今日は出雲弥生の森博物館で「特殊器台」贈呈式があり、その後、講演があり、懇親会を持つ。昨日、風土記講義に出席できなかったのでおっとり刀で出かける。
出雲には紀元後2世紀ごろの四隅突出型の巨大古墳・西谷古墳群がある。
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上の写真は西谷3号墓から見下ろした復元墓。四隅が突き出した珍しい形をしている。同じ頃、吉備には楯築(たてつき)墳丘墓と呼ばれる巨大古墳があった。
その西谷古墳群で発掘された「特殊器台」と言われるものが、実は吉備から運ばれたことが分かっている。
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これが、その「特殊器台」と言われるもので、右の壺を上に乗せる。
これは「楯築サロン」と言う、岡山の考古学グループが中心となって、陶芸家や古代史の専門家の協力を得て、復元作成したものである。
プラスチックのレプリカではない。土から探し、5年間かけてやっと完成したものである。
これを1800年後に、再び吉備から出雲に送ってくれたのである。
30数人の岡山の考古学ファンがバスを仕立てて出雲弥生の森博物館に届けてくれた。
そこで、贈呈式の後、講演会をし、その後、遠路岡山から来てくれた考古学仲間を慰労し、懇親会をすることになったと言う次第である。
講演会では、まず吉備側が前岡山大学教授現国立歴史民俗博物館の松木武彦氏による「出雲と吉備の分かれ道・弥生墳丘墓から古墳の出現へ」と言う題で講演。
出雲と吉備に巨大古墳が出現したのは、倭国師升(すいしょう)等が朝貢して以降、倭国に大
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乱が起きるまでの間で、大乱以後は巨大古墳は一気に大和
に栄え、出雲の巨大古墳は消え、吉備の巨大古墳も大和以下になってしまう。
だが、出雲吉備両国に巨大古墳があった時代、出雲に入った外国の文物や文化の影響は吉備に伝わり、吉備からも特殊器台のようなものが出雲に来ていた。出雲と吉備の確かな交流があったのである。その古代の交流を1800年後によみがえらせようと言う楽しい催しだったのである。
出雲側は、出雲弥生の森博物館の学芸員坂本豊治氏が楯築墳丘墓と西谷3号墓の比較を詳細にされる。
特殊器台は左のように包まれて運ばれたのだが、古代ではおそらく高梁川をさかのぼり、日野川を下って、伯耆から出雲に運ばれたのではないかと言うが、この時代に運んでも壊れるのではないかとひやひやしどうしだったと言う。
これだけ巨大なものは藁をかぶせて焼いたのだそうだが、失敗の連続だったそうだ。古代の運び方すら見当もつかないと。もしかしたら、ばらばらに焼いたものを運んで、つないだのではないかとも言われた。この特殊器台がのちの円筒埴輪の元になったのは確からしい。
その後、いずもの飲み屋で懇親会。見ず知らずの岡山の同好の士と楽しく語らう。
畑の話になったら、万田酵素が効くぞと勧められ唖然となる。本当に効くらしい。大根も大きくなって柔らかく、美味いと力説される。こういう珍説としか思えないことを大真面目に言われると本当に困る。試してみようかと思う自分がいる。
岡山勢は8時過ぎ、バスで帰る。岡山まで3時間。私と話した人はそれから車で一時間かけて帰るのだそうだ。

昨日の講演会の余談(9月19日追記)
鈴木先生は出雲=投馬国説(魏志倭人伝)であった。
北九州から水行20日で出雲(投馬国)水行10日で丹後に上陸。そこから加古川方向へ平坦な地溝帯があり、そこを通れば陸行30日で邪馬台国(大和)に到る。
「瀬戸内航路と言いますけどねえ、その頃、山口や広島は寂しいものです。なんもないんですよ」
この言葉、妙に説得力があった。