曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

第四章 初陣(6

 

 八月に入ってすぐの朝、辰敬が朝餉の後片付けをしている時であった。門の方から蹄の音が轟き馬の嘶きがしたかと思うと急に邸内が騒がしくなった。何事かと長屋から顔を出すと折烏帽子に袴姿の武士がこちらに向かって来るのが見えた。武士は辰敬に気が付くと、

「おお、若。辰敬様」

 大声で呼ばわりながら駆け寄り辰敬の前で膝を折った。

「お懐かしうございます。安達三郎助にございます」

 辰敬は目を見張った。見上げる顔は辰敬が上洛した時、庄兵衛と共に上洛した多胡家の若党であった。あの時、辰敬と同じように初めての上洛に目を輝かせていた若党は、別人のように厳しい面構えの武士になっていた。三郎助は底光りのする目を細めた。

「がいに(たくましく)おなりになられた。これなら立派に初陣を果たせましょう」

 遠巻きにしていた家中の侍達や奉公人達からどよめきの声が上がった。その言葉を聞いた時、辰敬は来るべきものが来たと思うと同時にほっとしたのも事実だった。もう思い煩わなくともいいのである。辰敬の運命は決まったのである。覚悟していた事であり、逃げる事の出来ない事であり、従わざるを得ない事なのである。父も二人の兄も通って来た道である。

「初陣の御迎えに参じましてござる。悉皆(しっかい)入道様より、此度の伊予様(経久)御上洛の戦いに参陣せよとのお言葉でございます。介添えは森山庄兵衛様と某が務めるようにと仰せつかってござる」

「なに、庄兵衛も来ているのか」

全身を包みこんでいた重苦しい靄がすうっと消えた。三郎助は頷くと、

「我ら尼子勢は昨日八木城下(現在の亀岡市)に着到。直ちに某がお迎えに上がりましたが、夜中ゆえ、夜が明けてから参った次第にございます」

 にかっと笑って辰敬を急き立てた。

「森山様は首を長くして待ちわびてござりまするぞ。いざ、とくと参らん」

 辰敬は上洛した時、父から貰った刀を差すと三郎助を追った。他に持って行くほどのものはなかった。

 門前には二頭の馬が繋がれていた。辰敬が跨ると三郎助はどうと勢い良く馬腹に蹴りをくれた。鋭い嘶きを残し馬は矢のように駆け出した。辰敬も鞭をくれた。

 白い土埃を巻き上げ燃え上がる陽炎の向こうに消える二騎を、家中は呆気にとられたように見送っていた。辰敬にとっても家中にとっても、後になってそれが別れだったと気がつくあっという間の別れだった。

 家中とはお互いにもはや別れを惜しむ間ではないが、辰敬は前を行く馬の尻に必死に食らいつきながら後ろ髪を引かれるものがあった。思い出が一杯詰まった邸にきちんと別れを告げたかったのである。同じ長屋に暮らした次郎松たち何人かの仲間だけには感謝の気持ちを伝えたかった。せめてもの別れのけじめをつけたかったのだが、次郎松たちはもはや遠く背後の人になっていた。

 二騎は都大路を駆け抜け、嵐山から保津峡へ向かった。渓谷沿いの道を越えて山陰道へ出れば八木城までは一っ走りだ。丹波へ行くには京の七口の一つである長坂口から北上する長坂街道が主要路であるが、だらだらと上りの山道が続き遠回りになるので保津峡を抜ける道を選んだのである。

丹波国は都の防衛上の要地であるのみならず、丹後や若狭の海の幸を都へ運び丹波の豊かな山の産物とともに都の台所を支えていた。細川政元が細川澄之に譲り、澄之が滅びた後は細川澄元が守護となり、その澄元が逐われてからは管領細川高国が守護となっていた。八木城は丹波国の守護所で城主は守護代の内藤貞正である。

