曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

今日が妻の誕生日。日曜日は事務室が休みなので昨日娘の誕生祝い(足からおしゃれしてねと靴下)と儂の祝い(焼き鳥とノンアルコールビールとイチゴのショートケーキ)を届ける。11日に娘は帰京したのでまだ14日間が経過していないので面会は出来ない。
10月19日に娘がスマホ面会してくれた。
何かの話で「(儂が)いも好きだから」と笑い、「イモよりも(娘)が好きよ」とまた笑わせ、スマホで娘に会えて「涙が出て来た」と目をおさえる。
娘が「王さん、覚えてる。お母さんが日本語を教えてた」と聞くと、「ああ、懐かしい」と答える。「頭が良かったから教えがいがあった」
脳に重い障害を負ったので覚えていたことに驚く。
王さんは御主人が技術者で日本の会社に派遣されていた。スーパーでバイトをしていて妻と知り合ったのだ。バイト仲間の主婦に嫌な思いをさせられて悩んでいたのを馬鹿な主婦なんか相手にするなと励まし仲良くなったのである。日本語がうまく通じない時は娘と英語でやりとりしていたが日本語の検定試験にもすぐに受かった。妻が倒れた時はとても悲しみ見舞いに来てくれた。八王子のリハビリ病院にまでも見舞いに来てくれた。
翌年、娘がモンゴルの孤児院にボランティアで行った時、北京経由だったので娘は帰国していた王さんと再会。日本ではお世話になったからとあちこち連れて行って貰い、その日はユースホステルに泊まる予定と知ると「そんなホテルには泊まったらいけない(余りいいホテルではなかったらしい)」と自宅に泊めてくれた。
娘がそんな話をすると「いい人だったわねえ」と妻は答える。
それで思い出したのが妻のもう一つの国際交流。王さんとのおつきあいと時期がwっていたような記憶がある。
韓国人の青年二人組。家の前で二人に道を尋ねられたことから家に招待してお好み焼きを作って食べさせたりしていた。近くの韓国人留学生のアパートに住んでいた。まだ日本語は不自由だったが一人が英語が出来たのでここでも娘が通訳していた。二人は日本人の家に上がるのは初めてだと喜んでいた。休みに帰国する時、妻は一人の両親に宛てて「あなたの息子はとてもいい子に育っている」と手紙を書いた。本当に好感の持てる青年だったのだ。戻って来た時、親からのお土産だと壺に入った朝鮮漬を届けてくれた。この青年、娘と肩を組んで(勝手に)写真を撮って行った。
妻が倒れたので暫く会えず、久しぶりに一人訪ねて来た時、妻が倒れて再起不能の状態だと教えたら今にも泣きそうな顔で悲しんでくれた。
王さんもあの若者も今どうしているのだろう。
大学へ行くのが夢で、留学なんて夢のまた夢だった妻は、異国で学ぶ若い人たちをとても羨ましく思い、少しでも力になってやりたいと思ったのだろう。
王さんの話からすっかり忘れていたことを思い出した。妻らしい国際交流だった。

語録(25)

2007.12.2

「知り合った頃の写真を持ってる?ちょっと見せて。どんな人好きになったか、どんな自分だったかみたいの」

2007.12.4

「高菜でもう一膳ちょうだい」

「食べ過ぎだよ」

「覚えといてよ。一膳くれなかったことを」

2007.12.7

「カレーちょうだい」

「もうご飯ないよ。ルーしか」

「じゃあ、ルー大柴ちょうだい」

2007.12.8

「寒くない?」と、しつこく聞いたら。

「寒くない、寒くないと言われたら、寒くなるでしょう。お父さんにも痛くないと聞くよ。お父さんが痛そうな時に。痛い?と聞くよ」

2007.12.9

「お父さん、いつも私を監視してるのね。それが嫌なの」

2007.12.14

「夢の中で泣いているとお父さんが拭いてくれるの。『邦子まだ泣いているのか』と」

2007.12.16

(TV見ながら)

