第二章 都の子(8
 
辰敬は諦めなかった。この日を逃したら次はいつ会えるか分からない。辰敬は奪い合いの混乱の中で、娘の白いふくらはぎが通りを北へ遠ざかって行くのを見ていた。
辰敬は走った。
二条大路に出ると、広い道のはるか先に、豆粒のように小さい娘の後ろ姿を見つけた。朝の早い時間だったから見通せたが、賑わう日中なら見つけることは不可能だったろう。
娘は東の野っ原の方へとぼとぼと引き返していた。もう振り返ろうとはしなかったので、後をつけるのは楽だった。辰敬は一気に距離を詰めた。
娘は小路を左に折れた。室町小路だ。この道を北へ上り詰めた所に、花の御所の跡地がある。
娘は冷泉小路、大炊御門大路を渡ると、次の春日小路の手前で、左手の路地に曲がって消えた。
辰敬は角まで走ると、そっと路地を覗いた。
路地の両側には築地塀に囲まれた小屋敷が続いていて、娘はその中ほどの藪垣に囲まれた一軒に消えた。
辰敬は意外に思った。辰敬は娘は下京の貧しい町民と思い込んでいた。藪垣とは言え、上京の垣根のある家に住んでいるとは思ってもいなかったのである。
辰敬はそっと近づき、かつては門柱が立っていたと思われる藪垣の切れ目から内部を窺った。三十坪ほどの敷地に、板屋根の小屋敷と納屋があるだけで、屋敷は昨夜の嵐で倒れなかったのが奇跡と思われるほどの陋屋だった。屋根にも幾つか穴が開いていた。
「何で付け回すんや」
 いきなり娘が現れると、痩せた身体を震わせながら憤怒の声で叫んだ。悲鳴に似た、今にも泣き出しそうな声だった。
眉は吊り上がり、般若のような顔だったが、辰敬は怖いほどに美しいと思った。
辰敬は屋根板を差し出した。
「これだけしか取り戻せんかった」
「いらん、そんなもんいらんとゆうたやろ」
 辰敬は屋根を見上げた。
「穴が……」
「余計な御世話や」
「だけんど……」
「わぬしのものなんかいらん。帰ってんか。侍なんか嫌いや」
「なんや、いち、どないした……」
 初老の夫婦が出て来ると辰敬に怪訝な顔を向けた。男は貧乏神が現れたのかと思ったほど貧相で小柄だった。煮しめたような直垂(ひたたれ)の前が肌蹴、あばらの浮いた胸が覗いている。
 女も油気のない白髪まじりの髪を束ね、疲れた顔をしている。
「屋根板を拾いに行ったんやないのか」
 手ぶらの娘に父親が問うと、いちと呼ばれた娘はぷいとそっぽを向いた。
 辰敬はすかさず屋根板を差し出した。
「取られそうになったのを取り返したんじゃ」
 夫婦ははっと屋根板を見詰め、辰敬に目を移した。値踏みするように全身を見回すと、困惑したように顔を見合わせた。侍の子を警戒しているようだった。
「いずれの家中や」
「京極家じゃ」
 男は首を傾げ、
「都の者やないな」
「出雲じゃ」
「出雲はもう尼子のものやろ」
「父上は尼子家に御奉公しちょるが、我は京極家の御屋形様に呼ばれて上洛したんじゃ」
 途端に一家の顔色が変わった。視線は警戒からあからさまな敵意に変わっていた。その刺すような視線に辰敬はたじろぎ、当惑を隠せないでいた。
 気まずい空気が流れた。
父親はちらちらと屋根板に目を落としていたが、不意に何食わぬ顔で、
「ほなら、もろうておこうか」
 と言ったので、妻と娘は驚いて、咎めるような目を向けた。
「かまへん。くれるゆうんやから。もろておけばええのや。ほなら、そこへ置いて帰ってくれてええさかい。おおきに」
 と、辰敬は体よく追い返されてしまった。
 辰敬は路地の出口まで来ると、そっといちの屋敷を振り返った。隠れて成り行きを見守っていると、いちの父親は梯子を運んで来て、屋根に上がった。
 だが、へっぴり腰が危うく見えた途端、父親は屋根を踏み抜き、わっと悲鳴を上げて転落した。
 辰敬はだっと駆け出した。
 藪垣の内では母子も飛び出して来て、大騒ぎをしていた。父親は腰を打ったが、大事はなかったようであった。
「お前様、穴が増えたやありませんか」
 妻が難じた。
「やかましい……ごちゃごちゃ言うな……竹ちよ、はよう起こせ……手を貸せ……あ、痛たたた……」
 いちの母は竹ちよと知れた。竹ちよは仏頂面で亭主を引っ張り上げた。
