一畑薬師へお参りした時、『島根半島四十二浦巡り再発見研究会』なる研究会があることをパンフレットで知り、そのパンフで募集していた表題のツアーに参加する。
11月17日。素晴らしい好天。
出雲大社で御饌井(みけい)祭見物→北島国造館・命主社(いのちぬしのやしろ)・真名井の清水→日御碕で昼食→隠が丘(かくれがおか)・日御碕神社→大社に戻り手銭記念館→古代歴史博物館で現地講座『出雲国造の祭祀にみる古代人の【いし】信仰』講師は引率の関和彦先生。会費7000円。35名参加。
地元でもただ見るだけでは勉強にならない。講師の解説があれば勉強になるので大いに期待して参加する。
イメージ 1

拝殿西側

御饌井の
井戸

千家宮司が祝詞をあげている




御饌井の祭は出雲大社の祭ではない。千家国造個人の祭である。11月23日の新嘗祭に使う水を汲む。国造も秋になると生命力が減ずる。それを回復するために相嘗(神と食事)をする。それが新嘗祭である。その祭の中の重要な儀式に『歯固』がある。
この儀式に石が関わる。これが今回の研究テーマのスタートである。
イメージ 2
イメージ 3



















☝命主社の裏の竹藪にある大岩


☜命主社




北島国造館の東にある命主社。ご神体はそもそもは大きな岩であった。その大岩は裏山の上の方にあったのが、落ちて来て、すぐ裏の竹藪にあるというお話。古代人の「いし」信仰の一端が窺われる。
イメージ 4命主社のさらに東にあるのが「真名井の清水」
新嘗祭の「歯固」に使う石はここの水で清められる。
二個の小さな石を千家宮司が噛んで吐き出す。
昔は千家・北島両家が神門川で4個の石を取って来て、2個ずつに分け、真名井の清水で清めたと言うが、現在は行われてはいない。
なぜなら明治になって、一神社一宮司となり、出雲大社の宮司は千家となったからである。小石も今はここで取って来る。


この後、バスで日御碕へ。
かじめ丼800円なり。かじめとよばれ海藻をどろどろにしたものをご飯とかきまぜて食う。美味かった。
昼食後、隠が丘と日御碕神社へ。
日御碕なんて子供のころから来ているが、隠が丘は初めて。
日御碕神社へ歩いて行くのも初めて。
いつも車なので、こんなに近いとは思わなかった。

イメージ 5
隠が丘。
根の国に行った素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、柏の葉を投げ、この葉が落ちたところへ自分を葬れと言った。その葉が舞い上がって飛んで落ちたところがこの地。素戔嗚尊を葬ったので隠れ丘と呼ばれている。
今はこの近くの日御碕神社に天照大神とともに素戔嗚尊も祀られていて、ここはただ木が生い茂っているだけ。
海岸沿いの道を降りて行くと日御碕神社に出る。
イメージ 6














👇日御碕神社

祭神は天照大神。

別に素戔嗚尊も祀られている。








この後、大社へ戻り、手銭記念館を見学した後、古代出雲歴史博物館で表題の講演。
一般の参加者もあり。講師の関先生は春の風土記の講演で、古代人の信仰の原点(今のような神社や鳥居などない時代)について、私にとっては目から鱗の講演をされたので、この日をとても楽しみにしていた。
日本書紀の雄略天皇の条に皇女が孕んだと噂を流した者がいた。皇女は自害するが、遺体を捜して、腹を割いたら石が出て来たので身の潔白が証明されたと言う話があることについての解説。即ち、ここでは石が真実を示す確固たるものとされている。
この他にも、天岩戸から出て来た天照大神と弟の素戔嗚尊が盟約を結ぶ時、素戔嗚尊は天照大神が身に付けていた玉の装身具を真名井ですすぎ、玉をかみ砕いて、パッと口から霧のように吐き出す。すると五人の神が生まれる。天照大神も同じように素戔嗚尊の玉を噛み、吐き出すと三人の女神が誕生する。
五人の神の長男は天皇家の祖であり、次男は出雲国造の祖とされている。
出雲国造が御饌井の祭で石を噛んで吐き出す仕草との類似を教えられる。
他にも、山幸彦が海底に行き、玉を口に含んで器に吐いた行為。
山上憶良の鎮懐石と言う二つの石を詠んだ歌などを例に、精神世界の「魂」が具象化されたものが生活世界の「玉」なのだと説かれる。
そして、出雲の「石神」さまと呼ばれているものに、鳥居の起源を求める。
昔の神社の絵には神社の前に大きな岩を二つ並べたものがある。
玄界灘の沖の島にも二つの岩があり、舟はその間を通って島へ渡る。ここでも岩は鳥居の役目をしている。
関先生は川は神の通り道と言われる。例えば川の両側に山が迫り、ぐっと狭まった場所こそ、山が門であり、大きな鳥居なのだと。
他にも沢山の話があり、詳しく書くとこの何十倍にもなるので、簡略過ぎるぐらい簡略に書いてしまい、筆が足りないところや間違いもあるかもしれないが、こういう世界に遊ぶ楽しさの一端でも知ってもらえればと思って書きました。