「こういうの見ながら、お父さんの名(脚本)出ないかなあと思ってるの」

※この頃はもうTVの仕事をしていなかったので胸が痛む。

2007.12.28

「左手(マヒした方)が痛い」

「もんであげるよ」

「いいよ、あんたなんか」

手を持ったら

「あっ、そうしたら痛いよ。人の手を何と思ってんだ」

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デイサービスへ行く準備をしていると

「プールへ行く準備をしてくれてるの?ありがとう」

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「モモちゃんを(愛犬)を叱らないで、私が叱られてるみたいで辛いから」

2007.12.29

寝かせている時

「○○兄ちゃん(従兄)は優しいねえ。○○兄ちゃんでしょ」

「お父さんだよ」

「うそ、お父さん、そんな優しくないもん」

2007.12.30

「私、ママちゃんが勤めてたから言わなかった。せつなかったよ。運命だと思ってた」

※母子家庭だったので色々我慢していたことを言ったのだと思う。

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「○○兄ちゃん(従兄)といると温かい」

「○○兄ちゃんじゃないぞ。俺」

「それでもいいけど、優しいんだよ、○○兄ちゃん」


毎年、我が第三隣保の一畑講は11月3日に一畑参りをしている。13人が車に分乗して40分ぐらいかかる一畑薬師にお参りし、本堂に上がり祈念して帰る。何年か前まではお昼は参道のお店の二階で精進料理を食べていたが、近年は戻って来て自治会館で仕出し弁当を食べ、ビールを飲んでいた。
先月、自治委員の儂と町内委員のMちゃんと「もうやめたいなあ」と話をした。「今はもう昔と違ってサラリーマンをしている人もいる。折角の休日ぐらい休みたいだろうし」「二隣保なんて二十年前にやめているもんな」「いまだにやっているのはうちの隣保だけだよ」「まだやってるのと呆れてるものなあ」「でもうちの隣保はやめようなんて言い難いよなあ」とぐちっていて、結局、コロナを口実にして、今年の一畑参りは中止にすべきかどうか意見を聞いてみようということになった。本心は「コロナがこわいから今年は中止にしよう」と皆が言ってくれることを願っていたのである。
9月27日に集金会があった。儂が「今年はどうしましょう」と聞いたら、一人が「もうやめようよ」と言い出したかと思うと、皆、口々に「やめよう」「もういいんじゃないの」と言い出すではないか。「年だから行くのがえらい」「うちのおやじももうやめてもいいんじゃないかと言っていた」云々。誰一人として続けるべきだと言う者はいない。何と、あれよあれよという間に中止どころか一畑参り自体をやめようと言うことになった。
そして、毎月、一畑講として講社仏具を持ち回りで飾っていたのだが、その仏具も一畑薬師に返そうと決まった。
終わった後、Mちゃんと二人で大喜びする。二人ともまさか一畑講講社が解散するとまでは思ってもいなかったのだ。「なあんだ、みんな、本当はやめたかったんだ」「誰も言い出さないから黙っていただけなんだ」
儂も仕出し弁当の手配やビールやお茶の手配をしなくても済んだのでやれやれと肩の荷を下ろす。
まだ仏具を一畑さんに返しに行く仕事があるが、仕出し弁当の手配やビールを買って来て冷やしたりする手間を考えたらドライブみたいなものだから気が楽だ。
10月に入り、9月に仏具を飾っていた最後の家から仏具一式を受け取る。
この仏具一式、我が家にも年一回回って来るのだが実は面倒くさくて一度も飾ったことがない。返却するに当たり、どんなものか見ておこうと思い、返却前日に開けてみる。
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仏具箱
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掛け軸と道具類。初めて見たので並べ方も使い方も分からない。掛け軸はガムテープやセロテープで補修してあった。これを最後に飾った人は儂と同年輩。「わしが子供の頃から飾ってあった」とやめようと言ったくせに懐かしむ。
