曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

私が小学校の何年生の頃だったか定かではないが高学年ではなかったと思う。

母方の曾祖母が余命いくばくもないので母がお別れに里帰りをしたことがあった。

島根の田舎から戻って来た母は「おばあさんが自分の葬式の時はみんなひ孫たちをつれて帰っておいで。いっぱい遊ぶといいと言ってたよ」と言った。

子供の私は変なことを言うひいおばあさんだなあと思った。自分が死ぬことが悲しくないのだろうか。みんなが悲しむお葬式にひ孫たちに遊びに来いとは。なぜ曾祖母がそんなことを言ったのか子供には理解できなかった。まもなく曾祖母は亡くなり、母は葬儀に戻ったが、私たちは学校があるので曾祖母の葬儀には行かなかった。

 

なぜ、こんなことを書いたのかと言うと、妻の葬儀が終わった翌日8月1日から、長男の一人息子(7才)の虫取りに付き合わされることになったのである。

海外勤務でアメリカのタワマン暮らしの孫は虫取りなんかしたことないらしくたちまち虫取りの虜になってしまった。だが空ふりばかりでとれないものだから、「じいじい、トンボ採って」「せみ採って」「ちょうちょ採って」と私をつかまえて離さない。

孫に会うのは4年ぶり。私が一番心配していたのは、アメリカのタワマン暮らしに馴染んだ孫が出雲の外れの農村地帯のド田舎に馴染んでくれるかどうかだった。こんなド田舎嫌だと言われ、帰ると言われるのではないかと心配していたので、虫取りに夢中になってくれたことはうれしいのだが、炎天下一番暑い時に付き合わされるのはさすがにこたえた。正直、息子に任せて自分は涼しい家の中で休んでいたかった。

昨日の今日で、まだ葬式の翌日でもある。妻を失ったばかりなのに孫と楽しく虫取りをすることを咎める自分がいた。喪に服さないまでも静かにすごさなければいけないのではないかとどうしても思ってしまう。

だが、そんなじいじいの気持ちを知らない孫は私に「せみマスター」の称号を奉って許してくれない。実は私は「こんなものじいじいには網なんていらない。手で捕まえてやる」と木に止まっている蝉を手で捕まえて見せたのだ。爾来孫の尊敬を一身に集めてしまっていたのだ。せがまれるまま、トンボを採れば「トンボマスター」、ちょうちょを採れば「ちょうちょマスター」と大喜びする。

 

その無邪気な笑顔見ていて、私はふと小学校時代の死に臨んだ曾祖母の言葉を思い出したのであった。そして、気がついたのだ。4年ぶりの孫との交流の機会を与えてくれたのは妻ではないかと。自分もこの年になれば曾祖母の気持ちはよくわかる。同じ立場なら自分もそう言うだろう。

妻は孫だけではない。長男一家と長女一家をも一堂に会わせてくれたのだ。

4年前までは長男一家も年に最低一回は妻の見舞いに帰っていたし、長女たちもよく戻っていたが、田舎で両家が揃うことはなかった。長女一家にも子が生まれ、賑やかな両家が揃うのは初めてのことだった。妻は私に子や孫たちと過ごす時間を与えてくれたのだ。それも数日、貴重な時間をたっぷりと。

今回、私が一番恐れたのは娘がジュネーブに行けなくなることだった。国連の事前審査に行く日本の障害者団体をまとめる事務局メンバーとしての大切な仕事があるのだ。だが、娘は間に合った。葬儀後、看取りや葬儀の疲れを多少なりとも癒す時間がとれた。事前の打ち合わせもオンラインでこなし、コロナ患者が出た場合の病院や医者の手配、大使館との連絡などを各障害者団体に通知し、出発1週間前に帰京し、8月17日に出発した。

娘婿も実は大切な試験が8月の初めにあったのだが、通夜と葬儀をすますとすぐに飛行機で帰京し、試験を受けた後、休みを取って妻と孫を連れて帰るために犬を乗せて車でやって来た。

長男は夏休みをとって帰国していたので、葬儀後の五日は田舎の夏休みをゆっくりと過ごすことが出来た。

子供たちともしみじみと話した。まるで残された家族に素敵な夏休みを与えるために7月28日と言う日を選んだみたいだなあと。

そう思うと少し気持ちが楽になった。その代わり殺生は控えたいので、捕まえた虫たちは必ず夕方には放してやった。釣った魚も海へ放した。
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   家の前の池               大社漁港

