曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

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古いワイシャツが儂の作業着。畑をやり始めて何年かして遊び心で背中にマジックで(農)と書いた。3枚あったがその後の作業用ワイシャツは「無字」のまま着ていた。ところが先日、買ったばかりの洗濯できるワイシャツ゚を作業着用と思ってうっかり着てしまったら、土と草の汁で使い物にならなくなってしまった。たった一回しか使っていないのに。冠婚葬祭用にアオキで買って5000円くらいしたのだ。新品の洗濯したワイシャツと作業用を間違えないように、慌てて「無字」の作業着用に(農)と書こうとしたのだが、6枚も(農)ばかりだと(能)がないので、(畑)と(土)と書いた。人は笑っているけど、こんなおふざけでもしないことには百姓仕事なんてやってられない。たいしたことをしているわけではないけれど。
そして、このシャツを着て、秋シーズンに突入。
右の写真は9月8日。敷き藁が余ったので、二つ目の枯れ葉と藁のミルフィーユを作る。面倒くさくて、未だにブルーシートを被せていない。
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9月10日干しネギ           9月10日安納芋バイオ
池の東側に九条ネギの苗を植えたが、この夏の猛暑で殆ど枯れてしまったので、同じ九条ネギの干しネギを買って来て植える。干しネギなるシロモノがあることをすっかり忘れていた。気が付いていたら、暑い最中に、苗を植え、育てる手間が省けたのに……。
そろそろよかろうと、一番早く植えた安納芋バイオを掘ってみる。
右の写真は、何とわずか一株に出来た安納芋バイオである。こんなに沢山できるとは!7年目にして初めて。これならばと、期待に胸を膨らませて残りの4本を掘ったら
大小4個~6個程度なり。なぜ、この株だけこんなに出来たのかさっぱっりわからん。
この暑さのせいか、安納芋バイオの苗も10本中5本も枯れてしまった。こんなことも芋づくりをして初めてのこと。
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9月10日芋つる            9月16日さつま芋御飯
安納芋バイオのツルを早速食う。写真は炭酸(重曹)で茹でてあく抜きをしているところ。皮も柔らかくなるので、いちいち皮むきをしなくても簡単に料理できる。それを知らないから、去年までは芋のツルの皮を剥いていた。大変な作業。儂はやらないけれど。この後、鍋で炒めて、醤油や味醂で味付けする。
この芋ツルを農協のスーパーで一束(軽く握ったぐらい)150円で売っていたそうだ。こんな田舎でわざわざ買って食べる人がいるのだろうか。貰おうと思えばだれからでも貰えるのに。ただ今年のツルは例年に比べて細いと皆異口同音に言う。
さつま芋御飯はバイオ金時で作る。両方とも儂が作った訳ではない。助っ人の妹が作ってくれた。儂は講釈だけ。NHKの「ためしてガッテン」でやっていたが、安納芋や紅はるかは粘質系。金時は粉質系。今年はたまたまこの3種類を作ったので、食べ比べが出来る。
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9月16日お隣の稲刈り         9月16日お隣の田圃で遊ぶまる子
連休を利用して、娘夫婦が犬を連れて戻って来た。それに合わせて、妻も外泊。
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妻の足にじゃれるまる子。妻は初めは「モモ」(昔飼っていた柴犬)と呼んでいたが、一日たったら「まる」と呼んでいた。娘にも会えたし、楽しい外泊だったろうと思う。
右の写真は御主人の帰りを待つまる子。
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左の写真。
9月15日。
大根の種を植える。
おでん大根24本分。
おろし大根26本分。


上の写真。9月17日。
種は一つの穴に4個ずつ植えたが、早くも2個芽が出た。
雑草を抜くのが大変なので、今年から黒マルチを張る。しかも、大根も垂直農法で育てる計画でいる。乞う、ご期待。


イメージ 13敬老の日。
二人分届けられる。赤飯と紅白饅頭。
配達してまわる町内役員から、来年は儂が配って回るのだと教えられる。
島根県は有数の長寿県で、100歳以上の人口比も1位だったのかな。父は100歳は無理でも、東京オリンピックは見ると言っていたが、この夏の急速な衰えぶりを目の当たりにすると、一緒にオリンピックを見ることが出来るのだろうかと思ってしまう。