途中、休息を取った時、三郎助が語るには尼子勢は八木城下の寺を宿所にしていた。石見の諸将が追いつくのを待ち、揃った所で大内義興の指揮下に入るのだ。

 丹波も都に劣らず暑かった。昼前に人馬ともに埃まみれとなり、滝のような汗を滴らせ喘ぐように八木城下に辿り着いた。宿所は八木城が聳える山裾にあった。四つ目結いの流れ旗を目にした時、辰敬は不意に言い知れぬ悲哀に襲われた。なぜなら四つ目結いは辰敬にとっては京極家の(しるし)だったからである。尼子氏も同じ佐々木一族なのだから家紋が同じでも不思議はない。物心ついた時から尼子の四つ目結いを見て育った。だが辰敬には伊予様が御屋形様から奪った家紋のように見えてしまうのであった。

 三郎助に案内されて寺の宿坊の一つの前に来ると、玄関に今や遅しと待つ白髪頭があった。その白髪頭がはっと辰敬を認めるとみるみる笑みが蕩けるように広がり、

「辰敬様」

「庄兵衛」

 懐かしさが駆け寄りぶつかった所に二つの笑顔があった。だが二人ともすぐには言葉が出なかった。庄兵衛は若者の眩しさに目が眩み、辰敬は皺だらけの顔に息を呑んで。もともと薄かった頭は禿げあがり、後退した髪は干からびた白い藻屑のように禿げ頭に貼り付いていた。六年の歳月は人生の坂を上る者と、下る者の差を残酷なまでに変えていたのだ。

「がいになられて……」

 庄兵衛からも同じ言葉を聞き辰敬は身を竦めた。がいになったと誇れるほどの男になったと胸を張るだけの自信がないことは己が一番よく知っている。もっと多聞の許で修行に励んでおれば。今更悔やんでもどうなるものでもなかったが。こんな自分が初陣に臨むのだ。どやどやと十数人が飛び出して来た。

「若ッ」

「お久しゅうござります」

 家の子郎党達だった。いずれも見知った顔ばかりであった。一番若いのは飯炊き爺さんの孫だった。百足(むかで)丸と言い辰敬より二つ上で、相撲も喧嘩も一番強いごんたがそれこそがいな男になっていた。彼らが馬の口取りや足軽として従ってくれるのだ。頼もしい家来たちに思えた。庄兵衛を除けば。萎えかけた気分が少し戻った所で、早速伊予様に御挨拶することになった。

 庄兵衛に伴なわれて本堂の前に控えていると、暫く待たされてから濡れ縁に気配がした。 庄兵衛が平伏したので辰敬も慌てて平伏した。衣擦れの音が辰敬の耳には雷鳴の如く轟き、その頭上でぴたりと止むと辰敬は脳天に焼けるような視線を感じた。伊予様が見下ろしている。身がすくんだ。とても長い時間に感じられ、この沈黙がいつまで続くのかと耐え切れなくなった時、

「面をあげい」

 辰敬ははっと顔を上げた。真上にあったのは覇者の顔だった。高い濡れ縁に立つ伊予様がまるで天空から見下ろすかのように見えたから、尚更そう感じたのかもしれない。涼やかな麻の直垂(ひたたれ)さえも壁のように思えた。まともに見てしまった無礼と恐怖に震え、辰敬は思わず目を伏せてしまった。怖かった。人を睥睨し服従させる事が飯を食うのと同じように当たり前になった人の顔があった。人の顔でありながら人ではない。武士の顔でありながら武士ではない。人も武士も超越した顔。即ち覇者としか言うべき言葉を辰敬は知らなかったのである。まともに目を合わせる事が出来ないのが悔しい辰敬は心の内でこう呟くのが精いっぱいだった。

(この人が御屋形様を殺したのだ……病の御屋形様の枕辺で、高らかに出雲の大社(おおやしろ)の造営を宣言したのだ……)

