曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

第三章もまた延びてしまいましたがようやく発売に漕ぎつけました。連載原稿に手を入れるのは一ヶ月もかかりませんが絵描きさんが苦労して頑張ってくれた分だけ時間が掛かりました。KINDLEにアップしてこれまで長くても2、3時間で発売出来ていたのに、今回は一向に発売されず気を揉んでいたら半日かかって発売され、やらやれと胸をなでおろしたところです。一応Amazonでチェックする(公序良俗に反する表現や内容など)らしいのですが、事情通に訊くと時代小説はほとんどチェックなしでスルーされるそうなのです。今回は担当がしっかり目を通したのかなあと言っておりました。
3提出jpg.jpg 縮小 ブログ用

第三章 あらすじ

御屋形様の息子京極材宗(きむね)が京極高清に殺された。

材宗と高清は北近江の覇権を賭けて戦っていたのだが、和睦したにもかかわらず高清に騙し討ちされたのである。我が子を殺され、北近江を失い、御屋形様は失意のどん底に沈む。京極家の行方に暗雲が垂れ込めた。材宗夫人の御寮人も吉童子丸も屋敷の奥に閉じこもってしまった。京極家の将来に見切りをつけて奉公人たちも逃げ出す。

辰敬は出雲に帰されることを恐れたが辰敬の処遇は一向に決まらず不安な日々を過ごす。

屋敷を抜け出しいちの家に行くがそこでも出雲に帰ることが話題になる。京極家についても暗い話ばかりになり辰敬は重い足取りで引き返す。と、いちが追って来て辰敬が出雲に戻る時は連れて行ってくれと言う。辰敬はどきっとするがいちは冗談だと笑う。だが本当は誰かに救いを求めざる得ないほどに貧乏公家の苦しい生活に疲れ果てていたのだ。いちは自分にも恋文を届ける者がいるのだと辰敬を動揺させるが、若い二人は自分たちの運命をどうすることもできなかった。

そこへ戦帰りの石動丸たちが現れる。負け戦の石動丸たちは野獣だった。二人に襲い掛かるといちはたちまち乱暴されそうになる。間一髪救ってくれたのは桜井多聞であった。辰敬は京極家の一番大切な時にいちと会っていたことをこっぴどく叱られる。何のために上洛したのか。こんな時こそ御奉公するのが御屋形様への恩返しではないかと。

辰敬は自ら志願して吉童子丸のお守に復帰するが、心を病んだ吉童子丸は辰敬に心を開くことはなかった。

突如、都を震撼させる大事件が勃発する。幕府の最高権力者、管領細川政元が暗殺された。

たちまち三人の養子の跡目争いが始まる。さらにそこへ細川政元によって追放され、諸国を放浪していた元将軍足利義尹(よしただ)が西国の太守大内義興の支援を受け、大内の大船団を率いて上洛して来る。都は世に永正の錯乱と呼ばれる大混乱を来し、現将軍は近江に逃亡。管領争いも細川高国が勝利し、足利義尹が将軍に復帰した。足利義尹、細川高国、大内義隆の天下となったのである。

この未曽有の大混乱の中でいちは父の借金のかたに土倉の主に嫁ぐ。父よりも年上の強欲な金貸しであった。突然の別れに辰敬も錯乱した。そこへ追い打ちをかけるように御屋形様の出雲下向が決まった。吉童子丸と御寮人を伴い都落ちしてしまったのである。辰敬は一緒に戻ることを許されなかった。やっと心が通うようになった吉童子丸とも別れなければならなくなった。

その年の秋、遠い出雲から御屋形様が吉童子丸に守護職を譲ったと言う報せが届く。御屋形様は死期を悟られたのだと桜井多聞は言った。その言葉通り秋の終わりに御屋形様はひとり寂しく悲運の人生を閉じた。

14歳の辰敬は初恋の娘を失い、人生を変えてくれた最大の恩人を失った。


【ドイツAmazonから謎の入金】

何百円単位の妙な入金があり何だろうと思っていた。どうもよくよく考えてみたら一番最初に発売した「白石の本」がドイツで一冊売れたらしいことがわかる。と言うかそれ以外の理由は考えられない。ドイツにいる日本人が購入してくれたのだなあと電子書籍の世界の広さに驚かされるとともに、電子書籍と言う新しい出版形式の末端にちょこっとだけ関与したことがこの齢の人間にしてみたらなんとなく嬉しい。

