一つは言わずと知れた『黄泉比良坂(よもつひらさか)』
古事記や日本書紀で、死んだ愛する妻イザナミノミコトを追って、イザナギノミコトが黄泉の国へ行くが、妻との約束を破って妻の腐乱した死体を見てしまい、怒ったイザナミノミコトに追われ、命からがら逃げる話に出て来る場所である。
玉造温泉に調べ事に行ったついでに、天気も良かったので、足を伸ばす。高速の山陰道を東出雲で降り、国道9号線を安来方面へ行くと右に案内板があり細い道がある。
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細い道を下り、民家の横を抜けると、黄泉比良坂の道に出る。看板が立っている所は地区の集会所である。アスファルト舗装のただの山道だった。右手が雑木が生い茂る丘で左手は荒れ果てた窪地が続き、その向こうはまた荒れた丘が横たわる。古事記では『いわゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)という』とある。
100mちょっと歩くと行き止まりである。この先でイザナギノミコトが次々と迫る追っ手を必死に振り払った坂に続く道とはとても思えぬ。実にのどかな山里の風景であった。
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  岩→








行き止まり。どうやらここが黄泉と現世の境らしい。矢印のところに岩が二つ見える。古事記では『千引石(ちびきいわ)』と言う、千人引きの大岩でイザナギノミコトがイザナミノミコトの追撃を防いだと記されている。
貧相な岩が二つ見える。実は昔はここにこんな岩などなかったのだが、誰かが岩がないのはおかしいと言って、どこからか運んで来て置いたものらしい。なにかで読んだのだがはっきりいつかは覚えていない。そんなに昔ではなかったような記憶がある。
こんなことを勝手にやるのはどうかと思うのだが……。

もう一つの黄泉の穴の入り口は出雲国風土記に出て来る。
その場所は『脳礒(なづきのいそ)』と呼ばれ、今の猪目洞窟と言われている。
猪目(いのめ)洞窟は出雲大社の西側と千家の神楽殿の間の道を登り、くねくね曲がる山道を越えた猪目漁港にある。山を挟んで、出雲大社のほぼ裏手に当たる、日本海に面した洞窟である。
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道路と漁船の奥に見えるのが猪目洞窟である。昭和23年に漁港を広げるための工事をしていたら、洞窟が出現したそうだ、内部からは弥生時代から、古墳時代の風土記作成100年前ぐらいの時代の人たちの人骨などが出て来た。
風土記では『出雲郡宇賀郷』に記されている。『……北海の浜に礒あり。脳礒(なづきのいそ)と名づく。……窟の内に穴あり。人入ることを得ずして、深き浅きを知らず。夢にこの礒の窟のほとりに至らば、必ず死ぬ。故、俗人(くにひと)古より今に至るまで、ここを黄泉の坂、黄泉の穴となづく』
今は途中でふさがれて奥までは行けないそうだ。
昔、藤岡大拙先生の講演を聞いた時、その頃は奥まで行けた時の事を言われたのだと思うが、「奥まで行くと気をつけなさいよ」と、声を潜め、いかにも恐ろし気に言われる。何かたたりでもあるのかと固唾を呑んでいると、「釣り人の野ぐその山がある」と、大笑い。
風土記と記紀では黄泉の入り口が違う。私は出雲人の末裔だから、当然、猪目洞窟を黄泉の入り口と信じた人の方を支持したい。
この猪目と峠を越えた西の鷺浦は泳ぐにも釣りをするにもいい場所で、子供が小さい頃は山を越えてよく遊びに行ったものだ。
ところで、猪目洞窟が黄泉の穴と確定しているわけではない。「大社史話186号」では、鷺浦にも二つほど洞窟があり、それらを測量した人のレポートが掲載されている。それによると脳礒を確定するのは難しいようだ。
鷺浦の「ながらの窟」は、地元では「大国主命の牢屋」「スサノオノミコトの穴」であるという伝承があるそうだ。