第二章 都の子(2)
辰敬達は予定より二日遅れて堺に上陸すると、淀川を舟で上り、鳥羽口から都に入った。都の七つ口の一つで、南の入り口である。
「ここがその昔、平安京の入り口、羅城門があった場所でございます」
と、庄兵衛が立ち止まった所は、行き交う人馬が埃を巻き上げる荒れ地の真っ只中であった。門など跡形もなく、死臭が漂って来る。右手に広がる草茫々の野っ原には骸が打ち捨てられ、野犬が腐肉を漁っていた。
辰敬は目を背けたが、忙しく行き交う人々は誰一人として目をくれようともしなかった。
「ここから大内裏(だいだいり)の正門、朱雀門に向かって朱雀大路が伸びていたのです」
いま辰敬達が歩いて来た道が、荒れ地の中を北に向かって伸びている。
「朱雀大路は南北に長さ一里(約四㎞)、道幅は二十八丈(約八十四m)もあったそうですから、いま畑となっている所は全部、昔は大路だったのです」
そう言われて見ると、荒れ地の中の道の両側に沿って、畑が延々と続いている。鍬(くわ)をふるっている姿もある。
辰敬は耳を疑った。そんな途方もない道があったとは俄かには信じられなかった。
「平安の世にはこの大路が都の中心で、両側に公家の邸宅や役所が立ち並んでいたのでございます」
庄兵衛は左手を見渡した。
一望千里の荒野に人家は数えるほどで、所どころに寺の屋根が浮かび、空高く雲雀が囀っていた。
「この西に広がる荒れ野もすべて都でございました。ただ、池泉が多く、湿気がひどかったので、住人は皆、右京を捨て、東と北へ移ってしまったと言われています。今は往時の半分、平安京では左京だったところが都でございます」
と右手に目を転じた。
大路跡を挟んで、右手には対照的な光景が広がっていた。大路の東側にも畑や荒れ地が広がってはいるが、そのすぐ向こうには見渡す限り家並が広がっていた。一際目を引くのは、腐臭漂う野っ原の向こうに連なる東寺の伽藍であった。文明の一揆で焼失した五重塔はまだ再建されていなかったが、その東寺を初めとして、多くの寺院の屋根が浮かんでいた。
遥か彼方のかつて大内裏があった辺りから東にかけて、都の北辺は霞が棚引き、茫漠としていた。
「半分とは言いましても……」
庄兵衛は言葉を切ると、微笑で辰敬の背を押し、人馬の流れに加わった。
荒れ地と畑の中の道を北へ上り、途中から東へ折れて進むと、辰敬は勇躍その第一歩を都に印(しる)した。
たちまち辰敬は喧噪の坩堝に投げ込まれた。
呼び声や喚き声、怒鳴り声が耳を聾し、女達の煌びやかな衣装が目を惑わす、歓楽と欲望が煮えたぎる都の真っ只中に。
行けども行けども家並が途切れることはなかった。
(これで平安京の半分とは……)
辰敬は庄兵衛が微笑んだ訳が判った。
大路小路で碁盤の目のように区切られた町々の表通りは、店棚を出した小商いの町屋が続いている。低い屋根は板葺きで、井桁に組んだ屋根竹を置き、その上に重しの石が乗せてある。
酒屋や土倉のような大店は間口も広く構え、高々とうだつを上げている。二階屋もある。
どの大路小路も人で溢れ、ぼんやりしていると車を牽く牛に突かれ、馬に蹴飛ばされかねなかった。
もう辰敬は何事も富田の城下と比べることはやめていた。そんな気力すら失せていたのだが、ただ一つ閉口していることがあった。
それは埃だった。人と牛馬と車が巻き上げる埃に、春風が吹きつけると、目を開けていることもできなかった。
辰敬は遠く棚引いて見えた霞の正体が、この都の埃であることを知った。
縦横に溝が走り、水が流れているのだが、埃には何の役にも立っていない。
どこをどう歩いたのも判らぬまま大路に出た。道幅は十丈余(約三十m)あり、南北に延びている。
「ようやく都の端に着きました。ここが東の端で、この通りは東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)と申します」
京の都が極まる所である。それが京極の地名の謂れで、京極家の家名もその地名に拠ったものである。
かつての朱雀大路と比べれば道幅は三分の一に過ぎないが、朱雀大路跡は殆ど荒れ地と畑で道という感じがしなかった。辰敬にとっては十分過ぎるほど大きな道であった。
東京極大路も南北におよそ一里(約四㎞)あり、北は鞍馬口に至る。