出雲地域で一畑信仰が盛んになったのは幕末から昭和初期にかけてで、その間に「一畑薬師」と彫られた燈籠が出雲市内では140基建てられたそうだ。そのうちの一つが組内にあり毎年7月に「燈籠さん祭」をしていることはブログでも紹介した。このお祭りをしているところも残り少なくなっている。これで我が組内の三つの隣保はすべて一畑講を解散したことになるのだが、「燈籠さん祭」はまだ続きそうな雰囲気である。
10月17日
仏具を返却しに一畑薬師へ一人で行く。午前中、宍道湖畔の道は15℃だったが昼前から晴れる。
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島根半島の山の中を登って行く。     本堂。
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仏具を返却して帰るつもりでいたら、講社解散の供養をしなければいけないと言われ、第三隣保を代表して本堂へ上がる。10時からの祈願者はいなくて、わし一人だけが供養することに。「おんころころ せんだり まとうぎ そわか」を三回唱えてから、僧侶に合わせて一人でお経を読む。読経が終わった後、講社解散の理由を問われて、高齢化が進みお参りできなくなる者が多くなったので、これからは個人でお参りしますと神妙に答える。
そうは答えたものの次に一畑さんへ来ることなどいつになるかわからないので、この機会にと有名な千三百段の階段を降りる。
この階段は一畑さんに東側から登る階段だが登る人はほとんどいなくて荒れている。みな車で登って来る。秋の一畑マラソンのコースに入っている。毎年地方のニュースでは必ず秋の風物詩として取り上げられるのだが、この秋はコロナでマラソン大会は中止になった。
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左の写真:本堂から半分ほど降りたところで道が横切る。帰りを考えたらこれ以上降りるのは大変そうなのでここからUターンすることにした。後で土産物屋で聞いたら行かなくて正解だと言われた。これから下の階段は足元が悪く滑りやすいのだそうだ。
右の写真:降りてき来たところを引き返して登る。
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右の写真:山門に至る最後の階段。
土曜日で人もまばら。土産物屋は9月まではさっぱりで、9月の四連休からようやく人が来るようになったと言っていた。一畑饅頭を買って帰る。この饅頭を揚げたものを食べさせてくれたがとても美味かった。しかし、脂質を控えている儂は油物は食えない。
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山を降りて宍道湖へ向かう道の途中に佐香(さか)神社がある。お酒の神様として有名な神社で、お酒発祥の地と言い伝えられている。一度行ってみたいと思っていたのでこの機会にお参りする。
出雲風土記の楯縫(たてぬい)郡の佐香郷(さかのさと)の地名の由来となった神社である。ここに神様が集まって酒を造ったと風土記には記されている。風土記には佐香社と記されている。
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楯縫郡には28社あって、そのうち神祇官に名前が載っているのは9社で、佐香社はその9社の一つであるから
古来由緒のある神社なのであろう。
帰りに平田の「文吉うどん」に寄って、うどんを食う。

第四章 初陣(6

 

 八月に入ってすぐの朝、辰敬が朝餉の後片付けをしている時であった。門の方から蹄の音が轟き馬の嘶きがしたかと思うと急に邸内が騒がしくなった。何事かと長屋から顔を出すと折烏帽子に袴姿の武士がこちらに向かって来るのが見えた。武士は辰敬に気が付くと、

「おお、若。辰敬様」

 大声で呼ばわりながら駆け寄り辰敬の前で膝を折った。

「お懐かしうございます。安達三郎助にございます」

 辰敬は目を見張った。見上げる顔は辰敬が上洛した時、庄兵衛と共に上洛した多胡家の若党であった。あの時、辰敬と同じように初めての上洛に目を輝かせていた若党は、別人のように厳しい面構えの武士になっていた。三郎助は底光りのする目を細めた。

