曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

夏の第二波が下火になり、9月初めからパネル越しに15分の面会が出来るようになって一回面会した。10月7日には東京から娘が来たので施設の外から窓越しの面会をした。その後、県外者と濃厚接触したので最低2週間空けないと面会できないので、十分間隔を取って11月4日にパネル越しの面会をした。 

会議室で待っていると車椅子で連れて来られて会うなり「足が長くなったわね」と言われた。

帰京した娘が贈ってくれた誕生祝いの靴下を「はいているね」と言ったら「ちゃんとはいてるわよ」と返される。

娘の話になって、

「〇〇ちゃん美人になってるよ。曽田の本家に似て足が長いしすらっとして(うそばかり言う)。お父さんと泣きついて来るかも。だっこしてあげて、泣かないでよ、可愛いからね」

「〇〇ちゃん、パパよ、パパよ」

「あの子に会うと涙が出る。ハリアップ ヒヤ カムヒヤ」

「〇〇ちゃん、足の骨折ってだいじょうぶ。骨接ぎして貰えばよかったのに、こんなに痛いのに」(自分の足が痛いのが混同しているようだ)

この日はとてもよく喋った。

「よくしゃべるね」

「しゃべるわよ。お父ちゃんとお母ちゃんの家に行ったらもっとしゃべるわよ」

「コロナがはやっているの知ってる」と聞くと、

「全国放送でやってる。不用心だからよ。なんでも拾って食べる。あれがいけないのよ」

看護士さんの話では食事も摂れているし、水分もしっかり摂っている。

「今日は一杯飲んでカレーライス食べよう。なっちゃん、ウィスキー買って来たからいっしょに飲もうね」

「元気そうで安心したよ」

「元気よ、すごく元気」
一週間に一回のパネル越しの面会と一週間に一回の東京からの娘のスマホ面会を交互に行っていて11月18日がわしのパネル越し面会。この日は寝ている所を起こされたのか眠たそうであまり御機嫌がよろしくない。

「ママちゃん、いつ来るの」

「熊本は遠いからね」

「遠いの?ここから」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どこかへ行くと言うので「今日はどこへ行くの」と聞くと、「立ったばかりの家へ行くの」と、家の話になって、「新しいお家出来た?新しいお家つれてって下さい。プールのついてる」

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「パンがほしい、高いお金払って買って来て」

何が食べたいのか聞くと、ジャムパンが好きと言う。

面会の時は何かしら差し入れすることにしていて、朝食用に卵サンドを買って来た。その方が少しでも栄養になるかと思ったのだが、次回からはジャムにしよう。

・・・・・・・・・・・・・・・

娘のことになって「私が産んだ子だからかわいい。時々間違えるの、ママて。お母さんと言わないといけない」

急に、「陽の当たる部屋へつれてってください」「陽の当たる所へ連れてって」と、言い出す。

ちょうどこの日は全国的に暑い日で、出雲は25.7℃。最も遅い夏日で、11月の最高気温だった。(翌日は26.4℃にもなった)

去年だったら車椅子散歩をして一杯に陽を浴びることが出来ただろうにと思うと、可哀想で胸が痛くなる。すると、帰り際、職員さんが天気がいいので外まで車椅子を押してくれてバイバイする。思いがけず陽に当たることが出来た。少しでも陽を浴びることが出来て自分が日光浴したように嬉しくなる。職員さん、有難うございます。

トリミング1606130690553車の中から写す。小さく写っているのが妻。
Inked3753_LIこの絵は前回紹介した韓国の若者が描いてくれた。

娘が持っていてスマホで撮ってラインで送ってくれた。
『私が日本へ来てから今まで手伝ってもらって本当にありがとうございます。この絵は上手ではないですけど心からの小さなプレゼントです。〇〇より』と、書いてある。原文通り。
日本語が達者になっているから知り合ってから一年以上経っていると思うが、娘も儂も妻が倒れる前に貰ったものか、妻が倒れた後お見舞いにくれたものか記憶が定かでない。病室に行ったら置いてあったのかもしれないと娘は言う。17年ぶりの懐かしい絵だ。彼には明るい母子に見えたのだろう。

