守護所とは守護大名の領国統治の拠点、政庁である。出雲で言えば京極氏の出雲経営の本拠である。だが、室町時代の守護大名には在京義務があるので、京極氏が出雲に常駐することは出来ない。そこで守護代に出雲の統治を任せる。それが尼子氏である。教科書で学んだように、守護代が守護大名から実権を奪い、戦国大名となって行く。尼子氏もその代表的な例である。私はその政治状況の中で、京極氏の守護所がどこにあり、どこへ移って行ったかをずっと調べていたが、未だに守護所の場所は特定できていない。
ただ、この辺りにあったであろうと言う研究者たちの見解はほぼ一致している。
その場所は松江市の「平浜別宮(八幡宮)=現在の武内神社」あたりである。JR山陰線東松江駅の西側から南側にかけての一帯で、意宇川の河口で中海に面している。室町時代には八幡津(中海の港。美保関を通って日本海に出る)や八幡市場があり、政治経済の中心地だったのである。問題はそこから先である。応仁の乱を経て、(出雲でも東軍の京極氏は西軍の石見の山名氏や国人層と戦いを繰り広げていた。平浜別宮が西軍勢力に奪われることもあった)出雲も地殻変動を起こし始めた時、果たして守護所はいつまでも昔通りの同じ場所にあり続けたのであろうか。
政治や経済の中心は富田城(守護代尼子氏の拠点)のある富田(安来市広瀬町)に移って行く。応仁の乱の混乱時には、京極氏も富田城に籠って戦っている。
研究者の中には、守護所はどこか特定できない(守護所は軍事施設ではない)し、いつ移ったかもわからないが、富田城周辺に移ったのではないかと言う人もいる。
実は私もその考えに与していて、ひそかに目星をつけている場所がある。
かねてより、足を運んで、この目で確かめてみたいと思いながら、なかなかその機会がなかったが、12月16日の日曜日、「風土記講義」が終わった後、安来の富田城へ行くことにした。
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(左)安来市広瀬町に向かう山道    (右)正面が広瀬町富田城址
   松江側から手前安来に登る。      手前が富田川(飯梨川)
   右手が京羅木山             
この山道は432号線。松江の意宇平野側から、京羅木山の南側を越えて、安来市広瀬町に至る道である。戦国時代には富田城を攻める軍勢は富田川(現在の飯梨川)を挟んだこの京羅木山に陣を敷く。天文11年(1542)、大内・毛利の連合軍は出雲に攻め込み、京羅木山に一年間布陣するも退却した。永禄5年(1562)、毛利が出雲に攻め込んだ時もここに布陣し、永禄9年(1566)、富田城は落城する。
昔から富田と出雲松江方面を結ぶ道だったそうなので、この道も以前から一度通ってみたかったのである。
ナビなしのおんぼろ軽で、スマホも持ってないので、道路地図頼りに走るが、道を間違え、荒神谷博物館を11時半に出て、9号線からどうにか432号線に辿り着き、雨が降り出した中、1時に富田城に到着。
432号線は古代出雲の周辺部をぐるっと回る道であった。途中「意宇川」を越える。
橋のたもとに、上流熊野大社の案内あり。ここもいつか行ってみよう。
イメージ 3←新宮谷の南谷。
右手手前に富田城がある。
新宮谷は富田城の北側にある谷で、北谷と南谷の二つに分かれていて、奥の山から下って来て一つになる。
新宮党と呼ばれる尼子最強軍団の拠点で、往時には多くの寺や武家屋敷があったと言われている。尼子経久の次男尼子国久が率いていたが、天文23年(1554)、経久の跡を継いだ尼子晴久に討滅されてしまった。新宮党盟主尼子国久の居館はこの左側の谷、北谷にある。
なぜ、新宮谷へ来たかと言うと、これが今回の目的で、ここに京極氏の「守護所」があったのではないかと前々から思っていたからである。
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南谷に入り、富田城菅谷口の前を通り過ぎ、600mほど行くと右手、富田城から続く山の麓に「十二所神社」がある。尼子氏が勧請したと言われているが、確かなことは分からない。入り口の鳥居から200mほど行くと古錆びた神社がある。無人の小さな神社だが、鳥居の前は箒の目が残っている。