「がいに(たくましく)おなりになられた。これなら立派に初陣を果たせましょう」

 遠巻きにしていた家中の侍達や奉公人達からどよめきの声が上がった。その言葉を聞いた時、辰敬は来るべきものが来たと思うと同時にほっとしたのも事実だった。もう思い煩わなくともいいのである。辰敬の運命は決まったのである。覚悟していた事であり、逃げる事の出来ない事であり、従わざるを得ない事なのである。父も二人の兄も通って来た道である。

「初陣の御迎えに参じましてござる。悉皆(しっかい)入道様より、此度の伊予様(経久)御上洛の戦いに参陣せよとのお言葉でございます。介添えは森山庄兵衛様と某が務めるようにと仰せつかってござる」

「なに、庄兵衛も来ているのか」

全身を包みこんでいた重苦しい靄がすうっと消えた。三郎助は頷くと、

「我ら尼子勢は昨日八木城下(現在の亀岡市)に着到。直ちに某がお迎えに上がりましたが、夜中ゆえ、夜が明けてから参った次第にございます」

 にかっと笑って辰敬を急き立てた。

「森山様は首を長くして待ちわびてござりまするぞ。いざ、とくと参らん」

 辰敬は上洛した時、父から貰った刀を差すと三郎助を追った。他に持って行くほどのものはなかった。

 門前には二頭の馬が繋がれていた。辰敬が跨ると三郎助はどうと勢い良く馬腹に蹴りをくれた。鋭い嘶きを残し馬は矢のように駆け出した。辰敬も鞭をくれた。

 白い土埃を巻き上げ燃え上がる陽炎の向こうに消える二騎を、家中は呆気にとられたように見送っていた。辰敬にとっても家中にとっても、後になってそれが別れだったと気がつくあっという間の別れだった。

 家中とはお互いにもはや別れを惜しむ間ではないが、辰敬は前を行く馬の尻に必死に食らいつきながら後ろ髪を引かれるものがあった。思い出が一杯詰まった邸にきちんと別れを告げたかったのである。同じ長屋に暮らした次郎松たち何人かの仲間だけには感謝の気持ちを伝えたかった。せめてもの別れのけじめをつけたかったのだが、次郎松たちはもはや遠く背後の人になっていた。

 二騎は都大路を駆け抜け、嵐山から保津峡へ向かった。渓谷沿いの道を越えて山陰道へ出れば八木城までは一っ走りだ。丹波へ行くには京の七口の一つである長坂口から北上する長坂街道が主要路であるが、だらだらと上りの山道が続き遠回りになるので保津峡を抜ける道を選んだのである。

丹波国は都の防衛上の要地であるのみならず、丹後や若狭の海の幸を都へ運び丹波の豊かな山の産物とともに都の台所を支えていた。細川政元が細川澄之に譲り、澄之が滅びた後は細川澄元が守護となり、その澄元が逐われてからは管領細川高国が守護となっていた。八木城は丹波国の守護所で城主は守護代の内藤貞正である。

途中、休息を取った時、三郎助が語るには尼子勢は八木城下の寺を宿所にしていた。石見の諸将が追いつくのを待ち、揃った所で大内義興の指揮下に入るのだ。

 丹波も都に劣らず暑かった。昼前に人馬ともに埃まみれとなり、滝のような汗を滴らせ喘ぐように八木城下に辿り着いた。宿所は八木城が聳える山裾にあった。四つ目結いの流れ旗を目にした時、辰敬は不意に言い知れぬ悲哀に襲われた。なぜなら四つ目結いは辰敬にとっては京極家の(しるし)だったからである。尼子氏も同じ佐々木一族なのだから家紋が同じでも不思議はない。物心ついた時から尼子の四つ目結いを見て育った。だが辰敬には伊予様が御屋形様から奪った家紋のように見えてしまうのであった。