16061309790251606130854073
ついに我が愛車「三菱ミニカ」を廃車にした。妹達が手伝いに来てくれた時は二台必要だったが、3月からはコロナで帰郷できず。母もグループホームに入ったので、もし帰郷できるようになっても以前のように長逗留することもない。維持費もばかにならないのでネットで廃車の手続きをした。本当に無料だった。ためしに車に値段がつくか問うてみたらもう値段はつきませんと言われた。9年前、帰京した時は母の車が一台しかなく、病院通いには福祉車両を手配しなければならないのがわずらわしかった。ちょうど沖縄で働いていた娘が東京勤務になったので娘が沖縄で乗っていた中古のミニカを譲り受けたのだ。その頃はまだ妻を助手席に抱えて移すことができ、車椅子は折りたたんで後部に積めたので、妻の乗り降りは大変だったけれど狭い道でもちょろちょろ走ってくれるので暫くは随分重宝した。雨の日や寒い日は悲惨だったが、頑張ってくれたおんぼろ軽である。わしにとっては仲間と言うか戦友みたいな車だった。妻の体幹が弱くなり車椅子を背の高いものに交換したらもうミニカには乗せられなくなり、母も車の運転をしなくなったので母の車を下取りに出してホンダのNBOX+を購入。それからは妻の移動はNBOXになったが、車は二台必要でミニカはわしの愛用車になった。あちこち悪くなって修理代も馬鹿にならず、近所の修理屋からいつになったら買い替えるのと言われていたのだが、妻の為に頑張ってくれた車をどうしても手放すことが出来ず乗っていた。ここに至ってマフラーがバリバリ言い出したのでとうとう手放すことにしたのだ。思い出の品が出て来ることもあれば、車とともに消えて行く思い出もある。

3波がひどくならないことを願っている。今日は出雲空港の職員が一人コロナに感染した。
日曜日には母が一時帰宅し一緒に昼ご飯を食べ、妻とはパネル越し面会をしている。正月ぐらいは母を帰宅させてやりたいし、妻とも面会したい。三度目の面会規制をしなくてもいいように願うばかりだ。

 

10月11日簡単焼き芋作り
16055150407631605515039272
10月初めに掘った不出来の安納芋の小さいやつを炊飯器に放り込み、ひたひたより少な目の水で炊くとふかし芋のようなものが出来る。このままでもおいしいがさらにトースターで焼くと焼き芋風になる。冷凍して保存し、小腹がすいた時やおやつ替わりに食べる。
16049756915981604975687550
10月27日                   10月28日
手前に極早生玉ねぎ貴錦を100本植える。
10月28日
お隣の田圃で藁くずを燃やしていたので、中程度の大きさの安納芋をアルミホイルで包んで放り込む。
16049756537301604975651304
10月30日
食用菊。空き地に気まぐれで食用菊を植えてみた。早速、夜、スープに散らす。味も香りもしなかった
16049755965921604840713581
1031
残しておいたヤーコン3本をもうよかろうと掘る。掘った後で葉が枯れてから掘ることが分かる。まだ葉は青々としていた。適期は11月の末頃のようだ。食べられないわけではない。千切りにして生野菜の上にたっぷりと乗せて食う。シャキシャキとして新感覚の食感。ツナと混ぜても美味いさらだになる。スープの具にもなった。
16048407877511604840793782
左11月5日の極早生玉ねぎ貴錦。100本。10月27日に植え付けた。
右11月5日のわけぎ。芽が出て来た。10月25日に球根を植えた。
16048408636851604840869809
左11月5日の晩生玉ねぎソニック100本。11月1日に植えた。
右11月5日の芽キャベツ4本。10月29日に植えた。芽キャベツは初めて作る。前々から作ってみたかったので店頭で見つけて衝動買いする。その向こうには玉レタス2本とサニーレタス2本。10月28日に植えた。そのさらに向こうには極早生キャベツ味春6本の苗を10月27日に植えた。芽キャベツの手前には翌日の11月6日に極早生の春キャベツ春ひかり7号を5本植える。
1605615265374
11月5日の空豆19本。10月31日に植えた。作る気はなかったのだがホームセンターに行ったら20本入りの苗が税込みで400円ちょっとだったので衝動買いした。2度ほど作ったことがあるが大きな実が出来なかったのでやめていた。今度はマニュアル通りに追肥をしたり、水やりに気をつけてやってみる。大きい実が出来ればいいのだが。
16048407068121604840566466
左11月6日の人参。今年は発芽が悪く、二度も追加で種を播いたので大中小の苗が入り混じっている。どうなることやら。あまり期待できそうにない。
右11月6日のサラダほうれん草。忙しくてろくに草取りもせず、間引きもせず、追肥も忘れていたのでひどいことになっている。慌てて草を取り、追肥し、間引きながら食べているが、葉っぱが固い。最初の石灰が足りなかったのだろうか。よくわからん。
16048405576121604840471130
左11月6日のサラダ蕪。写真では分からないが葉っぱは虫に食われてボロボロ。取ってもきりがない。薬剤をまくのも面倒くさいし、何を買っていいのかもわからないので放りっぱなしにしているが、間引いたり、草取りしたり、遅い追肥をしたら結構育ってくれて昨日も今日もサラダで食べた。
右11月6日のニンニクとイチゴ。無事に育っているのはこれと大根だけ。
1604840458463
その大根。11月6日現在。左が「うまい煮大根」右が「サラダ大根」。大根は失敗したことないので多分育ってくれるだろう。
16056169430841605616945091
左11月14日
手前に極早生キャベツ金系201号の苗を5本植える。
翌15日、その向こうにスナックエンドウ7穴、スジナイン(日本初のすじ取りをしなくていいさやえんどう)6穴、ロングピース(実エンドウ)6穴、豆類の種を播く。
右スナックエンドウの種。3粒か4粒まいて、1本か2本立てにするのだが越冬させるので敢えて沢山植える。密生させておけば、小さな苗が肩を寄せ合って寒さに耐えることができるからである。越冬したら2本残して他の苗は根元で切る。抜くと残す苗の根を傷めるから。
1605617010223西の畑の全景。
これで11月15日をもって秋の畑は終了。右から空豆、次がキャベツと豆類、その次がキャベツ類、その向こうが玉ねぎとわけぎ。右端の雑草が生えている所は来春じゃが芋を作る。

