曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2日目は、ザ・橿原(ホテル)⇒橿原神宮⇒飛鳥坐(あすかいます)神社【桃〇E】⇒
多武峰観光ホテル(昼食)⇒談山神社【桃〇F】⇒大神(おおみわ)神社【桃〇A】⇒
薬師寺⇒夜は飲み会
しかし、この日は終日雨。濡れながら、歩く歩く。
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古い神社ばかり探訪する中で、一番新しい神社(130年前創建)を見学。新しいから宝物館も小さく、見るべきものなし。ここが新しい神話になることがあるのだろうか?それはまたいつのことか?

神賀詞で、賀夜奈流美命(カヤナルミノミコト)の御魂を坐した飛鳥の神奈備を訪ねる。飛鳥坐神社【桃〇E】には事代主(コトシロヌシ)神、高皇産霊(タカムスビ)命、飛鳥三日比売(アスカミカヒメ)命、大物主命を祀るとされている。アスカミカヒメがカヤナルミノミコトであると言われている。平安初期に移築されているので、神奈備山がどの山か諸説あり、どこに建てられていたのかも不明。
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雨の中、明日香の町を行く。

中央
明日香の町は遺跡や寺社等が普通にある。



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神主さんから話を聞くことが出来たが、「オオクニヌシは国譲りをしたので、出雲にやられたのです」と、まるで用がなくなったので、追い出されたのだと言わんばかり。同行の仲間はなんちゅう言い草だと呆れていたが、私はこれが大和の人のごく普通の感覚なのだと思った。大和の人はオオクニヌシは大和の神と思っているのだ。
こういう言葉が何の疑いもなくあっさりと出て来るのを聞けただけで、今回の研究旅行の意義はあったと思う。
ところで、ここの神主さんの姓は飛鳥、なんと87代と言う。出雲国造の千家さんが
84代だから、俄かには信じがたいが……。昔は立派な社であったらしい。古代の法令では、「飛鳥坐神社が四つの子社の修理をしているように、大きな社は子社の修理をしなさい」と名を挙げられているくらいであったが、そのうちさびれてしまい、20年前まではぼろぼろだったらしいが、吉野町からダムで水没する神社をそっくり買って移築したものだそうだ。今は天狗とお多福が悩ましい踊りをするお祭りで評判になりそこそこ潤っているような気配はあったが、実際はどうなんだろうか。神賀詞とはかけ離れた神社になっていた。

この次に、多武峰(とうのみね)で昼食を摂り、談山神社へ。【桃〇F】
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多武峰観光ホテルの食堂から、道路を挟んで談山神社を望む。雨が降り、ガスが出る。雨に濡れた緑は鮮やか。神賀詞とも出雲系の神とも関係がない神社。なぜ行くことになったかと言うと、勉強仲間に藤原さんと言う人がいて、自分の先祖は藤原不比等と主張。なれば、藤原氏の祖の中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子が、蘇我入鹿を倒すための密談をしたと言う談山神社を見たいと冗談みたいなことを言ったのが実現したものである。昼食後、皆、雨に濡れながら笑って見学。
この裏山が談山(かたらいやま)と呼ばれている。この山の中で二人は密談したと言われている。

この後、バスは桜井市へ。三輪山【桃△A】と大神(オオミワ)神社【桃〇A】へ向かう。今回のツアーで、私が一番行きたかったところ。神賀詞では、冒頭にオオナモチ(オオクニヌシ)は自分の和魂(にぎみたま)をオオモノヌシクシミカタマとして大三輪の神奈備に坐し、三人の子と合わせ、天皇の御世の守り神とし、自分(オオクニヌシ)は杵築の宮に静まると誓っている。三輪山に坐すのはオオクニヌシのいわば分身であって、中心となる場所なのである。私が一番注目するのは三人の子の坐す神奈備が今や不明なのに、オオクニヌシの分身の坐す神奈備が三輪山とはっきり分かっていることである。即ち大神神社の御神体は三輪山なのである。これは古代日本人が山や岩などに神が宿ると信じた原初の信仰を今に残していることになる。それゆえ、大神神社には本殿はなく、あるのは拝殿と鳥居だけであり、日本最古の神社とされている。それをこの目で確かめたかったのである。
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左、車の中から写した三輪山。太い柱は大神神社へ行く道にある大鳥居の柱。
右、大神神社の拝殿。普通はこの裏に神様の御神体がある神殿や本殿があるが、この拝殿の裏はすぐ三輪山である。三輪山は禁足地であるから入ることは出来ない。ゆえに拝殿と裏山の間には結界がある。
イメージ 12その結界になっているのが『三つ鳥居』と呼ばれる鳥居である。拝殿のすぐ裏にあるが写真撮影禁止。
左の写真がその模型である。
なぜ、こういう形をしているかは分からないそうだ。文献なし。三つ鳥居の礎石は鎌倉時代か、平安時代にまでさかのぼれるそうだ。
三輪山の頂や、中腹、麓には大きな岩がいくつかあり、いわゆる磐座(いわくら)となっているそうだ。山や磐座を信仰したことが窺える。古墳時代からの祭祀の遺跡がある。
藤岡先生に確認したが、出雲国風土記でも399社の社の名前が上がっているが、杵築の宮(出雲大社)は別格として、社の形をとっていたのは5つか、6つぐらいで、残りのほとんどは、山や岩、木などを直接神として拝む形式だったらしい。
当初の目的である原初の信仰の名残を確認できた。
三輪山の南面には出雲の地名が残っている。北西には纏向(まきむく)遺跡があるが、ここには古くは出雲庄があったそうだ。
奈良には出雲以外にも、石見、飛騨、土佐などの地名が残っている。これは平城京の建設に動員された地方の民がそのまま都に残って住み着いたからだそうだ。