 三郎助に案内されて寺の宿坊の一つの前に来ると、玄関に今や遅しと待つ白髪頭があった。その白髪頭がはっと辰敬を認めるとみるみる笑みが蕩けるように広がり、

「辰敬様」

「庄兵衛」

 懐かしさが駆け寄りぶつかった所に二つの笑顔があった。だが二人ともすぐには言葉が出なかった。庄兵衛は若者の眩しさに目が眩み、辰敬は皺だらけの顔に息を呑んで。もともと薄かった頭は禿げあがり、後退した髪は干からびた白い藻屑のように禿げ頭に貼り付いていた。六年の歳月は人生の坂を上る者と、下る者の差を残酷なまでに変えていたのだ。

「がいになられて……」

 庄兵衛からも同じ言葉を聞き辰敬は身を竦めた。がいになったと誇れるほどの男になったと胸を張るだけの自信がないことは己が一番よく知っている。もっと多聞の許で修行に励んでおれば。今更悔やんでもどうなるものでもなかったが。こんな自分が初陣に臨むのだ。どやどやと十数人が飛び出して来た。

「若ッ」

「お久しゅうござります」

 家の子郎党達だった。いずれも見知った顔ばかりであった。一番若いのは飯炊き爺さんの孫だった。百足(むかで)丸と言い辰敬より二つ上で、相撲も喧嘩も一番強いごんたがそれこそがいな男になっていた。彼らが馬の口取りや足軽として従ってくれるのだ。頼もしい家来たちに思えた。庄兵衛を除けば。萎えかけた気分が少し戻った所で、早速伊予様に御挨拶することになった。

 庄兵衛に伴なわれて本堂の前に控えていると、暫く待たされてから濡れ縁に気配がした。 庄兵衛が平伏したので辰敬も慌てて平伏した。衣擦れの音が辰敬の耳には雷鳴の如く轟き、その頭上でぴたりと止むと辰敬は脳天に焼けるような視線を感じた。伊予様が見下ろしている。身がすくんだ。とても長い時間に感じられ、この沈黙がいつまで続くのかと耐え切れなくなった時、

「面をあげい」

 辰敬ははっと顔を上げた。真上にあったのは覇者の顔だった。高い濡れ縁に立つ伊予様がまるで天空から見下ろすかのように見えたから、尚更そう感じたのかもしれない。涼やかな麻の直垂(ひたたれ)さえも壁のように思えた。まともに見てしまった無礼と恐怖に震え、辰敬は思わず目を伏せてしまった。怖かった。人を睥睨し服従させる事が飯を食うのと同じように当たり前になった人の顔があった。人の顔でありながら人ではない。武士の顔でありながら武士ではない。人も武士も超越した顔。即ち覇者としか言うべき言葉を辰敬は知らなかったのである。まともに目を合わせる事が出来ないのが悔しい辰敬は心の内でこう呟くのが精いっぱいだった。

(この人が御屋形様を殺したのだ……病の御屋形様の枕辺で、高らかに出雲の大社(おおやしろ)の造営を宣言したのだ……)

 人を支配するのに無駄なものをすべて削ぎ落すと、あのように冷酷で強烈な意志の塊のような顔になるのであろうか。

「わぬしが入道の裾の子か」

 裾の子と言う言葉の響きに辰敬はよそよそしく冷ややかなものを感じた。覚悟していたことだが、伊予様は辰敬を御屋形様に御奉公し、御屋形様から事の他愛された若者としか見ていないのだ。辰敬は心の内まで見透かされたような気がして身を縮めた。

「はっ、多胡辰敬にございます」

「ふむ」

 それ以上、言葉を掛ける事もなく直垂の裾が翻った。対面は一瞬にして終わったが、辰敬の全身は熱湯のような汗が噴き出していた。

 

 その夜は懐かしい顔に囲まれてささやかに数年ぶりの再会を祝った。酔った大声の出雲訛りに包まれた時、辰敬はあらためて都が遠のいたことを思い知った。

 翌日、早速、(よろい)着初め(きぞめ)をすることになった。

武士の子の成長段階においては元服、鎧着初め、初陣の三つは、誰しも必須の通過儀礼で、初陣を果たして初めて一人前の武士と認められる。鎧着初めは元服と同時に行われる事もあるが、普通は元服をすませたら一、二年の内にすませる。辰敬の場合は元服を簡略に済ませ、すぐに上洛してしまったので、この年になるまで鎧着初めをする機会を逸していたのである。そこで初陣の前に大急ぎで鎧着初めをすませておくことにしたのだ。

