今夜は泊りだと言うので徹夜を覚悟していたら、「おい、俺の映画をやっているから見よう」と師匠が言う。仕事をしたくないのだ。
昭和45年頃、TVの深夜の時間帯に盛んに旧作映画を流していた。
映画は「次郎長三国志のシリーズ」で「森の石松が殺される有名な話」であった。
昭和27年の東宝作品で、主演の次郎長役が小堀明夫と言う俳優。当時の私も初めてそんな名の俳優がいたことを知ったぐらい古い印象の映画だった。森の石松役が森繁久彌だったのには驚いた。昭和45年頃は森繁はすでに大御所の役者であり、昔、作詞作曲した「知床旅情」がこの頃加藤登紀子の歌で大ヒットした。(♬知床の岬でハマナスの咲く頃~ と言う歌。若い人も聞いたことはあるだろう)

見ていると、師匠が「妙な映画だろう」と言う。
何が妙なのかよくわからないので、首を傾げると、
「登場人物が泣いてばかりだろう。俺はこんなホンを書いた覚えはないんだよ」
そう言われると、確かに次郎長の子分たちはよく泣いていた。
悲しいことがあれば、次郎長の子分だって泣くことはあるだろうが、泣き方が半端ではない。おいおいおいおい声をあげ、滝のように涙を流し、泣きじゃくるのだ。止めは石松が殺された時で、まさに泣き声の大合唱だった。
「この時なあ、監督のヒロポン中毒がひどかったんだよ。だから、ちょっとのことでもすぐに感情が高ぶって、こんなに泣かせちゃったんだよ」
その監督の名が、マキノ雅弘。
日本映画の父と呼ばれた「マキノ省三」の息子で、甥が「津川雅彦」(昔の二枚目俳優で今もたまにTVで白い髭の顔を見るから若い人でも知っているか?)
マキノ一族は日本映画界のサラブレッドであった。

ヒロポンとははっきり言って覚せい剤である。
戦中戦後にかけて、町の薬局で売られていて、誰でも買うことが出来たそうだ。
ヒロポンを打つと、眠気が吹っ飛ぶので、徹夜仕事が続く脚本家や撮影に追われる撮影所の人間は皆こぞって打ったと言う。
勿論師匠も、ヒロポンの世話になりながら脚本を書いていたと言う。
さすがに副作用が問題となり、禁止となった。
「キヨハラ」も「高知東生」も「アスカ」も「ノリピー」もこの時代だったら、何の問題もなかったのだ。