「こら、もっと優しうせんか」
 騒ぎをよそに、いちは憮然と屋根を見上げていた。
 辰敬はそっとその場を離れた。
 その日の昼過ぎ、いちの一家三人は屋根板を十枚も背負い、滝のように汗を流して現れた辰敬を見て、目を見張った。
「我がやるけん」
 梯子はそのままになっていたので、呆気に取られている一家を尻目に屋根に上がった。
 板屋根の修理の経験はないが、日常茶飯に目にしていることなので、見よう見まねで夕方までには全部の穴を塞いだ。
 その間、夫婦は迷惑そうな顔をしていたが、修理が終わると流石にほっとしたようであった。
「ふーん、侍の子にしては使えるやないか」
 いちの父親は憎まれ口を利くと、
「ほなら、梯子を返しといてや。おおきに」
 と引っ込んでしまった。
 いちは姿を見せなかった。
 辰敬は裏の家に梯子を返しに行った。
 茅葺きの小さな庵に住んでいるのは常陸坊と名乗る陰気な中年の山伏だった。
 辰敬は恐る恐るいちの父親が何者なのか尋ねた。
「お公家はんや」
 面倒臭そうに答えたが、辰敬が怪訝な顔をしたのを見ると、
「あんまり貧乏やから驚いたのやろ。ま、公家ゆうても(そうろうにん)やけどな……と、ゆうても分からんやろうなあ」
 にっと笑うと、
「候人と言うのは公家に奉公する公家の事や。禁裏に仕える公家やない。摂関家のような大きな家に仕える公家の家来や。まあ、使用人みたいなものや。加田(かだきみのり)ゆうて名前だけは立派やけどな」
 迷惑そうな顔をしていたくせに、結構話好きだった。
「荘園を持っておる訳でも、関所や座の権利を持っておる訳でもない。主から扶持を頂いて細々と暮らしておるのや。ま、今日日荘園なんか持っておっても、皆、武士に押領されて、米一粒たりとも入っては来んけどな。せやから、加田はんの主みたいに首を括る羽目になる」
 いきなり剣呑な話になって、辰敬は固唾を呑んだ。常陸坊はおもむろに白湯で喉を潤すと、隣家の悲運を淡々と続けた。
「加田はんの主は、一条家の分家であちこちに荘園を持ってはったんやけど、皆、押領されてしもうて、伯耆国の西にかろうじて一つだけ残ったんや。せやけど、それも危のうなったんで、主自ら伯耆に下向して、荘園を取り留めようとしはったんや。ところが現地の地侍は尼子経久の宛行(あてがいじょう)を見せ付け、米一粒どころか、草一本たりともやらぬと追い返したんや。加田はんの主は最後の頼みの綱を断たれてしもうて、絶望しはったんやな。都へ戻る途中に首を括ってしもうたんや。それが、七、八年前の事かな。哀れなのは残された加田はん達や。主家は絶え、扶持も入らんようになったんや。雑色と下女も一人ずつおったが、加田はんは暇を出してしまはった。この御時世、候人を雇ってくれる公家はなし。どないして暮らしてはるのか、わしもよくは知らんのや」
 加田一家が武士を嫌うのは尤も至極であった。
だが、よりによってその元凶が尼子家だったとは。屋根の修理でいちの歓心を買えると思った甘い期待は木っ端微塵に砕かれた。
辰敬はいちの憎しみの籠もった目を思い出し、運命のいたずらを呪った。
 公家受難の時代であったが、公家領だけの災難ではなかった。寺社領、門跡領は言うに及ばず、朝廷領さえも武士の押妨を受けていた。一乱以降その勢いは留まるところを知らず、畿内の荘園で無傷な所は殆どなかった。
 食えなくなった公家達はまだかろうじて経営出来ている地方の荘園に逃げ出した。下剋上で成り上がった武士たちは、都の文化に憧れていたので、その地で歌学や蹴鞠、管弦を伝授した。
 朝廷の許しを得て下向する者はいい方で、中には朝廷への勤めを放棄して、無断で下向する者もいれば、期限が来ても都に戻らぬ者もいる始末だった。
 頼れる荘園のない公家達は歌学や蹴鞠などを伝授しながら地方を旅して回った。武士が嫌いと言っては生きて行けぬ。したたかな公家の中には、田舎侍達からしっかりと謝礼を巻き上げ、結構な旅暮らしをする者もいたのである。
 忙しい一日が終わって、京極邸へ戻った時はすっかり暗くなっていた。
 長屋の前に木阿弥の影があった。
 屋根を見上げている。土間の上の屋根板が消え、ぽっかりと大きな穴が開いていた。
