曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2017年01月

31日に退院する。そのまま直接老健へ入所させるのは忍びない。一旦、自宅へ戻り、2月6日に、老健へ正式入所することにした。
入所するまで自宅では入浴できないので、31日は午前中入浴し、昼食後に退院する。
戻って来たら、まだヘルパーさんは利用できるので、今まで通り朝だけ来てもらう。
だが、もう通所サービスは受けないので(体力的に無理そうなので)、6日間在宅になる。こんなことは風邪ひいて何日間か寝込んで以来のことだから、私としてはかなり気合を入れて備えている。朝はいいとしても、昼と夜の食事と身の回りの世話で手いっぱいであろう。
その間に入所の準備もあれば、ベッドなど福祉用具のレンタルの変更もしないといけない。今のところ、月に一度は外泊と言う形で何日か必ず家に戻る予定でいる。その時のためにベッドや車椅子用の玄関スロープなどは借りておかないといけないが、もう介護保険の適用は受けられないので、実費でレンタルしなければいけない。
恐怖の実費だ!いくらになるのかまだ聞いていない。
一旦、老健に入所すると、家に戻った時は介護保険の適用外になる。
なぜかわからん。預けっぱなしは可哀想だから、少しでも家庭の雰囲気を味あわせてやりたいと思うのは人情であり、人間的行為と思うのだが、なぜか介護保険の適用外なのだ。
老健と自宅と二か所で適用を受けると二重取りになるからだろうか。
そういえば、近所に障害を持った家族を抱えている人がいて、自宅に外泊させた時、介護保険の適用を受けられないことがあって、怒って市役所に抗議に行ったと話していたのを思い出した。どういう事情だったのか、抗議の結果がどうなったのか、今度会ったら聞いておこう。
退院の準備だけでも慌ただしいのに、6日までに入所の準備もしないといけない。
新しい家具を買いに行く余裕もないので、当座は施設に利用者が置いて行った家具があるので、それを借りて、そのうちゆっくりと時間をかけて、必要なものを揃えることにした。しかし、TVまでは置いてないので、自宅に余っているTVを持ち込むことにした。
今日は長めのアンテナコードを買いに行った。TVだけでも月曜中に運び込む予定である。
生活の場を移すわけだからこまごまと準備しなければならないことがある。
そういう事情で、6日の入所日までブログはお休みします。
6日を過ぎたら、平常のブログをまた始めます。小説のアップだけは退院後に出来ると思います。よろしく。


老健は入所者の看取りまでする。私の妻もここが終の棲家になる。そう思うとあの殺風景な部屋を、少しでも自宅の部屋らしくしてやりたくなった。ああもしよう、こうもしようと、昨日は思いめぐらしていた。
だが、今日、病院で車椅子のお爺さんを押してトイレに入るお婆さんを目撃、その瞬間、この老夫婦はまだどこの施設にも入所していないのだと察した。
私は妻が入所できた幸運を喜んでいいのか自問した。
あのお爺さんは要介護3だろうか?それとも2か?
老健は要介護3以上しか入れない。要介護1とか2の人は、グループホームのような施設が受け入れる。その老健も、要介護5や4から優先的に受け入れる。となると、素人考えでも、要介護3の人こそ、なかなか順番が回ってこないのだろうなと想像がつく。昨日の相談員の話では、要介護3でも全く身寄りのない人は優先する。そういう救いはあるらしい。
何が言いたいかと言うと、介護度の数字だけでは判断できない、介護の実態、言い換えれば切実さがあるのではないかと言うことだ。
単純に要介護5と3を比べれば、それは5が大変に決まっている。しかし、介護する側の事情を考えてみよう。
私が要介護5の妻を介護するのと、あのお婆さんが要介護3(あるいは2)のお爺さんを介護するのと、どちらが辛いか。私はお婆さんの方だと思う。あの年齢では生きるだけで辛いはずだ。その上、介護まで。他にも施設に入りたくても入れない事情もあるだろう。それを言い出したら切りがない。では、見て見ぬふりをするのか。それは一番いけないことだ。では、どうするか?
実は最近になって、夢みたいなことを考えた。
笑われるかもしれないが、聞いて欲しい。
国民総介護法案を作るのだ。健康な日本国民は全員何年間か介護職の手伝いをすることを義務化してしまうのだ。初めは皆、嫌がるだろう。汚い、辛いと。だが、私は人を信じている。一度でもいいから、困っている人たちのお手伝いをしてごらんと。
いい気分になるし、何よりも優しくなれる。自分が変わり、新しい自分を発見できるはずだ。
日本人の心が改造され、日本がとてもいい国になるような気がするのだが……。

