第二章 都の子(7
 
 御屋形様からは傷が癒えてから、吉童子丸の守りに復帰するようにとの言葉が伝えられた。
「傷の治りが遅い事にして暫く休もう。儂も暫くはゆっくりしたいよってな」
 木阿弥はにたりと片目を瞑った。
 一方この騒ぎは周囲の辰敬を見る目に変化をもたらした。
 辰敬はここでもタコ坊主と揶揄されていたのだが、今では同じタコ坊主と呼ぶ声にも親しみが籠もっていた。
「印地打ちで河原者を五人も倒したんやから大したもんや。このタコ坊主は」
 次郎丸も昨日までは三人と言っていたのに、今日の武勇伝では五人も倒したことになっていた。ただ、その後がいけない。
「やっぱりただのタコやない。毛が生えとると言うやないか。毛の生えたタコなんか見たことないで」
 と大声でからかい、皆を笑わせるのであった。おろくが言い触らしているに違いない。
 辰敬は閉口した。
 印地打ちの話も尾ひれがついて、どんどん大きくなって行くのには閉口したが、悪い気はしなかった。
 その一方で、誰があのような作り話をしたのかと言う疑問が頭から離れることはなかった。
御屋形様の側に仕え、辰敬をよく知っているに違いない。その上、好意を持っている者となると、皆目見当もつかなかったのだが、何かの拍子にふっと虎御前の顔が浮かんだ。
女が危険な印地を見物に行くとは思えなかったので、そんな考えは浮かびもしなかったのだが、祇園社へお参りに行った帰りならあの騒ぎに遭遇することはあり得る。そうだ。きっとそうに違いない。虎御前なら辰敬を庇ってくれて不思議はない。
 辰敬は木阿弥に虎御前を知っているか尋ねてみたが、木阿弥は首を振った。
「誰や」
 守護所での日々を話したが、
「儂がお仕えするようになったのは、御屋形様が出雲からお戻りになってからやけど、そんな女の名は聞いた事ないで」
 上目遣いにじろりと、
「美形か」
 辰敬は一瞬躊躇ったが顎を引いた。
「美人で将棋の強い女。そんな女がいたら評判にならん訳がない。儂かて拝みたいぐらいやけど、この三年余り御屋形様が将棋を指された事もなければ、興味を示された事もあらへんで」
 辰敬は上洛した時から握り締めていた、ある意味一番大切にしていた宝物が掌からするりと抜け落ちたような気がした。
 虎御前との勝負を愉しみにしていたのに。
 御屋形様と一緒に上洛したとばかり思っていたのに。あんなにお気に入りだったのに、いったい虎御前はどうしたのだろう。どこへ行ってしまったのだろう。
「わぬし、勘違いしたらあかんで」
 木阿弥がまたじろりと目を向けた。
口調も改まっていた。
「御屋形様がわぬしに望んでおられるのは将棋やない。吉童子丸様の良き守になることや。そこをよく肝に銘じておかんとあかんで」
 その名前が出ると、どうしても正直な反応が顔に出てしまう。
 木阿弥が苦笑いした。
「遊び相手と言っても傍で見るほど楽なもんやないことは分かる。儂かて御屋形様の御機嫌取りしとるだけの気楽な勤めと思われておるが、そんなもんやない。御屋形様は孤独な御方や。今も、昔も、これからも。心の中は冬の枯れ野の如くお寂しいのや。さような御屋形様を御慰めすることなど、本当はな、誰にも出来へんのや」
 皺だらけの顔がため息をついた。辰敬は刻み込まれた皺の深さに初めて気がついた。そう言えば、これまでこんな間近に木阿弥と向き合ったことはなかった。
「せやからこそ、御屋形様はわぬしに吉童子丸様の良き友になって欲しいと思っておられうのと違うかな」
 と言ってから、ちょっと小首を傾げ、
「年が離れてるから、兄弟かな……うん、そうや」
 大きく頷くと、
「良き兄になることを望んでおられるのや」
 ふんわりと優しさに包まれた言葉であったが、辰敬には重くのしかかって来た。
 木阿弥の言わんとすることは頭では分かるのだが、拒絶する幼い目を思い出すと、遊び相手も務まらない自分が兄になることなど到底不可能に思えた。
 自信なげな顔を見て、
「そんな大層に考えることはあらへん。相手は子供やないか」
木阿弥はことさら気楽に励ましてくれたのだが、その気楽な声がかえって疎ましかった。
 辰敬は順調に回復した。
ところが、秋風が吹く頃になっても一向にお召しの声が掛からず、どうしたのだろうと思っていたら、突然、吉童子丸は材宗と御寮人のいる近江へ行ってしまった。
「まだまだ子供や。母様の乳が恋しくなったのやな」
 木阿弥は辰敬の顔を見てにたりと笑った。