ところで今年は極早生のキャベツを時期をずらして3種類も植えた。これは春になったら少しずつ時期をずらして美味い春キャベツを食べられると思ったからであるが、店で聞いたら、晩生のキャベツも極早生のキャベツも春になったら出来るのですよと笑われる。極早生と言うのは成長するまでの期間が短いと言うだけで、出来る時は同じだと言うのだ。玉ねぎの場合は晩生と早生は1ヶ月から2ヶ月くらい差があるので、キャベツも同じように差があると思い込んでいたのでまるで詐欺にあったような気がした。
キャベツが一度に十六個も出来たらどうしよう。
続きを読む

第四章 初陣(7

 

「初陣で功名をあげた話など千に一つ、いや万に一つの話でござる。十五、十六の若者が初めての戦場でどうして名のある武士を討ち取れましょうや。首を取れましょうか。若さゆえの過ちからあたら命を散らす方が多いのです。辰敬様にそのようなことがあっては絶対にならないのです」

 誰も子を負ける戦いに出したくはない。出雲の忠重が此度の上洛の戦いを初陣に選んだのも、大局的に見て決して無惨に負けるような戦いになるとは思わなかったからである。戦場を体験させたい親心を汲み取れと庄兵衛は念を押したが、辰敬には戦場見物しろと言っているように聞こえた。

その後、三郎助は辰敬に戦場における槍と刀の扱いを教えた。

「森山様と某が介添えに付き、馬廻りがついていて、辰敬様を危ない目には遭わせることは決してありませぬ。しかしながら戦場では何が起きるか分かりません。これからお教えするのは万が一の時のためでござる」

 三郎助は接近戦になれば短い得物よりは長い得物の方が有利だが、長い槍は辰敬には扱いきれないので短めの槍を握らせた。辰敬が構えると、

「突いてはなりませんぞ」

 槍は突くものではないのかと怪訝な顔をすると、

「下手に突こうとすると若の槍では簡単に奪い取られてしまいます。戦場では槍は叩くものと心得てくだされ。殴りつけるのです。力一杯鎧の上から殴りつけひたすら敵に打撃を与えるのです」

 と、自ら槍を何度も何度も振り下ろして見せた。びゅんびゅんと唸りを上げる素振りの激しさに辰敬はたじろいだ。

「逆に刀は突き刺すものと心得て下され。決して斬りつけてはなりませぬ」

 と、また妙なことを言う。

「鎧は絶対に斬れませぬ。どんな名刀もささらのように刃こぼれし、刀身は曲がってしまいます。頭も、胴も、肩も、手も、膝も臑もみな具足で守られております。斬っても撥ね返されるだけでござる」