 辰敬は井戸で身を清めると、帷子(かたびら)を着て宿坊の本堂に入った。すでに出雲から運んで来た鎧櫃(よろいびつ)などの唐櫃(からびつ)が並べられていて、三郎助たち家の子郎党が神妙な顔で控えていた。鎧親は庄兵衛が務める。

唐櫃から真新しい具足下着が取り出されると、辰敬は三郎助達の手でいきなり素っ裸にされ、(わり)(ふんどし)と呼ばれる下帯を付けられた。普通の下帯は腰で結ぶが、鎧の下に着ける割褌は長めの肌帯で、股下を通しずれないように腰でひもを回して抑えると、前は胸、後は背中まで引き上げ、首の後ろで緒を結ぶ。これなら鎧を着けたままでも首で結んだ緒をゆるめれば排泄が出来る。その上から鎧直垂を着て袴を付けるのだが、その袴も足を開けば左右に割れ排泄が出来るように仕立ててある。

これらの真新しい下着や装束は母が揃えてくれたものと庄兵衛は言った。覚えのある香が焚き込めてあった。

その後は足袋、草鞋(わらじ)(すね)(あて)(はい)(たて)(膝鎧)、籠手(こて)などを着せ替え人形のように手際よく付けられ、いよいよ鎧を着る段となった。鎧櫃は縦長の小さな脚がついた唐櫃である。庄兵衛が蓋を開ける時、辰敬の胸は期待と不安で高鳴った。どんな鎧なのだろう。これからはその鎧を着て戦う事になる。辰敬の命を守ってくれる具足になるのだ。

現れたのは黒糸(おどし)の胴丸であった。腰から太腿を守る七間(七枚に分れている)の草摺(くさずり)も黒糸縅である。偑楯も黒糸縅で臑当や籠手も黒漆が分厚く塗られているから、全体的に随分地味な具足だ。それが辰敬の第一印象だった。

庄兵衛が言うには、多胡家重代の鎧は正国の初陣の時に着たのだが、正国が重くて音を上げたので、今回は富田の城下で余り重くない物を探し求めたのである。胴丸や草摺、肩を守る袖、草摺から下の膝までを守る(はい)(たて)は、小札(こざね)と言う短冊状の小さな鉄の板に漆を塗った物を威毛(おどしげ)(糸や革)で縦横に繋いで作る。

正国が着用した胴丸の小札はすべて鉄であった。一枚の札には六つの孔と七つの孔が縦二列に開いている。これを横に重ねて威す時、半分重なるように孔を重ねると、小札が二重になる。強度は増すが重くなる。昔からの製作方法である。辰敬の鎧は伊予札と呼ばれる威し方で、小札の重なりを僅かにずらしただけなので、当然使用する小札の枚数も少なくて済む。その分強度は劣るが軽くなる。しかも、辰敬の胴丸はすべて鉄の板ではなく、革をなめして黒漆で固めた小札も混ぜてあるので、さらに軽くなっていると庄兵衛は微笑した。

辰敬は軟弱者扱いされたようで自尊心を傷つけられたが、初めて付けた胴丸は高紐が肩に食い込みずしりとこたえた。太刀を差すと三郎助が頭全体を包み込むように鉢巻きをした。