 辰敬も思わずにんまりしてしまった。慌てて神妙な顔をとりつくろったが、木阿弥は声を上げて笑った。
 辰敬はばつが悪かった。
 こうして辰敬にとっては思いもかけない静かな秋が深まって行った。
 そんなある日、朝から妙に胸がざわついた。心の臓がどきんどきんと波打ち、熱を持ったように全身がぼうっとし、息苦しささえ覚えるのだが、その一方でなぜか訳もなく無性に気分が浮き立つのであった。特段嬉しい事もないのに、声を上げて駆け出したくなるのであった。
 その感覚に辰敬は覚えがあった。こんな気分になった時は必ず嵐が来た。
 果たして妙に生ぬるい風が吹き出した。
 空を見上げると雲が速い。
 邸内が騒がしくなった。
 嵐が来ると脅えている。
 辰敬の予感は正しかった。それもかなり大きな嵐が襲来するようだ。空の暗くなり方や、湿気を帯びた風の気味悪さが尋常ではない。
 長屋の屋根に上がって、屋根竹を縛り直し、重しの石を置き直す者がいる。(しとみど)を閉じて桟木で押さえをしている者もいる。
 てんてこ舞いの騒ぎをよそに、辰敬はくっくっと込み上げて来る笑いを噛み殺した。
嵐が来れば屋根板が飛ばされる。
あの子はまた屋根板を拾いに出るだろう。
そうしたらまた会えるはず。いや、今度は必ず会える。辰敬は無性にそんな気がしていたのである。
 この間、身辺にさまざまな事件が起きた時も、あの子を忘れた事は一日たりともなかった。いつかは会いたいと願い、寺社の前を通ったり、石仏やお地蔵様を目にしたら、必ず心の中で手を合わせた。この想いが天に通じないはずがないではないか。
 あの子に会える時が来るかと思うと、辰敬は嵐の襲来さえも嬉しくてならなかったのである。
 皆、火は使わずに、冷えた夕食をすますと早々と家に閉じこもった。
 その頃には空は真っ黒で、辺りは真夜中のように暗くなっていた。風が唸り、横殴りの雨が叩きつけて来たが、それは嵐の序曲に過ぎなかった。夜が更けるとともに、風は猛獣のように吠え、長屋は激しく揺れた。薄い板屋根に叩きつける雨音が太鼓のように轟いた。
 たちまち頭上のあちらこちらからぽたりぽたりと滴が落ち始めた。
 不意にずしんと衝撃が走ると、近くから悲鳴が上がった。長屋の側の松の木の枝が折れて、屋根を突き破ったようだ。それを合図とするかのように、ますます嵐は猛り狂った。風は刻々と激しさを増し、天の底が抜けたかのように雨が滝となって落ちて来た。
 辰敬も木阿弥も真っ暗やみの中で息をひそめていた。
 一瞬、ふわりと長屋が浮き上がったかと思った時、べりっと音がして、屋根板が一枚吹き飛んだ。
 ぽっかりと真っ暗な穴が開いた途端、雨水が飛沫をあげて流れ落ちて来た。
 木阿弥が思わず頭を覆った。
「うわあっ、これはたまらん」
 慌てて逃げたが、その頭上の屋根板がまた吹き飛んで、雨水が襲った。
「何でや、儂ばかり」
 思わず辰敬は笑った。
「阿呆、何がおかしいのや」
 びしょ濡れの木阿弥が喚いたが、笑い声は止まらなかった。身体の奥から、止めどもなく込み上げて来るのだ。
 屋根には三ヶ所も穴が開き、雨水がざあざあと流れ落ちたが、辰敬は飛沫を避けようともせずに笑い続けた。
 片隅から木阿弥が怒鳴った。
「気でも狂ったか。ええかげんにせんか。うるさい」
 何と叱られようと、笑い声は抑えようにもどうにも抑え切れなかった。
(吹け、吹け、もっと吹け。都中の屋根を吹き飛ばしてしまえ)
笑いながら心でそう叫んでいた。
辰敬の脳裏には荒れ狂う真っ暗な都の空を、無数の屋根板がくるくる舞いながら、木の葉のように吹き飛ばされて行く光景が浮かんでいた。
 
 思う存分荒れ狂った嵐は去るのも速く、夜来の嵐は嘘のように静かな朝が来た。
今にも潰れるのではないかと思うほど長屋は揺れ続け、激しい風雨が一晩中吹き込んだ。辰敬は一睡も出来なかったが、風雨が収まると、外が明るくなるのを待ち切れず飛び出した。
大路小路にはすでに多くの人々の姿があり、屋根板や屋根竹を拾い集めていた。
辰敬も屋根板を拾いながら万里小路に出ると北へ上った。
次に嵐が来たらそこへ行こうと決めていたのだ。あの子はもう鴨川に近づこうとはしないだろう。となると、この近辺で屋根板が沢山落ちていそうな広い場所は、万里小路を上った先の、二条大路から三条大路にかけて広がる野っ原しかない。
