高校のクラス会があるので上京。昨夜は昔の仲間の脚本家夫婦と、ゲーム会社をやっていた時の後輩を交え、渋谷で久しぶりに会う。
奥さんも脚本家であるが、彼女も老母の介護に振り回されていて、彼女とは介護の話になる。互いに励まし合い別れたのだが、別れ際に彼女が昨年演出した朗読劇の本を渡してくれた。彼女はTV脚本の傍ら昔から芝居の脚本演出もしているのだ。
帰宅して、早速読んで驚いた。面白いのだ。実は彼女の芝居は見ていたのだが、一緒にTVの仕事をする機会はなかったので、彼女の活字になったものをじっくりと読んだことがなかったのである。
何が驚いたかと言うと、彼女には文体がある。分かりやすくて楽しい。これは凄い事だ。それだけで作家になれる。私は彼女は小説家を目指すべきだと思ったのである。
それには、もう一つの理由もある。いや、これが一番の理由かもしれない。
彼女はこれから老母の介護が大変になって行く。これは避けられない現実である。
TVの脚本を書きながら介護を続けるのはとても難しくなるだろう。
シナリオライターは一人では出来ない仕事だ。打ち合わせが何度もある。監督やプロデューサーが好き勝手なことを言う。怒りを覚えることさえも。でも直しをせざるを得ない。締め切りがあるから。拒否したら2度と仕事は来ない。放映日が決まっているから、揉めに揉めても最後は泣きつかれたら、意地を張り通すわけにゆかない。妥協の産物と分かっていても。
介護に追われながら、締め切りに間に合わせるため、このようなストレスのたまる仕事を続けるのは至難の業だ。
親の体調が悪くなっても締め切りは待ってくれない。絶対に胃が痛くなる。吐き気がする。パソコンを投げつけたくなる。
私は彼女にそうなって欲しくない。だから小説をすすめるのだ。
書下ろしの小説なら締め切りは脚本ほど厳しくない。途中で親の体調が悪くなっても、一旦筆を止めて、またどこかで取り戻すことが出来る。
相手も編集者一人だけである。癖のある厄介な編集者もいるだろうが、局プロがいて、制作会社のプロデューサーがいて、代理店がいて、スポンサーがいて、時には役者まで口を突っ込んで来ることから比べたら天国(?)だ。
私も妻が倒れた時と小説を書き出したのが同時だったが、周囲の助けを得て締め切りを延ばしてもらえた。
何よりも慣れない介護で折れそうになった時、小説を書くことが自分を支えてくれた。
辛くて書けなくても、今日は一行でもいいから書こうと己を励まし、本当に一行しか書けない日もあった。でも、その一行が不思議なことに明日への力になった。一行でも書けたことが自信になったのである。小説は少しずつでも書いてゆけばいつかは出来上がるのだ。そう考えながら、私には書きたいものがある、書けることは幸せなことなのだと言い聞かせていた。この積み重ねがいつかは本になる。どれだけ励みになったことか。
いきなりすべてを擲って小説に移るのは大変だろうから、脚本とは別にもう一つ小説の道を目指して欲しい。
小説を書くことは命のビタミンだ。活力が湧く。
一行書けたことが、「今日は余裕を持って介護が出来た」と実感させてくれる日があった。余裕を持って仕事をし、余裕を持って介護するためには、小説はチャレンジする価値がある。
そう彼女に伝えよう。