「昔は大路の左側を京内と言い、右側は京外と言いました。右手の荒れ野の向こうに鴨川が流れております。あれに見えるなだらかに続く山が東山連峰でございます。京外とは申しましても、武士の世となってからは鴨川の東に六波羅探題が置かれ、そちらが政の中心だったのでございます。室町の世になってからこちら側に武家御所が置かれましたが、東山の麓には銀閣や公家の別荘もあり、祇園社や清水寺などの神社仏閣が並び立ち、門前町が賑わっております」
そこは、五条大橋を渡り、東の伏見口に通じる東西の流れと、南の竹田口に通じる南北の流れがぶつかるところで、人馬渦巻く激流を作っていた。
辰敬は溺れそうになりながら、激流を抜け出し、大路をさらに北へ上った。
この大路も武家屋敷や人家が並んでいたのだが、応仁の乱で焼亡し、今や昔日の栄華の欠片もないと庄兵衛は言った。
その言葉通り、大路の右手は人家もまばらで、鴨川の堤まで荒れ地や畑が広がっていた。
「この先が上京。武家や公家の屋敷が集まり、政の中心地でございます」
と続ける庄兵衛の説明も上の空で聞いていて、大きな門の前に立った時、今通って来た板屋根の長い築地塀が京極家の塀と知ったほどであった。
前もって到着を知らせてあったので、辰敬は一人奥へ通された。
「面を上げよ」
懐かしい御屋形様の声だった。
辰敬は神妙に身体を起した。自分でも微かに震えているのが判った。
三年ぶりに聞く声は変わっていなかったが、三年ぶりに見る顔は守護所で酔いつぶれた時よりも老いて見えた。元気を取り戻した御屋形様を想像していた辰敬は意外に思った。四つ目結いの家紋を大きく染めた大紋の直垂(ひたたれ)姿もしぼんで見えた。が、向けられた微笑は昔のままだったので、辰敬は少し安心した。
「ふむ、辰敬とな。よき名を付けて貰ったのう」
「はい」
思わず元気のいい声が出た。
御屋形様に褒められた途端、名前へのわだかまりは消し飛び、本当にいい名前のような気がしたのだ。
「大きうなったのう。子の成長は早いものや」
まるで我が子を見るような目で、満足げに頷く御屋形様を前にして、辰敬は頬が上気すると同時に、期待で胸がざわめいた。
あの楽しかった守護所の日々が帰って来る予感で……。
実は辰敬は落胆していたのだった。
ひれ伏している所に入って来たのが御屋形様一人だったことに。あの息がむせるような白粉の匂いが漂っては来なかったことに。
初めて守護所で会った時のように、御屋形様の隣には美しい虎御前がいて、二人一緒に迎えてくれるものとばかり思い込んでいたのだ。
だが、今、御屋形様のあの懐かしい優しい眼差しを受けて、御屋形様も守護所の日々を忘れてはいないことを確信した。
「その方を呼んだのは他でもない」
思わず辰敬は身を乗り出した。
(やっぱり御屋形様は我の将棋を御覧になりたいのじゃ)
「会わせたい者がおるのや」
いよいよ虎御前に会える。あの美しく強い虎御前に。御屋形様の言葉をもう少し冷静に聞いていたならば、そんな思い違いはしなかったはずなのに、辰敬は三年越しの決着をつける時が来たと奮い立った。
が、そこへ現れた人影は小さかった。
辰敬はぽかんと見詰めた。
初めは可愛いお人形さんが立っているのかと思ったほどだ。
それくらい可愛い童子だった。年齢は四、五歳だろうか。無表情に辰敬を見下ろしていた。
「吉童子丸じゃ。みの孫や」
「はあ……」
そう言われても呆けたような声しか出なかった。辰敬は虎御前が現れるものとばかり思い込んでいたのだ。
「これ、御挨拶なさいませ」
付き添って入って来た乳母に叱られ、辰敬は慌てて平伏した。
「そう改まらずともよい」
御屋形様は笑った。
「これから仲良うするのや」
辰敬は怪訝な顔を上げた。
「わぬしを呼んだのは吉童子の遊び相手になるためや」
「はあ……」
辰敬は茫然と吉童子丸を眺めていた。
(遊び相手……我がこんな小さな子と遊ぶのか……)
虎御前相手に将棋で遊ぶのとは天と地の違いであった。胸一杯に膨らんだ期待が音を立てて崩れ落ちて行く。辰敬は目の前が真っ暗になった。思えば勝手に描いていた夢だが、目の前の現実との隔たりの大きさに声もなかった。本来は利発な少年なのだが、まったく想像もしていなかった事態にどう対処してよいか分からなかった。
きっとその時の辰敬が気の利かない田舎者に見えたのであろう。乳母から厳しい声が飛んだ。
「吉童子丸様は御屋形様の嫡孫にあらせられる。いずれは京極家の主となられる御方の守(もり)となるのやから、心して御奉公するのや」
狸の置物にべっとりと白粉(おしろい)を塗りたくったような女だった。虎御前の白粉とは匂いが違う。吐き気を催した。神経質そうな目が辰敬を値踏みしている。