「守護所」と言う建物の性格上、神社や寺の近くにあるものなので、私はこの古い神社の近くにあったのではないかと思うに至ったのである。富田城とは近過ぎず、遠過ぎもしない。「十二所神社」の他にも、多くの寺や神社があったらしいことは地名から窺える。新宮党のど真ん中というのは気になる所だが、新宮党が強大になるのは後年のことである。
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建物はこの二つと倉庫のようなものが一つ。戦国時代まで遡れるものはなかったように思うが、詳しく調べたらあるのかもしれない。昔はもう少し広かったかもしれない。
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(左)神社を出た東側         (右)参道
神社の裏は山。裏山を越したところにあるのが月山で、富田城が築かれている。
参道の両側は屋敷跡と思われる石積みが幾つも連なっている。古くは武家屋敷があったと思われる。ぐるりと眺めて「守護所」を想像してみた。
イメージ 10帰り道、すぐ近くに「山中鹿之介」の屋敷跡がある。
7年前に来た時には、富田城に登り、新宮党跡と山中鹿之介の屋敷跡は見ているのだが、折角来たので、ついでに覗いてみる。
7年前に来た時は、荒れ放題で手すりもなかったが、きれいに手入れされていた。

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7年前は草ぼうぼうで足を踏み入れることも出来なかったが、荒れ果てていた方が兵どもが夢の跡でよかったような気がする。残念なのは今の若い人たちは山中鹿之介と言っても誰一人知らないことだろう。滅びた尼子家を再興するために孤軍奮闘した武将です。織田信長が毛利を攻めた時、御家再興を目指す鹿之介たちは毛利攻撃の先兵として利用される。その冷徹なやり口に対して、同じ毛利攻めの指揮をとっていた秀吉は同情的であったと言われている。本能寺の変が起きる4年前に毛利に殺される。もう少し頑張っていればと思われる。

帰りは、もう一度432号線を逆に走る。目的地はかつて守護所があったであろう「平浜別宮」である。富田からの道筋と距離を確かめるためである。富田からはだらだらの曲がりくねった山道であったが、「駒返し」という所にはトンネルがあったから、
昔はもっときつい山道だったであろう。下りは急で一気に降りると、最初の信号を右折して北上する。古代出雲の国衙跡はこの道の左手に広がる。すぐに9号線に出て松江方向へ走る。意宇川を越えれば「平浜別宮」。ぶんぶん飛ばしたから、富田を出て25分で到着する。うっかり距離を測り損ねたので正確には分からないが20㎞強ぐらいであろうか。
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創建は平安時代の終わり頃らしい。この地が京都の石清水八幡宮の社領だったので平浜別宮と呼ばれ、出雲国の八所八幡宮の総社となる。 境内社として、武内宿禰を祀った武内神社があり、今では「武内さん」と呼ばれて親しまれている。
案内図の右上が平浜八幡宮。中央の茶色部分が国衙跡だから、いかに古代出雲の中心部に近かったか分かる。水色の川は意宇川。
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とても大きな神社である。7年前にも来たが久しぶりにお参りする。やるき達磨があったので、やる気が出るように水をかける。
古い文書には、京極政経の子、材宗(きむね)の「御れう人」が八幡にいると記されているそうだ。材宗は北近江で同族の京極高清と戦って破れて死ぬ。北近江を失った政経は出雲に下向。その時、材宗未亡人も子の吉童子丸を伴って出雲に下向したと思われる。ここでいう「八幡」が漠然と八幡領を意味しているのか、平浜八幡の中に庵を作って住んだのかは分からない。
近くには「安国寺」があり、京極政経が葬られている。こういう事実を鑑みると、没落したとはいえ、京極氏の「守護所」は八幡領にあり続けたと言えなくもない。
いつの日か、古文書が発見されるか、守護所跡が発掘されることを待つしかないのか。