日中の虫取りが余りにもきつくて、長男も私も音を上げて、最後の二日は夕方大社港に小あじを釣りに行ったのである。

子供たちが小さい頃は毎年通った港である。まさか孫と同じ釣りをしに来るとは思ってもいなかった。妻のプレゼントだと感謝しながら魚釣りに興じた。孫も釣り堀で釣りをしたことはあるが岸壁の釣りは初めてで大興奮してくれた。

イオンの本屋で昆虫図鑑を買ってやったので、孫は図鑑を眺めては、シオカラトンボ、オオシオカラトンボ、ギンヤンマ、アキアカネ、ショウジョトンボ、アブラゼミ、アオスジアゲハと確認すると、ギンヤンマを捕まえてくれとせがむ。

「ぎんやんまマスター」になってくれと。

だが、ギンヤンマは一筋縄ではゆかない。池の上を飛び、高いし、速い。いくら昔昆虫少年でも寄る年にはかなわない。とうとう捕まえることが出来ず、必ず捕まえると約束して孫はアメリカへ戻った。「帰りたくない」と言いながら。
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長男の子は葬儀の翌日、木魚を叩き、鐘を叩いた。坊さんのリズムを覚えていて、そっくり真似して鐘を叩いていた。長女の子も音がする物は何でも好きでしきりに叩こうとしていた。
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その後の数日は8末に1歳になる孫と犬と長女夫婦とまったりと過ごした。長女夫婦はよく帰郷してくれるが子連れは春から二度目。毎晩、孫を抱いて風呂に入るのは私の役目だった。孫は這いまわって障子を破り、犬を追い回していた。帰京する前に娘婿にはお盆の準備を手伝って貰った。おかげで盆は楽だった。

長女一家も帰って行くと言いようもない寂しさに襲われたが、振り払うように祭壇の前に座った。妻に感謝した。夢のような日々を与えてくれたことに。

 

ギンヤンマには後日談がある。何と捕まえたのである。
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飛んでいるところは絶対に捕れないと諦めていたのだが、産卵するために池のホテイアオイに止っていたのだ。動画を送ってやったら、孫は大興奮したらしい。長男が感謝してくれたので、超ラクチンに捕まえたのだが、孫には内緒だと言っておいた。私は晴れて「ぎんやんまマスター」である。孫はオニヤンマも捕まえてくれとリクエストして来た。

オニヤンマは楽だ。来年の夏、出雲大社の裏あたりの谷川で待ち構えていれば採れるだろう。

長男の嫁からラインメールが来た。

長男が出張の準備をしていたら、孫が「出雲へ行くのか。ずるい。僕も連れて行って」とせがんだそうだ。「ディズニーランドより出雲に行きたい」とも言っているそうだ。

私は早速妻に報告した。

「孫は出雲が大好きだってよ」

長女の子も出雲が好きになるのはすでに分かっている。なぜなら娘婿は出雲が大好きなのである。出雲で働けたら出雲に引っ越すと言っているくらい出雲が好きなのだ。

「これからもみんな集まってくれるからな」

そう妻に伝えた。

この暑い夏に妻が70歳の生涯を終えた。728日の夜9時過ぎ、自宅で私と娘に看取られて息を引き取った。31日に私と息子一家、娘一家と妻の介護や老親の世話を出雲に通って助けてくれた私の二人の妹の9人だけでごく内輪の家族葬をした。私と妻方の親戚にも妻の友人たちにも知らせず、隣保の手伝いも辞退し、張場も立てず、新聞の訃報欄にも告知せず本当にひっそりと家族だけの葬儀をした。

914日が49日だったが、この日は娘の仕事があるので、93日に娘が1歳の子供を連れて戻って来て、娘と二人で49日をすませていた。納骨した後、妻の母親を出雲に永代供養していたので、そこへ分骨して妻を合葬した。母子家庭だった母娘をまた一緒にしてやることができた。

49日は死者にとっても生者にとっても区切りの日である。自分もどこかで区切りを付けないといけないと思っていたので、区切りがつくのかどうかわからないが、どうしてこんな葬儀をしたのか、少し長くなるが経過を綴ることにした。(この後、親戚に通知しなければならないのだが、何か言われそうで実は気が重い。特に熊本の親戚にはお世話になったり、心配していただいたので)

 