 打刀を握ると半身で低く構え鋭く刀を突き出した。

「突くのです。具足で守られていても、腕を上げれば脇の下が開きます。胴と草摺の境には隙間があり、草摺にも隙間があります。他にも腕の内側や、膝頭、臑の裏、足の甲など具足で守りきれない所を狙うのです。どこでもいい。出来るだけ多くの傷を与えるのです。小さな傷でも数多く与えれば、敵は出血で弱ります」

 血生臭い話に辰敬は茫然となった。一体今までやって来た剣の稽古はなんだったのだろうと思わざるを得なかった。毎晩、京極邸の庭で続けた素振りなど何の役にも立たないではないか。槍の稽古もしたが実戦にはまるで通用しないではないか。

「もし一騎打ちになって組み伏せられたら」

 ぞっとするような言葉に、はっと辰敬は我に返った。

「そんなことはまず起こり得ませんが、これも万が一の時のために心得ておいて下され。下になっても決して諦めてはなりませぬ。上になった方が有利と思われましょうがそうとも言い切れぬのです。馬乗りになった方にも弱点ができるのです」

 三郎助は辰敬の帯から腰刀を抜いて握らせた。鍔のない短刀である。

「素早く腰刀を抜き、相手の草摺を撥ね上げ、下腹を突き刺すのです。素早く、何度も。心得では必ず三刀刺せと言われております」

 腰刀は身に帯びた最後の武器であり、敵の首を掻き切るのにも使うと三郎助は付け加えた。

 初陣に対する漠然たる不安は一旦は戦場を見物するだけの事と気分的にも楽になり解消されたかに思えたのだが、三郎助の教えはより大きな不安を甦らせた。万が一とは言っても恐怖は身に迫り吐き気さえ覚えた。辰敬は三郎助たちに動揺を悟られぬよう隠すのに必死だった。その日から、付け焼刃ではあるが、辰敬は馬と槍と刀の稽古に励んだ。

 石見の諸将も次々と到着して各所に陣取りした。守護代内藤貞正も出陣の準備を着々と整えつつあった。日毎に旗が増え人馬が増え兵糧が運び込まれる。泡を吹きながら駆け込む早馬の数も目に見えて増え切迫した状況がひりひりと伝わって来る。

 

 この間、都を目指す澄元方の勢いは止まるところを知らなかった。

八月十日、赤松義村は高国方の河原林正頼を摂津鷹ノ尾に攻め、正頼は伊丹城に逃れた。赤松勢はこれを追って伊丹城に迫るやたちまち伊丹城までも抜いてしまった。

赤松勢破竹の勢いに危機感を覚えた細川高国は、自ら兵を率い山崎に進出、ここで赤松勢を迎え撃とうとした。ところが、八月十四日、誰も予想だにしなかった驚天動地の事件が勃発した。

 何と近江の水茎岡山城で前将軍足利義澄が頓死したのである。何の予兆もなくにわかの病であったと言う。三十二歳の若さで手当てのかいもなくあっという間の事だった。

 澄元方の衝撃は大きかった。幕府奪還の総大将であり、奪還の暁には将軍に直るはずの前将軍が突然死んでしまったのだ。

その直前、義澄方は当てにしていた南近江の守護六角氏の支持を失っていたから、諸将の戦意の喪失は計り知れなかった。だが、都へ後一歩のところまで迫った今、兵を引く訳には行かない。澄元方は義澄の死を隠すと一気に決着をつけるべく都への進度を上げた。

 

ところで、義澄急死の情報は隠し通せるものではなく、その日の夜には八木城下にも早馬が一報を届けた。夜の城下に時ならぬ歓声が湧き起った。

 辰敬も騒ぎに目を覚ましたが昼間の稽古で草臥れ果てて寝込んでいたので即座には何が起きたのか分からなかった。庄兵衛から話を聞き、その皺深い顔に喜色が浮かぶのを見て、辰敬も正直なところほっとしたのであった。敵の大将が死んだのだから有利でない訳がない。父忠重は辰敬の初陣に不安の少ない戦いを選んだのだが、まるで忠重の願いが通じたかのような初陣になりそうだった。出雲のさらに西、石見の端からやって来た兵たちはわざわざ上洛することもなかったのではないかと言い合っていた。

