曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2017年02月

荒神谷博物館で「出雲国風土記談義」が始まった。
荒神谷は昭和59年に銅剣が358本も出土して一躍有名になった遺跡だ。この博物館では10年前から「風土記」の講義をしていて、この数年間は現存する五風土記(豊後国、播磨国、常陸国、肥前国、出雲国風土記)のうち四つの風土記の講義を終え、いよいよと言うか、やっとと言うか、ついにと言うか「出雲国風土記」の講義が始まったのである。
出雲には、出雲大社に隣接する「島根県立古代出雲歴史博物館」を筆頭に、「荒神谷博物館」「出雲弥生の森博物館」がある。熱心に講演や講義をしていて、団塊世代を中心とした聴衆で溢れかえる。今日も100席が満杯。皆、車でやって来る。
帰郷して6年間、聞きたい講演会は山ほどあったが、年に一つ出席出来れば御の字で、ほとんど出席できず、指をくわえて眺めていた。今回、妻が入所したので、一番聞きたかった講義に初めて参加できた。この講義は月一回だが、これからは毎回出席できるだろう。
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教科書の本を売店で購入。1362円也。プリントも配られる。
今日はまだ本文には入らず、昭和25年に発表された「出雲風土記」は偽書であるとの論文についての考察。筆者の薮田嘉一郎は古代史研究家で専門家ではないが、風土記への疑問を提出して学界に波紋を広げる。研究者は薮田論文を前に古代史研究が未熟な事を知り、薮田論文を否定するためにも研究を深めた。そのおかげで古代史研究が進んだと言うお話。
その一例としてあげられたのが、風土記が書きあがったと記されている、天平5年2月30日の日付の問題。薮田は2月は小の月なのに30日があるのはおかしいと論じる。
実は他の研究者も気にはなっていたのだが、誰もそこを敢えて問題にしてこなかったのだ。改めて突きつけられた研究者たちは様々な論を立て、研究を重ねる。
結局、暦の専門家の研究で、古代の暦では2月は大の月で、30日は間違ってはいないことが分かる。そして、古代では2月30日が年度末に当たることもわかる。
余談で、薮田は小説家の松本清張と文通していて、古代史についてやり取りしていた。清張は薮田の論に触発され、古代飛鳥にペルシア人渡来説を立て、「火の路」と言う推理小説を書いたと教えられる。
昔、その本は手に取ったことがあるのだが、余りにも突飛すぎるような気がして読まなかった。今度読んでみよう。
3月~5月にかけて、出雲では風土記の講演が多数あるが、全部事前申し込みと分かる。果たして今から申し込んで参加出来るものやら。不安になって来た。
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荒神谷遺跡。
左側が銅剣、右側が銅鐸と銅矛。レプリカが発掘時と同じ状態で展示してある。
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予約が取れた。すごいことになった。

3.19 風土記談義2回目(荒神谷博物館)10.00~12.00
3.19 出雲と大和の誕生の謎を解く(大社文化プレイス)13.30~16.30
(これ以降はすべて事前予約)
3.26 出雲国風土記へのきざはし(古代出雲歴博)13.30~15.00
4.2  出雲国風土記写本の世界(古代出雲歴博)14.00~15.00
4.9  風土記登場地を歩く(古代出雲歴博)14.00~15.00
4.16 風土記の神・社(古代出雲歴博)14.00~15.00
4.23 語り継がれる神話、読み継がれる神話(大社文化プレイス)13.30~17.00
4.29 出雲の氏族とその地域性(古代出雲歴博)14.00~15.00
5.7  風土記時代の公務員(古代出雲歴博)14.00~15.00
5.14 地中から姿を現した風土記(古代出雲歴博)14.00~15.00