 人を支配するのに無駄なものをすべて削ぎ落すと、あのように冷酷で強烈な意志の塊のような顔になるのであろうか。

「わぬしが入道の裾の子か」

 裾の子と言う言葉の響きに辰敬はよそよそしく冷ややかなものを感じた。覚悟していたことだが、伊予様は辰敬を御屋形様に御奉公し、御屋形様から事の他愛された若者としか見ていないのだ。辰敬は心の内まで見透かされたような気がして身を縮めた。

「はっ、多胡辰敬にございます」

「ふむ」

 それ以上、言葉を掛ける事もなく直垂の裾が翻った。対面は一瞬にして終わったが、辰敬の全身は熱湯のような汗が噴き出していた。

 

 その夜は懐かしい顔に囲まれてささやかに数年ぶりの再会を祝った。酔った大声の出雲訛りに包まれた時、辰敬はあらためて都が遠のいたことを思い知った。

 翌日、早速、(よろい)着初め(きぞめ)をすることになった。

武士の子の成長段階においては元服、鎧着初め、初陣の三つは、誰しも必須の通過儀礼で、初陣を果たして初めて一人前の武士と認められる。鎧着初めは元服と同時に行われる事もあるが、普通は元服をすませたら一、二年の内にすませる。辰敬の場合は元服を簡略に済ませ、すぐに上洛してしまったので、この年になるまで鎧着初めをする機会を逸していたのである。そこで初陣の前に大急ぎで鎧着初めをすませておくことにしたのだ。

 辰敬は井戸で身を清めると、帷子(かたびら)を着て宿坊の本堂に入った。すでに出雲から運んで来た鎧櫃(よろいびつ)などの唐櫃(からびつ)が並べられていて、三郎助たち家の子郎党が神妙な顔で控えていた。鎧親は庄兵衛が務める。

唐櫃から真新しい具足下着が取り出されると、辰敬は三郎助達の手でいきなり素っ裸にされ、(わり)(ふんどし)と呼ばれる下帯を付けられた。普通の下帯は腰で結ぶが、鎧の下に着ける割褌は長めの肌帯で、股下を通しずれないように腰でひもを回して抑えると、前は胸、後は背中まで引き上げ、首の後ろで緒を結ぶ。これなら鎧を着けたままでも首で結んだ緒をゆるめれば排泄が出来る。その上から鎧直垂を着て袴を付けるのだが、その袴も足を開けば左右に割れ排泄が出来るように仕立ててある。

これらの真新しい下着や装束は母が揃えてくれたものと庄兵衛は言った。覚えのある香が焚き込めてあった。

その後は足袋、草鞋(わらじ)(すね)(あて)(はい)(たて)(膝鎧)、籠手(こて)などを着せ替え人形のように手際よく付けられ、いよいよ鎧を着る段となった。鎧櫃は縦長の小さな脚がついた唐櫃である。庄兵衛が蓋を開ける時、辰敬の胸は期待と不安で高鳴った。どんな鎧なのだろう。これからはその鎧を着て戦う事になる。辰敬の命を守ってくれる具足になるのだ。

現れたのは黒糸(おどし)の胴丸であった。腰から太腿を守る七間(七枚に分れている)の草摺(くさずり)も黒糸縅である。偑楯も黒糸縅で臑当や籠手も黒漆が分厚く塗られているから、全体的に随分地味な具足だ。それが辰敬の第一印象だった。

庄兵衛が言うには、多胡家重代の鎧は正国の初陣の時に着たのだが、正国が重くて音を上げたので、今回は富田の城下で余り重くない物を探し求めたのである。胴丸や草摺、肩を守る袖、草摺から下の膝までを守る(はい)(たて)は、小札(こざね)と言う短冊状の小さな鉄の板に漆を塗った物を威毛(おどしげ)(糸や革)で縦横に繋いで作る。