先日、出雲市塩冶町在の親戚のお葬式があった。そこで、儂が「曽田」の発祥を探っていて、塩冶に「曽田」と言う地名があることを話したら、後日、親戚の一人が「出雲塩冶誌」のコピーを送ってくれる。その小地名の項に、
〇中世、塩冶八幡宮への寄進状に「そたノ後」
〇慶安4年(1651)塩冶村御検地帳に「そた」
〇明治9年・下塩冶村道水路取調帳に「曽田堤」
が、あることが分かる。その人が、「出雲塩冶誌」を作った人を紹介してくれたので、今日(7日)、大雨の中訪問する。
元公民館長のIさんは82歳翁。ワープロが出始めた頃から古文書を解読する作業を進めていて、膨大な資料を作っておられた。ワープロ化されていることがどれだけ後学の者に役立つことか。頭が下がる。独学で古文書の勉強をし、塩冶の土地台帳の古いものが広島大学にあるので、何度も広島大学に通ったと言われる。儂に見せたいものがあると用意されていた資料もあり、不自由な体でコピーも取って下さる。
「曽田」関係のみならず、御維新で官軍が出雲を通過する時の緊張した様子を知らせる資料や、検地の時、百姓が「うそいつわりは申しません」と血判した資料などのコピーを見せてもらう。これは珍しいものらしい。
しかし、Iさんをもってしても、曽田の地名の謂れや苗字との関係は不明。
出雲図書館にIさんたちがまとめた「出雲市民文庫」があるので、読むことをすすめられる。その足で図書館へ。

市民文庫3に、
〇寛正3年(1462室町時代)9月「日御碕神社神田打渡状」に、「貮段神東村(塩冶村の前身)、坪者多田曽田在」との記述を発見。

市民文庫6には我が菩提寺の高円寺(臨済宗)の先代住職の話が載っている。
我が現住所は出雲市荒茅町というが、その前身は古荒木村と荒木村と茅原村が明治に合併して出来た荒茅村である。住職曰く。「塩冶から荒茅に移ってきた曽田姓で代数が大きい家は菩提寺は塩冶の神門(かんど)寺(浄土宗)です」
神門寺を菩提寺にする曽田を三人くらいすぐに名前が出て来る。いずれも古い家だ。

その日、偶然、その話を補強する話を教えてくれる人あり。
荒茅の南に、また別な曽田さん(菩提寺は高円寺)がいるのだが、その人で12代目。儂と同じ歳。その人の家には、「自分たちが荒茅に移った時、塩冶から5人一緒に移った」と言う言い伝えがあるそうだ。それが、全員曽田姓だったかどうか分からない。実は儂も12代目である。となると、5人一緒の開拓グループの中にわが家も入っているようだ。状況証拠しかないけれど、我が家の先祖は、出雲の中心塩冶郷(風土記の時代から続く)から、湿地のド田舎に移ったのだ。

ここまで書いて、なぜ曽田の地名が出来たのか、曽田の姓がどうして出来たのかまだ答えが出ないのだが、お待たせしました。いよいよ表題の【「そた」は美女だった】
のお話を紹介する。

市民文庫3に「塩冶村史」からの一部が紹介されている。
『(前略)彼の孝女だけは一心に苗を植えていた。老母を養うために雇われ。賃を得ようと思って田植えをし、一刻も休んではならんと働いているのである。そこで勅使が出雲に下向になさったわけを知らせて、履(くつ)と絵にひきあわせると、この女は丁度作ったように符合したといふ。この女は「そた」といふものであったので、この地を後に「曽田」といふことになったといふ」

「塩冶旧記」によると、
『(前略)王は(夢さとしにより)使者を出して貴女を求めしに、使者玉津の処まで来たりし時、多くの田植え女の中に全身より光のさせる女一人居たり、仍って使者はこれを見つけて「あそこにいるのがソンダ」と云ひてその姫を連れかへれり。それよりこの地を曽田と称するに至れりと称す』

これによると、「そた」と言う名の美女がいて、それが地名の始まりとなるのだが、
にわかには信じ難い。その通りだったら、これほど嬉しいことはないのだが、いかにも作りものっぽい話である。そもそも曽田と言う地名も、姓も日本のあちこちにあるのだから、日本中の曽田がすべてこの話を発祥とするには無理があろうと言うものだ。

このシンデレラに似た話には元ネタらしき話がある。
「日本伝説集」によると、
「光仁天皇は。ある夜、出雲大社の神のお夢を見られた。大神は一枚の画像と一足の履をさずけて、「この美女の画像と履をしるしに、国々に御幸なされよ。世に二つとない美女をえさせられる」と告げた。帝はお喜びになって、お供を連れて旅だった。
(略)
宝亀2年の5月、御輿は出雲の国に入った。神門の原に立つと、遠くに大社の黒い森が霞んでいた。早乙女たちは田植えの手を休め、我先に御幸を迎えようとして道に上がった。この時、苗田にただ一人残って働く処女があった。侍臣の一人が不審に思って声を掛けた。「それなる女、お前も早く来て尊い画像を拝むがよいぞ。富貴を欲しくは思わぬか」処女は「尊いものを拝みとうございますが、雇われる身は、手を休めるわけにはゆきません」と答えた。処女は上朝山の里の生まれで、父は三歳の時に遠国に去り、母の手一つで育てられたが、その母は病床に倒れ、いまは里人の厚意にすがって働いていたのである。
侍臣は律儀な処女に深く感じいった。近づいてみると、その処女はかの画像の美女に瓜二つであった。招き寄せて履をはかせると、それは所持の履にしっくりとあった。
処女はやがて帝につかえるようになり、吉祥姫と呼ばれた。姫は御子を産んだのち、老母が重病になったので上朝山に帰った。帝もその後を追って姫とともにしばらく神門郷の智井の宮に住まわせられた。帝が崩御されたので、所原の王院山に御陵を築いた。それが院の塚である。姫の塚は上朝山にある。