第一章 出会い(4
 
屋敷に戻ると、玄関に息子の吉法師が飛び出して来た。
「父上、岩山城主拝命おめでとうございます」
 汗で前髪が貼りついた顔は、暑気と興奮で真っ赤に染まっていた。
 娘の阿茶も駆け付けて来ると、
「おめでとうございます」
 兄妹は揃って手を付いた。
 ごつんと鈍い音がして、
「痛い」
 阿茶はおでこを抑えた。勢い余って床に額をぶつけてしまったのだ。
「馬鹿」
 呆れ顔で吉法師が辰敬に言い付けた。
「走るなと言われちょったに、さっきも縁側で転んだけん」
「見せてみろ」
 辰敬が覗き込むと、阿茶は照れ臭そうに顔をしかめた。
 小さな額には赤みを帯びた腫れが御丁寧にも二つ並んでいた。
「おお、美人が台無しだが」
「お姫様になれるかね」
 心配そうに大真面目な顔で問う阿茶は父親似の器量良しであった。
 辰敬には一男一女があった。修行の旅と言えば聞こえはいいが、その実、我儘放題して来た辰敬は、結婚するのが遅く、五十になろうかと言うのに、長子吉法師は未だ十歳、阿茶も八歳に過ぎなかった。
「なれるとも……なれるとも……」
 励ます声が不意に詰まり、微笑みかける目に熱いものが滲むと、思わず辰敬は阿茶を抱き締めていた。
 岩山のお城のお姫様には決してなれないであろう娘を。
 妹を抱き締める父を吉法師は奇異な目で見ていた。物静かで厳格な父がこれまで一度も見せたことのない姿だったのである。
 辰敬の腕の中で阿茶が目を白黒させた。
「く、苦しい。父上」
「すまん、すまん」
 慌てて阿茶を離すと、辰敬は二人の子の顔を交々 ( こもごも )見詰めた。この日この時のこの顔を、瞼に焼き付けるかのように。
(許せよ、父を)
 いつもと違う父に戸惑いながらも、見返す子供たちの目は誇らしげであった。
 辰敬は張り裂けそうな胸を綴じ合わせると、二人の眼差しを受け止め、優しく送り返した。心の声を乗せて。
(お前達も武士の子、武士の娘、母を守り、兄妹助け合い、強く生きるのだぞ)
「いつ石見へ行くのですか。吉法師もお供します」
 吉法師が目を輝かせて問うた。
「阿茶も早く行きとうございます」
「うむ」
 辰敬は一瞬返答に窮した。いきなりそんなことを言われるとは思ってもいなかったのである。もとより戦の城に妻子を連れて行く気などなかった。
「まあ、待て。物見遊山に行くのではないぞ。引っ越しの支度も大変なのじゃから……」
 口を濁すと、辰敬はつんと阿茶の頬を突き、玄関を上がった。
 