妻はこの二、三年は食欲不振になったり、熱が出ることがあったり、小さな骨折で入院もあったが、コロナで面会が出来ないので弱ってきているように感じてはいた。だがそれまでのように実際に身体に触れることもできないので正確な状態が分からない何とも歯がゆい状態が続いていた。

73日に救急で県立中央病院に入院、誤嚥性肺炎と知らされた時はそんなに弱っていたのかと覚悟をしたが、8日に退院することが出来た。ところが退院後も食事が摂れず、11日に救急で再入院した。精密検査の結果、今度は左肺が肺炎を起こし、急性膵炎を起こしていることが判明した。この時点で主治医から二つの病気は致命的であり、終末期と告知された。だが、オンライン面会では言葉ははっきりしないがかろうじて喋ったし、孫の顔を見て「かわいいねえ」と言うのがかろうじて聞こえたと娘から聞いたので終末期と言う言葉をそれほど差し迫ったものとは受け止めていなかった。これから長いスパンで弱って行くものだと受け止めていた。良くなってほしいと言う気持ちがあってのことだと思う。

ところが、肺炎治療と補液による急性膵炎治療を同時進行すると水分が過剰になり肺に水がたまるため、肺炎治療を優先し補液は最低限様子をみながら与える治療しかできなかった。肺炎は数日後軽快したが急性膵炎は回復不能の状態となり、みるみる容態が悪くなった。言葉は聞き取れなくなった。オンラインで話しかけても聞こえているのかいないのかもわからない。何とか妻を励ましたいと思った私は妻の母校で大好きだった熊本県立濟々黌高校の校歌を聞かせることを思い立ち、ユーチューブで聞かせてやった。画面では何の変化もなかったが。看護師が「ずっと手を振っていましたよ」と教えてくれた。二日後また聞かせたが、看護師はちょっとしか手が動かなかったと言った。

そして、723日に主治医から退院看取りの段階と告げられた。2425が土日なので26日が退院と決まった。一般的には施設入居者が退院看取りとなった場合、ほとんどが施設に戻って看取りとなる。私もそのつもりでいたのだが急遽駆け付けて来た娘が「お父さんは大変かもしれないが私は家で看取りたい」と言った。

施設の看取りの場合、コロナ禍では窓ガラス越しでしか面会できない。面会室に入れるのは最後の時だけである。それも間に合うかどうか分からない。娘はそんな別れ方はいやだと言う。この二年間、私は1週間に115分窓ガラス越しに面会し、娘は私と交互に1週間に115分のオンライン面会をして来た。娘にしてみれば最後の時ぐらい寄り添っていたいのは当然のことだ。

施設からは自宅の看取りは大変だと聞かされていたが、なかには施設に戻らず自宅で看取りをする人もいるとは聞いていた。車椅子で11カ月の赤子を抱えた娘が自宅で看取りたいと言う言葉を聞いた瞬間、私はここで妻を看取らないと、これまでの18年間家族で介護してきたことが無になってしまうと思った。娘はとても大切な事を教えてくれたのだ。そして、私はこの娘と一緒なら自宅で看取れると思ったのである。

翌、25日の日曜日にベッドを運び込んでから、私と娘と赤ん坊は妻の病室に入った。娘は何年ぶりかの面会を果たしたのだが、妻の反応は殆どなかった。その場で私は痰の吸引方法(実際に妻を相手に教わるのである)やバルーンの交換の仕方を習い、体位交換や坐薬の入れ方などを教わり、26日は朝から支援者会議(娘はオンライン参加)を経て夕方、妻を受け入れることが出来た。

すでに呼び掛けても反応は見られず、私たちに出来ることは手を握り、体をさすり、「お母さん」と呼び続けることしかなかった。日中はどちらかが休んでは見守り、夜は2時間~3時間ごとに交代で見守りした。私の二人の妹たちも駆けつけてくれ助けてくれたが、妹たちが来るまでは孫を風呂に入れている時も容態が急変しないかと気が気でなかった。娘が一人で入れることが出来ないので私が入れるしかなかったのだ。しかしながら、39.9℃も熱が出るとどう対処してよいか分からず、真夜中に訪看に電話したり、痰の吸引もどのタイミングでやってよいものかどうかもわからず、心配した娘に見守られてどうにかやったもののうまくできたのかどうか悔いの残る吸痰だった。無呼吸に気づいて電話したり、何度訪看に電話したことだろう。

