらに置いてあった。一つのマスに木片は一つで、何も置いてないマスもあった。
 木片には〈歩〉とか、〈金〉〈銀〉〈飛車〉〈角行〉などの文字が書いてあり、〈歩〉と書かれた木片の数が一番多かった。
 法師丸は末の子で甘やかされていて、まだ素読を始めていなかったので、文字は知らなかったが、〈王〉という文字は知っていた。兄達が素読をするのを見ていて、〈王〉と言う字だけ覚えたのだ。
「和尚、はようさっしゃい。下手の考え、休むに似たりじゃ」
「無礼な、わぬし、地獄に落ちるぞ」
 住持が木片の一つを動かすと、小屋爺も木片を動かした。どうやら交互に動かす決まりで、木片の動き方にはそれぞれ決まりがあることが法師丸には分かった。
 小屋爺が勝ち誇ったようににたりと笑った。
「王手じゃ」
 途端に住持がのけぞって呻いた。
「待った。小屋爺、待ってくれ。その手はちょっと待ってくれ」
「和尚、何度目じゃ。もう待てん」
「そう言うな。わぬしには情けというものがないのか」
「へえ、そんなもの忘れましたが」
「そんな心がけじゃ極楽には行けんぞ。いいか、御仏に仕える儂の頼みを聞くことは功徳を積むことになるのじゃ。ここは功徳を積め。必ず極楽に行ける。儂も御仏様に頼んでやるけん」
「これで最後じゃけんのう」
「おお、偉いぞ、小屋爺。極楽浄土間違いなしじゃ。蓮の ( うてな )が待っておるぞ」
 そして、木片を何手か前のマスに戻してやり直したが、今度もまた小屋爺がぴしりと木片を叩きつけるように置いた。
「王手」
「待った」
「和尚、往生際が悪いぞ。御仏様が見ておられますぞ。修行が足りんと呆れておらっしゃるぞ」
 住持は忌々しげに睨みつけたが、小屋爺は涼しい顔で皺だらけの手を差し出した。
 住持は穴開き銭を一枚取り出すと、放り出すように渡し、
「ようし、もう一番勝負じゃ。今度こそ勝ってみせるけんのう」
「なんぼでも付き合いますが。遊んで銭になるんじゃ。これほど楽なことはないけん」
「だらずをこくでない」
 住持はむきになって挑んだが、たちまち追い詰められ、王手を突き付けられる前に、
「やめじゃ、やめじゃ。今日は暑うていけん。頭が回らんわい」
 銭を置くと、立ち上がってしまった。
 よほど悔しかったのだろう、
「御仏に仕える者を敬わぬような奴は地獄へ落ちても知らんけんのう」
 捨て台詞を吐いて奥へ消えた。
「ふん、この世が地獄ですがね」
 小屋爺は鼻で笑うと、穴開き銭をつまみ、にんまりとかざし見た。その時、四角い穴越しに法師丸と目があった。
「小屋爺、それは何じゃ」
 法師丸は小屋爺の前にあるものを指差した。
「うん……これか、将棋と言うもんじゃ」
「しょうぎ……」
 法師丸は縁側に張り付くと、食い入るように盤を覗き込んだ。
「何じゃ、見たことないのか」
「うん」
「屋敷にはないのか」
「初めて見た」
 その眼の輝きは、どんな大きなカブト虫を捕まえた時にも見せたことのないものだった。
 異様な関心を示す子供の姿に、小屋爺の表情が緩んだ。
「盤の上でな、戦をするのじゃよ」
「いくさ……」
 五歳でも武士の子である。戦という言葉が法師丸の小さな胸を掻き立てた。船着き場へ行くことなどとっくに忘れていた。
「この〈王〉と書いてある駒が殿様での。〈歩〉と言うのが足軽じゃ。ほかに侍大将や、騎馬武者達がいての、相手の王様を取った方が勝ちじゃ」
「面白いな」
 小さな目が輝いた。
「ああ、面白いぞ」
 法師丸は小屋爺を見上げた。
「小屋爺、やろう」
 小屋爺が歯の抜けた口を開けて笑った。
「ははは、ま、そのうちのう。坊が大きうなったらのう。儂が生きとったらの話じゃが」
「いまやるんじゃ」
「馬鹿言っちゃいかん。坊みたいな子供にはまだ無理じゃ」
「やれるけん。 ( わ )はやれるけん」
 小屋爺はあからさまにうんざりした。
「将棋は難しいのじゃ。駒の一つ一つの動きも覚えねばいけん。坊は今初めて将棋を見たばかりじゃろ。とてもとても無理な話じゃ。まずは誰かに一から手ほどきしてもらうのじゃな。言っちょくが、儂は教えんぞ。銭にもならんことは出来んけんのう」
「大丈夫じゃ。我は覚えたけん。これは」
と、〈歩〉を指差すと、
「一つしか前に行けん。後戻りもできん。でも、ここから先へ入ると」
 と相手の陣地の三列目に〈歩〉を進めると裏返しにして〈と〉にした。
「裏返しにするのじゃ。そうすると、こいつと同じ動きができるのじゃ」
と、〈金〉を指差した。
 小屋爺はぎろりと眼を剥いた。
「ふむ、じゃあ、これは……」
 小屋爺が次々と指差す駒の動きを法師丸はことごとく答えた。
 小屋爺は感心した。
「よう覚えたのう」
「見ちょれば分かるが」
「見ちょっただけで分かったか」
「目がついとるけん」
 当たり前と言わんばかりの口ぶりに、小屋爺は苦笑いを浮かべた。
「早ようやろう。なあ、小屋爺」