 辰敬は奥の座敷で上半身裸になると縁側に出た。
 そこへ盥を抱えて現れたのは妻の千代だった。
 着替えをしたり、汗を拭いたり、身の回りの世話はいつも近習がしていた。これまで千代が世話をしたことはなかったから、辰敬は今日という日が千代にとっても特別な一日になったことを覚った。
 が、千代は、
「お疲れ様でございました」
 と言ったきり、絞った手拭を差し出しただけであった。
 辰敬も黙って手拭を受け取った。
 指が触れた。一瞬だったが、妻の指の柔らかさに驚いた。妻の指を握ったことなどいつのことだったが忘れてしまったが、昔の柔らかさが確かにそのまま息づいているように感じたのだ。
 指先に残る感触は冷たい手拭を握ってもすぐには消えなかった。
 辰敬はゆっくりと汗を拭った。
 手拭が二人の手を行き来する間、辰敬も千代も一言も口を利かなかった。
 最後に辰敬が背中を拭おうとした時、千代が背中に回ると、辰敬の手から黙って手拭を取り上げた。
 古傷が残る体にはシミが浮き上がり、肉もたるみ始めていたが、背筋だけは若い頃と変わることなく、呆れるほど真っ直ぐだった。
 固く絞った手拭が上から下へ滑ると、心地よい涼気が滝のように落ちて行く。
 背を任せながら、辰敬はさして広くない庭を眺めていた。
 類焼を免れた辰敬の屋敷の壁や塀、庭の松の木にも矢の突き刺さった跡が数え切れないほど残っていた。
 大内毛利の連合軍と城下で激しい白兵戦を繰り広げたのが昨日のことのように思える。
 ひぐらしが鳴き出した。
 ひぐらしは不思議な蝉だ。どんなに大きな声で鳴いても、静けさを運んで来る。
「岩山のお城を見とうございます」
 古傷がぴりっと引きつった。
 辰敬は戸惑った。そっと振り返り、
(お前もか……)
 と言いかけた言葉を呑み込んだ。
 辰敬を真っ直ぐに見上げる目は、こう語りかけていたのだ。
夫が死に場所と決めた城を、わらわもこの目に焼き付けておきたいのです)
 辰敬はため息を漏らした。
 すると、そのため息の意味はお見通しと言わんばかりに、千代は笑みを浮かべた。
「御一人で御出でになるおつもりなのでございましょう」
 辰敬は応えなかった。
「わらわは思うのです。岩山のお城が滅する時は、尼子も滅する時と……」
 辰敬は思わず目を剥いた。
(何と言う女だ)
 我が妻が発した言葉とは俄かに信じられなかった。いつも微笑を湛え、少ない口数を笑みで補っている女だった。恐れ多くもかくも大胆な事を口にするとは想像だにしていなかった。
 まるで別な生き物を見るような眼で、まじまじと妻を見詰めた。
 ひたと見返す千代は武士の妻の目だった。
「なれば、わらわ達は富田の御城下にいようと、岩山のお城にいようと同じではございますまいか」
 理屈ではある。
火を吐くような声であった。
「わらわ達は許される限り御側に居たいのでございます」
 千代がこれほどはっきりと自分の意志を表したのも初めてだった。
「お前様に何があろうと、この国がどうなろうと、子供たちはお前様の名に恥じぬ子に育てて御覧に入れます。そのためにも子供達と一緒にお前様の御城に行きたいのです」
 その顔が不意に赤くなった。千代は目を逸らすとはにかんだ様に俯いた。己が言辞を恥じたのだ。身の置き所のなさそうな素振りを、辰敬は微笑ましく見詰めた。何と可愛い妻だろう。いつもの千代に戻っていた。そして、いつものように控え目にそっと呟いた。
「……誰もお手を挙げる者がいなかったので、お前様が名乗り出られたと聞いた時、ああ、お前様らしいと思いました。お前様はそう言う御方なのです」
 辰敬の背筋がすっと天に向かって伸びた。
 それは名乗り出ることが出来た訳が分かったからであった。実は辰敬にもなぜ名乗り出たのか分からなかったのであるが、今にして思い至ったのであった。
 そうするのが人として当たり前のことが出来たのも、誰かがしなければならないことが出来たのも、この妻がいてくれたからなのだと。
 
