第二章 都の子(3)


振り返るとつるつるに頭を剃りあげた老人が立っていた。坊主ではない。小袖に袴を穿いた同朋衆のようななりしている。

「出雲から御奉公に上がった多胡辰敬と申します」

「ほう、わぬしか」

 老人は怪訝な顔で辰敬を見回した。

「何でこんな所におるんや。吉童子丸様の御相手をしとるんやないのか。遊んではると聞いておったんやけど」

 辰敬が怪訝な顔をする番であった。

「わぬしの御家来衆がわぬしに挨拶してから帰りたいと言わはったのやけど、乳母のおまん殿がわぬしは若様の御相手をしていて手が離せぬと言うたので、御帰りになったとか……」

「えっ、帰った」

 辰敬は愕然とした。

「もう帰ったのか」

 庄兵衛からは辰敬を送り届けたら、お別れだと聞いてはいたが、まさか別れの言葉も交わさずに行ってしまったとは。

「御家来衆はくれぐれもわぬしによろしうと言わはったと、わしは応対した者から聞いたで」

 辰敬は怒りでわなわなと身体が震えた。

 辰敬とて庄兵衛達には礼を言い、きちんと別れの挨拶はしたかった。

「あいつ、嘘をついたんじゃ。我は若様の相手はしとらんけん。ずっと一人で庭におったんじゃ。放りっぱなしにされとったんじゃ」

「なに、ほんまか……」

 さすがに老人も驚いたようであった。

(くそ、白粉狸め。殺してやる。いつか狸汁にして食ってやる)

 ぎゅっと唇を噛みしめる辰敬を老人は黙って見ていたが、

「わしの部屋に行こう」

 辰敬を邸内の一画にある長屋の一部屋に連れて行き、

「ちょっと待っておれ」

 と、辰敬を置いて出て行った。

 その部屋は片土間で、片側は板張りの床で筵が敷いてある。

 辰敬はその床に腰を下ろした。

 壁際に小さな行李と畳んだ寝具がある他には家財道具らしきものはない。

 所在なく待ち続け、ようやく灯ともし頃になって、老人がにこにこしながら戻って来た。

「御屋形様に会って来たんや。わぬし、今日からここでわしと一緒に暮らしてええそうや」

 辰敬がぽかんとしていると、老人はにやりと片眼を瞑った。

「わしは阿弥 (もくあみ)と言うてな、御屋形様の御伽衆や。早う言うたら話し相手や。御屋形様がいつ何時お召しになっても、すぐに参上できるようにここに暮らしておるのや。ひとりもんやしな」

 木阿弥が言うには、御屋形様は辰敬を奥向きに勤める者に預けて奉公させるつもりでいたらしい。

「わしがここにおった方が御奉公に便利やし、わしが御奉公の手解きもすると申し上げたら、御許しが出たのや」

 余りにも沢山の事があった日なので、木阿弥の親切が温かく感じられ、辰敬はその温もりの中に素直に身を委ねた。

「わしは御屋形様の御相手、わぬしは吉童子丸様の御相手。似た者同士じゃ。仲良くしよう」

 木阿弥は麦混じりの冷や飯に湯を掛けただけの湯漬けを出してくれた。

「お客さんは今日までやで」

 食べ終わると、辰敬は奥の壁際の一画を宛がわれ、木阿弥がどこかから借りて来た (あさぶすま)にくるまって寝た。

 暗闇の中で、都の一日目の夜を噛みしめていると、

「わしは御屋形様の御相手、お前は吉童子丸様の御相手……」

と言う木阿弥の声が甦って来て、御屋形様は子供の自分など及ばぬ、遥か遠い世界の人であることを思い知らされたのであった。


 翌朝。

「ほれ、いつまで寝とるんや」

 叩き起こされると、いきなり水汲みから始まった。井戸で水を汲み、土間の水瓶に運ぶのだが、何往復もしなければならなかった。

 その後、飯を炊くことになり、

「そうか、出雲ではわぬしも若様やからな。飯を炊いたことはないか。ほならわしが教えたる」

 井戸端で米のとぎ方から教えられた。

「わしらが米の飯を頂けるのも、御屋形様の御伽衆を勤めておるから特別な計らいや。一粒たりともこぼすんやないで」

 竈は土間を抜けた長屋の裏にあった。

 炊くのは一苦労だった。火加減は難しく、煙が目に沁み、涙がボロボロこぼれた。

「どうや、自分で炊いた飯は美味かろう」

 木阿弥はご機嫌だった。

 早速、御屋形様のお召しがあり、

「片づけを頼むで。掃除と洗濯もな。ああ、今日は天気もええから、麻衾も干しとくんやで。判らんことは誰かに聞くんや」

 山のような仕事を押し付けられた。

(こんなことをするために都に出て来た訳ではないのに……)