雨ますます激しくなる中、夕方、薬師寺へ。
藤岡先生のつてがあって、東塔の解体修理現場に入ることが出来る。最上階まで上がって、修理中の東塔を見下ろす。撮影は許可されているが、ネットに掲載することは不可。その後、玄奘三蔵院伽藍も見学する。5時に閉めるのに、20分もオーバーして見せてもらえる。平山郁夫の遺作を鑑賞することが出来た。閉館後の我々だけの静かな鑑賞は得難い空間で、一生の思い出になった。
この日、ずぶ濡れになりながら、歩いた歩いた。とどめが東塔の修理現場のスロープ登り。1万3千歩ぐらい歩いたそうだ。

3日目最終日は東大寺大仏殿と奈良国立博物館。イメージ 13
広いからここも歩いた。博物館も歩かないと見ることが出来ない。東大寺は杉並区立向陽中学時代以来の訪問。小学生と中学生の修学旅行と中国人ばかり。大変な混雑。
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奈良国立博物館は平安の正倉院と言われる春日大社の宝物の展示であったが、私にとっては掛け軸や絵巻物などで、神仏習合の具体的な様子が分かったのが最大の成果であった。いくら本を読んでも、神仏習合は分かりにくい。それが、仏教の側から描かれていたり、神様の側から描かれていると、一目瞭然だったのである。
日本の歴史において、実は神仏習合はとても重要なことだったのではないかと、最近になって見直している。これも出雲国風土記の勉強を始めてからである。今回は出雲国風土記を学ぶものにとっては王道を行く学習旅行であったと思う。
昼飯食って、出雲に戻る。
夜の8時過ぎ、真っ暗な荒神谷博物館に到着。
「あっ、蛍だ」女の人の声で星のない夜空を見上げると、一匹の蛍が舞っていた。

6時前に起きて、荒神谷博物館へ。7時出発。松江駅に寄ってから、一路奈良県の御所市を目指すが、その間、30分ずつ2回、引率の藤岡大拙先生の講義がバスの中である。先生、86歳。敬服する。
イメージ 2今回のツアーは大和路に残る出雲の神々を訪ねるのが目的であるが、真っ先に問題になるのは当然の如く、なぜ大和に出雲の神々が祀られているのかと言うことである。
一番妥当な考えは、国譲りをした見返りに出雲の神々が勧請され、天皇を守る大切な役目を与えられたと言うものである。これまでは、この考えが一般的で、広く受け入れられて来たのだが、それに対し、出雲系と言われる神々はもともと大和で生まれたという説がとなえられるようになる。
たとえば、オホナモチ(オオクニヌシ)の子と言われている事代主(コトシロヌシ)は鴨氏の神であった。コトシロヌシは鴨氏にとって代わった葛城氏に受け継がれ、その葛城氏は蘇我氏にとって代わられる。蘇我氏が滅んだ時に、蘇我氏が信じていたスサノオやオオクニヌシは追放されたと言うものである。これを過激に主張したのが梅原猛であるが、近年、大山誠一と言う考古学者が、蘇我氏の持っていた神話が出雲神話の元になっていることを精密に主張している。詳しくは説明しきれないので、「神話と天皇」(平凡社)を参考書としてあげておく。
私もコトシロヌシが鴨氏の神であったことを知った時から、なにかしっくりこないものを感じていたので、今では大山説に傾いている。
そういう問題意識を抱きながら、まずは神賀詞(かんよごと)に登場する神を中心に出雲の神をまつっている神社を訪ねた。
イメージ 1桃△A 三輪山
桃〇A 大神神社
桃〇B 鴨都波神社
桃〇C 葛城一言主神社
桃〇D 高鴨神社
桃〇E 飛鳥坐神社
桃〇F 談山神社
桃〇G 大名持神社
桃×H 河俣神社
茶   伊勢街道


