曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2017年02月

これが長い間さっぱり分からなかった。
図書館の「姓氏大辞典」を見ても載っていないのだから情けない。
昔、資料を調べていて、偶然、加賀藩の下っ端に曽田ナントカ衛門という名前を見つけたことがあったぐらいだ。尼子氏の下っ端にもなさそうだし、もしやと思った出雲大社の神官団の下っ端にもなさそう。もう、お手上げである。追及するのは諦めていた。
ところがである。去年、大社史話会発行の「大社の史話」185号をぺらぺらとめくっていたら、思いもかけず曽田の記述を見つける。
「大社の史話」は大社と近郷の歴史や民話、生活記録などを紹介する定期刊行物であるが、必ず一本は専門的な記事が載る。それが「江戸初期の斐伊川左岸の土工史」で、その中に3ヶ所登場していたのだ。

…その分流となった妙仙寺川であって、現在今市大念寺下を過ぎ、塩冶の曽田へ通じている。
…塩冶井手は、曽田に至って二つに分かれる。
…塩冶井手の新しい名前妙仙寺川で、曽田から真西に流れるが…

曽田は地名だったのである。
塩冶は風土記に塩冶郷と出ているくらい古い地名で、古来から出雲の中心と言ってよい土地である。

そう言えば、うちの近所の「曽田さん」が、祖先は塩冶からこの土地へ移って来たが、その頃は一面何もない荒れ果てた所だったと聞かされたと言っていた。
どうやら、我が家も同じ塩冶から移って来たようだ。
名前の曽田も地名の曽田が発祥のようだ。

ここまで調べて、実は曽田と言う地名はあちこちにあるらしいことも分かった。
これも多胡辰敬の資料調べをしていて、偶然見つけたものだ。尼子氏と安芸の吉川氏の関係を述べた文中に、

…尼子方へ参陣させることを申し入れるとともに、高橋牢人衆が吉川氏領宇次井・曽田に対して狼藉を加えることの停止を求め…

と、あるのだ。今の広島県の北部辺りにも曽田と言う土地があったのだ。
岡山にも曽田さんがいるし、岐阜にも曽田さんがいると聞いたことがある。たぶん、この人たちも地名が発祥なのではなかろうか。
となると、地名の曽田の意味が気になる。
調べたら、象形文字では「曽」は甑(こしき)から、蒸気が噴き出す様子を表したものであることが分かる。即ち、ものごとが増えることを意味しているのだ。
曽田=増田=益田、このあたりはみな同じ意味なのかもしれない。
出雲の曽田はたぶん塩冶の地名曽田が発祥で間違いないと思っているのだがどうだろう。
ここまで突き止めたのが最近なので、まだ曽田の地には足を運んでいない。どうも地図には見当たらないので、失われた地名なのかもしれない。出雲駅の東南辺りらしいから時間が出来たら行ってみようと思う。
長年の疑問が解けたような気がしてちょっと楽しい。
これだから、資料読みをやめられない。

26日の朝4時に起きて、出雲に戻る。2便から後の飛行機が全部満席で、7時25分発の飛行機しかなくて、眠い目をこすって羽田に。前夜が高校のクラス会で寝たのが12時だったからさすがにきつかった。
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24日はライター仲間と飲んだのだが、その前に渋谷文化村で一緒に「河鍋暁斎展」を見る。飲む前に美術鑑賞なんて、粋な事を考えてくれる。
博物館や歴史館には出雲でたまには行くが、純粋な絵画の鑑賞なんて十数年ぶり。
すっかり忘れていた贅沢な時間に浸る。
天才と一口にくくるのは簡単だが、「卓越した技量があってこその作品群だなあ。天才でも随分修業したのだろうなあ」と、作品の背後にある見えない努力に感動する。
そして、能力がある人は多作であることも改めて教えられる。たくさん描いても擦り減らないのだ。
私たち凡人とはそこが違う。




昨夜25日は今回上京の目的であった高校のクラス会。
私は2年ぶり。ニュージーランド居住の友が一時帰国したので急遽企画したもの。
去年も集まりがあったばかりなのに、久しぶりの友のために15名も集まる。ひとえに幹事さんのお陰だが、私たちのクラスは同期会でも常に一、二の参加数を誇る。
クラスメートは偶然の集まりだが、偶然集まった者たちが、高校2年、3年と青春の2年間で未だに気持ちよく集まれるクラスに作りあげて行ったのだろうなあと思う。
私たちの高校は杉並区にある都立高校だったが、何と何十年も昔のあの当時、制服がなかった。男子は下駄ばきに学生服、お洒落な奴らはセーターを着ていた。女子も3年生になったら女子大生みたいな恰好をしている者もいた。ぴちぴちのタイトなスカートをはいて、お尻をぷりぷりさせて闊歩していた。
1年生の時、衣替えでピンクのブラウスを着て来た女の子がいて、目まいがしたものだ。悪友が私の耳元でそっと囁いた。「おピンクちゃん」。私たちはにたっと笑った。
退職した者、未だに現役バリバリ、趣味に生きる者……。
10人いれば10人の人生色々。
女の子で博士になって、漱石の評論を出版している人もいた。そのタイトルが「磁場の漱石」。凄すぎる。一気に全部は読む自信がない。少しずつ読もう。
二日間の休日は終了。
休みに付き合ってもらった人たちに感謝する。