 

 翌八月十五日、山崎に陣取る高国勢も意気盛んに赤松勢を待ち受けていたが、不意に背後から西岡衆の奇襲を受けてしまった。

 西岡衆とは洛西の西岡郷一帯を地盤とする土豪たちである。農民でありながら武士として土地を守り、自分達の利益のために戦う強力な武装勢力であった。山城国には西岡衆のみならず、このような土豪勢力が根を張り、一揆の時は常に中心勢力となった。応仁の乱を初めとして幕府の政争にも自らの権益を守る為に積極的に加担した。為政者にとってはまことに厄介な存在だった。一揆衆の総攻撃を食らった高国はたまらず都へ逃げ帰ってしまった。

 八月十六日、都には澄元方の細川政賢が入京するとの噂が流れた。

将軍足利義尹は細川高国や大内義興を率いると都を後にして長坂口から丹波に向かった。幕府はここで政賢と戦って勝ったとしても決定的な打撃を与えたことにはならない。この際、澄元共々敵の現有兵力を都に引き入れてから一気に叩き潰す作戦を取ることにしたのだ。義澄が死んだ今こそ残った反幕勢力を根こそぎ一掃しようとしたのである。それゆえ、都を出て行く幕府軍には都落ちの風情は微塵もなく士気は旺盛であった。その数も総勢二万五千人にも及ぶ大軍であった。

 その日、入れ替わるように細川政賢に率いられた軍勢が入京したが、甲賀の山中為俊らの兵を合わせても六千人足らずでしかなかった。

 澄元方は上京の北の船岡山に陣取った。

 北に広大な大徳寺と接し、南は北野天神。西へ行けば金閣寺がある。麓からの高さにして凡そ二十丈(数十m余)の小山に過ぎないが、京都盆地は北が高く、南が低いので、北西から長坂街道を下り、長坂口から入京を図る軍勢を見下ろす絶好の位置にあった。

 応仁の乱では西軍山名宗全が城を築いた要衝である。兵力で劣る澄元方が大内義興や細川高国の大軍を迎え撃つにはここしかなかったのである。澄元方は船岡山に城を築いた。櫓を立て柵や掘を巡らした。

 

 一方、八木城下は幕府方の軍勢で埋め尽くされていた。八木城では連日軍議が重ねられ八月二十四日が総攻撃と決まった。

八月二十三日に長坂街道の京見峠の近くに聳える長坂城(堂ノ庭城)まで進出し、翌朝、長坂街道を下って船岡山へ襲いかかる作戦であった。

この城はいつ誰か築城したものかも不明なのだが、古来、都をうかがう丹波衆の拠点になっていた。京見峠からははるか眼下に都が一望のもとに見渡せる。船岡山へは一里(四㎞)もない。

尼子勢は大内義興に従い、二十三日の朝、八木を発向することになった。

その前日、八木城下は先発する軍勢と明日発向する軍勢の準備でごった返し、煮えたぎる大鍋から噴き上げる湯気の如く殺気立っていた。

尼子の宿所も準備で大わらわであった。辰敬は回りが段取りをしてくれているので強いてするほどの事はなかったのだが、忙しく動き回る家の子郎党達を見ていると何かしなければいけないのではないかと気ばかり急き立てられた。だが、何をしていいのかもわからずただうろうろするばかりであった。

皆、戦慣れした連中でてきぱきと準備を進めていたが、殺気立った気配は隠し切れず辰敬にもひりひりと伝わって来る。この雰囲気の中にいるだけで息をするのも苦しくなって来て心の臓も今にも破裂しそうなほどであった。今からこんな事でどうするのだと、辰敬は不安でならなかった。そんな落ち着かない昼下がり、ばたばたと百足丸が駈け込んで来た。