今日、老健の相談員と面談し、妻の入所を決める。
想定より5年早かった。もう少し今まで通りの在宅中心の生活が続けられると思っていたが、どうにも通所のサービスを受け続けて行く自信が持てない。一度圧迫骨折を起こすと、再発しやすいと聞いていたが、その通りになってしまった。しかも現在は前回ほどのリハビリは受けていない。カルシウムの注射もどれほどの威力があるものやら。元の生活に戻っても、また繰り返しそうな気がする。
訪問医の主治医もそれを恐れる。
施設に預けるのは胸が痛むがやむを得ないのかもしれないと自分に言い聞かせる。
前回、退院した後、ケアマネージャーが「老健に申し込んでおきましょう」と言ったのも、長い経験から今日があることを予想していたのだろう。
今入院している病院の相談員も「老健が決まって良かったですね」と喜んでくれた。入所した方がいいと思っているからの言葉だろう。
東京では老健はなかなか入れないと聞いていた。出雲でもすぐには入れないと思っていた。要介護5だから優先されたのかもしれないが、思いのほか早く順番が回って来た。これも巡り合わせかもしれない。入れる時に入っておかないと、次はいつ入れるか分からない。
我が家には老いた両親もいる。神様が喫緊の課題は親の方だろうと言っているのだと思い、一旦妻は施設に預け、親の面倒を見ることにした。
幸いこの施設は、妻がショートステイで6年間通っている。皆、顔なじみで、妻の扱いにも慣れている。自宅からも車で数分のところにあり、いつでも行ける。
早速、午後から空き部屋の見学に行く。
田舎の施設はとにかく広い。これが救い。部屋も入院中の病室よりははるかに広く、何を持ち込んでもよいことになっている。取り急ぎ、タンスとTVを運び込み、後は様子を見てのことに。
だが、預けっぱなしにする気はない。毎月、7日までの外泊は出来るので、毎月何日かは家で過ごさせる予定でいる。ただ入浴できないから5日ぐらいが限度か。戻って来た時はしっかりお勤めさせてもらうつもりでいる。
月末の退院に向けて、急に忙しくなった。






我が家の横の道。雪で視界悪し。
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やけに寒くて、目が覚めたら午前3時。降ってなかったのに、起きたら銀世界。
前回の15日よりは積もる。毎日病院に通っているので、今朝も早くから出る。ファミレスで少し書き物をしてから、お昼に病院へ行くのが日課である。
今朝は道路もところどころスケートリンク状態。信号機も壊れているのかと思ったら、雪が付着していて信号がうすぼんやり。
終日、降ったりやんだりで、まだ降ると言っているから、明日は今日以上の雪になる恐れあり。困ったことに、明日は父を医大に連れて行かないといけない。先週のCTの結果が出る。半年ぶりの診察だ。来月で95歳。とみに足腰が衰えて来たから、明朝は通路の雪かきをしないといけないだろう。転ばれるのが一番怖い。
今夜は寒いので、急遽汁物はミネストローネにした。毎日味噌汁では飽きるだろうし、温まった方がいいと思って。ミネストローネと言うといかにもすごそうだけど、たいしたことはない。ミネストローネのスープの入ったパックを買って来て、冷蔵庫の残り野菜やベーコンを放り込んだだけである。だが、トマトは我が家で採れたミニトマトを冷凍保存していたもので、カブは雪の畑から引っこ抜いたものである。
問題は明日の夕食のメニューだ。何も考えていない。
雪の中、病院の送り迎えした後、また買い出しに行くのは億劫だが、昨夜は残り物の豆腐で湯豆腐にしてしまった。もう冷蔵庫に残り物がない。やっぱり何か買いに行かないといけないだろう。
雪も風情を楽しむ程度ならいいが、ほどほどにして欲しくなった。この程度の雪で音を上げていたら、雪国の人には笑われるだろうが。