「どないしたんやろ」
 まさか辰敬が剥がして、加田家の屋根の修理に使ったとは言える訳がない。
「風で飛んだんじゃ」
「阿呆、飛んだのは三枚だけや。こないに大きな穴は開いとらん。誰かが剥がして修理に使ったに違いない。儂の屋根板を剥がすとは太い奴や。草の根分けても探し出し、懲らしめてやる」
 息巻く木阿弥に気づかれないように、辰敬はそっと首を竦めた。
 次の日から、辰敬は時間の許す限り上京へ通った。
が、加田家のある路地へ入る勇気はなく、日がな小路の雑踏から、路地の出入り口を眺めていた。
いちの姿がちらりとでも見えると、心の臓は破裂した。息も止まった。その痛みと苦しさに、辰敬は恍惚となった。
が、辰敬はもういちを尾けようとはしなかった。もし尾けていることが分かったら、その時こそすべてが終わると思ったのだ。
こんなことを続けていて、どうなるのかまるで成算はなかったが、今はこうして遠くからいちの姿を垣間見られるだけで幸せと思わねばならなかった。
いつしか木枯らしが吹き始め、日毎に風は冷たくなったが、そこに立つだけで、身体の奥から燃えるように熱くなる辰敬は寒さを感じなかった。
が、暮れも迫ったその日の比叡おろしは骨の髄までこたえた。
がちがち歯を鳴らし、こういう日を耐えてこそ男と痩せ我慢していると、唸りとともに砂煙を上げて、一陣の風が吹きつけた。
皆、風に背を向け砂塵を避けた。
「ああ、待て、待て……」
 叫びながら路地の奥から飛び出して来た男がいた。いちの父親加田公典であった。
 公典が追いかけているのは数枚の反古紙であった。だが、比叡おろしに吹かれた紙はまるで公典を嘲笑うように舞い上がった。
 辰敬も町行く人々も、この奇妙な追いかけっこを呆気にとられたように見送った。
「ははは……」
 聞き覚えのある笑い声がした。
 振り返ると常陸坊が立っていた。
 常陸坊はじろりと見下ろした。
「毎日、御苦労なことやな」
 常陸坊は気がついていたのだ。
(毎日ではない)
 と言い返そうとしたが、下手に弁解すると、倍返しにいたぶられそうな気がしたので黙っていた。
 常陸坊は震えている辰敬に、
「温まって行くか」
 と声を掛けるとすたすたと歩き出した。
 辰敬は飛びつくように尾いて行った。
 いちに見つかるのではないかとどきどきしながら路地を進んだが、常陸坊の庵に足を踏み入れると、辰敬は少しがっかりした。心のどこかで、いちに見つけて欲しいと願っている自分がいたのだ。辰敬が近くにいることを意識して欲しくもあった。いちを尾けた訳でも、加田家を訪ねた訳でもない。常陸坊に会っているのだから、いちに咎められる理由はないはず。
 そんなことを思いながら、常陸坊が湧かしてくれた白湯を飲んでいると、いちの隣家にいると思っただけで、ほんわかと幸せな気分になるのであった。
「加田はんはなあ、それはそれはけったいなお公家はんや」
 常陸坊は問わず語りに語り出した。先日とは口調が違っていた。
「記録魔なんや」
 辰敬が首を傾げると、
「内裏の出来事や主上の身の周りであった事、朝議や宮廷の行事など、ありとあらゆることを微に入り細に渡って書き留めてはるのや。それも誰に頼まれた訳でもないのにや。もちろんそんな役目に就いている訳でもない。奉公先すらない候人なのにや。皆、呆れ果ておる。女房の竹ちよはんも嘆いてはる。せやけど、加田はんはただひたすら書き留めてはるのや。それがさっきの紙や。貧乏やから紙を買う金などあらへん。反故紙を集め、その裏に書いてはるのや」
 常陸坊は辰敬の目を覗き込んだ。
「紙は加田はんの命や」
 不健康な黄色く濁った目がぎらりと光った。
 薄気味悪くて目を背けると、常陸坊が鼻白んだように呟いた。
「なんや、鈍い奴やなあ。せっかくええこと教えてやったのに」
 辰敬が怪訝な顔をすると、常陸坊は大真面目な顔でのたもうた。
「将を射んとすれば先ず馬を射よと言うやろ」
 辰敬ははっと常陸坊を見詰めた。
 常陸坊はにたりと唇を歪めた。お見通しと言わんばかりの笑い方がいかにも下卑ていた。
辰敬は赤面し、逃げ出した。
常陸坊は声を上げて笑った。