 

本日8日午前、妻退院。お迎えに立ち会う。コロナ禍なので我々は病棟の食堂までしか入れない。リクライニングの車椅子で運ばれて来る。ここで家族と特養の職員に説明がある。5泊6日の入院だった。その間絶食で点滴だけだったので心なし生気に欠ける印象。話しかけると返事はするのだがマスクもしているので声も力が弱く何と言っているかよくわからない。儂が誰か聞いたらかろうじて「ヒロアキ兄ちゃん」と聞こえる。儂にしてみればまた出たか「ヒロアキ兄ちゃん」だが、特養の職員さんが入院前は「旦那さんの名前ばかり言ってましたよ」と慰めてくれる。何か食べたいかと聞いたらかろうじて「ウイスキー」と聞こえる。
PXL_20220708_014726594.PORTRAITPXL_20220708_015115202
暫く会えないので握手する。いっぱい点滴したので痣が一杯。特養の車で帰って行く。今度握手が出来るのはいつになるだろう。出雲のコロナが余りにも凄いのでガラス越しの面会も2週間中止して様子をみるとのこと。オンライン面会は出来るので娘だけが頼みだ。来週、孫の顔を見て楽しい面会をしてくれたらよいのだが。

語録(36)
実はこの語録2006年の1月6日から始めたのだが2010年になってついに力尽きてしまうのである。
PXL_20220708_104102849PXL_20220708_104248637
こんな小さな手帳を常に手元(ダイニングのテーブルの上)に置き、妻の言葉を書き留めておいたのである。始めた頃は使命感もあり、病で身体のみならず脳にまで障害を負いながらも懸命に生きている証を何としても残したいと必死にメモし続けていたのだが、2年目まではその意気込みも続いたのだが3年目に入ると徐々に書き留め続けることがしんどくなってきて、それ以降はどんどんペースが落ちてしまって、2010年の1月はさすがにこれではいかんと気合を入れたので少しだけ持ち直したが長くは続かずついにこの年の途中で力尽き、手帳が途絶えてしまったのである。語録(36)は手帳最後の語録です。

2010.1.2

おむつ交換をしていると

「お父さん、どこへ行っても生きて行けるね」

2010.1.5

「お父さん、ここに替わって寝てて」

2010.1.6

俺「ランプがどこにあるかわからん」

「よその家はわからないもんねえ」

俺「ここは自分の家だよ」

「よその家に来るのは楽しいね」

2010.1.20

「自分でさっと出して食べるよ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「働いたらおいしかった」

2010.1.21

「まねき猫ダック。くだらないTVみてると、あんなの覚えちゃう」

2010.1.25

俺「モモももうろくしたのかな」

「もうひち」

「えっ?」

「もうろくじゃなくてもうひち」

※こういう言葉遊びはぱっと出て来る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「しばらくあわなかったうちに年取ったね」

※毎日いやというほど顔を合わせているのに。

2010.1.27

「お父さんが死んだら私はとなりに葬ってもらう。一緒でもいいよ」

2010.1.30

「私が死にそうになったらモモを抱かせてね」

「モモかね」

「あんたでもいいよ」

2010.2.7

「ごはん食べるだけが仕事でごめんなさい」

2010.2.17

「お父さんがガンになったら、私、泣くよ」

2010.2.18

「川尻の裏の川に座っていたら落ち着くの。ぼーっとね。時々舟が通ってね」

※懐かしい故郷の風景。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「親切を小出しにしているお父さん。そんなあなたに私は感謝」

※このおかしな言い方がたまらくなくいい。

2010.2.26

「私、こんなところに連れて来られたら一人で帰れない」

2010.3.4

「お父さん、まめねえ」

・・・・・・・・・・・・・・

夜、突然目を覚まし

「お父さん、早く行ってよ。〇ちゃん(娘)が友達を連れて来るから」

2010.3.7

「私、死ぬ夢よくみるの。お父さんの横で死ぬの。朝になって、お父さんが発見するの」

2010.3.20

「ミルクくれ」「もうない」「魔法使って出せ」

2010.4.16

「おぞうにじゃないのね。けんちん汁なのね」

(正月のつもりでいる)