「若、妙な奴が来ちょるぞ。若の知り合いじゃとゆうちょるがちょっと来てごせ」

 百足丸の後について宿所になっている寺の門前に行くと、警備の足軽たちの足元に次郎松が転がっていた。

「あっ、辰敬はん……」

 顔を上げるとすがりつくような声をあげた。 怪しまれたのだろう。気が立った足軽たちに袋叩きにされたのは一目瞭然だった。全身泥まみれで血も滲んでいる。

「どうしたんじゃ」

「京極家のお屋敷で辰敬はんの世話になった者や、辰敬はんの初陣に是非お届けしたいものがあって都から来たとゆうたんやけど……信じてくれへんのや」

「次郎松と言う雑色じゃ。怪しい者じゃない。通してやってくれ」

 足軽たちが下がると辰敬は次郎松を起こしてやった。

「おおきに……」

「こんな所まで何の用じゃ」

 怪訝な顔で問うと次郎松は腫れ上がった顔を屹っと辰敬に向けた。

「お守りを届けに来たんや」

「お守り」

 次郎松は懐から折りたたんで皺だらけの紙を差し出した。辰敬がいい加減に書きなぐった、あのいんちきお守りであった。辰敬は慌てた。こんなものをここで広げられては一大事だ。辰敬は境内の片隅に次郎松を引っ張って行くと二人きりになった。呆れ顔で、

「なしてそげなものをわざわざ持って来たんじゃ」

 と(なじ)ると次郎松はいかにも心外そうな口ぶりで反駁した。

「何でって、こんなごっついお守りはあらへんやろ。わしは連戦連勝やったんやで。これを持っとったら絶対に負けへんのや。辰敬はんが初陣と聞いて、わしは思うたんや。これは多胡家のお守りや。これは辰敬はんに返さなあかんと。これこそ辰敬はんが肌身離さず持っているべきお守りやと。そうやろ、辰敬はん。受け取ってえな。必ず辰敬はんを守ってくれるよって」

辰敬はため息をついた。こんな出鱈目に書いた、子供騙しのお守りをわざわざ届けに来るなんて。辰敬はこんな代物を持って戦になど行きたくなかった。どう見てもバチ当たりな代物ではないか。一発で流れ矢に当たって死にそうな気がする。だが小博打で稼いだ次郎松はお守りの霊験を信じきっているのだ。辰敬は次郎松の善意を呪った

「お前、困るじゃろ。これがのうなったら。もう勝てんぞ」

「ええのや、博打で負けるぐらい。辰敬はんが生きておるのなら。そうやろ、辰敬はんの命と銭とどっちが大切か。考えるまでもないやないか」

辰敬は思わず次郎松の顔を見つめた。

「わし、京極家の事をぼろくそにゆうけど、ほんまは好きなんや、京極家が。その京極家に辰敬はんは一生懸命御奉公しとった。わしはそんな辰敬はんが好きなんや。死んでほしくはないのや。ええか、辰敬はん、死んだらあかん。絶対に死んだらあかん」

 ずる賢く、調子いいだけの雑色と思っていた若者の目に光るものがあった。

「ええか、肌身離さず持っとるんやで。守ってくれるよってな。わしも祈ったるよってな」

 皺くちゃに折りたたまれた紙片は辰敬の手に移っていた。鰯の頭も信心からと言う。次郎松の顔を見ていたらこんな紙片にも御利益があるような気がして来たから不思議だ。 見交わす顔がどちらからともなく綻んだ。 次郎松の顔には大任を果たしてほっとしたような安堵の色が浮かんでいた。

 静かだった。なぜか城下の騒音も消えて、二人だけの静寂に浸っていた。次郎松はいつまでも動かなかった。次郎松が動かないし何も言わないので、辰敬もじっとそのまま佇んでいるしかなかった。目的は果たしたのだから後は引き上げるだけなのに、次郎松は何をぐずぐずしているのだろう。辰敬との名残を惜しむような女々しい奴ではないのにと訝しく思っていると次郎松がぽつりと口を開いた。

「わし、都へ戻るけど……」

 辰敬は思わず頷いた。

「礼を言う」

 すると次郎松はゆっくりと向き直って辰敬を見つめた。

「何か用はあらへんか」

「えっ……」

 一瞬、次郎松の言う意味が分からなかった。

「そのう……たとえばやなあ……誰かに……何か言づけしたいことでもあったら、わし、届けたってもええで……」

 その瞬間、辰敬の胸一杯にいちの面影が湧き上がった。辰敬は知った。次郎松はただお守りを届けに来ただけではないことを。

 辰敬は次郎松を見返した。次郎松のことだ。辰敬といちの一部始終には気が付いていたに違いない。長い間、同じ長屋に暮らしていたのだ。顔を見ただけで何があったかは分かっていたはずだ。思いの一言も打ち明けられずにいちと別れたことも。その後、いちへの思いを固く胸の底に秘めたことにも。