「そた」美女の話は、上記の話を元ネタに作られたと考えるのが自然だろう。
それにしても、なぜ、「そた」と言う名前が出て来たのか?女の名前で「そた」なんて存在するのだろうか。後の話で「ソンダ=尊田」とあるから、こっちのほうが地名の発祥に近いのかもしれない。現時点では、たまたま曽田という地名に住んでいて、曽田と言う人が地名や名前に値打ちをつけるために作った話かもしれないと思っている。
依然として雲をつかむような話である。しかしながら、真偽のほどはさておき、これだけ色々な話が出て来るとは予想外だった。
さらに調べ続けたら、どんな話が出て来るか、楽しみではある。乞うご期待。

8月10日隣の田圃           9月2日稲刈り
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左の写真はお隣の田圃。この数日前にキラキラ光る防鳥テープを張った。毎年、この辺りでは田植えが一番遅いのだが、今年はなぜか一番早かった。そうするとどういうことが起きるかと言うと、真っ先に雀の集中攻撃を受けたのだそうである。お隣はこんなテープを張るのは初めてのことだとぼやいていた。慣れていないので、張り方がいかにも初心者ぽい。
右の写真は、暑い夏を越した特養の近くの田圃。わが家のお隣はまだ稲刈りはしないが、ここは早々と稲刈り。妻と見物する。
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8月30日。藁と枯れ葉のミルフィーユ作りを始める。
カボチャ畑を整理したら、敷き藁が大量に残った。燃やしてしまうのは勿体ないので、農業雑誌の記事を参考にしてみた。雑誌ではススキと枯れ葉を推奨していたが、ススキなんて大量にないので、藁で試してみる。最後に米のとぎ汁をかける。
イメージ 5ブルーシートで包む。これからは時々米のとぎ汁をかけるといいそうだ。
庭の枯れ葉を集めて運ぶのも大変で、トマトやナスを抜いたりの作業もあったので、夕方だけの作業で数日かかる。
大型台風21号が来ると言うので、9月3日に大急ぎで仕上げる。いい堆肥ができるといいのだが。
9月4日。大型台風はまたもや出雲を避ける。激しい雨が降ったのも一時だけ。当地にとっては丁度良い御湿りになった。この夏は例年より多くの台風が来たが、ことごとく出雲をかすめる。出雲地方は被害ゼロ。ただただ暑かっただけであった。これだけ無傷だと被害を受けた地方の人たちには申し訳ないと思う。
激しい雨が上がったので、さつま芋の『ツル返し』をする。
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手前が安納芋バイオ、向こうがバイオ金時。ナスは抜いた。秋ナスはやめる。
イメージ 8左はツル返しした紅はるか。
安納芋バイオの苗を植えたのが5月12日。
紅はるかが5月25日。バイオ金時が5月28日。さつま芋は110日~120日で収穫する。この後まだツル切りをして、一週間ぐらいしてから収穫するので、逆算するとツル返しが遅いかもしれないが、ぼやぼやしていたら今日になってしまった。
ツルからは不定根という養分を吸収する根が出て、ますます養分過剰になってツルぼけしてしまうのだそうだ。そこで、養分をイモに転流させるためにツルをもちあげて引っ繰り返す作業をするのだそうだ。
雑誌にはそう書いてあったが、実は去年までそんなことをしたことないし、近所の人も誰もそんなことはしていない。それでもなんとかできているから、ここまで教科書通りにしなくてもと思わないでもないが、やってみる。
ただ、今年は異常な暑さのせいか、ツルの伸びが例年ほどではない。紅はるかも3本枯れてしまった。苗が枯れたのは初めての事。安納芋も2本枯れた。今年のさつま芋は余り自信がない。
これから秋冬野菜を植えないといけないのだが、暑くて全然取り掛かれていない。大根やカブの種を蒔きたいのだけれど、誰か農作業ロボットでも作ってくれないものかと思う今日この頃である。

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