 憮然とした顔で洗濯物を干していると、嘲るような笑い声がした。

 振り向くと、短袴(みじかばかま)に裸足の若い雑色 ( ぞうしき )が立っていた。

「わぬし、騙されたんや」

 辰敬が怪訝な顔をすると、

「木阿弥は初めからわぬしを下働きでこき使う魂胆で御長屋に引き取ったんや。あいつは口うるさくてけちやから、誰も下働きが勤まらんのや。すぐにやめてしまうので、あいつも困っておったんや」

 辰敬は暗然とした。

「あの爺、人遣いが荒いさかい、覚悟しとくんやな」

 遠ざかる笑い声を背に、辰敬はため息をついた。昨日今日で何度ため息をついたことか。

 ようやくすべての仕事を片付けた時、辰敬にもお召しがあった。

 昨日と同じ庭で待っていると、昨日と同じように吉童子丸とおまん達が現れた。

 恭しく頭を下げたものの、おまんに対しては平静ではいられなかった。が、その仏頂面に対して、おまんも容赦はなかった。

「何や、尼子の御家来衆は主家への礼儀を忘れたと見える」

 改めて頭を下げるのも業腹だったし、どうせ礼儀知らずの田舎者と思われているのなら思わせておけと、辰敬は突っ立っていた。こういう時、子供であることは都合がいい。

 おまんは忌々しげに睨みつけていたが、

「さて、今日は何をして御慰めするのや」

 辰敬は苛められているのかと思った。

 上洛して二日目である。しかも朝からこき使われ、そんな事を考える余裕すらなかった。

 返答に窮していると、

「そんな心がけで大切な御守りが勤まると思っているのかえ」

 辰敬はそっと吉童子丸を窺った。

(この若様は何がしたいのじゃろう……何が好きなのじゃろう……今までどんな遊びをしていたのじゃろう……)

 腹が立って来た。

(そう言うことは、まず初めに白粉狸が教えてくれることではないのか。教えてくれなければ何をしていいか見当もつかん……)

「ええい、じれったい子や」

 苛立ったおまんがふと手を打った。

「そうや、竹馬がよい。竹馬や、竹馬をするんや。男の子らしい、ええ遊びや」

 辰敬は愕然となった。

「これ、誰か早う竹を切らせて、持って来るんや」

 しばらくして、女房が二本の笹竹を運んで来ると、恭しく吉童子丸の前に置いた。

「さあ、吉童子丸様お遊びなさいませ」

 おまんが猫なで声ですすめたが、吉童子丸は仏頂面で見下ろしているだけであった。

「これ、辰敬、何をしとるんや。若様にお手本を示すのや。遊んでお見せするのや」

 と、竹を拾い上げて辰敬に押し付けた。

 辰敬は仕方なく、嫌々竹を股の間に挟んだ。

「ほれ、走らぬか。お前はお馬さんに乗ってるんや」

 と、尻まで叩かれた。

 辰敬は渋々笹を引きずりながら駆け出した。

 悲しくて涙か出そうだった。

(こんなこと十二歳にもなった男のすることか。元服さえ済ませたのに)

 竹馬遊びなど、ものごころついた頃、兄弟で遊んだ記憶がかすかに残っているだけであった。

「これ、もっと早く走らぬか」

 池の周りを走らされた。

「もっと面白楽しく走れぬのか。ほれ、はいどう、はいどう……」

 おまん一人が大騒ぎする中、池を二周して戻って来た時、吉童子丸がぷいと奥へ引っ込んだ。

 辰敬は正直ほっとした。

 翌日はぎっちょうをすることになった。これもおまんが決めた事である。

 長い棒で平たく削った木の球を打つ遊びである。竹馬よりはましだった。

 辰敬はお手本を示すことになり、思い切り球を打ったが、何と女房衆の一人の顔に命中してしまった。

 悲鳴が上がり、大騒ぎとなってしまった。

 その次の日は、外遊びはやめて、座敷で小弓をすることになった。これもまたおまんが決めた。

 おもちゃのような小さな弓で的当てをする遊びだ。

 辰敬が吉童子丸に手を添えて教えたのだが、矢はあらぬ方向にそれ、おまんの目に当たってしまった。

 また大騒ぎになったことは言うまでもない。

 そのせいか、数日休みがあって、お召しがあった時、おまんは当てつけがましくまだ眼帯をしていた。

 そして、まるで仇討ちでもするかのように、庭で馬遊びをさせられた。

 四つん這いの辰敬に吉童子丸を跨らせたのだ。吉童子丸には鞭まで持たせ、

「吉童子丸様、お馬の稽古でございますよ。これ、辰敬、走らぬか」

 膝小僧が痛くて、砂利の上など走れるわけがない。のろのろ歩いているだけでも、膝頭に血が滲んで来る。

 救いは相変わらず吉童子丸が楽しんでいないことだった。ただ言われたままに跨っているだけで、おまんが鞭を使えと言うのには、うんざりした顔をした。嫌々跨っているのは背中で分かる。辰敬は吉童子丸がいつものように奥へ逃げ帰ってくれないか、そればかりを願っていた。

