私たちの世代は未だに8月はお盆と戦争の夏である。戦後生まれの団塊世代は戦争は経験していないけれど親たち世代の戦争体験や戦後の苦労を聞かされて育った。幼い頃は大阪のガード下や駅前や繁華街には白い病衣を着た傷痍軍人がハーモニカで物悲しい軍歌を吹きながら喜捨を求めていた。山口県の防府と言う小都市に引っ越ししてからは傷痍軍人は防府天満宮のお祭りの時などに現れ路上に四つん這いになって憐れみを乞うていた。子供心にとても痛ましく感じたものだ。街から傷痍軍人を見なくなったのはいつの頃だろうか。
父の死後、遺品を整理していたら、仏壇の奥から戦前戦中戦後の記録文書が次々と出て来た。
その中に父と父の弟が入隊した時の餞別帳というものが出て来たので紹介する。
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父の名は傳重、弟の名は圭造という。
父の方の餞別帳はネズミに食われて読めないところが多々ある。表紙も半分しか残っていないが、弟の餞別帳は無事に残っていたので、読めない部分は弟の餞別帳に倣った。
左)「父の餞別帳」
   昭和拾八年十〇〇〇〇(〇月〇日出發)
 傳重現役入〇〇〇〇〇(隊之際餞別帳)
   仝月十一〇〇〇(日入隊)
右)「弟の餞別帳」
   昭和二十年二月二八日出發
 圭造現役入隊之際餞別帳
   仝年三月二日入隊

父の餞別帳に最初に名前が記載されているのは父の母親の父(母方の祖父)である。
メリヤスシャツ壱組、ワイシャツ壱枚、酒一本。金はない。
以下、母方の親戚の名が何人か並ぶ。
母の兄からは、金弐拾圓。弟から五圓とサッカリン三個。弟から拾圓。弟から拾圓と海老廿五匹。
続いて父方の親戚からは、参圓。拾圓とカステラ一棹。以下名前が欠落しているところがあるが、
五圓。五圓と酒弐本。参圓。参圓と茶。参圓と酒二本、玉子〇〇、長芋。父方の叔父からは五圓。父方の叔母の嫁ぎ先からは五圓と酒壱本二級酒、醤油五升、甘味。五圓。参圓。弐圓。参圓。弐圓。さらには晒木綿〇〇と布〇敷一枚。五圓と鯛一枚、酒二本。拾圓。リンゴ一箱。かまぼこ五本。読めない部分もあったが、ここまでが親戚関係。
次に大社署長弐圓。大社署〇〇弐圓。合同〇〇大社支店壱圓。など会社や役所関係と思われる人名が並ぶ。日本生命参圓。表具師壱圓など。大半が五圓から壱圓。五十銭は少々。
その次が東京、広島市、松江市、出雲周辺の知井宮、今市町、神西村、日御碕村、鳶巣、駅前、近郷近在の松寄下、乙立、白枝、荒木村、園村などの人名が並ぶ。東京の人からの弐拾圓は別格で、参圓から五拾銭。壱圓と五拾銭が多い。
最後が地元からの餞別で村長から五圓。国民学校職員一同弐圓。以下村人の名前が地区ごとに並ぶ。ほぼ壱圓から五拾銭である。計およそ280名前後。総額は時間がないので計算していない。いつか時間がある時に計算してみようと思っている。一番関心があるのは現在のお金にしていくらぐらいになるのかと言うことである。米10㎏換算で今の米価を10㎏2000円とすると昭和18年の百円は6万円に相当するらしい。最高額で弐拾圓だから今の1万2千円ぐらいか。五拾銭だと300円だが、この当時の村人は皆小作農であるから五拾銭が精一杯だったのではあるまいか。

その2年後に出征した父の弟の場合は、母の兄から同額の弐拾圓。母の弟からも同額の五圓だがサッカリンはない。ざっと見て気が付くことは餞別は金だけで酒などの物品が一切ないことである。敗戦半年前でよほど物資が不足していたのであろう。この時期に東京から拾圓送って来ている人がいる。
父の時はなかったが、村の銃後奉公会から五圓。村の農業会から弐圓来ている。印象としては餞別額は低くなっている感じがする。計293名。おそらく父もこれくらいの人数があったのかもしれない。
そして、この父の弟は中国で戦死(場所時期不明)し、昭和22年7月13日に葬式をしている。その時の「葬儀執行之節香典帳」も出て来たが、後日紹介できればと思っている。

8月15日の夜に、餞別帳から垣間見た庶民の戦争の記録でした。

12 、13、14日と雨。15日はやむ。曇天。14日が棚経だったが、雨中檀家廻していた和尚さんが交通事故。2時間遅れで息子が駆けつけて来てお経をあげてくれる。こんなに雨が降った盆は記憶にない。雨がすごくてお墓に線香を立てられなかった。出雲は今のところ被害はないが、この夏はお盆どころではない所がいっぱいある。気の毒なことだ。