 旬日を経ずして、辰敬は晴久から与えられた兵を率いて石見に下った。
 妻子は後から来ることにした。
辰敬の郎党たちは家族と水盃を交わした。
朝、暗いうちに出発した一行は、富田川を挟んで月山と向き合う京羅木山を一気に越え、宍道湖畔に出た。西下して出雲の平野を横断すると、その先、山陰道は右に日本海を見ながらの道となる。
 振り返ると白砂の浜が緩やかに弧を描いて、島根半島の突端に向かって延びている。杵築大社のある杵築港辺りは遠くおぼろに霞んでいる。出雲神話では、杵築の岬を引き寄せるのに使った国引きの綱が、この長い白砂の浜、 ( その )の長浜になったと語られている。
 子供の頃から親しんで来た神話の世界が背後に遠のき、辰敬は改めて出雲と別れる身であることを痛感した。
波音が足元を揺らした。
出雲国西端の要地、 (くちたぎ )である。すぐ先の島津屋には関所が設けられている。荒磯に砕け散る波しぶきを下に見ながら関所を抜けると、道は断崖に阻まれ、山に分け入る。
そこが雲石の国境で、峠を越えると、山陰道が再び海にぶつかった所が波根 ( はね )の港である。
光景は一変した。この先は砂浜が広がっている。馬上の辰敬は胸一杯に潮の匂いを吸い込んだ。ようやく石見の国の東の玄関に立ったのだ。
一望に視界が開け、傾きかけた晩夏の陽がきらめく波根の海は穏やかだった。
海辺の宿場を抜けると、左手前方には波根湖が広がり、さらにその向こうには実りを予感させる稲穂が一面緑の波を揺らせていた。
 山陰道はこの湖の南岸に沿っている。低い山と湖の間の細い道を行くと、湖と分かれた先で、岩山の真下に出る。道はその先は丘陵の間を抜けて大田に至る。
 岩山城へ行くにはこの道を行く。だが、山裾の道は起伏が邪魔をして岩山の全貌を望むことが出来ないので、辰敬は敢えて遠回りになる、湖の北岸を通る海沿いの道を進んだ。
 湖と海の間には屏風のような低い丘がある。その中程に湖水を海へ流すための切り通しが作られていて、浅い水路には板橋が架けてあった。板橋を渡ると、生い茂る葦の向こう、ほぼ正面に、つんと尖がった小さな山が見えた。岩山である。目を細めると砦が見える。
 岩山城を見るのは初めてではない。兄多胡正国が守る石見中野の余勢城を訪ねた行き帰りに遠望したものである。最後に見たのは何年前のことであったろうか。まさかあの城に自分が入ることになろうとは……。
辰敬は湖岸をぐるりと回った。
江谷川が湖に注ぎ込む所まで来た時、馬上の辰敬の顔にふと笑みが浮かんだ。
(何と月山富田城と似ていることか……)
 山陰一の名城であり、巨城である富田城とこんな小城と何が似ていると言って、立地条件がそっくりだったことに、いま初めて気がついたのである。
 富田城の西には富田川が流れ、北流して中海に注ぎ込む。岩山城も西に江谷川が流れ、波根湖に注ぎ込んでいる。
 富田城の東は中海まで山稜が延び、背後の守りとなっている。岩山城の東側も同じように日本海に向かって低い山が続いていた。
富田城は中海から続く広大な田園が尽きるところにある。岩山城も前には波根湖と田園がある。
 規模は全てにおいて比べものにならないくらい小さい。岩山城は月山富田城の出丸の一つにも及ばない。
 が、辰敬はこの小さな城が好きになった。何と愛しい城であることか。この小さな城と共に、大内毛利の大軍と戦うことになるのだ。
(どうせ死ぬなら、好きな城と一緒がいい……女と一緒か……)
 柄にもないことを呟いた辰敬は苦笑いを浮かべ、馬腹に蹴りをくれると、江谷川の堤を進んだ。
館にはすぐに着いた。
 館は岩山の麓に建ち、前を江谷川が流れている。辰敬は館には入らず、そのまま裏の岩山に登った。高さにしておよそ十三丈(四十m)ほどなので、一息で登ることが出来た。改めて小さな山であることが分かる。山頂も広くはない。その名の通り、大きな岩が幾つも剥き出しになっていて、櫓の支柱は岩に穴を穿って立てられている。
 上から見ると、田園の狭さがよく分かる。平地の東の半分近くは波根湖で、手を伸ばせば水を掬えそうだった。波根湖の北は砂洲に出来た集落を挟んで石見の海が見えるが、西の大田方向は低い丘陵が邪魔して、海はほとんど見えない。
 大田から攻め込んで来た大軍はすぐに波根湖にぶつかり、眼下の田園はたちまち万余の軍勢に埋め尽くされるだろう。
 地勢は岩山城の命運を雄弁に語っていた。
 出雲を目指す大軍は湖の北岸と南岸と二手に分かれる。南の道を通る大軍は岩山城のすぐ真下を進むことになるのだ。
 これまで大内毛利の再侵攻を頭では分かっているつもりであったが、いざこの場に立ってみて、初めて現実の問題として身に迫って来た。
 その日はいつか。
 心の片隅のどこかでこの冬はあるまいと思いたい気持ちがあった。大内毛利も傷ついたのだ。態勢を立て直すには時間がかかるはずだ。が、それが虫のいい願いであることは分かっていた。
 傷ついた者同士が戦った場合、歯を食いしばって踏ん張った者が勝つ。真の勇者なら傷ついた身に鞭打ち挑んで来るであろう。
 大内には尼子に倍する国力があり、毛利には尼子にはない結束力がある。この冬攻めて来て何の不思議があろうか。
 もし辰敬が大内義隆や毛利元就の立場なら、自分達も辛いが、相手も辛い今の、この機会を絶対に逃さないであろう。
 この冬こそ備えねばならぬ。
 もし、運よくこの冬が過ごせたとしても、来年の冬には必ず来る。
 武将の目が波根湖の北岸を射た。
 切り通しの水路を見下ろす東の高台には (わにばしり )の砦がある。ここからは見えないが、湖の南岸に突き出した山裾には鈴見の砦がある。
(鰐走の砦や鈴見の砦を補強し、波根湖の水軍も増強しなければならぬ)
 いつの間にか空が茜色に染まっていた。
 西に連なる丘のすぐ上にまで真っ赤な太陽が落ちていて、湖面に朱が跳ねていた。
 辰敬は戦場で見る夕陽はいつも血の色をしていると思ったものだ。いま辰敬が見ている夕陽も、戦場で見たものと同じ、今にも血が滴り落ちそうな色をしていた。
 
