曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2016年11月

私が中学1年生だったと思う。新聞で松本清張の「砂の器」の連載が始まった。
それまで新聞小説など読んだことなかったのに、なぜか毎日読み始めた。
殺された男がズーズー弁を喋っていたことと地名らしき単語を話していたことを手掛かりに、刑事は被害者の出身地を割り出すため、東北地方に捜査に出かける。
私はその時点で、「あっ、この男の出身地は出雲だな」とすぐにわかった。なぜなら私の田舎は出雲であり、出雲もズーズー弁だったからだ。私はサラリーマンの息子で、生まれてから大阪→山口→東京と転校を続けたから、出雲では育っていない。
だが、夏休みは出雲の父の実家と石見の母の実家で過ごしたから、ズーズー弁にはなじみがあった。
子供の頃はズーズー弁に迎えられると、とんでもないド田舎に来たものだと思ったものだ。母の実家のある石見の方言が、共通の単語もあるのに、ずいぶん耳ざわりが良く、分かりやすく聞こえた。
刑事はいつまでたっても「出雲」に気がつかない。「いつになったら気がつくのだろう」私はイライラしながら読んだものだ。
どうして、こんなことを思い出したかと言うと、来年の正月明けから、連載しようとしている「多胡辰敬」の小説を見直しているのだが、その中で出雲弁を使う場面があるからだ。
生まれ育っていないので、いま一つ出雲弁の味が出ない。親父に聞けばいいと気楽に考えていたが、「難しく考えることはないから」と言っても、親父は「わからん、わからん」と言う。
誰に指南を仰ごうかいま思案中である。
何しろ、私は帰郷して5年目になるが、未だに「だんだん」が言えない。NHKの朝のTV小説「だんだん」で「ありがとう」の意味であることが知られたと思うが、その場に臨むとどうしても「ありがとう」と言ってしまう。「だんだん」と言おうとすると、口が強張るのが分かる。いつになったら自然に「だんだん」と言えるようになるのだろうか。










無給でどうやって生きていたかを書いておきます。
場所は池尻。今でこそお洒落な所らしいですが、その頃は排気ガスもうもうの246から少し入った食糧学院の側。大家さんが2階に建て増しした二室の内の一つ。
師匠のマンションは靖国神社の近く。最寄駅は飯田橋。
毎朝11時に出勤。書斎の掃除して、しばらくすると師匠が起きて来て、朝昼兼ねた食事。2時ごろから6時まで書斎で2人きりでぐたぐた。昼間は仕事する雰囲気は皆無。ほとんど無駄話で過ごす。6時になったら私は夕食。神楽坂まで出て行き、坂の入り口にあった蕎麦屋でかつ煮定食。もちろん自腹。金がなくなると、坂には上らず、近くの立ち食いそば屋ですます。
夜の11時になったら帰宅。週休二日の時代ではないから、休みは日曜だけ。
最初の二、三ヶ月は本を売って食いつなぐ。大学入ってから、入った学部を間違えたんじゃないかと思うくらい本ばかり読んでいた。バイト代も殆ど本代だったから高い本もあったのだ。売れる本がなくなると、質屋のお世話に。この質屋にはお世話になった。信用が出来て、最後は壊れたラジカセで1000円借りていた。ガラスにヒビが入った腕時計でも1000円貸してくれた。ラジカセも腕時計も何度質屋の暖簾をくぐったか。
当然、こんな状況では食っていけないが、よくしたもので締め切りが迫ると、泊まり込みが続いた。朝の5時頃寝て、夕方起きる生活になるので、師匠と同じものを食べさせて貰えた。泊まっている間は一銭もかからない。
だが、これが、一ヵ月続いた時にはさすがに参った。2DKの書斎に布団を敷いて寝て、起きても書斎。ほとんど監禁部屋と言って良い。外出できるのは真夜中のトイプードルの散歩だけだったのである。
いよいよ食えなくなったら、日曜日だけ日払いのバイトをした。引っ越しの手伝いやトラックの助手だったが、トラックの助手は辛かった。一升瓶の6本ケースを大型トラックの荷台一杯に積み込むのだが、死ぬかと思った。
仕事がない時は一週間ぐらいバイトさせてもらいたかったが、師匠は仕事がなくても毎朝11時に来させて、夜の11時まで側に居させた。仕事のあるなしにかかわらず、常に師の側に居るのが弟子と思っていたのだろう。
部屋代も滞納が続き、大家さんに6畳の部屋から強制的に4畳半に移された。それでも滞納は続いた。だが、出て行けとは言わなかったから、いい大家さんだった。
こんな状態だから、友達や親や妹達にも迷惑を一杯かけた。
今になって、94歳の父と89歳の母に申し訳ないことをしたなあと思う。
だが、間違ったことをしたとは思いたくない。もしそう思ったら、今度は師匠に対して申し訳が立たない。こき使ってくれたけど、可愛がってくれた。私は師匠と出会って良かったと思っているのだから。あんな人とはなかなか出会えるものではない。







