これも師匠の全盛期のトンデモ話。何度も聞かされた。
その昔、映画の脚本を仕上げると、師匠は弟子たちの慰労もかねて、弟子たち全員を引き連れ、吉原に繰り出したそうだ。
その当時はまだ「売春防止法」のない時代である。
吉原と言えば、時代劇でおなじみの女郎がいて、花魁(おいらん)がいて、江戸の男たちが遊びに行く場所であるが、「売春防止法」が施行されるまで(完全施行されたのは昭和33年)は、戦後もなお日本中にこんな場所があったのである。
「みんな、吉原に行きたいものだから、必死に仕事をするんだ」と、笑う師匠。
弟子全員のお遊び代まで、全部師匠持ちなのだから、そりゃあ楽しかろう。徹夜が続いても必死に頑張るだろう。
吉原に乗り込むと、師匠は全員に現金を配る。そして、「時計合わせ」と言う儀式をする。全員輪を作ると、腕を突き出し、腕時計の時間を合わせるのだ。そんな子供じみたことを、大の大人が嬉々としてやったのだ。
「○時間後に集合!散れ!」
師匠の号令一過、全員、馴染みの女の所に突進するのだそうだ。
そして、○時間後に同じ場所に集まり、また揃って帰り、宴会になるのだそうだ。
「売春防止法」が施行されてからはどうしたのか知らないが、私が独立する時、師匠が「俺はお前を吉原にも連れて行ってやれなかったし、銀座にも連れて行ってやれなかった……」と、不甲斐なさそうに言ったから、相変わらず、巨匠は景気よく振る舞っていたのだろうと思う。師匠は師匠とはそう言うことをするのが当たり前だと思っていたのだ。
いくら稼いでいるからと言って、よくもまあそんな無茶が出来たものだと呆れるしかなかったのだが、案の定、弟子たちに給料を払ったら、師匠は靴下一足買う金がなかった時があり、「『俺はいったいなんのために働いているのだ』と、あの時は本気で怒ったぞ」と、言っていた。
それに比べると、我が脚本家仲間の師匠はしっかりしていた。
彼は大勢の弟子がいたが、我が師匠のように給料は払わない。弟子が書いた脚本に手を加え、自分の脚本料から一部を払う。弟子が能力が足りなくて、いい脚本が書けなければ困るのは弟子で、師匠は弟子が食えようが食えまいが関係ない。自分の腹は絶対に痛まない。それどころか、払った脚本料を麻雀で回収していたと言う。
「師匠は無茶苦茶麻雀が強いんだよ。全部巻き上げられちゃうんだ。しかも俺徹夜で台本を届けてへろへろなんだよ。勝てるわけないじゃないか。正直やりたくないさ。でも、師匠に付き合えと言われたらやらざるをえないんだよ」とは、逃げ出した弟子の弁。
逃げ出したくなるのもむべなるかなである。麻雀で弟子から金を巻き上げている間にも、別な弟子たちはせっせと脚本を書いているのだ。
こういうことが出来たのも、時代が映画からTVに変わったからである。我が師匠が映画でやっていたことのTV版大量生産方式なのである。TVで大量の番組が制作されるようになって、必然的に誕生したシステムなのである。但し、皆が皆やっていたことではない。飛びぬけて能力(経営能力を含めて)があった人だからこそ出来たことである。
さらに、TVがアニメの時代になると、脚本家で教室を開く人が現れた。
生徒を集め、授業料をとって脚本を教えるのだ。そこそこの定期収入にはなるだろう。30人集まって、残るのは1人ぐらいか。
その残った見どころのある弟子が脚本を書き、師匠と共同脚本で世に出すのは前者と同じであるが、ここにもう一つ新しい時代の契約が入る。弟子時代の脚本に関しては共同脚本料は払うが、著作権は師匠に帰属するのだ。どういう事かと言うと、アニメが再放送されたり、外国で放映されたり、ビデオになって発売された時の使用料(印税)は師匠のものなのだ。
これを聞いた時、(う~ん)と私は唸った。お見事と言うしかない。
我が師匠と比べたら、この人たちとは金銭感覚と言うか、経営能力と言うか、雲泥の差である。
考えても見て欲しい。我が師匠が給料を払った弟子たちの中には、ライターになれなかった人たちが何人もいたのである。ライターになった人も夜逃げした人がいる。約束のお礼奉公もしていないのだ。それまでどれだけの給料を払って来たことか。すべてどぶに捨てたことになるのだ。だが、師匠は「あいつも逃げやがったか」と笑って、夜逃げした弟子たちに意地悪するわけでも、妨害するわけでもなかったのだ。
その当時、仲間の作家が呆れて、「なんでライバルになる者を育てるのだ」と言ったそうだが、「ライターになりたいと、俺を慕って来る者はライターにしてやりたいんだよ」と答えたそうだ。
だから、後年師匠を励ます会や、死後偲ぶ会をした時は、ライターになれなかった人達も、夜逃げしたライター達も、皆、集まった。
私は教室を開いた作家の事を知った時は、感心したが、真似をしようとは思わなかった。そんな面倒くさい事をしたくなかったのであるが、なによりも私がこの師匠の弟子だったことが大きい。もし弟子を抱えても、私は師匠が私にしてくれたのと同じことをしてやれるかと考えたら、とても真似ができないと思ったのだ。
給料は貰わなかったし、吉原も銀座も連れて行ってもらっていないのだが、私はもっと大切なものを貰ったと思っている。給料も払えない、吉原銀座に連れて行ってやれない分を、師匠は見えない別な形で与えてくれたのだ。給料を払ったり、飲みに連れて行くのはある意味誰でもできる。金さえあれば。
給料が払えない状況の中でも、せめて弟子には何かしてやりたいと考え、常に何かを与え続けてくれた、そんな人のまねを私は到底できないと思ったのだ。ライターになるために。人として成長するために……。思い起こせば、あの時叱られたことも……一杯思い当たることがある。またの機会に紹介したい。

訂正があります。以前、師匠の映画脚本340本と書きましたが、さすがに多過ぎました。TVを含めての本数です。私が弟子になった昭和45年当時では約170本。残りがTVの脚本である。この頃は師匠はもう映画の仕事をしていなかったので、実質映画脚本を書きまくっていた期間は十数年ということになる。意外と短いが、映画全盛期自体が戦後からTV興隆期までの約20年間で、それほど長くはなかったのだ。しかしながら、十数年で170本は驚くべき数字であることには違いない。
TVの本数が少ないように思われるが、師匠は週刊現代に連載小説「悪魔のような素敵な奴」を書き、それがTV化されている。脚本家が週刊誌に連載小説を書くのは今だって破格のことで、よほどの人でないとそんな注文は来ない。TVドラマ「プレイガール」の監督もしている。脚本家が監督するのも破格のことで、今でも滅多にないことである。そして、その監督をしていた時のエピソードが破天荒でぶっ飛んでいる。これもまた、いつか紹介しよう。