思い込みとは恐ろしいもので、野っ原に近づくに従って、心の臓がどきどきと今にも破れそうなほどの音を立て始めた。息が切れ、眩暈がするのも、決して飛ぶように走って来たからでも、抱えている屋根板が重かったからでもない。あの子に会えるからだ。今度こそ絶対に会える。そして、この屋根板を渡すのだ。辰敬は五枚集めていた。その時とその場所がすぐそこにあると思っただけで、心も身体もたまらなく苦しくなるのであった。
 野っ原に着くと、薄闇が漂う広大な荒れ野には沢山の尻が蠢いていた。
嵐でなぎ倒された草をかき分け、屋根板や屋根竹、その他役に立ちそうなものや金目の物を必死に探し回っている尻だ。
辰敬は広い野っ原を歩き回りながら、若い娘の尻を目を皿のようにして追い求めた。
その瞼の裏には、泣き声を押し殺し、よろめくように去って行った少女の後ろ姿が、今もなおくっきりと焼き付いている。長い髪が震える腰は思わず抱きとめたくなるほど頼りなく細かった。尻も青い桃のように小さくて固く、小袖の裾は膝頭までしかなく、真っ白なふくらはぎを惜しげもなく曝け出していた。
その裾に桜の花が揺れていたのを辰敬ははっきりと覚えていた。
 ふと辰敬の視線が揺れる桜の花に止まった。どきんと胸が鳴った。同じ裾模様だった。小袖も同じ薄い水色で、裾を彩る桜の花も、ひらひらと舞う花びらの散り方も同じだった。短い裾も、露わになった真っ白なふくらはぎも。
 薄闇の中にくっきりと浮いている小さな尻の輪郭も、夢にまで出て来たものと寸分違わぬ丸みを描いていた。
 娘は上体を起こすと腰を伸ばしながら身体を捻った。辺りを払うように長い髪がはらりと揺れた。ちょうどその時、微かに暁光が射し込むと、まるで振り返った娘を浮かび上がらせるように薄闇を払った。
 辰敬は息が止まった。余りの幸せに気が遠くなった。
 漆黒の双眸が辰敬を見据えている。明らかに辰敬を覚えている目だ。大きく見張った目は、あの時よりも黒く、深みも増しているように思えた。相変わらず痩せているが、顔つきは女らしくなっていた。
 背も少し高くなったようだ。その分だけ小袖の丈が短く感じられた。
 秋も深まったこの時期に、季節外れの柄の、しかもあの時と同じ小袖を着ている事に、暮らしぶりが想像され、痛ましさが込み上げてきたが、辰敬は娘を決してみすぼらしいとは思わなかった。
 貧しさを補って余りある美しさが溢れていたのだ。若さ以外に何物もないが、そこに存在するだけで十分な美しさであった。
 とても長い時間に感じられたが、見詰め合ったのは一瞬だった。
 娘はぷいと背を向けると逃げるように北に向かって歩き出した。二枚の屋根板をしっかりと抱えて。
 辰敬は追った。
 娘は歩きながら肩越しにちらりと振り返ると、不意に向きを変え、西に向かって足を速めた。
 辰敬も続いた。
 娘はさらに足を速めると、野っ原を出て町なかに入った。二条大路の一つ手前の押小路であった。辰敬も少しは都の地理が分かるようになっていた。
 娘は押小路をさらに西へ進んだが、いきなり左手の通りに飛び込んだ。
 辰敬は慌てて追った。
 娘は走り出した。右へ左へ、上ったり下ったり、明らかに辰敬を巻こうとしていた。
 逃げられまいと辰敬も必死に食らいついたが、たちまち都のどこにいるのか、方角さえも分からなくなってしまった。
 娘が路地に消えた。
辰敬も追って路地に飛び込んだ瞬間、あっと声を上げてつんのめった。すぐ目の前、息のかかりそうな所に娘の顔があった。
路地は行き止まりだった。
 はあはあと息を切らし、薄い小袖の下で小さな膨らみが喘いでいた。痩せているとばかり思っていたが、膨らむべきところはひと夏を越した分だけ膨らんでいた。
 辰敬は思わず目を逸らした。
 びっしょりと汗を浮かべた顔が辰敬を睨みつけていた。
「何でつけて来るんや」
 怒りの声が辰敬を突き刺したが、その声にさえも辰敬は陶然とした。初めて口をきいてくれたことだけで幸せ過ぎて、声も出なかった。
 辰敬は黙って抱えていた屋根板を差し出した。
 はっと娘は屋根板の束を見詰めた。
 屋根板の上で二人の荒い息がぶつかり合った。
「いらん」
 娘は屋根板を払いのけた。音を立てて屋根板が落ちた。はずみで娘が抱えていた二枚の屋根板も飛んだ。
 すると、わっと声がして、路地の住人達が殺到するや、辰敬も娘も突き飛ばされた。
住人達は屋根板の奪い合いを始めた。
「やめろ。我の物じゃ」
辰敬は叫ぶと無我夢中で奪い合いに飛び込み、屋根板に覆い被さった。
殴られ蹴飛ばされながらも、辰敬は屋根板を離さなかった。必死に奪い合いを振り切った時には、三枚ほどの屋根板を抱きしめていた。
が、娘の姿はどこにもなかった。