正国が着用した胴丸の小札はすべて鉄であった。一枚の札には六つの孔と七つの孔が縦二列に開いている。これを横に重ねて威す時、半分重なるように孔を重ねると、小札が二重になる。強度は増すが重くなる。昔からの製作方法である。辰敬の鎧は伊予札と呼ばれる威し方で、小札の重なりを僅かにずらしただけなので、当然使用する小札の枚数も少なくて済む。その分強度は劣るが軽くなる。しかも、辰敬の胴丸はすべて鉄の板ではなく、革をなめして黒漆で固めた小札も混ぜてあるので、さらに軽くなっていると庄兵衛は微笑した。

辰敬は軟弱者扱いされたようで自尊心を傷つけられたが、初めて付けた胴丸は高紐が肩に食い込みずしりとこたえた。太刀を差すと三郎助が頭全体を包み込むように鉢巻きをした。

庄兵衛が兜櫃に向かった。

辰敬は固唾をのんで見守ったが、庄兵衛が取り出した兜を見て鎧に感じたのと同じような物足りなさを覚えた。それは(すじ)(かぶと)で鉢は黒漆塗り。𩊱(しころ)は黒糸縅。前立は三日月。よくある形の前立てだ。むしろありきたりと言ってよい。しかも小ぶりで艶消し。まるで霞のかかった三日月のようだった。辰敬は兜ぐらいは美々しく、前立も勇壮で心躍るような形を期待していた。前立は軽く作るものであるから、もう少し大きく形にも工夫があってもいいのではないかと思ったのだが、考えてみれば、鎧に合わせれば兜も地味になるのが当然で、おとなしいものにならざるを得なかったのであろう。とは言え、これでは頭の天辺から足先まで黒ずくめではないか。が、晴れの鎧着初めに不服な顔をするわけには行かないので、黙って儀式の進行に従った。

 元服も鎧着初めも初陣も祝い方はほぼ同じである。出雲で祝った元服は簡略であったが、此度も祝いの道具類まで出雲から運ぶ訳にはゆかず、すべて借り物だったので、さらに簡略にならざるを得なかった。

 三郎助たちが、一の折敷に、打鮑・勝栗・干昆布の三品の皿、二の折敷には三つ重ねの土器(かわらけ)を載せたものを辰敬の前に進めた。本来なら三役がいて酒の受け渡しにも決まりごとがあるのだが、道具のないところは省き、庄兵衛と三郎助の二人が中心になって式を進めた。

 辰敬は打鮑、勝栗と干昆布に口を付けた。 すると庄兵衛が長柄の酒を一の盃に注ぐ。 これに辰敬が口を付けると、また辰敬は三品の肴を少し齧る。これを三の盃まで繰り返して鎧着初めは終わった。

 

 その後、馬が引き出された。出雲から連れて来た辰敬の乗馬である。黒鹿毛の肥馬であった。口取りは百足丸だ。

「わしと何度も合戦に出とる馬です。よう言うことをきくし利口な馬じゃけん。心配はいらんです」

 安心させるように黒味を帯びた赤褐色の馬肌をぽんぽんと叩いた。戦場経験豊富な分、歳は食っているが、庄兵衛よりは若いと百足丸は片目を瞑った。

 いつ出陣の号令が掛かってもいいように馬に慣れるのは急務である。鎧を着ての乗馬は初めてである。跨って分かったことは、鎧姿で歩くよりは馬に乗ったほうが楽なことだった。鎧の重さを馬が支えてくれるからである。 辰敬はこの馬が気に入った。

生喰(いけずき)、頼むぞ)

 心の中でそう語りかけていた。

 辰敬はこの馬に自分一人だけの呼び名をつけたのである。佐々木高綱が宇治川の先陣争いの時に跨った名馬の名である。御屋形様が物語りをしてくれた時のことを思い出し、無性にそう名付けたくなったのだ。声には出さずとも心で呼べば通じるような気がしていた。

(そうじゃろう、生喰)

