第二章 都の子(6
 
 印地とは投石による戦闘である。
子供達が二手に分かれて石を投げ合う遊びも印地と言うが、あの喚き声や地響きはただ事ではない。
 うおっと鬨(とき)の声が上がった。東の鴨川の方から聞こえて来る。当時は投石も有力な戦闘行為の一つであった。紛れもなく石の飛び交う戦いが始まったに違いない。
 その時、辰敬の中で何かが弾けた。
 名状し難い凶暴な衝動が噴き上げて来て、辰敬は駆りたてられるように長屋を飛び出していた。
 気がついたら、群衆に混じって、荒れ地の中を鴨川の堤に向かって走っていた。
 頭が裂けてうずくまっている者や、血まみれになって逃げて来る者がいた。
 鬨の声や絶叫が一段と大きくなった。
「危ない」
「子供が行くんやない」
 誰かが袖を掴んだが、辰敬は振り払って突進した。
 堤には大勢の見物人が集まっていた。
辰敬は見物人の壁に頭から突っ込み、かき分けるようにして前へ出た。
 鴨川の上空を無数の飛礫(つぶて)と無数の矢が飛び交っていた。
 河原に展開した河原者達と四条大橋一帯に陣取った侍所(さむらいどころ)の兵士達が、飛礫と弓矢で戦っていたのである。河原者達は四条大橋めがけて投石し、兵士達は弓矢で応戦していた。
 四条大橋側には町衆も加わり、石を投げている者もいれば、胴巻きをつけて矢を射かけている者もいた。
 祭に喧嘩は付きものだった。祭の異様な高揚感が日頃鬱積した不満や怒りを爆発させる。逆に言えば、日頃の不満や怒りは、祭の時こそ爆発させる絶好の機会なのだ。それが祇園会ならば尚更であった。皆、この時を待っていたのだ。事あれかしを願っている連中にとって、理由など何でも良かった。足を踏んだ、肩が当たった、目つきが気に食わないで、喧嘩になり、果てはこのような戦になる。
 誰かが河原者が仕掛けたと言ったが、そうかも知れないが、そうではないかも知れない。いずれにしても、この騒ぎのきっかけなど、取るに足らぬ事に違いない。
 河原者達は侍所の兵士達を相手に一歩も退かなかった。
 都でこのような騒ぎになった時、もし京極家が侍所所司を任じられていれば、所司代の多賀氏が京極家の兵士を率いて出動し、侍所と共に協力して当たる。
だが、侍所所司は常置されなかった。むしろ置かれていなかった時期の方が長いぐらいである。
 京極家も最後に侍所所司を務めたのは文明十七年の一年だけで、その後は侍所所司は置かれなかった。
 幕府は侍所所司不在の時でも、都の治安を守り、裁判を行うために侍所開闔(かいこう)を置き、その下に事務方や兵士を備えていた。
開闔は侍所の長官で幕府奉行人が務めるが、奉行衆は文官であるから弱卒と知れていた。
 侍所開闔松田頼亮(よりすけ)自ら一隊を率いて駆け付けて来たが、河原者達は恐れ入るどころか一層激しく飛礫を浴びせた。
弓矢を装備している方がたじたじとなっていた。
 辰敬も田舎では富田川を挟んで、百姓や町人の子達と印地をしたものだが、いま目の前にある光景が、同じ印地と呼ばれるものとは到底信じられなかった。そこにあるのはまさに戦だった。憎悪のぶつかり合いだった。
 飛礫は数で矢を凌駕していた。
 一本の矢を番え、狙いを定める間に、飛礫は何倍もの数が降り注いだ。落ちている石を拾って投げればいいだけなのだから。河原に石は無数にあった。
 降り注ぐ飛礫を圧倒されたように見ていた辰敬の目が、その時、視界を真一文字に貫く一個の石を捉えた。
 その石は唸りを上げて、辰敬の視界を一直線に横切ったのである。一瞬の事なのに、辰敬にはその石の形も、色もくっきりと見えた。餅のように平たくて、縁は鋭く研ぎ磨かれ、金色の光りを放っていた。その時だけ時間が止まったかのようであった。金色に見えたのは、夏の陽光が煌めいたからであった。
 金色の石は空を裂き、糸を引くように飛ぶと、今しも矢を放とうとした兵士の額を真っ二つに割った。
 その間の距離がどれほどあったであろうか。何と遠くまで、速く、強い石を投げたものよ。
(一体あんな石を投げるのはどんな奴なのだろう)
 と、河原を見渡した辰敬はあっと声を上げた。
(あいつ……)
 投石集団の先頭にいたのはあいつだった。
 あの少女から屋根板を奪った憎いあいつである。
 その少年が投げた。
 あの凄まじい飛礫を。
 同時に周囲の少年達も一斉に飛礫を飛ばした。
