曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

予告を変更。流れで、ノーシン話をもう一発。
こうして嫌々ノーシンを飲みながら、口述筆記の手伝いをしていたが、どうにも師匠の口述が進まない時があった。締め切りが迫るのに一向にやる気が出ないのだ。
鉛筆握って、1時間も2時間も師匠の側で待ち続けるのは苦痛以外の何物でもない。
今日も無駄な一日を過ごすのかとそっと溜息をついた時、師匠が不機嫌な顔で、
「おい、曽田。お前は何のためにノーシンを飲んでいると思っているのだ」
いきなりそんなことを言われても……。
まさか、正直に「お付き合いで」なんて口が裂けても言えない。
返答に窮していると、
「お前はそれでも弟子か」と、一喝!
まあ、それから、怒る、怒る!青筋立てて怒る!
「いいか、弟子と言うものはな、師匠にやる気を出させるのが一番のつとめなんだ。俺がヤクをやって、そろそろやろうかなあと言う気分になった時、さあ、やりましょうとうまくその気にさせなきゃいかんのだよ。それを、何だ、お前は。せっかくノーシンを飲ませたのに、うんでもすんでもなく、ぶすっと座っていられたら、俺だってやる気にならんだろうが。その点、中西隆三はうまかったぞ」
中西隆三(故人)さんは師匠の弟子でも古い方で、高弟格のライターである。日活や東映などで沢山の脚本を書いた。
「中西はなあ、『さあ、師匠、やりましょう』『それ、行け、やれ、行け』『一気に行きましょう』などと俺の尻を叩き、俺もやるかと言う気にさせられたもんだ。口述していても、『いいですねえ』『面白いですね』『どんどん行きましょう』『もっと行きましょう』と乗せるから、シナリオが進んだもんだ。お前もなあ、ノーシンを飲んでるんだから、それくらいやれよ。俺を乗せてみろよ」
弁解するわけではないが、私にも言い分はあった。
実は弟子になったものの幻滅することばかり続いていたのだ。
その最たるものは、師匠にはもうシナリオを書く気がないと言うことだった。もうシナリオに飽きてしまって、書くのが嫌になっていたのだ。
(ああ、そんな人の弟子になってしまったとは……)
落胆隠せぬ私の顔を見て、
「お前はまだ若いんだからシナリオを書けばいいんだよ。俺はもういいけど」
慰めにもならぬことを言われていた。
ノーシン飲んで、ヤクをやった気分になって、ハイな精神状態を演じるなんて無理に決まっているではないか。
その後、師匠は諦めたのか、私に中西さんの役割は求めなかった。
私はと言えば、シナリオが遅れると、徹夜仕事になって辛いから、中西さんほどオーバーには出来ないけれど、尻を突くことにした。

この中西さんのエピソードを一つ。
中西さんが書いても書いても、師匠はダメ出しして突き返したそうだ。
「とうとう中西の野郎、『だったらどう書きゃいいんだあ』と怒鳴り返しやがってなあ……けけけッ」と、笑っていた。
その中西さんが、師匠の一周忌で偲ぶ会を開いた時、
「マツケン(師匠のこと)はなあ、本当は気の小さい男だったんだよ」
と、語っていたことを思い出す。








朝、畑に出たら、レタスも白菜も泥だらけになって耐えていて、ほうれん草たちも無事。ただ、カーポートの屋根が4枚ほど吹っ飛んでいた。
今年、多くの台風は太平洋側を通過、初めてこちらに来た台風も隠岐の島の北を通過。
夕方から数時間の暴風ですんだ。今年甚大な被害を被った地域のことを思うと、この程度の被害ですんだことにむしろ感謝しないと。
土地の年寄りが言います。
「この辺りは大社さんに守られているから」
昔から出雲大社の神領で、年貢は出雲大社に納めていました。
武士の支配をほとんど受けていないのでは?
そのせいか、人も土地も穏やかです。
この穏やかさが続くことを願っています。

弟子になったのは偶然である。弟子になるまで松浦健郎と言う脚本家がいることも知らなかった。大学が嫌になって、シナリオ作家協会が開いていたシナリオ研究所に通っていたのだが、そこの課程も終了間近。終了したところで、ライターになれるわけもない。親は転勤で地方へ行くことが決まっていて、この先どうしたらいいのか途方に暮れていた。そんな時、シナ研の事務の人が、口述筆記の助手を探している先生がいると教えてくれ、「曽田君、行くか」「行きます、行きます」
慌てて作家年鑑を開いて、「へえ、エンタテイメントのライターか」
初対面で弟子になることを決めたのだが、その話は後に譲り、ヤクの話に。

口述筆記と言うのは、師匠が口立てで作るドラマを原稿用紙に筆記する作業である。
シナリオは200字原稿用紙に書く慣わしになっていて、一時間番組で120~130枚ぐらい書く。速記のスキルなんかないから、興が乗った師匠が立ち上がり、身振り手振り、声色まで使い、お芝居入りでドラマを語り始めたら、一言一句書き写せるものではない。
その当時、師匠はTVの「荒野の素浪人」か「人形佐七」か「旗本退屈男」だったかをやっていて、どの作品だったか忘れたが、いよいよ初めて口述筆記をする時のことだった。
「仕事を始める前に、俺たちには儀式があるのだ」
そう言って、大きなクッキーの缶を開けると、中には何やらぎっしりと薬が入っているではないか。
「これは睡眠薬だ」
掌に10錠近い睡眠薬を取ると、いきなり口に放り込みバリバリかみ砕き、一気に水で飲み込んだ。
「心配するな。俺は昔はヒロポンやって、ヒロポンが禁止になってからは睡眠薬やって、今や睡眠薬の飲み過ぎで、睡眠薬を飲むと、眠くなるどころか、逆に反転現象で頭が冴えわたるのだ」
耳を疑うようなことを言い、
「さて、師匠の俺がヤクをやるのだから、弟子のお前もヤクをやらねばならん。でも、睡眠薬をやれとは言わん。1錠でころっと寝ちまうからな」
にやりと笑い、
「お前はこれを飲むのだ」
と、目の前に出されたのが、ノーシンの一包。
「こんなの飲んでもどうってことないから。ヤクのつもりで飲め。飲んだら気合を入れてやるんだ。さあ、やるぞお!」
私は頭も痛くないのに、ノーシンを何百包飲んだだろうか。口の中にいつまででも薬臭い粉が残っていて、本当に勘弁して欲しかったけど絶対に許してはくれなかった。
2、3年後、さすがに薬事行政もうるさくなって、いくら懇意な医者でも、無制限に睡眠薬を出すことが出来なくなり、ノーシン地獄からは解放されたのであった。
その後、私は今に至るまで、ノーシンを飲んだことはありません。




次回予告「ヒロポン中毒の監督が撮った映画」か「あれが三船敏郎だったとは」











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