暮れも押し詰まって面接に行った。マンションの書斎に通されると、こわもてのいかにも作家然とした師匠が、大きな椅子にふんぞり返り、じろりと睨んだ。
その時の私は肩までの長髪をなびかせた、あの時代の典型的な反体制派スタイルだった。
後日、師匠から聞いたのだが、「ああ、とうとう俺の所にもこんなのが来るようになったのか」と、心中嘆いたらしい。実際、師匠はゴリゴリの保守派だった。
早速、口述筆記のやり方を説明されたと思う。
ふと、何を思ったのか、「これ、何と読む」と、本立ての本を指さした。
背表紙には「去年今年 木山捷平」と、あった。
「こぞことし きやましょうへい」と、答えたら、「ふーん」と、言ったきり黙った。
私は一瞬間違えたかと焦ったが、どうやら師匠は私がふつうーに答えたのを意外に思ったらしい。ただのアルバイトを雇うつもりだったのだが、もう少し使えそうだと思って試したようだ。
2、3日後、「どうだ、俺の弟子になるか」と言われた。自分の所には何十人も弟子が来た。そのうち10人くらいライターになった。「お前、なれるよ」
私の作品を一本も読んでもいないのに、こんなに気安く言っていいのかと思ったが、師匠は何十人も見て来たから一目見りゃわかると威張った。
言われて悪い気はしない。「お前は最後の弟子になるだろう。俺の力はまだ残っている。お前ひとりだったら、まだ何とか東映ぐらいには押し込んでやれるだろう」
言うことも、正直でリアリティがあった。弟子は徒弟奉公で辛いが、自分のために尽くしてくれた男は可愛い。必ずライターにしてやる。古い人だった。その上、給料もくれると言う。
こんないい話、断る理由はない。私は明日から生きて行けるのだ。アパートの家賃が払える。これが一番うれしかった。辛くても何年か我慢すればいいのだ。耐えることには妙に自信があった。
弟子入りすることになったが、師匠が最後に付け加えた。
「一本立ちしても、『お礼奉公』があるからな」
そんな先のこと、気にもしなかった。
まさか、その『お礼奉公』に苦しめられることになろうとは……。