これが長い間さっぱり分からなかった。
図書館の「姓氏大辞典」を見ても載っていないのだから情けない。
昔、資料を調べていて、偶然、加賀藩の下っ端に曽田ナントカ衛門という名前を見つけたことがあったぐらいだ。尼子氏の下っ端にもなさそうだし、もしやと思った出雲大社の神官団の下っ端にもなさそう。もう、お手上げである。追及するのは諦めていた。
ところがである。去年、大社史話会発行の「大社の史話」185号をぺらぺらとめくっていたら、思いもかけず曽田の記述を見つける。
「大社の史話」は大社と近郷の歴史や民話、生活記録などを紹介する定期刊行物であるが、必ず一本は専門的な記事が載る。それが「江戸初期の斐伊川左岸の土工史」で、その中に3ヶ所登場していたのだ。

…その分流となった妙仙寺川であって、現在今市大念寺下を過ぎ、塩冶の曽田へ通じている。
…塩冶井手は、曽田に至って二つに分かれる。
…塩冶井手の新しい名前妙仙寺川で、曽田から真西に流れるが…

曽田は地名だったのである。
塩冶は風土記に塩冶郷と出ているくらい古い地名で、古来から出雲の中心と言ってよい土地である。

そう言えば、うちの近所の「曽田さん」が、祖先は塩冶からこの土地へ移って来たが、その頃は一面何もない荒れ果てた所だったと聞かされたと言っていた。
どうやら、我が家も同じ塩冶から移って来たようだ。
名前の曽田も地名の曽田が発祥のようだ。

ここまで調べて、実は曽田と言う地名はあちこちにあるらしいことも分かった。
これも多胡辰敬の資料調べをしていて、偶然見つけたものだ。尼子氏と安芸の吉川氏の関係を述べた文中に、

…尼子方へ参陣させることを申し入れるとともに、高橋牢人衆が吉川氏領宇次井・曽田に対して狼藉を加えることの停止を求め…

と、あるのだ。今の広島県の北部辺りにも曽田と言う土地があったのだ。
岡山にも曽田さんがいるし、岐阜にも曽田さんがいると聞いたことがある。たぶん、この人たちも地名が発祥なのではなかろうか。
となると、地名の曽田の意味が気になる。
調べたら、象形文字では「曽」は甑(こしき)から、蒸気が噴き出す様子を表したものであることが分かる。即ち、ものごとが増えることを意味しているのだ。
曽田=増田=益田、このあたりはみな同じ意味なのかもしれない。
出雲の曽田はたぶん塩冶の地名曽田が発祥で間違いないと思っているのだがどうだろう。
ここまで突き止めたのが最近なので、まだ曽田の地には足を運んでいない。どうも地図には見当たらないので、失われた地名なのかもしれない。出雲駅の東南辺りらしいから時間が出来たら行ってみようと思う。
長年の疑問が解けたような気がしてちょっと楽しい。
これだから、資料読みをやめられない。