緑△イ 耳成山  緑△ロ 畝傍山  緑△ハ 天香具山(大和三山)

神賀詞では、オホナモチ(オオクニヌシ)が自分の和魂(ニギミタマ)を大御和の
神奈備(かんなび)【桃△A 三輪山】に、子のアジスキタカヒコネノミコトを葛城の鴨の神奈備【桃〇D 高鴨神社】に、コトシロヌシノミコトを宇奈堤(ウナテ)に、【桃×H 河俣神社】、カヤナルミノミコトを飛鳥の神奈備【桃〇E 飛鳥坐神社】に、皇孫の守り神として置き、自分(オオクニヌシ)は杵築宮(出雲大社)に静まるとある。
今日はそのうち神賀詞に関係あるのは【桃〇D 高鴨神社】のみ。【桃×H 河俣神社】には行かず。なぜ行かないのか、藤岡先生に尋ねたら、先生が後から見た時はコースが決まっていてしまったそうだ。行きたかったのになあ。

お昼に御所市に到着、「柿の葉寿司」を食べてから、葛城一言主(カツラギヒトコトヌシ)神社へ。
今日はC⇒D⇒B⇒G⇒橿原市と移動する。
鴨氏の神社でコトシロヌシとワカタケル(雄略天皇)を祀る。出雲の神様と思われているコトシロヌシが大和の神社に祀られている例の一つとして、見学する。
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神社の中にはいくつか蜘蛛塚がある。神武天皇が東征した時、抵抗した勢力を土蜘蛛と呼んだ。蜘蛛塚の蜘蛛とは滅ぼされた土蜘蛛を意味する。


次に行ったのが高鴨神社。神賀詞に関わる場所である。
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神賀詞ではアジスキタカヒコネ(オホナモチ=オオクニヌシの子)の御魂を葛城の鴨の神奈備に坐したとあるが、神奈備はおそらく山と思われるが、どの山か分かっていないようだ。後に高鴨神社の祭神はアジスキタカヒコネに加えて、三坐が加わる。
下照姫(オオクニヌシの娘)、天雅彦(アメノワカヒコ・下照姫の夫)、田心姫(タジリヒメ・オオクニヌシの妻)を祀り、四坐となる。天雅彦は高天原の神だが、葦原中津国を征服するために様子見に派遣されたが、オオクニヌシに篭絡され、下照姫と結婚して高天原に復命しなかったという神である。出雲系の神に入れてもいい。ここでも登場するのは出雲系と言われる神である。
右端の殿舎の赤い色のR型にカーブした棟を見た同行の人が、一枚板でこのようなカーブを作り出しているのは大したものだと褒めていた。

この後、小一時間かけて、吉野町の大名持神社【桃〇G】へ行く。
伊勢街道を吉野川(和歌山県に入ったら紀の川)沿いに東へ走る。
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大名持とはオオクニヌシのことであるが、この名の神社は出雲にはない。
上の地図では分からないが、奈良県全図で見ると、この神社の位置は奈良県のどまんなかにある。東へ行けば伊勢へ100㎞、伊勢への最短距離にある。地理的に重要な位置にあることが分かる。
三大実録(859年)によると、正一位を賜っている。大和国で神階が大名持神社を越えているのは春日大社一社だけであった。これを見ても如何に重要な神社であるか分かる。
そんな特別な神社にオオクニヌシが祀られる意味を、次に行く飛鳥坐神社や三輪山&大神神社を見ながら考察する。
神奈備は神社の裏の山で「妹山」と言う。忌山が転訛したと言われている。忌山とは木を切ったり、入ったりしてはならない神聖な山のことである。この山は亜熱帯的な独特な樹相で知られたとても豊かな森を残している。
この「妹山」と吉野川を挟んであるのが「脊山」。
浄瑠璃の「妹脊山女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の舞台になった所でもある。日本版ロメオとジュリエットの悲劇で、江戸時代人気を博した。
この日、回った神社の中では一番古錆びた、小さな寂しい神社で、古代にそんな重要で大きな神社だった面影はどこにもない。本殿も藁ぶきである。聞けば今や2地区の氏神に過ぎず、氏子も20人ほどしかいないそうだ。

中世においては、参詣する人は数キロ先から榊を口にくわえて歩いて参詣したそうだ。榊をくわえるのは話をせず、静かに参詣するため。
そして、吉野川で身を清める。
6月30日には、潮が湧くので、その水で水を清める。この潮は熊野灘の海水と言われている。熊野灘までは約120㎞。
この潮が湧く話は、東大寺のお水取りにも共通点がある。東大寺のお水取りの水は遠く離れた若狭(福井)の水が湧いたものを使う。