 しきりにせがんだが、
「いやあ、坊が頭が良いのはよう分かったがのう……」
 焦れったくなった法師丸は縁側に上がり込むと、盤側にあった駒を取り、ぴしりと打ち込んだ。
 それを見た途端、小屋爺は「あっ」と声を上げた。
 法師丸は住持が投了して逃げてしまった後の一手を指したのであった。
 小屋爺の歯の抜けた口は開いたままであった。小屋爺は口を閉じることを忘れていた。
「うむ、まさか、そんな手があったとは……」
 小屋爺は信じられないものを見るような目で、五歳の子と盤上を何度も見比べた。
「坊、本当に初めてか」
「うん」
 盤を見下ろす小屋爺の顔は険しくなった。今まで見せたこともない真剣な目だった。暫く考えると、ぴしりと駒音を響かせた。
(これでどうだ)と法師丸を見据えた。
 が、法師丸は顔色一つ変えず、いや楽しそうに、笑みさえ浮かべて指し返したのであった。
 指せば指すほど老人は萎びて行き、五歳の男児は雨後の竹の子のようにすくすく伸びた。
 攻めあぐねた小屋爺は一転して攻め込まれる立場になった。あれよあれよと言う間に追い詰められ、
「ここで、王手と言うんじゃな。小屋爺、王手」
 法師丸が嬉しそうに小屋爺の駒捌きを真似て、鋭く駒音を響かせた。
 老人は茫然と盤を見下ろしていた。
「どうしたんじゃ。小屋爺の番だが」
 老人は指す気を失っていた。投げ出して逃げて行った住持の気持ちがよく分かった。どうあがいても老人の負けだったが、老人にはまだ言い訳が残されていた。
「ちょっと油断してしもうたようじゃ。途中から相手が変わったので調子が狂ったぞ。今度は初めから勝負じゃ。坊、手加減はせんぞ」
 また出来るとあって、法師丸は嬉々として駒を並べ始めた。
結果は無惨なものであった。
老人は死人のように青ざめた。
石のようにうずくまっていたが、やがて力なく笑い出した。たった今将棋を覚えたばかりの年端も行かぬ子に、完膚なきまでに叩きのめされたのである。これが笑わずにおられようか。
どんな笑いも、笑っているうちに、心を解きほどくものだ。この時の小屋爺がまさにそうだった。木の根のようにひねくれ、世を厭い続けた老人の心に温かいものが広がった。それは驚くべき才能と出会った幸せだった。小屋爺は素直に感嘆した。
「なんぼ長生きしてもつまらんと思うちょったが、今日だけは長生きしてよかったと思うたぞ。この世に坊みたいな子がおったとはのう……」
 まだあどけなさを残した可愛い男の子であった。額が、耳が、目が、口元が、すべてが利発そうな子であった。
「坊はどこかで見たことがあるのじゃが、どこの御子じゃ」
「多胡じゃ」
「なに、多胡」
 小屋爺の眉が動いた。
「どこの多胡じゃ。親父殿の名は何と言う」
 家中に多胡を名乗る家は幾つかあった。
 多胡氏は大江氏の後裔と言われ、上野国多胡に住んで多胡氏を称するようになったもので、古くは鎌倉時代に地頭となって下向して来た家もあった。
「あっちの御子守口の近くじゃ」
 と一方を指差すと、
「と言うと、多胡忠重様か」
 落ち窪んだ黄色く濁った眼を蟇蛙の目のように丸々と見開いた。
「な、な、なんと、あの多胡様の御子だったとはのう……」
 まじまじと穴の開くほど法師丸の顔を覗き込むと、
「そうか、そうだったのか、さもありなん。いやあ、血は争えんものじゃ。さすがは多胡博打の御子じゃ」
 と感嘆しきりであった。何をそんなに大げさに感心しているのか、法師丸には分からなかった。(たこばくち)と言う言葉の意味も分からなかったが、その時は気にも留めなかった。
 早く次の勝負がしたかっただけであった。
 が、小屋爺は手を振った。
「駄目じゃ、駄目じゃ。坊には勝てん。勝てる訳がない。いやあ、参った、参った。ほんに参ったわ」
 と大きな声を残して行ってしまった。
 
 法師丸は屋敷に飛んで帰ると、
「兄い、正兄い……」
 大声で正国を探した。
「おらんのか、重兄いは……」
「これ、騒々しい」
 縁側を走って来た法師丸はびくっと立ちすくんだ。
 開け放った座敷で父忠重が小太りの身体に団扇で風を送っていた。
「縁を走ってはならぬ」
 年の割には頭が薄く、見事な八の字の髭の上に、大きな目玉を乗せた父の前に来ると、法師丸はいつも体が強張った。しつけに厳しく、笑った顔を見たことがなかった。
「はい」
「何度言うたら分かるのか……兄上と呼べとも言うたぞ」
「はい、父上」
「返事だけはいいのじゃが」
 渋い顔で、
「何じゃ、また、かぶと虫でも捕まえたか」
 法師丸は首を振った。
「くわがたか」
 法師丸はまた首を振り、
「正兄い、いえ、兄上達と将棋をやろう思うて」
 団扇が止まった。
 大きな目玉がぎろりと法師丸の顔を覗き込んだ。
 
 

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