 黒鹿毛がぶるんと胴震いした。

 翌日からは乗馬と並行して庄兵衛からは初陣の心得を、三郎助からは槍や刀の使い方を叩き込まれた。

「戦場では何事も介添えである某と安達の指示に従って頂きます。我ら二人からは決して離れてはなりませぬ。勝手な行動は絶対におとりにならぬよう。これは入道様の御命令でもあります。重々御心得下さい。お分かりになりましたか。よろしいな」

 くどいほどの言葉に、庄兵衛も老いたのかと思っていると、

「初陣で功名を上げようなどとは決して思ってはなりませんぞ」

 庄兵衛は一段と語気を強め怒ったように辰敬を見据えた。

「よろしいか。辰敬様が初陣で功名を上げることなど、誰も望んではいないのです。入道様も。大方様はもちろんのこと。我らも。家の子郎党の誰一人として」

 怪訝な顔をすると庄兵衛は噛んで含めるように言葉を重ねた。

「初陣とは本物の戦場を体験することです。辰敬様は生まれて初めて本物の戦場をその目でご覧になり、戦場とはどんなものかを知る。それが一番大切なことなのです」

 三郎助や家の子郎党達も頷いた意味が辰敬にはその時はまだ分からなかった。

松江のクラスター発生を受けて、7月15日から対面面会は中止になり、ずっとスマホ面会か窓越し面会だったが、9月の初めにようやくパネル越しの面会が出来るようになる。
・面会できるのはあらかじめ定めた親族5名まで。
・一度の面会は二名まで。
・県外者の面会は事前に相談。新規感染者多数確認された地域は断られることあり。
・一回15分。入居者一人当たり週一回まで。
・パネル越しでもマスク着用。
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9月12日に2ヶ月ぶりにパネル越し面会する。ちょっぴり刑務所の面会みたい。
事前に食欲はあり変わりないと聞いていたが顔を見て安心する。ただ顔を正立できず首がつねに横に折れているのを見るのはいつものことながら辛いものがある。
何かのきっかけで親の話をし始めて「パパちゃん、いい男だから死んじゃダメ。ママちゃん、泣かすから。パパちゃんとママちゃんがいたから私が生まれたのだから」と、何回も聞いたことを言う。最近はこのように同じことを繰り返し言うことが多くなったような気がする。
ハワイにいる親族の話になって、「憧れのハワイ航路」を歌う。この歌も昔聞いたものだ。全部歌い切るのにはいつも感心する。久しぶりに会ったのに、15分しかないのに、何か食べたいものはないかとつまらんことを聞く。
焼き鳥・・・次々と出るかと思いきや、あまり出て来ない。
この間ずっとほぼ毎週、娘がスマホ面会して、その様子をラインで送ってくれる。娘が相手だと妻が明るく元気に見える。羨ましく思う。
娘が忙しい時に儂が面会に行く。
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9月30日パネル越し面会に行く。この頃になると、マスクは外してもよくなる。写真は自分のマスクをとってなぜか儂にくれようとしているところ。とりとめのない話に終始する。話題に困って正代が優勝した話をするが反応は芳しくない。川尻(妻の故郷)の近くの宇土の出身だと教えると、「川尻へ呼ぶ」と言う。「祝いをする」のだそうだ。