夕方、ぽつぽつと雨が降る中、一路橿原市のホテルに向かう。

6月5日から6月7日の予定で「大和路の出雲を訪ねる旅」に出かける。
毎月の『風土記談義』を行っている『NPO法人出雲学研究所』が主催する旅で、参加者は『風土記談義』の受講者。バス一台を仕立てて行く。去年初めて「四国の忌部氏を訪ねる旅」に参加して楽しかったので、今年も参加する。
年に一度の自分への御褒美旅と決めて、楽しみにしていた。
5日
7:00荒神谷博物館出発⇒7:40松江駅南口⇒山陰道・米子道・中国道・近畿道・南阪奈道⇒御所市(昼食)⇒13:30鴨都波(かもつば)神社⇒14:15葛城一言主(ひとことぬし)神社⇒15:00高鴨神社⇒16:00吉野町・大名持(おおなもち)神社⇒17:00橿原市(泊)
6日
8:30ホテル出発⇒8:40橿原神宮⇒10:00飛鳥坐(あすかにいます)神社⇒
11:00談山神社⇒多武峰観光ホテル(昼食)⇒13:30三輪明神 大神神社⇒
15:30奈良市西ノ京 薬師寺⇒17:15奈良市(泊)
7日
8:30ホテル出発⇒8:40東大寺⇒10:55奈良国立博物館⇒昼食後帰路につく⇒
19:35松江駅南口⇒20:15荒神谷博物館着

神賀詞(かんよごと・出雲国造が代替わりする時、上京して奏上する)では、出雲の神々が天皇の御世を祝い、オホナモチ(オオクニヌシ)の魂(分身)とオホナモチの三人の子が皇尊を守ると誓う。その四柱に関連する地を中心に大和路の神社を巡る旅である。
去年の四国ツアーは初めてだったので、何も分からず、物見遊山になってしまった。
イメージ 1下調べしておけばよかったと悔やんだが後の祭りであった。
有意義なツアーにするために、去年の二の舞にならないよう準備し、資料も揃える。

👈奈良の地図

下が葛城市、御所市、明日香村
右下が吉野町
右上が奈良市
今回はこの地図の南半分が主な探訪地になる。

『風土記談義』で配られた資料をコピーして読みなおし、神社についてはネットで検索して、これもプリントアウトする。
奈良は中学生の時、修学旅行で行ったっきり、一度も訪れていない。その後、高松塚古墳などの新発見があったが、古代史に関心はあっても、仕事をしている時は忙しく、訪ねる余裕もなかった。ツアーのお陰で普通ではできない旅が出来ることが嬉しい。

そうは言っても、自分だけ楽しむわけには行かないので、
30(水)、2(土)と、「特養」に顔を出し、明日の4(月)も顔を出す予定。まるで罪滅ぼしみたいだが、やるだけのことをやっておかないと気持ちよく出かけることが出来ない。
丸三日留守にするので、両親の昼と夜の食事をある程度用意する他、畑も世話をしておかねばならない。トマトを支柱に結んだり、脇芽を取っておきたい。出来たら、玉ねぎやワケギも抜いて干しておきたいところだが、明日の午後から全部出来るかどうか。
心配なのは天気。予報では雨ではないか。雨の中、山の中の神社を巡ること想像したら少しブルーになる。

ところで、先日の謎の田圃の件、早速教えてくれる人が出現。
イメージ 2実は鉄分を含む湧水があり、湧水が広がらないようにしているのだそうだ。
まったく予想もしてない話だったが、リアル過ぎて少しがっかりする。お百姓さんにとっては迷惑な湧水なのだが、儂は勝手にロマンを広げていた。
出雲大社に近い場所で、古代のこの地域には阿受枳(あずき)社とか阿受伎(あずき)社と名乗る社だけで30以上もあった。社と言っても、今のような神社ではない。昔の人は山や岩や川などに神が宿ると信じたから、ここに大昔は神が宿る木でも生えていたのかと想像していたのだ。
だが、ここまで考えてふと思った。もし滾々と湧水が溢れていたとしたら、古代人は神が宿ると考えたはずだ。鉄分は時代が下ってから混じったものとしたら。これは立派にロマンだ。ただ、このロマンには難点が一つある。昔は出雲大社のすぐ前までは入海だった。この辺りも入海だったかもしれない。そうなると成り立たない話だが、写真で見れば分かるように北山のすぐ近くである。ギリギリ海辺だったのかどうか。
素人でもこんなことを勝手に考えられるから古代史は面白い。

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