2日目は、ザ・橿原(ホテル)⇒橿原神宮⇒飛鳥坐(あすかいます)神社【桃〇E】⇒
多武峰観光ホテル(昼食)⇒談山神社【桃〇F】⇒大神(おおみわ)神社【桃〇A】⇒
薬師寺⇒夜は飲み会
しかし、この日は終日雨。濡れながら、歩く歩く。
古い神社ばかり探訪する中で、一番新しい神社(130年前創建)を見学。新しいから宝物館も小さく、見るべきものなし。ここが新しい神話になることがあるのだろうか?それはまたいつのことか?
神賀詞で、賀夜奈流美命(カヤナルミノミコト)の御魂を坐した飛鳥の神奈備を訪ねる。飛鳥坐神社【桃〇E】には事代主(コトシロヌシ)神、高皇産霊(タカムスビ)命、飛鳥三日比売(アスカミカヒメ)命、大物主命を祀るとされている。アスカミカヒメがカヤナルミノミコトであると言われている。平安初期に移築されているので、神奈備山がどの山か諸説あり、どこに建てられていたのかも不明。
左
雨の中、明日香の町を行く。
中央
明日香の町は遺跡や寺社等が普通にある。
神主さんから話を聞くことが出来たが、「オオクニヌシは国譲りをしたので、出雲にやられたのです」と、まるで用がなくなったので、追い出されたのだと言わんばかり。同行の仲間はなんちゅう言い草だと呆れていたが、私はこれが大和の人のごく普通の感覚なのだと思った。大和の人はオオクニヌシは大和の神と思っているのだ。
こういう言葉が何の疑いもなくあっさりと出て来るのを聞けただけで、今回の研究旅行の意義はあったと思う。
ところで、ここの神主さんの姓は飛鳥、なんと87代と言う。出雲国造の千家さんが
84代だから、俄かには信じがたいが……。昔は立派な社であったらしい。古代の法令では、「飛鳥坐神社が四つの子社の修理をしているように、大きな社は子社の修理をしなさい」と名を挙げられているくらいであったが、そのうちさびれてしまい、20年前まではぼろぼろだったらしいが、吉野町からダムで水没する神社をそっくり買って移築したものだそうだ。今は天狗とお多福が悩ましい踊りをするお祭りで評判になりそこそこ潤っているような気配はあったが、実際はどうなんだろうか。神賀詞とはかけ離れた神社になっていた。
この次に、多武峰(とうのみね)で昼食を摂り、談山神社へ。【桃〇F】
多武峰観光ホテルの食堂から、道路を挟んで談山神社を望む。雨が降り、ガスが出る。雨に濡れた緑は鮮やか。神賀詞とも出雲系の神とも関係がない神社。なぜ行くことになったかと言うと、勉強仲間に藤原さんと言う人がいて、自分の先祖は藤原不比等と主張。なれば、藤原氏の祖の中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子が、蘇我入鹿を倒すための密談をしたと言う談山神社を見たいと冗談みたいなことを言ったのが実現したものである。昼食後、皆、雨に濡れながら笑って見学。
この裏山が談山(かたらいやま)と呼ばれている。この山の中で二人は密談したと言われている。
この後、バスは桜井市へ。三輪山【桃△A】と大神(オオミワ)神社【桃〇A】へ向かう。今回のツアーで、私が一番行きたかったところ。神賀詞では、冒頭にオオナモチ(オオクニヌシ)は自分の和魂(にぎみたま)をオオモノヌシクシミカタマとして大三輪の神奈備に坐し、三人の子と合わせ、天皇の御世の守り神とし、自分(オオクニヌシ)は杵築の宮に静まると誓っている。三輪山に坐すのはオオクニヌシのいわば分身であって、中心となる場所なのである。私が一番注目するのは三人の子の坐す神奈備が今や不明なのに、オオクニヌシの分身の坐す神奈備が三輪山とはっきり分かっていることである。即ち大神神社の御神体は三輪山なのである。これは古代日本人が山や岩などに神が宿ると信じた原初の信仰を今に残していることになる。それゆえ、大神神社には本殿はなく、あるのは拝殿と鳥居だけであり、日本最古の神社とされている。それをこの目で確かめたかったのである。
左、車の中から写した三輪山。太い柱は大神神社へ行く道にある大鳥居の柱。
右、大神神社の拝殿。普通はこの裏に神様の御神体がある神殿や本殿があるが、この拝殿の裏はすぐ三輪山である。三輪山は禁足地であるから入ることは出来ない。ゆえに拝殿と裏山の間には結界がある。
その結界になっているのが『三つ鳥居』と呼ばれる鳥居である。拝殿のすぐ裏にあるが写真撮影禁止。
左の写真がその模型である。
なぜ、こういう形をしているかは分からないそうだ。文献なし。三つ鳥居の礎石は鎌倉時代か、平安時代にまでさかのぼれるそうだ。
三輪山の頂や、中腹、麓には大きな岩がいくつかあり、いわゆる磐座(いわくら)となっているそうだ。山や磐座を信仰したことが窺える。古墳時代からの祭祀の遺跡がある。
藤岡先生に確認したが、出雲国風土記でも399社の社の名前が上がっているが、杵築の宮(出雲大社)は別格として、社の形をとっていたのは5つか、6つぐらいで、残りのほとんどは、山や岩、木などを直接神として拝む形式だったらしい。
当初の目的である原初の信仰の名残を確認できた。
三輪山の南面には出雲の地名が残っている。北西には纏向(まきむく)遺跡があるが、ここには古くは出雲庄があったそうだ。
奈良には出雲以外にも、石見、飛騨、土佐などの地名が残っている。これは平城京の建設に動員された地方の民がそのまま都に残って住み着いたからだそうだ。
雨ますます激しくなる中、夕方、薬師寺へ。
藤岡先生のつてがあって、東塔の解体修理現場に入ることが出来る。最上階まで上がって、修理中の東塔を見下ろす。撮影は許可されているが、ネットに掲載することは不可。その後、玄奘三蔵院伽藍も見学する。5時に閉めるのに、20分もオーバーして見せてもらえる。平山郁夫の遺作を鑑賞することが出来た。閉館後の我々だけの静かな鑑賞は得難い空間で、一生の思い出になった。
この日、ずぶ濡れになりながら、歩いた歩いた。とどめが東塔の修理現場のスロープ登り。1万3千歩ぐらい歩いたそうだ。
3日目最終日は東大寺大仏殿と奈良国立博物館。
広いからここも歩いた。博物館も歩かないと見ることが出来ない。東大寺は杉並区立向陽中学時代以来の訪問。小学生と中学生の修学旅行と中国人ばかり。大変な混雑。
奈良国立博物館は平安の正倉院と言われる春日大社の宝物の展示であったが、私にとっては掛け軸や絵巻物などで、神仏習合の具体的な様子が分かったのが最大の成果であった。いくら本を読んでも、神仏習合は分かりにくい。それが、仏教の側から描かれていたり、神様の側から描かれていると、一目瞭然だったのである。
日本の歴史において、実は神仏習合はとても重要なことだったのではないかと、最近になって見直している。これも出雲国風土記の勉強を始めてからである。今回は出雲国風土記を学ぶものにとっては王道を行く学習旅行であったと思う。
昼飯食って、出雲に戻る。
夜の8時過ぎ、真っ暗な荒神谷博物館に到着。
「あっ、蛍だ」女の人の声で星のない夜空を見上げると、一匹の蛍が舞っていた。