28日の夜、顎で息をし始めて明らかに様子が急変し、訪看に電話したらすぐに家族を呼びなさいと言われ、娘を起こし、妹たちを呼び寄せたところ10分ほどで、皆に看取られながら息を引き取った。娘が手を握り続け「お母さん」と呼び続ける中での最期でだった。その後、訪看が駆けつけ、亡骸を清め、娘が訪看と二人で死に化粧を施した。

ところが私はそれからが大変だったのである。前日、和尚さんに内輪の家族葬をするつもりだと伝えたところ、近所の三人だけには伝えておきなさいと忠告されたので、夜遅く隣組を訪ねたのだが、一軒は寝ていたので長老に妻が死んだことと家族葬をしたい旨を伝えた。長老も看取りをしていることも知らなくて驚き、内輪の家族葬をすると聞くと、隣保の手伝いも断り、張場も立てず、新聞にも告知せず、有線の案内もしない葬儀など先例がない。隣保の自治委員にも知らせず、組の自治会長にも知らせず、驚き見舞いも受けないのかといたく心外な様子。私は帰郷して11年になるが在宅介護で外に出たことはなく、5年前からは施設に入った妻のことを知っている人は誰もいない。顔すら知らない人がほとんどである。そんな妻の為に隣保に働いてもらうのは申し訳ないし、葬儀に来てもらう(コロナ禍香典を届けに来るだけだが)のも申し訳ないから家族葬にしたいのだといくら説明してもなかなかわかってくれない。本心は18年介護して来た者には介護した者にしかわからない気持ちがある。そうした気持ちを大切にした葬儀を誰も入れずに家族だけでやりたいのだが、相互扶助の葬儀を続けて来た長老にはあからさまにそうも言えず、時間ばかりが経過した。最後は私も我慢できなくなり、妻が死んだばかりでここに来ているんだ。もう妻のところに帰りたい。もうやらせてもらうと言ったら、同席していた隣のMちゃんが「やりたいようにやらせてあげようよ」と助け船を出してくれた。

 

ようやく家に戻ると、死に化粧はとっくに終わっていた。娘が自分の化粧道具を使ってファンデーションを塗り、眉を引き、口紅も塗っていた。まるで生き返って眠っているようだった。

もう一つ悔しかったことは、海外から駆け付けた長男一家が最期に間に合わなかったことだ。28日に羽田に着き、その日の出雲行きの最終便に乗っていれば間に合ったのに、コロナ禍、入国手続きに時間を取られ、最終便に乗ることが出来なかったのだ。コロナが恨めしくてならない。

 

妻に先立たれた作家の城山三郎は「そうか君はいないのか」と言うエッセーを出した。

妻に先立たれた男の気持ちをこれほど簡潔にこれほど的確に表した言葉はないと思っている。毎日、線香をあげては「そうか君はいないのか」と私も呟いている。いつになったら区切りがつくのか。

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国連障害者権利条約は「障害者が本来かなえられるべき権利を守ろう」と言う条約で、古くは「子供の権利条約」「女性の権利条約」などが成立した流れに沿って出来たもので、日本政府は2014年に批准しました。8年後の2020年に日本政府が条約を守っているかどうかの審査が行われる予定だったのですが、コロナで延期になり2022年8月に審査が行われました。これは公開で行われましたが、その前に非公開で日本の障害者の生の声を審査委員が2日間聞き取り調査をしました。審査委員はこの聞き取りをもとに日本政府の審査をするわけです。
今回シェアするのはその「非公開」の障害者への聞き取り審査に係わった事務局メンバーのブログです。
障害者への聞き取りがなぜ「非公開」かと言うと、世界には独裁的国家があるので発言者の安全を守るためなのだそうです。
日本からは100人以上の障害者がジュネーブに行ったそうでその熱意に国連の審査委員はこんな大勢が参加する国はないと驚いたそうです。ALSの代議士も参加したのですが、日本にはALSの代議士がいるのかとも驚かれたそうです。
日本の障害者の権利が十分に保証されたものでないことは我々には常識です。国連の審査委員が日本の障害者の熱意に驚いたと言うことは、逆に言えばそれだけ日本の障害者が現実の差別や無知を身を持って切実に感じていることのあらわれではないのかなと思いました。

でーそ日記:United:国連障害者権利条約 初回対日審査 in ジュネーブ振り返り (dreamlog.jp) 

障害者の活動に無関心な人が多いのが現実だと思います。身近な問題に取り組む人たちの声をこうして結集する活動が行われていることを知ってもらいたくてシェアしました。


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