 次郎松ははぐらかすかのように目を逸らした。これ以上まだ俺に言わせる気かと迷惑そうに。

 もしかしたら今生の別れになってしまうかもしれないではないか。初陣を明後日に控えたいま、いちに言い残しておくことはないのか。何も言わないで死んだら後悔するぞ。いちだって、お前が何も言わずに死んでしまったら、どんなにか切なかろう。この年上の雑色ならきっとそう言うに違いない言葉を、辰敬も一つ一つ噛みしめた。

「ひとりにさせちょくれ」

 その場を離れ一人になると辰敬の胸に勃然と浮かんだのは辞世の句と言う言葉であった。 死に臨んで残す言葉である。死ぬと決まった訳ではないがその言葉は死地に赴く若者の心を突き動かした。自分もそんな言葉を残したい。

 誰にと言って、いち以外にはいない。いちへの思いは一生自分一人の胸に秘めておくつもりだったが、今この瞬間、辰敬はこのままでは死ねないと思った。好きの一言も言わないで死ぬなんて。所詮多聞の真似はできない。辰敬は十七歳なのだ。短い人生だったがその中で一番好きだった人に思いだけは届けて死にたいと思ったのである。死んでもいちの胸の中に生きていればいい。

 辰敬は酔っていたのかもしれない。口を突いて出たのは、八雲立つと言う言葉であった。 文字通り雲が湧き立つようにごく自然に心の空に生じたのであった。この時、辰敬は思った。歌を贈ろう。出雲の子が作る歌はやはり八雲立つから始まらなければならない。同時に懐かしいあの日が甦っていた。

いちと初めて心ときめく言葉を交わした都大路の初夏。都の空に湧き上がった真っ白な雲を見上げていちは出雲に連れて行ってくれと言った。言ってしまって少女は頬を赤らめた。辛い都の生活から逃げ出したいと言い訳したが好きでもない少年には決して言わない言葉であろう。出雲の雲を自慢する辰敬に、

「八雲立つ出雲やものなあ……」

 と歌うように呟いた声がたった今聞こえたような錯覚に陥った。

 

   八雲立つ

   出雲の国の

   武士(もののふ)

   恋し都の

   雲にぞならむ

 

 むくむくと雲が湧くように言の葉が生じて一つの歌になった。二人が都大路で見上げたあの日の雲が辰敬の心の底から言の葉を湧き上がらせたのだ。辰敬はそう信じた。上手な歌かどうかは分からなかった。

 明後日、初陣を果たせば私はようやく一人前の出雲の武士(もののふ)となります。遠く離れた出雲にあっても私は決してあなたを忘れません。私の想いは八雲立つ出雲の国に湧き上がる雲のように天空の果てまで立ち昇ることでしょう。もし、都の空に、あの日、二人が見たような真っ白な雲が湧き上がったら、それは私の想いが雲となって届いたのです。その雲の果て遠い遠い出雲の国に私がいることを忘れないで下さい。あなたを想い続ける一人の出雲武士がいることを。

 そんな意味になるだろうか。

 初陣でもし死んだならば私の魂は雲となって、あなたを見守り続けていると言う意味にもなる。自分でも驚くぐらいすらすらと出来た。初めて作った和歌とは思えなかった。

 いちの父公典は辰敬が集めて届けた反古に和歌が認めてあれば、作者を教えてくれたり、同じ作者の他の歌も教えてくれた。万葉や古今、新古今などにも話が及ぶこともあった。枕詞や掛詞なども教えてくれたが、実作の手ほどきまではしてくれなかった。

 他に教わることもあったし、通った期間も短かったのだが、知らず知らずのうちに歌心が育っていたのかもしれない。

御屋形様も沢山物語りしてくれたが、御屋形様が語る武士たちは皆、歌を詠んだから、辰敬は武士が歌を詠むことに抵抗はなかった。いや、むしろ、武士こそ歌を詠むべきものと思い込んでいた。後世に名を残すような武士ほど心に残る歌を残したから。曲がりなりにもこうして歌を作れたのは御屋形様と公典のお蔭だ。辰敬は二人に感謝した。

宿坊に取って返し歌を認めると、次郎松にいちに届けてくれるように託した。

↑このページのトップヘ