電話を切ると、師匠が振り返り、
「…と、言う訳で、給料は払えん。年は越せるか」
会話の内容は返済を待って欲しいと言うものであったから、お金に忙しい人なんだと思ってはいたが、その時は深刻に考えていなくて、
「いいですよ。有馬記念で儲けた金がありますから」と、イキがってしまった。
弟子入りする前に、2000円の全財産を有馬記念に投じていた。忘れもしない。
スピードシンボリの単勝1000円、スピードシンボリとアカネテンリュウの1点(まだ枠連しかない時代)に1000円。見事的中して、財布には1万数千円はあった。
弟子になって、働いたのも数日であるから、金をくれなんてケチな事は言えない。いい勉強になったと思えばいいのだからと、妙な男気を見せてしまったのである。
ところが、年が明け、アパートを借りて、一人暮らしを始めたのに、1月も2月も払ってくれない。その頃になって、ようやく事情が分かって来た。
いつかは知らないが、離婚して豪邸を処分したらしい。だから巨匠にしてはそぐわない2DKのマンションに住んでいるのかと。しかし、身の回りの世話をする若い女性と同居し、運転手が毎日クラウンで通って来る。
聞けば運転手は私と同年齢で豪邸時代から働いていて、この一年は無給だと言う。
ここにも無給がいたのかと私は仰天した。
「あいつが無給で頑張ってくれているから、お前も頑張ってくれ。金が入ったら払うから」
だが、お金が入っても、私と運転手まで回って来たことはなかった。運転手のNさんもとってもいい奴で、言いたいこともあるだろうに、ぼやけば悪口になることが分かっていたから、二人とも口には出さず、お互いに顔を見合わせては苦笑いするだけであった。
じゃあ、どうしてやめなかったのかと言われると、他にも理由があるが、現実問題としてやめても行き場がなかったのである。大学時代は工学部にいて、ある日突然全く畑違いの場所に来た私には映画関係のつてはなく、シナリオ学校を出てもどうすればライターになれるのか見当もつかなかったのである。だから弟子と言う言葉に飛びついたのだ。
私は腹をくくった。
(ま、いいか。これくらいの苦労をしてみるのも。なんとかなるだろう)










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「カミキリムシの幼虫」

イチジクの幹の中で成長する。


我が家の畑は4メートル四方の池を挟んで東西にあり、東側は狭い。その東の畑のど真ん中に、昔、母がイチジクを一本植えてしまった。私たちは「みどりイチジク」と呼ぶ。緑色のイチジクがなる。正式な品種名は知らない。普通のイチジクより熟れるのが早く、7月が最盛期だ。甘くてとても美味しい。
この害虫がカミキリムシである。幹に小さな穴を開け、卵を産み付けると、孵化して幹を食い荒らしながら、このような幼虫になる。穴を見つけ次第、薬液を注入して退治しないといけないのだが、この夏は面倒くさくて放りっぱなしにしていた。
気が付いたら、3本ある幹の1本が穴だらけでぼろぼろになってしまっていた。
切り倒し、残りの2本の幹だけは何とか守った。
その切り倒した幹から這い出して来たのがこの幼虫である。
この辺りでは見かけない珍しいイチジクだから、幹が2本になってしまったが、来年の夏にはジャムにするには無理でも、朝食のフルーツになるくらいは出来てほしい。
だが、このイチジクには困っていることもある。
畑のど真ん中に植えてしまったから、根が四方八方に伸びて来る。切っても切っても畑に侵入して来るが、母が植えたものだから伐り倒すわけには行かない。










師匠は徴兵検査は不合格だった。胸に陰があると言われたのだそうだ。
だから戦争に行くことはなく、東宝で働いていた。黒澤明の「虎の尾を踏む男たち」の助監督をしたが、
「黒沢は人使いの荒い男だったぞおっ、俺は死ぬかと思ったぞ」
私は「金メダルのターン」と言う、TVドラマの助監督のサードのさらに下っ端をやったことがある。水着の若手女優がわんさか出ていたが、こんなものやってられるかと4日でやめた。胸に陰のある人間がこき使われたのだから、それは辛かったと思う。当時は皆戦争にとられ、撮影所に若い者はいなかったらしい。残っている若い者はどこか悪いところがあるに決まっているのに、そういう人間でも死ぬほどこき使うのが黒澤明だったのだろう。
戦後、ペニシリンが肺病の救世主となったが、ペニシリンは高価だったらしい。
戦後まもなくライターになった師匠は、そのペニシリンを手に入れるために脚本を書いたのだそうだ。命がかかっているから、もう、それは必死に書きまくったらしい。それが多作作家になるきっかけだと言っていたが、そのあたりの事情は見当がつく。
「松浦君は早くて、どんなものでも書く」
恐らくプロデューサー連中はそういう評価をし、いつしか師匠にはそういう色がついてしまったのだろう。一旦、そういう色がついてしまったら、そういう注文しか来なくなるのがこの世界である。私も子供番組のライターと言う色がついてしまって悩んだものだ。
師匠は恐らくヒロポンを打ちながら書きまくったのだろう。ヒロポンを打っていても、ペニシリンは効いたらしい。
私が弟子入りした時は、師匠の持病は糖尿病に変わっていた。
そう言う訳で師匠を苦しめた肺の病だが、徴兵検査で不合格になった時は嬉しかったと言っていた。厚木か、相模原かで検査があったらしいが、不合格となり、兵舎の門を出るや、
「走った、走った。嬉しくて、嬉しくて。もう、走った、走った。後から追いかけて来て引き戻されたらいけないと思って、必死に走ったよ」
両腕を振って、走る振りして、それは嬉しそうな顔をして語ったものだ。本当にうれしかったのだろう、あの時の師匠の何十年も前の昔を語る嬉しそうな顔は今も忘れない。
ところで、師匠があの時とそっくりの同じ顔をして見せたことが後一回だけあった。
それは、離婚した時の事を語った時だった。
「嬉しかったぞおっ、これで自由だと思うと、嬉しくて、嬉しくて……」
2回しか見たことがなかったが元奥さんは綺麗な女性だった。
1回目はマンションに用があって、ちょっと顔を出した時で、2回目は師匠の葬儀だった。











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