 

昨日、訪問マッサージの打ち合わせがあって特養へ行った。
話が終わったのが昼前だったので、妻の昼食に付き合ったのだが、そこで見た現実に言葉を失う。
そのブロックで食事をするのは、お婆さん6人と妻を入れて、全部で7人。それを若い男性職員がたった一人で世話をするのだ。
6人のうち4人のお婆さんは刻み食と言うのか、流動食と言うのか、よくわからなかったがコップに入っている。残り2人のお婆さんと妻だけが普通食。
4人のお婆さんは座っているだけで、もう自力で食べようともしない。
若者はその一人一人にスプーンで食べさせて行くのだが、一人に時間をかけられないから、2分ぐらいで何口か食べさせると、すぐ次のお婆さんに移って行く。残り二人のお婆さんも妻も、完全に一人で食べられるわけではないから、その3人の食事介助もしなければならない。
若者はコマ鼠のように回って世話をする。
私は見ていられなくて、妻の食事介助をした。
この若者は食事の度にこれを繰り返しているのかと思うと、頭が下がった。感謝の言葉しかない。妻は車椅子に移乗する時、この若者をぶったり、蹴ったりしているのだ。
人手不足を言うは易しい。
だが、金に限りはある。人材にも限りはある。
皆、考えないと。私たちのすぐ目の前には、恐らくこれよりもっと過酷な状況が待ち構えていることを。
私は以前国民総介護と書いたが、その言わんとするところは、介護を施設や職員だけに押し付けてはいけない、社会全体でふんわりと包み込み、皆で手を差し伸べ、ともに生きて行けたら素敵だなと言うことなのだ。
例えば、私は昔は目が不自由な人がいても、なかなか声を掛けることが出来なかった。だが、妻が倒れてからは、自然に声を掛けることが出来るようになっていた。
そう言うことではないのかな。
そう言う人が増えれば、社会も変わると思う。
施設の建物をバリヤーにしてはいけない。