9月の終わりに娘から遲い夏休みを取り、テレワークを間に二日挟んで10月5日から10日まで帰ると連絡あり。
東京からであるが、窓越し面会が出来るかどうか問い合わせたらOKがでる。
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10月5日サンライズ出雲で戻る     10月7日窓越し面会
娘が妻に会うのは正月以来10ヶ月ぶり。儂とは3月に上京しているので7ヶ月ぶり。ワンコを連れて戻る。
窓越しに15分面会。妻は目を丸くし、満面に笑みを浮かべる。娘に会うと表情が違う。惜しむらくは窓越しだと声が聞き取りにくい。少し開けてあるのだが、こちらは大声を出しても、妻は大きな声を出してくれない。看護士さんが通訳してくれる。「散髪したね」と娘が言うと、「ヘアカットと言いなさい」と返して来る。英語が好きで、娘もアメリカにいると思い込んでいて、「一緒にアメリカに行こう」と言う。アメリカや英語を話題にすると話が弾む。
看護士さんがもう少しいいですよと言ってくれたが、妻が疲れて戻ると言うので引き上げる。帰りに看護士さんが9月一ヶ月の食事状況表を渡してくれる。朝食はほぼ9割、昼食も9割、昼食の副食が5割、夕食が10割、夕食副食が6割食べていて、水分は平均で一日1186ml摂っている。正月頃は心配するぐらいほとんど食べず、水分も摂らず点滴していたのが嘘のようである。娘も帰って来た甲斐があったと喜んでいたが、グループホームの祖母には県外者なので面会できず。こんな調子では一年前のように妻の昼食に同席したり、部屋にまで見舞いに行ったりなんていつになったら出来るのだろうか。
娘は10日に帰京するので、その後2週間は特養にもグループホームにも行けない。儂は安全を考えて10月一杯は自重し11月になったら特養に面会に行こうと思う。母の方は10月になって外出できるようになったのでお昼だけの外出をさせてやろうと思っている。

特養を出て日御碕へ。20分ぐらいで着く。
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ワンコと灯台と日本海。
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日御碕でのどぐろの唐揚げ付きの海鮮丼を食べる。1500円。犬にはサービスでビーフジャーキーが出る。
右の写真は廃業した国民宿舎(だと思う)。何と星野リゾートが買い取って、これから改装する予定。星野リゾートになったら少々高くても人は来るのではないだろうか。

