令和1年5月13日、父が病院で息を引き取る。満97歳。
4月24日に主治医から、「連休までは持たない。連休に入るかもしれないが、日数ははっきりとは言えない」と、言われ、妹達を呼び寄せる。子供たちも連休前に休みを取って戻って来る。このまま行けば、連休中に葬式をすることになる。そうなったら、十日も続く連休中にどうやって葬式をしたらいいのか。遠くの親戚などはとてもすぐには来れないだろう。寂しい葬式になってしまうのかと胸を痛める。その一方では、障子の張替えやトイレのドアノブを取り替えたり、家の中の片づけをし、いつでも葬式が出来る準備をしておかなければならない。毎日、病院に行き、普段母親に会えない子供たちは特養にも見舞いに行く。息子はペーパードライバーだから、病院へも特養へも私が運ばなければならない。
先生は連休までと言ったが、その連休に入る。
5月1日に、妹が今日から令和になると教えたら「時代が変わったんだね」と、小さな声で応えたそうだ。だが、こうした会話が出来たのも、連休の初め頃迄で、次第に呼びかけには反応しても、自発的な言葉は出なくなる。長い連休が終わった頃には、呼びかけに答える声が何を言っているのか、よほど耳をそばだてないと聞き取れなくなる。
二度誤嚥性肺炎を起こしたので、鼻からチューブで栄養を摂るしかなかったのだが、父は余程嫌なのだろう抜いてしまうので、いよいよ強い拘束をしなければならなくなる。それまでは儂は見舞いに行った時だけ、拘束を緩めてやっていたのだ。先生は強い拘束は虐待みたいなもので自分としてはやりたくないのだが、どうしますかと相談され、妹達と相談し、拘束はやめることにする。父もまだ意識がある頃は牢屋みたいだと嫌がっていたのだ。チューブをやめ、点滴だけになって、そういう状態が4月の中旬過ぎから続いていたのだ。
鼻チューブを中止して、表情は心なし安らいだように見えたが、先生が言う通り、点滴だけだと弱って行くのは早かった。5月も10日を過ぎると完全に父の言葉が意味不明になる。必死に聞き取ろうとするのだが、何を言っているのか見当もつかない。最後になるかもしれない言葉を理解してやれないことが辛い。救いは先生が苦しむことはありませんといってくれたことだけ。
こうして、大正、昭和、平成、令和を生き抜いた命が消えた。翌日から、私とお寺さんと葬儀社と隣保の四者で葬儀の段取りをする。田舎の事情に疎い私は、ただ皆が決めて行くことに従い、言われた通りに動く。火葬場と葬儀場の都合により、葬儀が先で火葬が後になる。
東京の人なら、それが当たり前の順序だが、出雲では火葬した後に葬儀をする。
手伝ってくれる隣保の人たちも、最近そういう手順の葬儀をしていないので何となくやりにくそう。
私もあたふたしながらも、通夜をすませ、葬儀となり、喪主挨拶となる。
喪主挨拶の内容はいずれその時が来ると分かっていたので、漠然と考えてはいたのだが、ただの挨拶で終わらせたくないと言う思いがあった。その一方ではこういうものは儀礼の範囲でおさめるものではないかと、振り子のように揺れ動いていた。
少し長くなるが、後悔するのが嫌なので、最後には父が残した思い出の言葉を紹介することにした。
「あれは、何年前のことだったでしょうか、ある時、父がふと漏らした言葉がありました。自分のような者がこうしてやって来れたのも、戦争で自分よりも優秀な人たちが皆死んでしまったからなんだよ……」
令和に入り、戦争を体験した人たちは殆どいなくなった。この世代の人たちが消えるとともに消えてしまう言葉を、私は父の言葉として残したかったのであった。
今となってはどうしてこんな話になったのか覚えていない。ただ、父親の意外な一面を見せられて驚いた記憶がある。普通の父親と息子なんて、よそよそしくて、そっけないもので、私なんか心を開いたような会話はした覚えがない。照れ臭いものだ。
だが、最後に「私はこの人の子供でよかったと思いました」と、言ったのであった。
今思い出しても、照れ臭くなるような、喪主挨拶であった。でも、父は喜んでくれたかなと思う。

今回の葬儀では、これまでの隣保の葬儀同様に隣保の世話になった。ただ、多くの親戚がわが家に泊まる事はなかったので、女性陣に台所の世話をしてもらうことはなかった。ご飯を炊いて、精進料理や味噌汁を作ってもらうことはしなかったのだが、配膳棚や机は葬家を持ち回りで移動するので、一年前に葬儀のあった家からわが家に運び込む。
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左が机と配膳棚。           右が食器類の入ったケース
我が家の西の縁側に置いてもらう。次に隣保のどこかで葬式があるまではわが家で預かり続けることになる。一年先か、二年先か、もしかしたら数年間は預かり続けることになるかもしれない。
JAの葬儀社の社員が言っていた。こんなに隣保の人が動いてくれるお葬式は初めて見ましたと。

と、言う訳で、この一ヶ月はブログを書く気にもならず、畑をやる気も失せておりました。ようやく復帰しましたが、まだ本調子には遠く、ぼちぼちとやって行こうと思います。畑も近所の人に励まされて、今日、安納芋を20本植えたところです。