庄兵衛が兜櫃に向かった。

辰敬は固唾をのんで見守ったが、庄兵衛が取り出した兜を見て鎧に感じたのと同じような物足りなさを覚えた。それは(すじ)(かぶと)で鉢は黒漆塗り。𩊱(しころ)は黒糸縅。前立は三日月。よくある形の前立てだ。むしろありきたりと言ってよい。しかも小ぶりで艶消し。まるで霞のかかった三日月のようだった。辰敬は兜ぐらいは美々しく、前立も勇壮で心躍るような形を期待していた。前立は軽く作るものであるから、もう少し大きく形にも工夫があってもいいのではないかと思ったのだが、考えてみれば、鎧に合わせれば兜も地味になるのが当然で、おとなしいものにならざるを得なかったのであろう。とは言え、これでは頭の天辺から足先まで黒ずくめではないか。が、晴れの鎧着初めに不服な顔をするわけには行かないので、黙って儀式の進行に従った。

 元服も鎧着初めも初陣も祝い方はほぼ同じである。出雲で祝った元服は簡略であったが、此度も祝いの道具類まで出雲から運ぶ訳にはゆかず、すべて借り物だったので、さらに簡略にならざるを得なかった。

 三郎助たちが、一の折敷に、打鮑・勝栗・干昆布の三品の皿、二の折敷には三つ重ねの土器(かわらけ)を載せたものを辰敬の前に進めた。本来なら三役がいて酒の受け渡しにも決まりごとがあるのだが、道具のないところは省き、庄兵衛と三郎助の二人が中心になって式を進めた。

 辰敬は打鮑、勝栗と干昆布に口を付けた。 すると庄兵衛が長柄の酒を一の盃に注ぐ。 これに辰敬が口を付けると、また辰敬は三品の肴を少し齧る。これを三の盃まで繰り返して鎧着初めは終わった。

 

 その後、馬が引き出された。出雲から連れて来た辰敬の乗馬である。黒鹿毛の肥馬であった。口取りは百足丸だ。

「わしと何度も合戦に出とる馬です。よう言うことをきくし利口な馬じゃけん。心配はいらんです」

 安心させるように黒味を帯びた赤褐色の馬肌をぽんぽんと叩いた。戦場経験豊富な分、歳は食っているが、庄兵衛よりは若いと百足丸は片目を瞑った。

 いつ出陣の号令が掛かってもいいように馬に慣れるのは急務である。鎧を着ての乗馬は初めてである。跨って分かったことは、鎧姿で歩くよりは馬に乗ったほうが楽なことだった。鎧の重さを馬が支えてくれるからである。 辰敬はこの馬が気に入った。

生喰(いけずき)、頼むぞ)

 心の中でそう語りかけていた。

 辰敬はこの馬に自分一人だけの呼び名をつけたのである。佐々木高綱が宇治川の先陣争いの時に跨った名馬の名である。御屋形様が物語りをしてくれた時のことを思い出し、無性にそう名付けたくなったのだ。声には出さずとも心で呼べば通じるような気がしていた。

(そうじゃろう、生喰)

 黒鹿毛がぶるんと胴震いした。

 翌日からは乗馬と並行して庄兵衛からは初陣の心得を、三郎助からは槍や刀の使い方を叩き込まれた。

「戦場では何事も介添えである某と安達の指示に従って頂きます。我ら二人からは決して離れてはなりませぬ。勝手な行動は絶対におとりにならぬよう。これは入道様の御命令でもあります。重々御心得下さい。お分かりになりましたか。よろしいな」

 くどいほどの言葉に、庄兵衛も老いたのかと思っていると、

「初陣で功名を上げようなどとは決して思ってはなりませんぞ」

 庄兵衛は一段と語気を強め怒ったように辰敬を見据えた。

「よろしいか。辰敬様が初陣で功名を上げることなど、誰も望んではいないのです。入道様も。大方様はもちろんのこと。我らも。家の子郎党の誰一人として」

 怪訝な顔をすると庄兵衛は噛んで含めるように言葉を重ねた。

「初陣とは本物の戦場を体験することです。辰敬様は生まれて初めて本物の戦場をその目でご覧になり、戦場とはどんなものかを知る。それが一番大切なことなのです」

 三郎助や家の子郎党達も頷いた意味が辰敬にはその時はまだ分からなかった。

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