直木賞が発表されたが、その時期が来ると、昔、師匠が文芸春秋の編集長だった神林吾郎(故人)から、「松浦君、直木賞をあげるよ」と言われたと言う話を思い出す。
師匠の若い頃の話だ。師匠がどの映画会社に出しても通らなかった時代劇の企画があり、それを読んだ神林吾郎が、小説に書いたら、直木賞を上げると言ったのだそうだ。
神林吾郎と言えば、その後、文芸春秋の社長となり、会長となった、名編集長である。文芸春秋のシンボルとも言うべき、伝説的人物である。その人が直木賞をあげると言ってくれたのだ。
だが、その時、師匠は直木賞が何か知らなかったそうだ。今のように受賞した途端、マスコミが殺到し、一躍スターになる時代ではなかったのだ。
「賞金いくらですか」と、聞いたら、その時の師匠の映画の脚本料の何分の一かだったらしい。
映画脚本の何倍もの原稿を書いて、たったそれっぽちでは、とてもではないが書く気にならなかったのだそうだ。師匠は書かなかった。

そして、四半世紀が経ち、私が弟子になった時、
「昔、神林吾郎に直木賞を上げると言われた小説を書く」と、師匠は宣言した。
どういう内容かと言うと、信長と森蘭丸の男同士の愛を描いたものである。
それを聞いて、私は戸惑った。
師匠が企画を提出した頃は、娯楽映画の時代劇と言えば、美男美女の若様やお姫様が悪家老を成敗して結ばれるというようなお話と相場が決まっていた。男の同性愛を描いた企画が通る筈がない。
だからこそ、常に新しい作家を発掘しようとしていた神林吾郎は、新鋭脚本家のとんがった企画に着目したのだ。
しかし、私が弟子になった1970年頃には、信長と蘭丸のそういう関係は通説になっていた。ことさら目新しいものではない。書いたところで評価されるのかどうか、それを危惧したのである。
だが、師匠は書き上げて、神林吾郎に見せたら、直木賞がもらえると本気で思っている節があった。神林吾郎は社長になっていたと思う。弟子になったばかりの若僧が、今更そんな昔のことを持ち出してもとナマイキなことは言えない。
脚本家人生の終わりが見えて来た時、直木賞を貰えたかもしれないチャンスをみすみす逃したことは、師匠にとって、痛恨事だったに違いない。
私は結局、弟子&お礼奉公生活の2割ぐらいは、師匠の直木賞への執念に付き合うことになるのであった。
師匠は早速、書棚から「信長公記」と言う本を取り出し、「これを読んで研究しろ」と言った。太田牛一と言う、信長の旧臣が書いた信長の一代記である。史料価値は高いものであるが、当時はまだ現代語訳がなかった。
高校時代、古文漢文を勉強しなかったことをどれだけ悔やんだか。
物語の舞台は安土であるから、師匠は安土城を復元し、安土の城下町も復元しろと言う。
いくら信長公記を読んでも、城を復元できるほどの記述はない。城下に至っては街道があって、南に馬場がある程度の記述しかなかったはずだ。
私は模造紙を買って来て、縦横の線を引いて、安土城の外郭だけでも描こうとした。
だが、長い間に、琵琶湖の湖岸は埋め立てられていて、昔の湖岸線を見当つけるだけでも一苦労だった。
で、師匠は何をしているかと言うと、何もしない。
調査したり、取材するのはすべて弟子の役目なのである。
ふと、何か質問することと言えば、
「信長と蘭丸はどうやって愛し合ったのかなあ。俺はその趣味がないからさっぱりわからねえんだよ」
「知りませんよ。僕だって」
師匠は「はははは」と笑い、私もお付き合いでせつなく笑うのであった。
その頃、企画書はどこへ行ってしまったものか見当たらなかった。
あれば読んでみたいものだ。神林吾郎が直木賞をあげると言った企画書。










































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