高校のクラス会があるので上京。昨夜は昔の仲間の脚本家夫婦と、ゲーム会社をやっていた時の後輩を交え、渋谷で久しぶりに会う。
奥さんも脚本家であるが、彼女も老母の介護に振り回されていて、彼女とは介護の話になる。互いに励まし合い別れたのだが、別れ際に彼女が昨年演出した朗読劇の本を渡してくれた。彼女はTV脚本の傍ら昔から芝居の脚本演出もしているのだ。
帰宅して、早速読んで驚いた。面白いのだ。実は彼女の芝居は見ていたのだが、一緒にTVの仕事をする機会はなかったので、彼女の活字になったものをじっくりと読んだことがなかったのである。
何が驚いたかと言うと、彼女には文体がある。分かりやすくて楽しい。これは凄い事だ。それだけで作家になれる。私は彼女は小説家を目指すべきだと思ったのである。
それには、もう一つの理由もある。いや、これが一番の理由かもしれない。
彼女はこれから老母の介護が大変になって行く。これは避けられない現実である。
TVの脚本を書きながら介護を続けるのはとても難しくなるだろう。
シナリオライターは一人では出来ない仕事だ。打ち合わせが何度もある。監督やプロデューサーが好き勝手なことを言う。怒りを覚えることさえも。でも直しをせざるを得ない。締め切りがあるから。拒否したら2度と仕事は来ない。放映日が決まっているから、揉めに揉めても最後は泣きつかれたら、意地を張り通すわけにゆかない。妥協の産物と分かっていても。
介護に追われながら、締め切りに間に合わせるため、このようなストレスのたまる仕事を続けるのは至難の業だ。
親の体調が悪くなっても締め切りは待ってくれない。絶対に胃が痛くなる。吐き気がする。パソコンを投げつけたくなる。
私は彼女にそうなって欲しくない。だから小説をすすめるのだ。
書下ろしの小説なら締め切りは脚本ほど厳しくない。途中で親の体調が悪くなっても、一旦筆を止めて、またどこかで取り戻すことが出来る。
相手も編集者一人だけである。癖のある厄介な編集者もいるだろうが、局プロがいて、制作会社のプロデューサーがいて、代理店がいて、スポンサーがいて、時には役者まで口を突っ込んで来ることから比べたら天国(?)だ。
私も妻が倒れた時と小説を書き出したのが同時だったが、周囲の助けを得て締め切りを延ばしてもらえた。
何よりも慣れない介護で折れそうになった時、小説を書くことが自分を支えてくれた。
辛くて書けなくても、今日は一行でもいいから書こうと己を励まし、本当に一行しか書けない日もあった。でも、その一行が不思議なことに明日への力になった。一行でも書けたことが自信になったのである。小説は少しずつでも書いてゆけばいつかは出来上がるのだ。そう考えながら、私には書きたいものがある、書けることは幸せなことなのだと言い聞かせていた。この積み重ねがいつかは本になる。どれだけ励みになったことか。
いきなりすべてを擲って小説に移るのは大変だろうから、脚本とは別にもう一つ小説の道を目指して欲しい。
小説を書くことは命のビタミンだ。活力が湧く。
一行書けたことが、「今日は余裕を持って介護が出来た」と実感させてくれる日があった。余裕を持って仕事をし、余裕を持って介護するためには、小説はチャレンジする価値がある。
そう彼女に伝えよう。