辰敬は慌てて畏まったが胸の中で、
(白粉狸め)
と思い切り毒づいてやった。そうでもしなければ、この砂を噛むような虚しさを、胸中から吐き出すことが出来なかったのである。
辰敬は落胆を通り越して、絶望に打ちひしがれていた。
御屋形様は大好きである。だが、いくら好きでも、いくら御屋形様の孫でも、こんな小さな童子の子守りは勘弁して欲しかった。人は名誉と言うかもしれない。確かに虎御前との事がなければ、辰敬も名誉と思ったであろう。だが、辰敬の夢の第一は虎御前と勝負をすることだった。
御屋形様の前で虎御前を破ることこそが名誉と思い込んでいた。
そして、将棋で名を上げ、都にその名を轟かせることが夢であった。
昔、そうしろと励ましてくれたのは御屋形様ではなかったか。そのための上洛ではなかったのか。だからこそ将棋で頑張ることが、御屋形様に一番喜んでもらえることだと思っていたのに……。御屋形様は将棋の事を忘れてしまったのだろうか。
「ああ……」
思わずため息を漏らしてしまい、辰敬は慌てた。
そっと上目遣いに探ったが、御屋形様も乳母もため息が聞こえなかったのか気がついてはいない様子だった。
ほっと胸を撫で下ろしたが、吉童子丸と目が合い、どきっとした。相変わらず何を考えているのか判らない無表情な顔だったが、吉童子丸だけは辰敬のため息に気が付いたような気がしたのだ。
結局、将棋のしの字も出ることはなく、御屋形様との対面は終わった。
「仲良く遊べ。吉童子もよいな。よき兄と思え。辰敬はいい子や。頼むぞ、辰敬」
と、政経は上機嫌で立ち上がった。
早速、辰敬は庭へ引っ張り出された。
(さあ遊べ)と言われても、辰敬は途方に暮れるばかりだった。
築山は大きく、泉水も広く、辰敬の目にも見事な枝ぶりの木々が茂っていたが、こんな小さな若様を相手に何をしてよいのか皆目見当もつかなかったのである。
そもそもこんなに年の離れた小さな子と遊んだ経験がなかった。
将棋に熱中した時期を除いては、辰敬は一人で虫捕りをするか、年長者に混じって遊んでばかりいた。兄が二人いたので、物心ついた時から周囲は年上ばかりで、同年齢の者とさえ遊ぶことは少なかった。年長者に混じって遊ぶことに慣れてしまうと、年下の子は物足りなくて到底遊ぶ気にはなれなかったのだ。
少年と童子はまるで庭の置物のように突っ立ったまま泉水を眺めていた。
それをまた広縁に坐した乳母やお付きの女房衆が成り行きや如何にと監視している。
いたずらに気まずい沈黙だけが流れて行く。
「何をぼんやりしてるのや。築山の方へなりと若様を御案内せぬか」
業を煮やした乳母に叱られ、辰敬は追い上げられるように築山に登った。
頂きから振り返ると、吉童子丸は一歩も動いていなかった。辰敬の方を見ようともせず、そっぽを向いていたが、不意にぱっと身を翻すと奥へ駆け込んだ。
「若様」
「吉童子丸様」
慌てて女房達が追いかけて行く。
乳母が険しい目で辰敬を睨みつけると、その後をまた追いかけて行った。
辰敬はそっとため息をついた。憧れの都に着いた一日目からまさかこんな事になるとは夢にも思っていなかった。明日から、あの若様の相手をするのかと思うと気が滅入るばかりであった。
どうしていいかも分からず、その場に佇んでいた。広い静まり返った庭には辰敬一人だけが取り残されていた。が、いつまで経っても誰も現れなかった。
今になって、女房衆と一緒に吉童子丸を追いかけなければいけなかったのかと思ったが、今更勝手の分からぬ屋敷の中をうろうろする訳にも行かず、どうする事も出来なかった。
きっと、あの意地悪そうな白粉狸は、辰敬を役立たずと怒っているに違いない。そう思うとまたため息が出て来る。人影がないのを確かめると思い切りため息を吐き出してやった。
こうして誰かが呼びに来るのを待っていたのだが、待てど暮らせど誰も現れない。陽が陰って来ると、辰敬は忘れられているのではないかと不安になって来た。
自分がこんな目に遭っていると知ったら、故郷の家族は何と思うだろう。
父忠重の浮かぬ顔が浮かんだ。
(だから御奉公などさせたくなかったのじゃ……)
悔やむ声が聞こえたような気がした。
辰敬は無性に腹が立った。
(田舎者と思って馬鹿にしちょる。叱られても構わんけん。ほっておく方が悪いんじゃ)
辰敬は憤然と歩き出した。
書院造の大きな御殿に沿ってぐるりと回って行くと、不意に声が咎めた。
「わぬし、誰や」