曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

イメージ 1
妻には申し訳ないが、妻のショートステイが近づくと、いい年をして夏休みを待つ小学生になってしまう。そして、自分に言い聞かせる。あと3日頑張れば、あと2日頑張れば、明日一日頑張れば……。
当日の朝、妻を送り出したら、それ行けとばかりに東京へすっ飛んで行った。
10日ちょっとの完全休暇。介護や家事、農作業、その他もろもろの雑事を忘れ、いつ完成するかもわからぬ、出版の当てもない小説に没頭する。
今は両親の老いが進み、もうほってはおけなくなったので上京できなくなった。
夕食だけは私が作らないといけないので昔のような完全休暇は望めない。だが、それなりにリフレッシュしている。
朝起きたらすぐにファミレスへ車を飛ばし、朝定食を食べ、ドリンクバーのコーヒーをがぶ飲みしながらパソに向かう。
昼になったら「神立食堂」に移動。定食屋で何十種類もおかずがある。出雲市街の東端、斐伊川にかかる神立橋の西側にある。
神立=かんだち。すなわち神が立つ(発つ)ことを意味する地名です。日本中から集まった神様は神在月が終わると、斐伊川の東から帰って行くのです。
ちなみにこの斐伊川の上流がヤマタノオロチの舞台です。
昼飯を食ったら、北へ車で3、4分の「しっとりつるつる北山温泉」に行きます。露天風呂もあります。
この温泉のすぐ北に横たわるのが北山です。出雲風土記の国引き神話に出て来る山です。神様が朝鮮半島から余った土地を引っ張って来て、隠岐の島からも引っ張って来て、最後に能登半島からも引っ張って来て、全部で4つの余った土地を引っ張って来て作ったのがこの山並みです。
写真が北山のごく一部です。この山並みのずっと左、西の端の麓に出雲大社があります。かくのごとく出雲はどこへ行っても神宿る地です。
入浴後、さっぱりした私は市街へ戻り、いまお気にの喫茶店へ行き、夕方までまたパソを開きます。
来週は両親を病院へ連れてゆく日が2日あるので毎日と言う訳ではありませんが、妻がショートステイへ行ってくれているお陰で、贅沢な日々を過ごさせて貰っています。感謝。











去年、島根医大の看護学科の学生さんが、「自宅で認知症の妻を介護する高齢男性」をテーマにした卒論を書くと言うので取材協力をした。その後、礼状とともに卒論のダイジェストが送られて来た。読むと5人の協力者の内、60代は私ひとりで、後の4人は80代だった。「おおっ」と思わず声が出た。
80を過ぎて自宅介護をしている男がいるなんて思ってもいなかったのだ。介護される方もする方も、それくらいの年齢だと、介護施設の世話になっているものだとばかり思い込んでいたのだ。ちょっと考えれば、入れたくとも入れられない人はいくらもいるのに。出雲の老健だって順番待ちがあってすぐには入れない。何年介護をしているのだと不明を恥じる。
読み進むと、「困難を訴える」辛く、切ない声が続く。
私は50代の後半から始めた10年選手だが、この人たちは長い人で5年の介護歴、早い人で70代後半から介護を始めたことになる。この年から始めるのははっきり言って酷だと思う。私だって始めた時はこんなことを一生続けるのかと目の前が真っ暗になったのだから。
だが、この八十翁たちは、最後は「責任」を口にし、「妻を大切にしたい」と言い、「心が通うと嬉しい」と言う。
そう言わなければ自分を支えていられないのかもしれないけれど、
「ちきしょう、なんていじらしい爺さんなんだ。なんて素敵な爺さんなんだ」
と私は呟いていた。そして、同じ出雲のどこかにいる八十翁たちに、
「素敵なあなたの周りには、素敵な人たちが集まりますよ」とエールを送った。
人と人とのつながりとはそういうものではないだろうか。





今夜は泊りだと言うので徹夜を覚悟していたら、「おい、俺の映画をやっているから見よう」と師匠が言う。仕事をしたくないのだ。
昭和45年頃、TVの深夜の時間帯に盛んに旧作映画を流していた。
映画は「次郎長三国志のシリーズ」で「森の石松が殺される有名な話」であった。
昭和27年の東宝作品で、主演の次郎長役が小堀明夫と言う俳優。当時の私も初めてそんな名の俳優がいたことを知ったぐらい古い印象の映画だった。森の石松役が森繁久彌だったのには驚いた。昭和45年頃は森繁はすでに大御所の役者であり、昔、作詞作曲した「知床旅情」がこの頃加藤登紀子の歌で大ヒットした。(♬知床の岬でハマナスの咲く頃~ と言う歌。若い人も聞いたことはあるだろう)

見ていると、師匠が「妙な映画だろう」と言う。
何が妙なのかよくわからないので、首を傾げると、
「登場人物が泣いてばかりだろう。俺はこんなホンを書いた覚えはないんだよ」
そう言われると、確かに次郎長の子分たちはよく泣いていた。
悲しいことがあれば、次郎長の子分だって泣くことはあるだろうが、泣き方が半端ではない。おいおいおいおい声をあげ、滝のように涙を流し、泣きじゃくるのだ。止めは石松が殺された時で、まさに泣き声の大合唱だった。
「この時なあ、監督のヒロポン中毒がひどかったんだよ。だから、ちょっとのことでもすぐに感情が高ぶって、こんなに泣かせちゃったんだよ」
その監督の名が、マキノ雅弘。
日本映画の父と呼ばれた「マキノ省三」の息子で、甥が「津川雅彦」(昔の二枚目俳優で今もたまにTVで白い髭の顔を見るから若い人でも知っているか?)
マキノ一族は日本映画界のサラブレッドであった。

ヒロポンとははっきり言って覚せい剤である。
戦中戦後にかけて、町の薬局で売られていて、誰でも買うことが出来たそうだ。
ヒロポンを打つと、眠気が吹っ飛ぶので、徹夜仕事が続く脚本家や撮影に追われる撮影所の人間は皆こぞって打ったと言う。
勿論師匠も、ヒロポンの世話になりながら脚本を書いていたと言う。
さすがに副作用が問題となり、禁止となった。
「キヨハラ」も「高知東生」も「アスカ」も「ノリピー」もこの時代だったら、何の問題もなかったのだ。














↑このページのトップヘ