映画監督の鈴木清順さんが亡くなった。
私たちは若い時から「清順さん」「清順さん」と呼んでいたように思う。映画青年のカリスマだった。干されたこともあり、不遇の名監督のイメージを持っていた。あの頃はこういう監督を熱烈に支持したものだ。高橋英樹の「けんかえれじー」や「東京流れ者」「殺しの烙印」が私たちのバイブルだった。
だが、私は「清順さん」と言えば、「大和屋竺」と言う映画監督を思い出す。アングラ映画で「毛の生えた拳銃」と言う作品があり、シナリオ研究所でも人気があって、この人のゼミには生徒が殺到した。頭脳明晰で淀みなく喋る。映画を論じた文章も明快で、こんな風に喋れ、こんな風に書けたらと憧れたものだ。なぜ、この人がこんなに人気があったかと言うと、この人が「清順一派の中心人物」と目されていたからだと思う。
「殺しの烙印」の脚本を中心になって書いたのもこの人だ。
私たちは、「大和屋さん」を、憧れの「清順さん」の片腕であり、代貸し格と勝手にみなしていて、あの「清順さん」に信頼され、才能を認められ、愛されているなんて、すごいなあと溜息をつき、羨ましく思っていたのだと思う。
「清順さん」には近づけないけれど、せめて子分の「大和屋さん」には近づきたいと言う心理が働いていたのかもしれない。
そして、鑑賞したのが、「清順さん」監督、「大和屋さん」主演の1時間物のTV映画だった。世にも不思議な物語的な番組で、打ち切りになったのか、オクラになったのか、その辺の事情は忘れてしまった。
内容は怪奇コメディーである。
「大和屋さん」演じる即身成仏したはずの坊主のミイラが現代に蘇り、断ち切ったはずの煩悩はどこへやら、女の尻を追い回すと言う抱腹絶倒のフィルムだった。
奇作というか、珍作というか、ほっぺたを赤く塗った坊主の「大和屋さん」が女を追い回す滑稽な姿を今もはっきりと覚えている。
その「大和屋さん」は若くして亡くなった。
以上が「清順さん」に憧れたけれど、縁がなかった者の思い出だ。
この話には、「大和屋さん」の続きがある。
かなり前のことになるが、大和屋さんの息子さんがシナリオライターになっていることを知った。あの大和屋さんの息子さんがライターになったのかと感慨深いものがあった。面識はない。
ところが、この人が凄かった。何と「ジャスタウェイ」の個人馬主になっていたのだ。「ジャスタウエイ」と言えば、G1馬であり、ドバイで勝って名を上げ、種牡馬にもなった。では、どうして一脚本家がジャスタウエイの馬主になったのかと言うと、この人はその前に「ハーツクライ」の共同馬主になっていたのだ。20人ぐらいで一頭の馬を所有する仕組みである。ハーツクライもすごい馬だ。ディープインパクトに勝ったこともあり、この馬もG1馬で、種牡馬になった。
私の脚本家仲間のお師匠さんは、何十頭もの馬の共同馬主になったそうだが、一頭も儲からなかったそうだ。
恐らくハーツクライの共同馬主で儲かったので、ハーツクライの子のジャスタウエィを購入したのだろうと余計な詮索をしている。
あまりにも別世界の、桁違いの話なので、羨ましいと言う気持ちも起きない。
もし「大和屋さん」が生きていたら、「清順さん」に映画を撮ってもらいたいから、金を出せと息子さんに言ったかもしれない。と、勝手な想像をした。

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小松菜を食べきれないので放りっぱなしにしていたら、花が咲いてしまった。
そのうち白菜にも花が咲くだろう。
こうなるとそろそろ腰を上げて畑に出なければならなくなる。
店には随分前からジャガイモが売り出されている。
まずはジャガイモの植え付けの準備から始めないといけない。
今日は冷え込んで寒いが、去年は暖かくて3月11日にジャガイモを植えている。それでも遅い方で、皆もっと早く植えている。私は例年お彼岸前に植えていたのでのんびりしていたら、皆が早く植えたので、私も慌てて植えたのだ。
今年はどうなるか分からないけれど、週末に上京するし、3月に入ったらすぐに妻が外泊で戻って来るので、早めに準備しておくことにした。
今日のところは予定している場所の雑草を削り取っただけで、明日、耕運機で耕す予定。

今日は主に金柑(きんかん)の周りの雑木を切り払う。
我が家の畑の池の横に「はなのき」や「さかき」が植えてある。仏様や神様に供える葉っぱだが、これが買うと結構高くて馬鹿にならないので母が植えたのだ。
その一角に金柑の木が一本ある。

去年までは目もくれなかったのだが、たまたま去年枝が伸びすぎて邪魔になるので短くしたついでに、少し剪定もしたら、今年はとても出来が良くて、近所からも分けてくれと言われた。確かに美味かった。と言う訳で、今年は真面目に手入れをしようと思ったのである。雑木が大きくなり過ぎ、「はなのき」や「さかき」「金柑」の邪魔をしているので、この際、伐り倒して風通しをよくしようと思ったのだが、ぼろのこぎりでは限界だった。誰かからチェーンソーを借りないといけないかもしれない。
ネットで調べたら、2月と10月に肥料をやれと書いてあったので、肥料もやらないといけない。
どうして、こんな風に仕事を増やしてしまうのか。性分としか言いようがない。
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2月22日 昨日の続き
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雨が降りそうだったので、早く帰って、おもちゃの耕運機で耕す。
大きいのを買うと格納しておくところがないので、小さいのを買ったのだが、深く掘り起こしてくれない。
上っ面を引っ掻き回しているような感じ。
安物買いの銭失いであった。
何度も行ったり来たりして、搔き回す。
ここにジャガイモを植え付ける予定。
耕運機の後ろに見えるのが金柑。











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金柑のアップ。
3月~5月に剪定するらしいが、どのように切ったらいいのかわからない。
そもそも金柑なんて、皆、植えっぱなしで、肥料やったり、剪定している人なんて見たことがない。
適当にやる。










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