 そこにいたのは数十人の少年達だけの集団だった。彼らは際立って統制が取れていた。
 石を投げるのは少年達の中でも屈強な者達だけであった。
 それ以外の少年達は石の補給係であった。石を背負い籠に入れて、最前線に運んで来るのだ。その石はどれも平らで投げやすく、しかも縁は鋭く研ぎ磨かれている。
 この少年達の集団はこの時の為に、戦闘用の石を大量に準備していたのだ。
大人の河原者達がやみくもに河原の石を拾って投げているのとは天と地の違いである。
 投げ手の前には盾を構え、矢を塞ぐ役の少年達もいた。
 あいつの号令一過、少年達は進んだり、引いたり。散ったかと思えば集まり、また二手に分かれて左右から攻撃したりと、自在に飛礫を投げ続けた。
 それもただ投げているのではない。
 飛礫は常にあいつが最初に投げた一点に集中した。
 狙われた者とその周囲にいた者達は凄まじい飛礫の集中攻撃を浴びて、たちまち血まみれになって倒れた。
 指揮の巧みさと統制のとれた動きに辰敬は思わず見惚れた。
 辰敬より、二つか三つ年上に過ぎないはずだが、今日のあいつは立派な大人に見えた。
 見事な若者頭であった。
 憎いばかりに。
 悔しさが込み上げて来た。どう足掻いてもあいつには太刀打ちできない。
 辰敬にとってあいつほど憎い奴はいない。あの少女の仇であり、辰敬にとってもこれまでの人生最大の屈辱を与えた奴である。憎んでも憎み足りないあいつが、辰敬も認めざるを得ない勇者ぶりを示している。
 光り輝いてさえ見えるのが、悔しくてならなかった。
 噛みしめた奥歯がぎしぎしと音を立てて鳴った。奥歯が砕けるのではないかと思うほどの音であった。その悔しさは、あの時、少女を前にして何も出来なかった自分への悔しさでもあった。あの時のみじめな姿が甦った。二度と見たくない無様な姿を思い浮かべる度に、不甲斐ない自分への怒りが込み上げて来る。同時にそれは屈辱を与えたあいつへの怒りでもあった。思い出すたびに、二つの怒りはいつもないまぜになって噴き出すのだが、あいつを目の当たりにした今の怒りは、自分の年齢でもそこまで思い詰めるかと、我ながら恐くなるくらい激しいものであった
(あいつをぶち殺してやる)
 それが不可能ではない事は、足元に転がっている石が教えてくれた。平たくて、縁を鋭く研いだ石であった。
まともにぶつかったら絶対に勝てないが、印地ならば勝てるかも知れない。
 いや、絶対に勝てる。
 辰敬は少女への思いを石に込めて投げれば絶対に当たると信じた。
 一撃で倒す。
そして、あの子に会いに行くのだ。
 あいつを倒したと誇らしく告げるのだ。
 仇を取ってやったと胸を張る。
 あの子は目を見張るだろう。黒い瞳が辰敬を見据え、驚きはたちまち好意に変わるだろう。
 その場面を想像しただけで、辰敬は勇者にならねばならぬと己に言い聞かせた。同時に無限の勇気が湧き上がって来るのを感じた。
 辰敬は足元の石を掴んだ。
 固く握りしめると、見物人を押しのけ、一気に土手を駆け下りた。
 背後でどよめきが上がるのを聞きながら、河原を走った。少しでもあいつとの距離を縮めるために。
 あいつは正面の敵に相対し、真横から突進して来る辰敬には全く無警戒だった。
 左のこめかみは全く無警戒に晒されている。
 当たる。
 辰敬は確信した。
 渾身の力を込めて右腕を振り上げた。そして、振り下ろそうとした瞬間、頭に凄まじい衝撃を受けた。
 一瞬目の前が真っ暗になり、辰敬は気を失った。
 
 頭がずきずきと痛む。
 右の側頭部から奥に向かって、錐を突き立てるような痛みだった。
 痛みに耐えきれず声を発した時、闇が消えて、見下ろす木阿弥の顔があった。
「よう生きとったな」
 第一声がそれだった。いつもの何とも捉えようのない顔だが、声には呆れたような響きがあった。
 辰敬は長屋の床に横たえられていた。
 そっと頭に手をやると、ぐるぐる巻きに布が巻いてあった。
「触るんやない。まだ傷は塞がっておらん。河原者の飛礫が当たったんや。少しずれとったら今頃はあの世や。そう医者がゆうとったで」
 辰敬は最後の記憶に辿り着くと、ようやく置かれた状況を理解した。
 あいつを倒すどころか、飛礫を投げもしないうちに、河原から飛んで来た飛礫を喰らってしまったのだ。