 すると、その奥の方が急に何やらざわめき始めた。

「何事や」

 確かめに行った女房が駆け戻って来た。

「阿波攻めは失敗やそうです。細川尚春様は讃岐で負けはって、淡路に逃げ帰られはったそうです」

「なんやて、右京兆様が負けた」

 おまんは驚いて大声をあげた。

 辰敬も思わず立ち上がっていた。

 吉童子丸の悲鳴が響き渡った。


 その日から辰敬は謹慎の身となった。

 が、若様を振り落として叱られた事より、管領細川政元の征討軍が負けた事の衝撃の方が大きかった。

 屋敷内には細川成之と澄元が阿波勢を率いて都に攻め込んで来ると言う噂が流れていた。

 公家や金持ちの町衆の中には逃げ出す準備をしている者もいるらしい。

「ははは、阿波細川はそないな阿呆やない。今は天下に阿波細川の力を見せつけただけで十分と思うているはずや。薬師寺元一の勇み足で味噌を付けたが、この勝利で流れは阿波細川に傾く。機が熟するのをじっと待っておればええのや」

 木阿弥は笑った。

 辰敬は疑問に思っている事を尋ねた。

「右京兆様は何で魔法を使わんのじゃ。元寇の時、神風が吹いたように、大風で敵を吹き飛ばせば勝てたじゃろうに」

 木阿弥がぎろりと目を向けた。

「わぬしは魔法を信じてんのか」

 頭ごなしになじられたような気がして、辰敬は黙した。

 木阿弥はにたりと笑った。

「この世には魔法を信じる者と信じない者、この二通りの人間しかおらんのや。どっちでもええのや。いわしの頭も信心からと言うからな……せやけど、()は怪力乱神を語らずとも言う」

 辰敬の頼りなげな顔を見て、

「何や、論語を知らんのか……聖人は常を語りて怪を語らず、徳を語りて力を語らず、治を語りて乱を語らず、人を語りて神を語らずや。自ら怪力乱神を求める右京兆様は君子の資格はあらへんのやろうなあ……」

 そう呟く木阿弥の目は辰敬の顔を離れて、暗い虚空を見上げていた。

「右京兆様の気持ちも分からんではないのやけど……」

 そのため息も辰敬には聞こえていなかった。

 辰敬は学問を疎かにしていた事に恥じ入っていた。

 謹慎はすぐには解けなかった。

 が、おまんと顔を合わせることもなく、吉童子丸の相手をしなくて済むのなら、謹慎も悪くはないものだと辰敬は思っていた。

 そんなある夜、時ならぬ大風が吹いた。


 翌朝、邸内は後片付けで大わらわだった。

 辰敬はそっと屋敷を抜け出した。

辰敬は上洛してから一度も屋敷から出た事がなかった。その上、謹慎を食らい、屋敷の生活にはほとほと息が詰まりそうだった。外へ出たくてうずうずしていたのだ。

 東京極大路に出ると、足は北の上京に向かっていた。

 都へ来たからには、まず一番に御所を見たかったのだ。

 武家御所も見物したかったが、十一代将軍足利義澄が住む小川御所は元は細川家の屋敷であった。九代将軍義尚の御所だったこともあるが、義尚死後の将軍位を巡る争いに絡んで一部を破壊されたものを、義澄が将軍になった時に、費用を倹約するために建て直したと聞いて、その気は失せていた。

 むしろ、花の御所の跡地を見たかった。三代将軍足利義満が築き、花の御所と謳われた室町第も今や荒れ地になっていると聞いてはいたが……。その変わりようを見るのも大切な事のように思っていたのだ。

 大路沿いのあちらこちらの屋敷で、屋根の補修をしている。武家や公家の屋敷も板葺きだから、雨風には弱い。

 板葺きを屋根竹と石で押さえただけの町屋はひとたまりもなかった。

 都は縦に六本の大路と十本の小路、横に十二本の大路と二十八本の小路が通っている。

 それらの大路小路には、吹き飛ばされた屋根板を拾い集める人々が大勢出ていた。

 屋根竹の束を抱えている者もいる。

 町屋の屋根も、皆、修理に大わらわである。板葺きはまだいい方で、藁葺きや茅葺きの小屋や雑舎も沢山あった。拾い集めた材料で修理するのだから、拾うのも競争である。

 折れた木の枝を抱えているのは薪にするのだろう。

 風で飛ばされたと思われる桶を抱えている者もいる。

 持たざる者にとっては大風も天からの贈り物と言えた。

 京極邸は東西に延びる五条大路と四条大路の間の高辻小路にある。二条大路から北が、都の北半分で上京とされているから、京極邸は下京の中ほどにある。

 辰敬は四条大路を横切り、さらに北へ上り、三条大路の近くまで来た時、右手からかすかに悲鳴が聞こえて来た。

 女の声だった。

 右手には荒れ地と畑が広がっているが、三条大路の道沿いと近辺にはまばらに人家があった。

「返して」

 そう聞こえた。

「わらわのや、返して」

 荒れ地の中の小屋の向こうから聞こえて来る。