先日、出雲市塩冶町在の親戚のお葬式があった。そこで、儂が「曽田」の発祥を探っていて、塩冶に「曽田」と言う地名があることを話したら、後日、親戚の一人が「出雲塩冶誌」のコピーを送ってくれる。その小地名の項に、
〇中世、塩冶八幡宮への寄進状に「そたノ後」
〇慶安4年(1651)塩冶村御検地帳に「そた」
〇明治9年・下塩冶村道水路取調帳に「曽田堤」
が、あることが分かる。その人が、「出雲塩冶誌」を作った人を紹介してくれたので、今日(7日)、大雨の中訪問する。
元公民館長のIさんは82歳翁。ワープロが出始めた頃から古文書を解読する作業を進めていて、膨大な資料を作っておられた。ワープロ化されていることがどれだけ後学の者に役立つことか。頭が下がる。独学で古文書の勉強をし、塩冶の土地台帳の古いものが広島大学にあるので、何度も広島大学に通ったと言われる。儂に見せたいものがあると用意されていた資料もあり、不自由な体でコピーも取って下さる。
「曽田」関係のみならず、御維新で官軍が出雲を通過する時の緊張した様子を知らせる資料や、検地の時、百姓が「うそいつわりは申しません」と血判した資料などのコピーを見せてもらう。これは珍しいものらしい。
しかし、Iさんをもってしても、曽田の地名の謂れや苗字との関係は不明。
出雲図書館にIさんたちがまとめた「出雲市民文庫」があるので、読むことをすすめられる。その足で図書館へ。

市民文庫3に、
〇寛正3年(1462室町時代)9月「日御碕神社神田打渡状」に、「貮段神東村(塩冶村の前身)、坪者多田曽田在」との記述を発見。

市民文庫6には我が菩提寺の高円寺(臨済宗)の先代住職の話が載っている。
我が現住所は出雲市荒茅町というが、その前身は古荒木村と荒木村と茅原村が明治に合併して出来た荒茅村である。住職曰く。「塩冶から荒茅に移ってきた曽田姓で代数が大きい家は菩提寺は塩冶の神門(かんど)寺(浄土宗)です」
神門寺を菩提寺にする曽田を三人くらいすぐに名前が出て来る。いずれも古い家だ。

その日、偶然、その話を補強する話を教えてくれる人あり。
荒茅の南に、また別な曽田さん(菩提寺は高円寺)がいるのだが、その人で12代目。儂と同じ歳。その人の家には、「自分たちが荒茅に移った時、塩冶から5人一緒に移った」と言う言い伝えがあるそうだ。それが、全員曽田姓だったかどうか分からない。実は儂も12代目である。となると、5人一緒の開拓グループの中にわが家も入っているようだ。状況証拠しかないけれど、我が家の先祖は、出雲の中心塩冶郷(風土記の時代から続く)から、湿地のド田舎に移ったのだ。

ここまで書いて、なぜ曽田の地名が出来たのか、曽田の姓がどうして出来たのかまだ答えが出ないのだが、お待たせしました。いよいよ表題の【「そた」は美女だった】
のお話を紹介する。

市民文庫3に「塩冶村史」からの一部が紹介されている。
『(前略)彼の孝女だけは一心に苗を植えていた。老母を養うために雇われ。賃を得ようと思って田植えをし、一刻も休んではならんと働いているのである。そこで勅使が出雲に下向になさったわけを知らせて、履(くつ)と絵にひきあわせると、この女は丁度作ったように符合したといふ。この女は「そた」といふものであったので、この地を後に「曽田」といふことになったといふ」

「塩冶旧記」によると、
『(前略)王は(夢さとしにより)使者を出して貴女を求めしに、使者玉津の処まで来たりし時、多くの田植え女の中に全身より光のさせる女一人居たり、仍って使者はこれを見つけて「あそこにいるのがソンダ」と云ひてその姫を連れかへれり。それよりこの地を曽田と称するに至れりと称す』

これによると、「そた」と言う名の美女がいて、それが地名の始まりとなるのだが、
にわかには信じ難い。その通りだったら、これほど嬉しいことはないのだが、いかにも作りものっぽい話である。そもそも曽田と言う地名も、姓も日本のあちこちにあるのだから、日本中の曽田がすべてこの話を発祥とするには無理があろうと言うものだ。

このシンデレラに似た話には元ネタらしき話がある。
「日本伝説集」によると、
「光仁天皇は。ある夜、出雲大社の神のお夢を見られた。大神は一枚の画像と一足の履をさずけて、「この美女の画像と履をしるしに、国々に御幸なされよ。世に二つとない美女をえさせられる」と告げた。帝はお喜びになって、お供を連れて旅だった。
(略)
宝亀2年の5月、御輿は出雲の国に入った。神門の原に立つと、遠くに大社の黒い森が霞んでいた。早乙女たちは田植えの手を休め、我先に御幸を迎えようとして道に上がった。この時、苗田にただ一人残って働く処女があった。侍臣の一人が不審に思って声を掛けた。「それなる女、お前も早く来て尊い画像を拝むがよいぞ。富貴を欲しくは思わぬか」処女は「尊いものを拝みとうございますが、雇われる身は、手を休めるわけにはゆきません」と答えた。処女は上朝山の里の生まれで、父は三歳の時に遠国に去り、母の手一つで育てられたが、その母は病床に倒れ、いまは里人の厚意にすがって働いていたのである。
侍臣は律儀な処女に深く感じいった。近づいてみると、その処女はかの画像の美女に瓜二つであった。招き寄せて履をはかせると、それは所持の履にしっくりとあった。
処女はやがて帝につかえるようになり、吉祥姫と呼ばれた。姫は御子を産んだのち、老母が重病になったので上朝山に帰った。帝もその後を追って姫とともにしばらく神門郷の智井の宮に住まわせられた。帝が崩御されたので、所原の王院山に御陵を築いた。それが院の塚である。姫の塚は上朝山にある。

「そた」美女の話は、上記の話を元ネタに作られたと考えるのが自然だろう。
それにしても、なぜ、「そた」と言う名前が出て来たのか?女の名前で「そた」なんて存在するのだろうか。後の話で「ソンダ=尊田」とあるから、こっちのほうが地名の発祥に近いのかもしれない。現時点では、たまたま曽田という地名に住んでいて、曽田と言う人が地名や名前に値打ちをつけるために作った話かもしれないと思っている。
依然として雲をつかむような話である。しかしながら、真偽のほどはさておき、これだけ色々な話が出て来るとは予想外だった。
さらに調べ続けたら、どんな話が出て来るか、楽しみではある。乞うご期待。