2010.4.19

「おっぱい絞ると気持ちいいよ。重いのが軽くなって。肩が軽くなるよ」

2010.4.21

(おむつを替えていると)

「ずいぶん真面目な顔をしてるのね」

2010.4.22

「今日パパちゃんが来るんだよ。どんな人だろうねえ」

2010.4.29

(何かの世話をしている時だと思う)

「お姫様みたい」

2010.5.7

「お父さん、泣かないでね。私が泣くから。パパちゃん、来たら、私、言おうと思ってるの。〇子(妻の母)迷惑かけたなぐらい言えと。そう言わしたら、泣くよ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

手帳にメモしたのはここまで。
次回からは一旦途切れて再開したところから続けます。

昨日7月2日、いつもの土曜日、母に週刊誌を届け、ついでに冬物の衣料を引き取る。出雲のコロナがひどいことになっているので顔も見ないで帰るつもりだったが、職員さんが「曽田さん、息子さんよ」と呼んでガラス戸越しに面会させてくれる。その時、職員さんが母が書いた七夕の短冊を見せてくれる。
PXL_20220702_013310161
これがその短冊。認知症でも、93歳になっても、母親なのだとほろりとさせられる。妹たちにもラインで送ってやったら喜んでいた。こういうことがあるから最低週一回の面会はさぼれない。本当ならこの後妻のガラス越し面会に行くのだが、妻は週の初めに微熱が出て軽い炎症反応があるので抗生物質をのんで安静にすると連絡を受けていた。まだ面会は無理だろうと思って行かなかった。
今日7月3日、日曜日の1時前、特養から電話がある。よくなっていたのに急に熱が38度台まで上がり、呂律も回らないので県中の救急に来てくれとのこと。診察を受けCTを撮ってもらったら誤嚥性肺炎を起こしていることがわかる。CTとはすごいものだ。気管に溜まっている液体を映し出している。こんな映像は初めて見た。96歳で死んだ父は二度誤嚥性肺炎を起こしたのが命取りになった。誤嚥性肺炎は怖い。妻の病気で一番警戒していたのはこの病気だったので来るものが来たかと目の前が暗くなる。
先生も呼吸が止まったり心臓が止まったりした時の処置についてどうするかと質問される。咄嗟に答えようもなく困っていたら、先生は心臓マッサージはしますと言う。但し、自分のような医師の心臓マッサージは普通の人が思っているような心臓マッサージではなく骨が折れることもありますと言われる。
入院することになり、浮かぬ顔で待合室に出たら、付き添いで来た特養の看護師さんが「医者はこういう時は必ず最悪の時のことを言うものだからそんなに心配しないで」と励ましてくれる。
1時に来て病棟に運ばれるのが6時過ぎ。今日は暑くて救急車がよく来たので時間がかかったようだ。病棟までは一緒に行けるから付いてきてくださいと言われ、思いがけなく妻と面会できる。こういう形で面会するのは実は2度目。去年の10月、肘を骨折して入院した時も同じようにストレッチャーに付き添う形で面会したのだ。あれから8ヶ月ぶり。話しかけてもいいと言うので呼び掛けたら、妻が手を差し出す。去年は骨折で手を動かせなかったので、手を握るのは何年振りだろう。温かくてびっくりする。病院で治療するからすぐによくなると励ます。わかったようで何か言うが酸素マスクをしているのでよく聞こえない。それでも何度も手を挙げて握手を求めるので病棟入り口までずっと手を握ってやっていた。本人も握っていて欲しかったのだと思う。特養の看護師さんは「今朝熱があった時とは様子が違う。あんなに手を動かしたりなんかできなかったんですよ」と言ってくれたので、気持ちも楽になった。よくなってくれると信じている。1~2週間の入院予定。オンラインでも面会できるので娘に孫と一緒に面会して貰おうと思っている。きっといい入院見舞いになると思う。

↑このページのトップヘ