この秋のお隣の田圃から。9月4日。
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翌々日6日、台風10号が来るかもしれないので刈り取る。幸い台風は吹き返しの風が強かった程度で終わる。
銘柄は『コシヒカリ』。収量は毎年暑くなるせいか減って来ていると言う。今年も去年より少なかったそうだ。農協は島根県産の『つや姫』を推奨する。そちらの方が収量も多く、美味しいのだそうだが、お隣は作り慣れた方がいいので少々収量が減っても、少しくらい味が落ちても、変える気はないそうだ。水をやる時期が変わったりするから大変なのだろう。隣の奥さんはどうなったら水を引くとか、いつ水を落とすとか、全部頭に入っているのだ。
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9月10日
今秋の種まきの第一号は人参。本来なら8月には種まきするのだがこの夏は余りに暑くて誰も種蒔きをしない。
どこも農作業が遅れていると嘆いている。うちの畑もいつでも種蒔きや植え付けが出来るように、堆肥を入れ、石灰を撒き、カニボカシを入れていたのだが、明日は雨になると言うので大急ぎで人参の種を播く。矢印の白いのが人参の種。本当はこんなに大きくはない。コーティングしてあるのだ。コーティングした人参の種は初めて。蒔いたあとにもみ殻をまく。雨予報が信じられないくらいの暑さ。大汗をかく。
9月15日頃から一気に秋めいた気候に変わる。みんなほっとしたと実感。
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9月16日
人参の隣にサラダほうれん草とサラダ蕪の畝を作る。両方とも冷蔵庫で保存していた去年の種の残り。
ほうれん草の種を播き、もみ殻を撒く。その向こうがサラダ蕪。
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9月17日                   9月19日 蕪
種を播いたばかりの蕪の畝を野良猫がトイレ代わりにしたのか掘り返した跡があったので網を被せる。
蕪が芽を出す。蕪は早い。
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9月19日 人参                9月19日 ほうれん草
人参が芽を出すが、実は11日は大雨で雨が強く叩きつけ、翌日からまたカッと照り付けたので畝がコンクリートのように固くなる。そのせいか発芽した芽は1割にも満たず。人参はそもそも発芽が遅い上にやっと発芽したと思ったらこの有様。この人参は三色赤、黄、白が出来ると言う珍しい人参。楽しみにしていたのでがっかり。追加を買いに行ったら売り切れていたので、普通の人参の種を播く。
ほうれん草は順調に発芽する。
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9月19日                    9月22日 ヤーコン
害虫の飛来を防ぐために不織布をべた掛けするとよいという記事があったので、こんなこと今までしたことはなかったのだが、不織布があるので掛けてみた。野良猫も来ないだろうと思って。
この頃には精を出して隣に三つ畝も作った。
ヤーコンをためし掘りする。初めて作ったのでいつ掘っていいのか、どんなふうに芋ができているのかもわからず掘ってみたら、小型のさつま芋状のものが現れた。料理の仕方も分からないので、ネットで調べてわしにも出来そうなものを作った。
『ヤーコンとツナとコーンのサラダ』
千切りにして水にさらし、あく抜きしてからツナとコーンと混ぜ合わせマヨネーズで和えるだけ。マヨネーズは脂質が高すぎるので、わしはノンオイルのドレッシングで和えたが、シャキシャキした食感がとても新鮮に感じられて美味かった。調子に乗って、人参しりしりを作る時にヤーコンの千切りを加えてみたら、これも結構いけた。天ぷらにしても美味いらしい。4本残っているのでもう少し大きくしてから掘ろうと思う。
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9月26日
大根の芽が出る。右側が『ビタミン大根』と言う名のサラダ大根。左側は商品名『うまい煮大根』
結局、東の畑は大根と右から二番目のイチゴの畝が幅をとったので四つになった。
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9月29日
近所から貰ったイチゴの苗を52本植える。1本200円としても1万円だから無料は大いに助かる。この御近所さんは大量の苗を増やして親しい人たちに無料で分けてくれるのだ。
イチゴの真ん中は去年植えて成功したので今年もニンニクを植え付ける。白いのがニンニクのかけら。全部で52個。去年は青森にんにくだったが売り切れていたので島根ニンニクを植える。足りなくなってまた買いに行ったらそれも売り切れていたので香川ニンニクを植える。青森→島根→香川だんだん小さくなる。
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10月2日
東の畑の柿。三個しか映っていない。全部でも六個ほどしかならなかった。去年山のようにできたお隣の柿は一個もならなかった。少しなっていたが全部落ちてしまった。柿は生り年が一年おきと聞いていたので今年はならない年なのだろうがそれにしても不出来である。畑先生、曰く。昔はこんなことはなかった。肥料をやらなくても毎年山のようになったのに、どうしてこんなことになったのかと。暑さのせいだけではないような気がする。
確かに数十年前、わしの子供の頃、出雲の爺さんは毎年庭で採れた柿(土地を売る前だったので数本の富有柿があった)を段ボールに二箱送って来たのだ。生り年が一年おきと言われるようになったのはいつ頃からなんだろう。儂は帰郷して初めて知った。

歴史的不作の安納芋
10月2日安納芋をためし掘りする。畑先生から今年の芋は不作と聞いていた。固くて食えんと言っていたので不安を抱えて掘ってみる。
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余りにも小さいのが少ししか出て来ないので、普通はためし掘りなのだから一ヵ所掘れば十分なのだが心配で他もも掘ってみる。
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結局、半分ほど掘ってみるが小さいのが一ケース。例年ならこれくらい掘れば大きいのが二ケースはある。今年は苗も不調だった。4割ぐらい枯れた。その度に伸びたツルを切って植え直していたのだがそのツルがまた枯れたりして、最初に植えたツルと最後に植えたツルは一ヶ月の差が出来てしまった。そこで遅く植えたと思われる株だけを残して一ヶ月後に掘ることにした。果たしてどうなる事やら。ヤーコンももう少し置いておいた方がいいのかもしれない。
原因を考えるにマルチをやったのがよくなかったのかもしれない。今年みたいに暑い時はマルチの下の地熱は相当高かったのではないだろうか。来年からマルチはやめようと思っている。
地球の温暖化や高温化は限界にまで来ているのではないか、そんなことを感じさせる秋である。

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