戦後の話だと思うが、東宝ではシナリオライターを目指す社員は会社命令で先輩ライターの弟子にさせられたそうだ。会社が本人の意思に関係なく決める。師匠は不服そうだったが、その理由は後で分かった。
師匠は小国英雄の弟子になった。黒沢映画の大脚本家である。当時すでに大御所だったから、共同脚本家たちのまとめ役のような役割を果たしていたと言われている。
ある日、プロデューサーが「そろそろ松浦君にも一本を」と言った。
師匠は嬉しかったそうだ。やっと脚本家になれる。飛び上がるほど嬉しかったそうだ。
ところが小国英雄は「松浦君はまだ早い」と言った。大御所にこう言われたら、プロデューサーは引っ込むしかない。
それはそれは悔しかったそうだ。どれほど悔しかったか。
「俺はその時の悔しさが忘れられなくてさ。だから俺は弟子は早くデビューさせてやることにしているんだよ」と、ビックリするようなことを言った。ビックリはさらに続いた。
「俺はな、一人前の脚本家が10の力が必要だとしたら、7の力をつけたところで独立させてやるんだ。なあに、独立すれば何とかなるものなんだよ。後の3の力は自分で身につければいいのだ」
私は飛び上がるほど嬉しかった。給料払ってくれないことなどどうでもよかった。
何ていい先生だろうと感激したものだ。早く独立させてくれるなら、これに優る喜びはない。地獄の弟子生活ともさよなら出来る。7の力で世に出ることの大変さなどその時は想像もしなかった。
お礼奉公もころっと忘れていた。
割と早く独立させてくれたが、7の力で世に出ることとはこう言うことかと、身をもって知らされた。残りの3を埋めるためにどれだけ辛い思いをしたか。直し直しの連続で死にたくなった。弟子生活の辛さとは比べものにならない辛さだった。弟子なら逃げることが出来るが、もう私は逃げることが出来ないところにいたのだ。
私とシナリオ研究所で同期だった女性と同じ番組で出会ったが、その人は自殺してしまった。
私は7の力で苦労したが、10の力で世に出て苦労した仲間もいる。
彼は有名な作家の弟子だった。その先生は大勢の弟子を抱え、多くの番組を書いていた。弟子が書いた本に手を入れて、共同脚本にする。優秀な弟子がいれば、いるほどたくさんの脚本が出来上がる。となると先生は優秀な弟子ほど手元に置いておきたくなるのは人情だ。一方、優秀な弟子ほど早く独立したくなる。そこに葛藤が生まれ、
我慢しきれなくなった弟子は飛び出してしまう。
しかし、いくら優秀でも、先生の許しを得ずに飛び出しているから、先生の息のかかった場所では仕事ができない。それもまた辛いものがあるのだ。
そうかと思うと、ある女流ライターの例。彼女は女の先生に弟子入りした。しかし、彼女が売れ出すと、激しく嫉妬したそうだ。余りにも嫉妬が激しくて、彼女は逃げ出すかたちで独立した。でも、これはこれで一番ラッキーな独立と言っていいかもしれない。
今になって思うと、苦労したけど、早く独立させてくれた師匠に感謝している。
「俺のために尽くしてくれた弟子は可愛い。だからライターにしてやりたいのだ」
多くの弟子を抱え、多くの脚本を書いた。やっていたことは大量生産の今風だが、根は情の人で、古風な昔の男だった。
お礼奉公も小説のお手伝いや、口述筆記であって、私に脚本を書かせて楽をすることはしなかった。

鳥取県の大山町の親戚で49日の法要があった。予報では大雪。今日行けないと困るので、昨日から泊りがけで出かける。今回は母を連れて行くと大変そうなので、私が代理で行く。車で行くか、汽車で行くか、散々迷って、思い切って車で行く。
その夜から大雪。どんどん積もる。今朝は40㎝以上あった。
私は福島県の五色沼から北へ行ったことがない。スキーもやったことがないから、40㎝の雪なんて、この歳になって初めて見た。
驚いている暇はない。早速従兄弟3人と力を合わせ雪かきだ。駐車スペースの確保とお坊さんの通り道の雪かき。やっと終わって、お墓の雪かきを忘れていることに気が付き、慌てて、離れたお墓へ雪かきに行く。雪は降るし、雷は鳴るし、寒いし、怖い。
やっと終わって、戻ったら、今日は納骨はしないと言う。
石屋から電話があって、雪が凄いし、墓石が凍り付いているので、納骨の手伝いは無理と言われたのだそうだ。お墓の雪かきは無駄骨に終わった。
そこへ、お坊さんから電話。雪で行くのが大変だから、今日の法要を延期しないかとの相談。
おばさん、大いに慌てる。東京や大阪からも人が来ているのだ。なんとかお経だけでも上げてくれと言うことで、納骨は後日、お寺に参るのも中止して、本当にお経だけの49日を済ます。
直会は皆生温泉のホテル。迎えのマイクロバスが家の近くまで来れないので、雪の中を歩かされる。年寄りは転ぶ。山陰道経由で行ったが、時速30キロも出てないのろのろ運転。
これで俺は運転して帰れるのかと、食事していても雪が気になる。
従兄弟のお嫁さんに笑われる。彼女は山形県の米沢出身。40㎝の雪におろおろしているおっさんがよほどおかしかったのだろう。だけど、本当にアイスバーンになっている高速を走って帰るのは怖かったのである。
夕方、帰途に就く。沢山車が走ったので、高速はシャーベット状態に変わっていた。50キロで流れていたので少し楽だった。島根県に入ったら、路面の雪も薄くなり、何とか無事に戻れたが、緊張していたので、肩がぱんぱんに張っている。
40㎝の雪に翻弄された一日。自分の小ささが分かったかと天に言われた。
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            「大山町の景観保存地区」
夕方の雪が途切れた一瞬。早朝と午後の除雪車のおかげで通りやすくなった。

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