 またも仕出かした失態の大きさを自覚した途端、痛みがぶり返した。言語道断の不始末だけでも絶望的な大罪なのに、激痛と言う天罰まで下され、辰敬は再び目の前が真っ暗になりかけた。
 すると、何がおかしいのか、木阿弥がにやりと笑ったような気がした。
 人の気も知らないでと睨みつけると、木阿弥は確かに笑みを向けていた。
「喜ぶんやな」
 また木阿弥の悪い癖だ。何の前置きもなく、不意に突拍子もない事を言い、相手を当惑させて喜んでいる。
「わぬし、出雲に戻らんでもようなったで」
「えっ……」
 辰敬は耳を疑った。余りにも突然の、思いもかけない言葉に、ただ当惑するばかりであった。
「何や、嬉しうないんか。出雲に戻りたくはないんやろ」
 辰敬は思わず頷いた。
「ほなら、もっと嬉しそうな顔をせんか」
 辰敬が訳を聞こうとしたら、
「わぬし、見直したで」
 皮肉屋の木阿弥がいたく感心した。
「侍所開闔松田頼亮様の援軍が駆け付けて来た時、わぬしは援軍に加わり、河原者に飛礫を放って戦ったと言うやないか」
 辰敬は呆気に取られた。
(どう言うことじゃ。何でそんな話になっとるんじゃろう)
さっぱり訳が分からなかった。
「御屋形様もことのほか御喜びやった。それはそうやろ。世が世なら京極家が侍所開闔と力を合わせて、不逞の輩を成敗しておるのやからな。嬉しくない訳がない」
 木阿弥は孫でも見るように目を細めた。
「子供と思っておったが見直したで。京極武士の心意気を見せたんやからな。御屋形様も『やっぱり見どころのある子やった』と仰せになられ、出雲に戻す事も取りやめになったんや」
 現金なもので、そう聞いた途端、痛みが消えた。
 木阿弥がいなかったら、両手両足を突きあげて、万歳を叫びたいところだった。何と言う僥倖だろう。こんなに嬉しい事はなかった。あの少女と別れなくてすんだのだ。いつかまたどこかで逢える日が来るかもしれない。いや、必ずその日は来る。そう辰敬は信じた。
「そんな嬉しいんか」
 辰敬は慌てて取り繕うとしたが、笑みはひとりでに込み上げて来るのであった。
「まだまだ子供やな」
 木阿弥がからかった。
 それにしても分からないのは、どうして辰敬が小さな勇士に祭り上げられたのかと言うことだった。
 辰敬はおずおずと問うた。
「誰が御屋形様に話したんじゃろ」
「知らん。誰でもええやないか。見とる人は見とるんや」
 と木阿弥は呑気なことを言う。
(誰だろう。あんな大嘘の作り話までして、我を助けてくれるとは)
 この京極邸に心当たりは一人もいない。
 礼を言いたくもあるが、助け船を出してくれた訳が分からぬことが薄気味悪かった。おまけに本当の姿を見られていると思うと、どうにも居心地が悪かった。
「ごめんなさいよ」
 そこへ、前掛け姿の女が入って来た。水仕女 ( みずしめ )のおろくだった。厨(くりや)で働く中年の端女(はしため)で、井戸端でよく顔を合わせる女である。
「やっぱり若い子は元気やな。そろそろ目が覚めてもええ頃と思っておったんや。どっこいしょ」
 と上がり込むと、いきなり辰敬の前をはだけ、股ぐらに手を突っ込んで来た。
「何をするんじゃ」
 吃驚して手を払いのけたが、
( むつき )を替えるんやないか」
 辰敬はおむつをあてがわれていることに初めて気がつき、狼狽した。
「ほれ、びっしょりや。早う替えんと、木阿弥はんが鼻をつまんではるで」
「やめろ。触るな」
 辰敬は上体を起こすと必死に抗いながら後ずさりした。
「そんな恥ずかしがらんでもええ。わらわはもう四日も通っておるのや」
 四日と聞いて、顔から火が出た。
 おろくがにたっと歯茎を剥いた。
「わしが頼んだんや。下の世話をしてもろたんや。礼を言わんか」
「礼なんかええ。若い子の世話もええもんや。タコ坊はんもなかなか立派なものを持ってはる……」
「もういい。自分でやる」
「あれ、ゆでタコにならはった。ま、これだけ元気になったら、もう世話もええやろ。褓は後で返してくれたらええさかいな」
 と、おろくは引き上げて行った。
 木阿弥が大きくのびをした。
「やれやれやなあ。ほんまに儂も疲れたで。上洛早々あれこれあり過ぎや」
 辰敬は申し訳なさそうに頭を下げると、土間に降りた。まだ頭がふらふらする。片隅で木阿弥に背を向け褓を取っ払い、下帯を締めた。